九月の夜

――命に代えないで、ちゃんと生きて――。

 緑谷母に言われたことを思い出し、小さく息をついた。オールマイトとして、そんなふうに言われたのは久しぶりのことだった。
 だが、八木俊典としての私に似たような心配をしてくれたひとが、ひとりいる。

『けっこうレモン利かせてたんで、しみませんでした? そのご様子ですと、お口の中切ってますよね』
『それならなおさら、今日はお大事になさってくださいね』

 細やかな気遣いが、疲れていた心に染みた。
 もしあの時、八木としてではなく、オールマイトとして出会っていたら、彼女は同じことを言ってくれただろうか。
 そんなことを思いかけ、詮ないことをとため息をついた。

 もう二度とみづきと会うことはない。名残惜しいが、これでよかったのだ。
 私の中にあるほのかな感情はこれで立ち消え、彼女をオール・フォー・ワンの脅威にさらさずにすむ。大切であればこそ、巻き込んではならない。私は今までずっとそうしてきたし、これからもそうするつもりだ。
 この身を平和の礎に。巨悪を倒すその日まで、私は個人としての幸福など望まない。望んではならない。
 これが私の生き方で、それに後悔はない。――ないはずだ。

 だが、これでよかったと思う一方で、心に大きな穴が開いてしまったような気がしていた。
 こんなに早く別れが来るとは思わなかったから。自分の気持ちに蓋をするのは得意だが、こういう形の終わりは初めてだった。

「いや、でも……やっぱりこれでいいんだよ」
「え? お客さん。なにか言いました?」
「ああゴメン。なんでもない。ちょっとしたひとりごとだよ」

 独言を拾ってくれたタクシーの運転手に苦笑を返し、車窓を眺める。窓の外は夏の街。日没から数分だけ見られることのある金色の空の下、人々は笑いさざめく。
 この平和な世をこれからも守り抜かねば、と心の中で呟いて、私はひとり、空を見る。

***

 ハイツアライアンスに入居して、早二日が経過した。明日からは生徒たちもやってくる。
 生徒の寮は左右で男女の棟が分かれており、一人一部屋が与えられている。各部屋にはエアコン、トイレ、冷蔵庫、クローゼットが完備。一階には広い共有スペースがあり、共同の大浴場と食堂がある。朝と夕方には、ランチラッシュが大食堂の厨房で作った食事が届けられることになっている。

 我々教師は大人であるし、家族のいる者もいる。なので職員寮の外観は生徒寮と同じだが、それぞれの部屋にバスとキッチン、洗濯機等が備え付けられていた。もちろん家族のいる者は、独身者より部屋数が多い。
 つまりは一般的なマンションに近い作りだ。だが普通のマンションとは異なる部分がある。それは一階の大浴場と食堂などの共有スペースだ。
 生徒たちとは違い、我々教師陣は仕事の関係上、食事時間がまちまちだ。定められた時間に間に合わないことも多い。だから希望者は、二十二時までという制限付きで、寮の共有スペースで夕飯がとれることになっている。
 頼んでおけばその時に私の軽食も用意してもらえるらしい。ダンピング症候群と低血糖防止のために、ちょこちょこと食事を取らねばならない私にとっては、大変助かるシステムだ。

 だが………。
 と、驚きのあまり吐血しながら、内心で呟く。
――だが、これはいったいどういうことだ?

「本日からお世話になります」

 と、校長の横で頭を下げたそのひとは、顔をあげると艶やかに笑んだ。見慣れた家事代行会社のエプロンではなく、白いコックコートがやけに眩しい。
 彼女は私と目が合うと、少し気まずそうにしながら、教師全員に向かってぺこりと頭を下げた。

「香久夜みづきです。専門はフレンチですが、一通りは作れます。これからどうぞよろしくお願いいたします」
「よろしくねー!」
「……どうして君が?」

 みづきの言葉に明るく返したのがミッドナイトで、力なく問うたのが私だった。だってそうだろう。どうして彼女がここにいる?

