ムーンライトシルバーのためらい

 摩天楼の向こうで銀色に輝く月を、ひとり見つめる。

「十六夜月か……」

 いざよいの語源は、いざよう。意味はためらう、躊躇する。
 そして十六夜月とは、上空に姿を現すのがやや遅いことから「ためらう月」と名付けられた、満月翌日の月のこと。

「ずいぶん風が涼しくなった」

 そう漏らし、この頃ひとりごとが増えたな、と苦笑した。

 私は平和の象徴、オールマイト。それなのに今のていたらくはどうしたことだ、全くもって情けない。

 開け放たれた窓から忍び込んだ晩夏の風が、前髪をさわさわと揺らした。窓の外に輝くためらう月……十六夜を眺めながら、小さいため息をひとつ吐き、グラスを空ける。中身は実桜が用意してくれている、カフェインレスのアイスティー。あれからずっと、紅茶を飲まずにきたのに、これからも飲まないつもりでいたのに、いつのまにかこんなにもほだされてしまっている自分に、少し呆れる。

 すみれ、君はきっと、私のことを許すまい。
 奇しくも、今日はすみれの命日だった。昼間、実桜をともないすみれの墓前に参った。郊外にある、山を切り崩して作った霊園に。


 都会の喧騒から離れた、隣県との境目にその公園墓地はある。ビルだらけの都心部や住宅だらけの区部とは違い、自然が多いのどかなところだ。周囲に高い建物がないせいだろうか。都心に比べ、郊外の空は広く感じた。真っ青な空に浮かぶ夏特有の雲が、山の稜線から顔を出す化け入道のように、むくむくと上空に向け伸びていく。

 白い百合と線香を墓地にそなえ、私は実桜と並んで頭を垂れた。
 と、その時、線香から白檀と沈香がつよく香った。そういえば、すみれは白檀の香りが好きだった。
 今でもはっきり思い出すことができる。亡くした恋人の好きだった香り、色、花、そして紅茶。彼女のことを忘れたことなどなかったというのに、今の私は、いったいどうしてしまったのか。

 すみれは生真面目なひとだった。二十歳そこそこでシングルマザーになることを決意し、たった一人で子供を抱えて生きていこうとしていたけなげな姿に、強く惹かれた。
 恋人同士になった後も、すみれの真面目さは変わらなかった。

「子供が成人するまでは、娘を中心に考えたいの」

 それが彼女の口癖だった。そしてすみれは、実際そう振る舞った。彼女は常に子供……実桜を中心に、すべての物事を考えていた。
 二人で過ごした、最初で最後のあの一夜。あれも学童保育が主催するお泊りイベントがなければ、実現しなかったことだろう。
 あの日、お迎えぎりぎりの時間まですみれを引き止めたことを、私は今でも後悔している。

 もちろん、無理強いしたわけでも、いてくれるよう懇願したわけでもない。初めて過ごした一夜のあと、互いにあと少しだけ、もう少しだけと共に過ごす時間を伸ばした結果、ああいうことになっただけだ。

 けれど――と、今でも思う。あの日、もう少し時間の余裕があったなら、すみれがあの路地を通ることなどなかっただろうと。

 しかし、すみれがあの日あの時刻あの路地を通ったおかげで救えた魂も、確かにある。

 知っているかすみれ……と、私は頭を垂れながらかつての恋人に語りかけた。君が救ったあの子供は、今年の春、雄英を卒業して、ヒーローになったぞ。先日、事務所に挨拶に来た。君に憧れ、君のように誰かを救える存在になりたいと、そう言っていた。その時の視線の強さとまっすぐな輝き、彼はきっといいヒーローになるだろう。

 それから、実桜との暮らしも順調だ。心配しないでくれ、私は彼女が巣立つその日まで、責任を持って保護していく。
 だが……ひとつ、君に謝らなくてはならないことがある。それは――。

 ジイジイと鳴くアブラゼミの声が、私たちの上に滝のように降り注ぐ。
 セミのオスはメスを求めて鳴くという。それでは私は、誰を求めて啼くのだろうか。今は亡きすみれか、それとも――。

 馬鹿なことをとため息をついて、ぐるりと周囲を見回した。自然を残す郊外の霊園は、都心部に比べて緑が多い。深い緑に太陽光が反射して、きらきらと輝いている。それをとても、美しいと思った。

