P.S.ILoveYou

 そろそろ夕飯にするか、と内心で呟いて、モニターの端の時計を眺める。時刻は二十時をほんの少しまわったところ。

 この時間なら、みんな食堂にいるだろう。

 サーを亡くしたあの日からもう二ヶ月以上経つのだが、あの夜の自分の行動を思い出すと、今でも顔から火が出そうだ。
 涙と鼻水でぐしょぐしょになりながらお茶漬けを食べる五十過ぎのおっさんなんて、どうにも格好が悪すぎる。
 もちろんみづきはそれを揶揄したりはせず、むしろなにごともなかったかのように接してくれる。大人の女性ならではの気遣いはありがたかったが、それでもなんとなく気まずくて、みづきとふたりになることは避けてきた。
――まあ、それはそれで格好の悪い話でもあるのだが。

 エレベーターを降り食堂に向かう。と、思っていた通り、数人がそこで食事をしていた。ちょうど食べ終えたところなのか、相澤が壊理と一緒に食器を戻しているのが見える。微笑ましいなと思いつつ、厨房の中に視線を投げる。どこまでもさりげなく。私が見ていることにみづきが気づかないように。
 ところが厨房の中でせわしく動いているのは、シェフキャップをかぶったみづきではなく、コック帽をかぶった小柄なヒーロー。

「あれ? みづきさんは?」

 いるはずのひとがいないことに耐えかねて、思わず声をあげてしまった。
 するとランチラッシュが、食事の載ったトレイを手にやってきた。中身はもちろん、私の食事だ。
 いや、毎度ながらその手早さには頭が下がる。

「みづきさん、さっき調子悪そうにしてたから、交代したんだよ。検温させたら三十九度近くあってね。いまは医者に診てもらってる」
「それはかなりの高熱だね。心配だな」
「そうなんだよ」

 しかし、と私は内心で独りごちた。
 確か今日、リカバリーガールは東京の大学病院に行っているはずだ。いればすぐに治してもらえるのに、こんな日に熱を出すなんて、みづきもついていない。
 インフルエンザも流行りはじめていることだし、それほどの高熱とあれば肺炎の可能性もある。軽い病であればいいのだが。
 そんなことを思いながら席につき、いただきます、と両手を合わせた。

 ランチラッシュの考えた献立は、彩りも良く、栄養価も抜群だ。それだけでなく、胃袋がない私の食事は、すべて少なめに盛り付けてくれている。そんな細かい配慮がされた美味しいはずの食事が、今日はなんだか味気ない。

 これはもちろんランチラッシュのせいではなく、自身の気持ちの問題だ。みづきが心配で仕方ない。

 ずいぶんイカレちまったなオールマイト、と、内心で自嘲気味に呟いた。

 本当にずいぶんとはまり込んでしまったものだ。ふたりになることを避けてもう二ヶ月も経つというのに。それでもひとことふたこと挨拶を交わすだけで、いや、毎日姿を見ることができるというただそれだけで、想いが募っていく。こんなことは初めてで、自分でもどうしていいかわからなくなる時があった。



 食事を終え、食器を厨房に戻したその時、教師寮の扉があいた。入ってきたのは、コックコート姿ではなく、白いTシャツの上に薄手のブルゾンを羽織ったみづきだった。
 マスクをしているが、それでも顔色が悪いのが見て取れる。

「ただいま……戻りました」

 肩で息をしながら、みづきが言った。普段は姿勢のいいひとなのに、心持ち背も曲がり、その足取りも重いようすで、ずいぶんとつらそうだ。
 みづきはまっすぐランチラッシュのもとまで歩いていき、一つ息を吐いてから、唇を開いた。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。インフルエンザではなく風邪だそうです。お薬を処方していただきました」
「そうか。じゃあ今日はそのまま部屋で休んだらいい。明日の朝は昼のスタッフのひとりに入ってもらうことにしたから、もし熱が下がったとしても大食堂には来なくていいよ。ゆっくり休んで」
「……ありがとうございま……」