「それは私が呼んだからさ」
「……校長」
「あら、彼女オールマイトの知り合い?」
「香久夜さんは、ヒーロー専門の家事代行サービスでオールマイトがお世話になっていた人さ」
「ああ。たしか香久夜くんのお姉さんだったわね」
「はい。うちの弟は事務員なのに、知っていただけていて嬉しいです」
「そりゃね〜」

 と、ミッドナイトが美々しく笑う。
 香久夜弟はヒーローであることを家族に隠しているんだから、そこはあんまり掘り下げてやるな、と思っていると、ミッドナイトがこちらを向いて、ウインクをした。わかってるわよ、と言いたげな顔で。

「香久夜さんのお料理、とても美味しいってオールマイトからも聞いてます。楽しみ!」

 頭を抱えたくなった。確かに彼女の料理がうまいという話はしたことがあるが、だからといって、今それを言わなくてもいいだろう。いやそれよりも、なぜみづきが呼ばれたのか、それが一番の問題だ。

「それはそうと、どうしてみづきさんを呼んだんですか?」
「ランチラッシュひとりで、全校生徒と職員の食事をすべてまかなうのは無理だろう? だから職員の夕飯をカバーしてくれる料理人を雇うことにしたのさ」

 それにしたって、他にも候補はいただろう。みづきのことは諦めるつもりだったのに、これでは決心が揺らいでしまう。

「しかし、外からの人の出入りは極力少なくする、というお話ではありませんでしたか?」
「ああ、彼女はこの寮に入ってもらうからね。問題ないよ」
「ええ?」

 派手に吐血しながら、ひっくり返った。
 私今日血を流しすぎじゃない?
いや、それにしてもだ。住み込みだって? ここに、みづきが?

「おっ? まさかオールマイト、ちょっと悪いこと考えたかァ? SU・KE・BE!」
「そうじゃないよ。マイク、ちょっと黙って」

 口元を拭きつつ、呼吸を整えた。どうも嫌な予感がする。

「校長……もしかして、みづきさんに無理を強いたのではありませんか?」
「そんなことはしていないよ」

 と言いながら、校長は私の肩までするすると登ってきて、耳元でささやいた。私だけに聞こえるような、ちいさな声で。

「君の人生にも潤いが必要だろ?」
「先生!」
「実際のところはね、急に寮制を進めたものだから、教師寮に入ってもらう料理人の身辺調査をする時間がなかったんだ。だから急遽彼女にお願いしたんだよ。なにせ君のところに入ってもらう時に調査はすべて済んでいる。香久夜さんの契約は三月末までだから、それまでには別の料理人を探すつもりだよ」
「ですが……」
「オールマイトさん」

 と、校長と私の間に、涼やかな声が割って入った。

「わたしは自分の意思でここに来ました。……オールマイトさんにそんなに嫌われているとは思っていなかったので、誠に残念ではありますが……」
「違う、違うよ!」

 思わず叫びをあげた。またも口から血が吹き出たが、そんなの気にしていられない。自分の気持ちを伝えるつもりはないけれど、誤解されるのはまっぴらだ。

「君のごはんがまた食べられるのは、とても嬉しいんだ。だけど、ここは君の理想とする職場ではないんじゃないか?」
「それについては、本当にいい条件をいただいたので」

 にこりと笑ってみづきが答える。「嫌われている」と言ったときとはうって変わった、明るい顔で。

「……もしかしてさぁ、君、私のことからかった?」
「からかい半分、本気半分、というところでしょうか。でもほんとにショックだったんですよ。拒否されたみたいで」
「それは悪かった。拒否したわけじゃないんだ。君が心配だったんだよ」
「ありがとうございます。でもご心配には及びませんので、今日からまたよろしくお願いしますね」
「うん……よろしくね」

 さりげなく答えたつもりのその声は、自分でもびっくりするほど甘かった。

***

「ごちそうさま。今日もおいしかった」

 広いキッチンカウンターに食器を戻すと、おそまつさまでした、と明るい笑顔が返される。白い花が咲くような、爽やかな笑みに癒やされて、私もまた、笑みを返した。

 みづきは朝夕雄英の大食堂で調理に励み、それ以外の時間はアライアンスにいる。といっても、教師陣が授業に出ている昼間は、彼女の休憩時間だ。つまり共同スペースのキッチンにみづきが立つのは、二十時から二十二時。ランチラッシュはその時間、翌々日の献立作成の為自室にこもる。