「マイトさんの髪はきれいですね。光を弾いて、まるで太陽みたいです」

 屈託のない笑みを見せながら、実桜がはにかむように言った。

 墓参を終えた後、実桜と二人で霊園の正門前にある讃岐うどんの店に入った。国道沿いのこの店は、知る人ぞ知る名店だ。香川県出身の店主の打つうどんは絶品で、なぜこんな郊外に店舗を構えているのかと、訝しがる客も多いほどだった。

「さっき、ずいぶん長く手を合わせてましたけど、母になにを報告したんですか?」
「ん、内緒」

 ニコニコしながらたずねてきた実桜に、適当な返事をした。本当のことなど、絶対に言えるはずがない。すみれの墓前でした謝罪の言葉は、口にしたが最後、この関係が終わってしまうような爆弾だった。

「君は何を?」
「マイトさんが教えてくれないなら、わたしも内緒です」

 少し不服そうに、実桜が口をとがらせた。そんな顔をされてもかわいいと思ってしまうのだから、困ったものだとまた溜息。

 外の暑さに閉口していたので、二人ともぶっかけうどんを注文した。いったん軽く水で締めたうどんに、濃口の出汁をかけたものだ。上手いと評判のかしわ天と卵天も一緒に頼んだ。

「美味しいです」

 讃岐特有の角がたった光沢のある麺を楽しみながら、くったくなく実桜が笑う。かわいいな、と、ふたたび思った。
 実桜はどこに連れて行っても楽しいです、美味しいですと満面の笑みで答えてくれる。

 「マイトさん」と呼ぶその声が愛しかった。
 「楽しいです」と笑むその顔が愛しかった。
 「マイトさんの髪はきれいですね」と私を見つめる、その瞳が愛しかった。

 こんなにも愛しい、なのに苦しい。
 想いを寄せることすら後ろめたいこの感情に、どんな名前をつけたらいいのだろうか。



 氷だけになったグラスをからからと揺らしながら、私はまたため息をついた。この頃、ため息の数が増えた。躊躇いの数だけ、切なく息を吐いている気がする。

 こんな時浮かんでくるのは、いつも実桜のことだった。あの子は、際立った個性に恵まれなかったことを気にしているようだ。実桜には、すみれのような羽もなく、毒もない。あるのは身体から無害な粉をふくことができるという、至極平凡な個性。

 けれど、誠に利己的な考えとはわかっているが、実桜が個性に恵まれなくて本当によかったと、私は少し安堵している。平凡な個性、まことにけっこう。

 もしも実桜が個性に恵まれ、ヒーローになっていたならば、彼女は自分が不利な状況であっても相手に向かっていくだろう。あの日のすみれと同じように。そんなことはさせられない。させたくない。
 大きな溜息を吐いて、空のグラスを手に、席を立った。

 キッチンにグラスを置いて、自室へと向かう。私の部屋の隣は、実桜の寝室。そしてまた、溜息。
 毎夜、いや日中でさえも、私があの少女といる時に抱く邪まな思いを、果たして誰が知るだろう。

 その小さな唇を奪ってしまいたい。白い手首を拘束してベッドに縫いとめ、己の下で思う存分よがり声をあげさせたい。
 平和の象徴などとおだてられ担ぎ上げられてはいるが、考えていることは、そこらの男より、よほど下卑たことだった。

 と、その時、実桜の部屋の扉が、わずかにあいていることに気がついた。まったく不用心なと、心の中で舌打ちをした。

 いいか、君が一緒に暮らしている相手は聖人君子などではないんだ。腹の底では、君を組み敷き犯して、自分の欲を吐き出したいと考えているただの下衆だ。頼むから、寝室には鍵をかけてくれ。
 何度、そう言おうとしたことか。
 鍵などすぐに壊せるが、鍵をかけているという、その事実が大事なのだ。

 扉を閉めるため、私は実桜の部屋のドアノブに手をかけた。中から微風が吹いてくる。嫌な予感にちらりと中を覗き込むと、窓辺のカーテンがパタパタと翻っているのが目についた。窓を開け放したままなのだろう。
 夏場とはいえ、今夜の風はけっこうつめたい。このままだと風邪をひいてしまうかもしれない。

 窓を閉めるだけと自分に言いきかせ、室内に足を踏み入れた。もちろん、目的を果たしたらすぐに立ち去るつもりで。
 だが、この時、ふわりと漂う甘い香りが、私の鼻腔を刺激した。

 香水だろうか。彼女の愛用しているのは、オレンジが爽やかな、幸せという名の香りだった。
 けれど、瞬間、気づいてしまった。爽やかなオレンジの中にひっそりと潜んだ特有の香りがあることを。