 といらえたみづきの膝が、かくりと落ちた。反射的に身体が動いて、彼女が床にキスする寸前にその身体を受け止める。私はそのまま、みづきを抱き上げた。

「オールマイトさん?」
「君、大丈夫かい?」
「……すみません。あの……わたし自分で歩けますので……」
「いいから無理しない。このまま部屋まで運ぶよ。遠慮はいらない。私が今まで何人のひとを抱えてきたと思ってるんだい?」
「…それは……そうですが」
「体調が悪いときは無理しない。ね? なんならそのまま寝ちゃいなよ」

 朦朧としながら、それでも話そうとするみづきにそう告げてから、私は大柄な女性ヒーローが食事を終えていることを視界の端で確認する。

「女性の部屋に一人で上がり込むわけにはいかないからさ、13号、悪いけど着いてきてくれるかい?」

 さすがにヒーロー。嫌がるそぶりも見せず、はい、と軽やかに答え立ち上がってくれたのはさすがだった。



 みづきの部屋は、ミッドナイトと13号の部屋と同じフロアにあった。
 スペースヒーローがみづきから受け取った鍵で扉を開けてくれたので、みづきを抱いたまま中に入った。13号を伴ったことで安心したのか、それとも張り詰めていた気持ちが切れたのか、みづきは私の腕の中でくったりと脱力している。声をかけるか否か迷って、結局やめた。薄手のブルゾンを手早く脱がせ、そのままベッドに座らせる。

「みづきさん、ゼリーとお薬だけでも飲みましょう」

 13号がゼリー飲料の封を開け、みづきに手渡した。みづきはそれを半分ほど飲み、次に薬をゆっくりと飲んだ。

「……すみません」
「大丈夫だよ。ゆっくり寝て」

 みづきがベッドに潜り込むのを確認し、一息ついた。13号が気を利かせて、ペットボトルの水を枕元に置く。
 すぐにみづきは眠ってしまったようだった。

「じゃあ、我々はこれで……」

 と言いながら立ち上がりかけ、腰のあたりに違和感を覚えて動きを止めた。なんだろう、と視線を移すと、みづきが私のニットカーディガンの裾をぎゅっと握りしめているのが見える。
 いつの間に……と思いながら、そっと手をはずそうとした瞬間だった。

 閉じられたみづきのまぶたから落ちた、一筋の涙。

――なにせ人前で泣いたことがない女ですから。

 そう香久夜弟は言っていた。それなのに。
 これは悲しみの涙ではなく、体調不良による生理的な落涙だろうか。

「――いかないで……」

 涙に続いた言葉に、私は凍り付き、同時にテレビ画面の向こうで笑っていたハンサムなシェフの顔を思い浮かべた。

 未だ君は、彼を想って泣いているのか。人知れず、誰もいないところで。
 あんなろくでなしのために。

 自分の中に黒い感情が広がっていくことに気づいて、私は慌てた。これはよくない兆候だ。
 それに、放っておけない気持ちはあるものの、妙齢の女性の部屋にいつまでも居座るわけにはいかない。だから助けを求めるように、傍らに立つ13号を見上げた。しかし彼女は彼女で、少し困ったように眉を下げている。

「あの……僕はまだ仕事が残っているので戻らなくてはなりませんが、オールマイトさんにもしお時間があるのなら、少しの間、傍にいてさしあげたらいかがでしょう」

 いや君、なにとんでもないこと言っちゃってんの。
 言葉の代わりに私の口から飛び出たのは、血液だ。

 私の動揺をよそに、スペースヒーローは続ける。

「二人きりというのが気になるなら、部屋の扉はあけていきます。閉めたとしても、オールマイトさんなら大丈夫だと思いますが……」

 いやだめだろ。それにそれはどういう意味だよ。私だって男なんだぜ。

 だが、それを告げる暇すらなく、スペースヒーローはぺこりと頭を下げて、部屋から出て行ってしまった。まさしく風のように。

「あー」

 軽く声をあげ、私は覚悟を決めた。
 みづきは私のカーディガンの裾をしっかり掴んだままだ。むりに引き剥がそうとすると、また悪夢を見るかもしれない。
 仕方がない、少しの間、ここに残ろう。