 二十時以降は、十九時の夕飯を食べ損ねた教師が、職員寮の食堂に集まる。希望者ということになっているが、独身者はたいていほぼ全員だ。
 そのあと、自室に戻るものもいれば、そのまま共同スペースでくつろぐ者もいる。今日はミッドナイトとセメントスが食堂に残っていた。

「そういえばさあ」

 と、グラッパを傾けていたミッドナイトが、声を上げた。

「オールマイトだけ、香久夜さんのこと名前で呼んでるのよねえ……」
「同じ名字の知人がいるからややこしくてね。うちに来ているときに名前呼びの許可をもらったんだ」

 そう、と、ミッドナイトが、艶然と微笑する。

「みづきさん、それじゃあ私も、名前で呼ばせてもらっていいですか?」
「ええ。もちろんです」

 みづきが微笑み、ミッドナイトも笑みを返した。多少の心配はあるが、仲良きことはいいことだ。

「ところでみづきさんって、夕飯はどこで食べてるんですか?」
「生徒さんたちにお届けする食事をすべて出した後、大食堂の厨房で食べてます」
「えー、水くさい。こっちで一緒に食べたらいいのに」
「いえ……片付けは機械がやってくれるとはいえ、現場はけっこうバタバタしてますし、ランチラッシュと一緒にパパッと食べてますので」

 黒い靄が、胸の奥で広がった。
 そうか、ランチラッシュと二人で食べているのか、しかもみづきは今、彼のことを呼び捨てにした。私のことはいつまでもさん付けなのに。
 それはつまり、それだけ厨房の二人が親密だということで。

「オールマイト、顔怖いわよ」

 耳元でそうささやかれ、軽く吐血しながら振り向くと、目の前に意味ありげな笑みを湛えたミッドナイトの姿があった。隣のセメントスも、微妙な表情をしている。
 これはどうにもよくないな、と頭をかくと、ミッドナイトがみづきに向き直った。

「じゃあ、お仕事の後、たまには一緒に飲みません? お酒はいけるクチ?」
「ええ、お酒は好きですよ。ワインを飲むことが多いですね」

 そうなのか。ワインが好きだなんて知らなかった。
 というより、私はみづきのことをあまり知らない。好きな酒、好きな色、好きな服、好きな映画。それらを知りたいと思ってしまった自分に、ちいさくため息。
 そんな私をよそに、女性陣は会話を続ける。

「みづきさんのお仕事って二十二時まででしたっけ? で、朝は五時半から。それってけっこうキツいですよね?」
「大丈夫ですよ。ここでは昼の時間がまるっとあきますし。それにもともと料理人の勤務時間って、長いことが多いんです。それこそ店を経営していたときなんて、朝から二十三時くらいまで働いてましたから。こちらではロボットがやってくれる掃除や片付け、それに帳簿つけなんかもありましたし」
「そうなんですか? その上で家事も?」
「まあ、家事は完全分担制でしたけど」
「いや、それでも大変ですよ」

 割って入ったセメントスを少しばかりうらやましく感じながら、会話に耳を傾ける。と、みづきがいきなり、「オールマイトさん」と声をかけてきた。

「なんだい?」
「グラス空ですけど、なにかお飲みになりますか?」
「え? あ……うん。冷たいほうじ茶でももらおうかな」
「はい」

 私のグラスを下げつつ流しに向かう、みづきの後ろ姿を見送った。家政婦のときのエプロン姿もよかったけれど、きりりとして見える白のコックコートはみづきの魅力をより引き立てる。
 私のエーデルワイス、と心の中で呟いて、乙女な自分に少し呆れた。苦笑しながら顔を上げると、からかうようなミッドナイトの視線とぶつかった。

「遅れてきた青春。甘酸っぱ〜い」

 なんだソレ、と思ったが、あえて口には出さなかった。
 藪をつついて蛇が出るのはまっぴらだ。

***

「どう? 雄英での生活は慣れた?」

 窓の外の九月の夜空からみづきに視線を移し、そうたずねた。あの日以来、女性陣は名前で呼び合うことが定着し、傍でみている限りではすっかり打ち解けているようだ。けれど見えないところでみづきが辛い思いをしている可能性はゼロではない。