 これは女の香りだ。あの時に、髪や身体から放たれる、男の欲をそそる香り。
 実桜の身体をひらき、自分のものにしてしまいたいという汚れた欲が、また、むくりと身を起こす。
 おいやめろ、と頭の中で、もう一人の自分がわめく声がした。しかしわめく声を無視して、私はベッドの中で幸せそうに夏掛けにくるまる少女……いや、ここ数か月で急に女を感じさせるようになってしまった、実桜をみつめた。

 額にかかる前髪にすら、色気を感じた。どこまで貪欲なのだと、自分を殴りつけてやりたい気分になる。
 それでも、ここから立ち去ることができなかった。
 それどころか机に備えつけられている椅子をベッドサイドまで移動させ、無言でそこに腰掛けた。

 ほんの少し開けられた扉から、廊下の明かりが漏れている。眠りの世界に落ちている実桜の横顔を見つめた。
 自身の心臓の音を、これほど大きく感じたことはない。

 ここ最近、実桜は急に大人びた。風呂あがり、うすい寝着で歩き回る姿。頭髪をまとめている時に見える白いうなじ。スカートの裾が揺れるたびにちらりとのぞく、膝やふくらはぎ。その都度、私は自らの欲と戦ってきた。

 命に代えても守りたいと思っていたはずの相手から、すべてを盗んでしまいたいと欲する、汚い男のこの矛盾。

 ばかなことを。どんなに愛していたとしても、この娘はいつか、私の元からいなくなる。いい男と恋愛をして、結婚をして……だがそれを思うだけで腹の底からふつふつとほの暗いなにかが湧いてくる。

 こんな感情はどこかに捨ててしまえないものだろうか。すみれの娘を愛してしまったなどと、こんなにひどい裏切りはない。

 かつて愛したひとの最期の姿が、脳裏に浮かんだ。
 夕暮れの路地裏で途絶えた呼吸。現場にたどり着いた時、すでにすみれは致命傷を負っていた。一目で、もう手遅れなのがわかった。おびただしい出血量。断ち切られた頸動脈。無残に引き裂かれ、もがれて落ちた蝶の羽。

 そのまま自分の腕の中で、冷たくなっていった恋人。
 そのすみれの娘だ。たとえどんなことがあろうとも、庇護し、慈しみ、そして幸せな結婚をさせて巣立たせてやるのだと、かつて己が抱いた誓いをもう一度固く心に刻みつける。

 それが正しい。わかっている。わかっているからこそ、すみれの墓前で謝罪したのだ。君の娘を愛してしまった、本当にすまないと。それに続いた、手を出すつもりはないから、との言葉は、自分でも笑えるほど言い訳じみていた。

 開け放たれたままだったカーテンの向こうには、十六夜月が鎮座している。と、その時、風に流された薄い雲がいざよう月の上にかかった。この時、私は月が見えなくなることをわずかに恐れた。己の決心が、ぼやけてゆくような気がしたからだ。

 けれど私の思いに反するように、この時、ためらう月が完全に雲に隠れた。
 魔がさす、という言葉がある。この時、耳元でなにかがこっそり囁いた。

『この娘をこの手に抱くことが許されないなら、唇だけでもおまえのものに。せめて、今この時だけでも』

 聞こえてきた声に導かれるように、愛しい娘の頭の脇に両手をついた。

 晩夏の風がさらさらと室内に流れてくる。
 ゆっくりと自らの顔を実桜のそれに近づけた。互いの呼吸が触れ合うくらい近づき、柔らかそうな唇に触れる寸前のところで動きを止める。

 天使さながらに眠り続ける、実桜を見つめたままで。

『小さな幸せをくれた少女の上に、平和の象徴の手で裏切りの祝福を』

 頭の中で、知らない誰かの声が響く。
 しばらくの間、少女の上に覆いかぶさっていたが、やがてゆっくりと顔をあげた。我が青き瞳に浮かぶのは、動揺と哀愁と空虚。気取って言うならそんなところか。

 いかんなと首を横に振り、音も立てず窓辺に歩み寄って、そっと窓を閉めた。椅子を戻して枕もとに屈みこみ、実桜の髪をひとすじ、さらりと梳いた。
 どうしてこんなにも愛おしいのだろうか。こんなに後ろめたく、こんなにも苦しいというのに。

 今宵、空に輝くのは十六夜月。前日よりもやや遅い時間に出てくるところからいざよいと名付けられたその月は、その名の通り、ためらい、迷い、躊躇する。

 銀色の光を放ちながら、今宵も月は、迷い続けている。

2015.8.11
2016.1.13 改稿

本編の5.5話に当たるお話

月とうさぎ