 彼女を安心させるために、カーディガンを掴んでいる手をそっと撫でた。水仕事をするせいだろうか、ややかさついた、それでもきちんと働く者のみが持つ、美しい手。

「行かないで……」

 もう一度、みづきの口唇から悲しい言葉が漏れた。
 どうしようもなく切ない気持ちになりながら、私は答える。

「大丈夫、ここにいるよ。だから君はゆっくりおやすみ」

 手ではなく、今度は頭を撫でながら優しくささやいた。ただそれだけのことなのに、胸に甘いなにかが湧き上がってくるのだから、不思議なものだ。
 ところが、次の瞬間、眠っているみづきの口から思いもかけない言葉が漏れた。

「八木さん……」
「え?」

 驚いてみづきを見おろした。

 聞き間違いでないのなら、行かないでと言ったのは、あのハンサムなシェフではなくて、私にか?
 いや、もしかしたら別の八木かもしれないと小さく呟き、そりゃないだろと思い直した。

「うん……私だ。ここにいるよ」

 思い切ってそうささやく。と、みづきの頬を、また一筋の涙が伝った。
 胸の奥が締め付けられる。本当はどこにも行かないと言いたい。ずっと離れず傍にいると。

 だが、それを言葉にすれば嘘になる。
 たとえ眠っているひと相手でも、目先だけの嘘はつきたくなかった。

 それにしても、とひそかに思う。
 みづきに名を呼ばれるのは、久方ぶりのことだった。
 そういえば、みづきが私を「八木」と呼ばなくなったのはいつからだったろう。
 ああそうだ、と心の中で、はたと膝を打った。

 「神野」以降だ。

 真実の姿が明らかになり、私がオールマイトであると世間に知られた後から、みづきは私を「オールマイト」と呼ぶようになった。理由はわからない。偽名を使う必要がないと思ったからか、私の八木が本名であった場合を慮ったか。
 いずれにせよ、その気配りに頭が下がる気持ちだった。

 そして、みづきがそういうひとだから、私は好きになったのだ。確かに容姿は整っているし、作る料理はどれもうまい。だがそういった条件的な部分だけでなく、私は彼女の心持ちに強く惹かれたのだ。そしておそらく、彼女も同じ気持ちでいてくれているのだろう。
 うわごとで名前を呼ばれたからだけでなく、今にしてみれば思い当たる節がいくつかあった。女性と特別な関係になったことはないけれど、想いを寄せられたことはそれこそ数え切れないほどある。

 今までも、好きになりかけた人はいた。そうした相手に想いを寄せられたことも、幾度かあった。
 私はそのたび、己の心に蓋をした。恋情を律することができる自分を、心のどこかで褒めてすらいた。だがそれは、「その程度の気持ちであった」からに過ぎないということを、今ひしひしと思い知らされている。
 正直な話、こんなにも相手を愛おしく想い、また想いを遂げられぬことを苦しく感じるのは初めてのことだ。
 恋とはこのように、狂おしいまでの熱量を持って、人の心を飲み込もうとするものなのか。

 しかしオール・フォー・ワンはあまりにも強大な敵だ。
 だから私は十八の時に決意した。奴を倒すまでは八木俊典という一個人を葬り、オールマイトというヒーローとして生きようと。
 その選択は私の誇りであるし、ひとかけらの後悔もない。そしてこの意思は、みづき、君を恋うる今でも、変わらない。

 オール・フォー・ワンを倒すまで、私は誰とも添うことはない。いつになるかわからないその瞬間を待っていてくれとは、私には言えない。だから私はみづきの想いに応えることができない。

 けれど、今宵だけでも、共に過ごすことは許されるだろうか。

 何もせず、愛の言葉も交わさず、眠りにつく愛しいひとの傍にいる。ただそれだけの、だが夢のような一夜。

 ローテーブルの上のリモコンで部屋の主照明を落とし、部屋の隅にある間接照明の明かりをつける。調光は最弱。ほのかな灯りの中、静かに眠る端正な横顔をそっと見つめた。

「君を愛してる」

 ぽつりと漏らしたその一言は当然みづきの耳には届かず、静かな部屋の中に、ゆっくりと溶けていった。

2024.9.10
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月とうさぎ