「お陰様で。皆さんとても親切にしてくださっているので、毎日楽しいです」
「それはよかった」

 ほんとうに、と彼女がうなずいて、そして笑んだ。今日は珍しく、皆が早々に自室に戻ってしまったので、食堂にはふたりきりだ。なんだか少し照れくさい。

「よろしければ、デカフェの珈琲でもお淹れしますか?」
「ええ。悪いよ。もうすぐ二十二時になるじゃないか」
「実はわたしも飲みたいんです」
「それならいただこうかな」
「少しお待ちくださいね」

 みづきは手際よくキッチンを片付け、マグカップをふたつ持って食堂に現れた。
 食堂は涼しいが、キッチンは熱がこもるのだろう。後れ毛が首に張り付いていて、それが妙になまめかしい。妙な気分にならないよう、私はそっと視線をはずした。

「馴染んできたなら良かったけど、君、無理してない? 本当はどこかのレストランに勤めるか開業するかしたかったんじゃないのかい?」
「四月以降はそうするつもりです。いずれにせよ、今年度はいったんレストランから離れようと思っていたので、いい機会でした」
「でもさ、朝早くて夜遅いし、全校生徒と職員分の食事を用意するのってかなり過酷じゃない?」
「その点においては、私よりランチラッシュのほうが心配ですよ。彼、本当にすごいですよね。朝食と夕食だけでなく、お昼は学校の食堂を切り盛りしてるでしょう。そちらにもアシスタントがいるとは思いますが……。夜は夜で翌々日の献立を考えているようですし、いつお休みされてるんでしょうか」
「ああ確かに……そこは頭が下がるね」
「あとですね……ここだけの話なんですが」

 と、みづきが声のトーンを落とした。

「このお話、なかなかいい条件が付与されてるんです。まず、お給料がいいんです」
「ああ……それはね。仕事も拘束時間が長くて大変だし、セキュリティの関係で、君も外出時は手続きが必要だったりするだろう? なにより、民間人である君に秘密保持のご協力を仰いでもいるからね。当然といえば当然だよ」
「あと、オールマイトさんがお住まいだったマンションの近くに、クレセントムーンっていう洋食屋さんがあるでしょう?」
「うん。あるね」

 こぢんまりしているが、雰囲気と味の良い店だ。雄英からもそう遠くない。たしかあの建物は、校長の持ち物件だった。

「あの洋食屋さん、シェフが高齢で、来年の三月でお店を閉めるそうなんです。で、ここで三月末まで働けたら、私がそこを居抜きで使わせてもらえることになってるんです。敷金礼金なしなうえに、家賃も格安で」
「それは……悪くない話だね」
「そうなんですよ」

 みづきが心から納得していることを知り、安堵した。そして春になっても、店に行けばまた会えるということにも。
 今のように話すことは難しいかもしれないが、顔を見ることくらいはできるだろう。親密な仲になれずとも、今のように食堂職員と教師、シェフと客。そんななんでもない関係のままでいれば、みづきにオール・フォー・ワンの魔の手が伸びることもない

 ふと、自分が浮かれていることに気がついて、苦笑した。確かに校長の言った通りだ。こうしたちいさな喜びが、乾いた心を潤してくれる。

***

 寮に戻ると、みづきがキッチンで片付けをしているのが見えた。時刻は二十二時十分。
 そのまま脇を通り過ぎようとしたところ、いきなり声をかけられた。

「オールマイトさん」
「……ああ、こんばんは」

 普通に挨拶はしたけれど、正直、今夜は早く一人になりたかった。なぜなら今日、大切な友を失ったから。

『私はあなたの為になりたくてここにいるんだ!』

 六年も前のことなのに、彼の声が今も耳に残っている。
 ナイトアイはその言葉通り常に私の身を案じ、助けになろうとしてくれていた。それを知りつつ、私は彼を拒んだ。

「……顔色がお悪いですよ。わたしも今あがるところですし、よろしければほうじ茶でもお飲みになりませんか?」

 そういえばバブルガールに呼ばれてから今のいままで、低血糖予防のブドウ糖を摂取しただけで、他にはなにも口にしていない。

「でも、君、もう上がりだろ?」
「最近、仕事上がりに熱いほうじ茶を一杯飲むことにしてるんです。一杯も二杯もかわりませんし。よろしければ」

 確かに喉は渇いていた。そして何よりみづきのこの笑顔を見ていたいと思った。さっきまで早くひとりになりたかったはずなのに、現金なものだ。

「うん……それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらってもいいかな」
「はい。では、お待ちくださいね」

 この時間、食堂の灯りは落とされている。
 みづきがキッチンから一番近いテーブル上の電気をつけたので、私は黙って、そこに座った。
 薄暗い食堂の中で、私のいるテーブルだけが、シーリングスポットライトの灯りにやわらかく照らされている。やわらかな灯りを受けながら、点されたのがすべての電灯でなくてよかったと、ひそかに思った。

「お待たせしました」

 待つこと数分、みづきが持って来てくれたトレイの上には、ほうじ茶がふたつと、ちいさめの丼がひとつ乗せられていた。

「ええと、これは?」
「鮭茶漬けです。軽食用に取っておいた焼き鮭とお出汁で作りました。……すみません。もしかしたら何も召し上がっていないんじゃないかと思って……。不要でしたらあとで私が食べますから、そのまま置いといてください」

 みづきはトレイをテーブルに置き、自身のほうじ茶を手に別のテーブルに移ろうとした。

「ちょっと待って、君もここ座りなよ」
「よろしいのですか?」
「もちろんだよ」
「では、失礼して」

 みづきが私の正面に座った。
 まわりが薄暗い中で、このテーブルだけがあかりに照らされている。まるで映画の中のワンシーンのようだと、ひそかに思った。
 黙ったまま、ほうじ茶をひとくちすすった。お茶の香りと熱が、私の身体に染み入っていく。冷えていた血液がじんわりと温められ、末端へと流れていくのを確かに感じた。
 みづきはなにも言わず、黙ってお茶を飲んでいる。私と目が合うと、彼女は目を細めて、小さく笑った。

 そっとほうじ茶をトレイに置き、こぶりの丼に視線を転じる。
 灯りの下でほかほかと湯気を立てている茶漬けからは、出汁のいい香りがしていた。どこか懐かしい、ほっとする香り。
 と、くうう、私の小腸が、その存在を主張した。

 食べる気などなかったのに、匂いを嗅いだら急に食欲がわいてきたのだから不思議なものだ。
 古き友を失ってこんなにも悲しいのに、私には胃袋さえないのに、生きている限り腹はへる。「食べることは生きること」という言葉があるが、人が生きるということは、なんと滑稽で、そして切ないものだろう。

「……心遣いありがとう。いただくよ」

 いただきます、と、手を合わせて、茶漬けをすすった。とたん、出汁の優しい味が口腔内に広がる。温度も、焼き鮭の塩気もちょうどよかった。
 これまた傷心の身に染み入るようで、ほう、と、私は息をついた。

『あなたを恨んじゃいないよ』
『抗うと決めてくれたなら……良い』

 ナイトアイの声が、また脳裏でよみがえる。

『あなたは考えを改めてくれた……それで充分』

 目の前の茶漬けが、涙でにじんだ。

 みづきが黙って席を立ち、私の前にティッシュの箱を置いた。そして彼女は私の正面ではなく、斜め前に座り直した。
 私は彼女が用意してくれたティッシュで涙と鼻水を拭き、ほうじ茶を飲み、また茶漬けを食べる。

 ボロボロと涙をこぼしながら茶漬けをかきこむ五十男の図は、決して格好のいいものではない。平和の象徴が聞いて呆れる。わかってはいるが、今は涙を止めることができなかった。

 今日の職員寮は、死穢八斎會の話題で持ちきりだったろう。みづきもナイトアイのことは聞き及んでいるはずだ。けれどみづきはなにも言わず、ただ傍にいてくれる。
 それがとても、ありがたかった。

 これまで私は、平和の象徴として、自分の中の弱さや脆さを人に見せぬようにして生きてきた。だから誰かに負の感情を吐露しようなど、考えたこともなかった。
 けれど、悲しいときに誰かが傍にいてくれるだけで、人はこんなにも救われるのだ。他の人がもっと若くして知るであろうそのことを、私はこの日、初めて知った。

2024.9.5
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月とうさぎ