駅から家までの道のりは、そう遠くない。
巨大なクモのオブジェの下を潜り抜け、様々なショップをチラ見しながら連結ブリッジに向かい、それを渡ればすぐにマンションの入り口にたどり着く。
そのはずなのに、駅から家にたどり着くまで、一時間近くかかってしまうこともあるのだから困ったものだ。
さまざまなショップや各種イベントで常ににぎわう、この街は楽しい。ついつい寄り道をしてしまう。
だが、今日の寄り道には理由があった。
わたしは冬休みに、学習塾で冬期講習講師のアルバイトをした。そのバイト代が入ったのだ。
マイトさんからは、クリスマスに学生には分不相応なプレゼントをいただいている。だからせめてものお返しに何かしたいと、各ショップのウインドウを覗きこんでいた。
テレビ社屋の隣にある円形ステージでは、若手ヒーローたちによるイベントがおこなわれていたらしく、行きかう人々の中に小さな子供が多く混じっている。
吹きすさぶ冷たい真冬の風のただなかにいるにも関わらず、子供たちの頬は紅潮していた。
イベントでは、人気ヒーローのグッズも同時に販売していたようだ。
ヒーローグッズを手にして笑う子供たちを見て、わたしは誇らしい気持ちで目を細める。
ベストジーニスト、エンデヴァ―、子供たちの手には人気ヒーローグッズの数々。けれどその中でひときわ多く目にしたのが、前髪をうさぎの耳のように屹立させたヒーローの製品だった。
子供たちの……いや、この国の人々の憧れであり夢であり、そして平和と正義の象徴であるそのひとは、わたしの大事な恋人だ。
もともとオールマイト――マイトさん――は、十一年前の夏に亡くなった母の恋人だったひと。
養護施設で育ち、高校卒業後の行先に困っていたわたしに大学に行くよう勧めてくれ、生活や学費等の面倒をみてくれたのがマイトさんだった。
その保護者的な存在であったマイトさんとわたしが付き合えるようになるには、一年半近くの時間と紆余曲折があったのだけれど、それも今となっては甘酸っぱい思い出になりつつある。
今、わたしはとても幸せだ。この幸せがずっと続いてくれればいい。
「あ、あのストール、マイトさんに似合いそう……」
体脂肪の少ない年上の恋人は、寒がりでおしゃれだ。たくさんの服を所有していて、その日の気分によって組み合わせを変えている。
ウインドウに飾られているストールは、万能そうなグレージュ。あれならきっと、何にでも合わせやすいことだろう。
そう思いながら、ふらりと通路を横切ろうとしたその時、自分よりも大きくてしっかりした何かとぶつかった。
どしん、という衝撃と、その反動でしりもちをつく。
「……いたた……」
「すみません! 大丈夫ですか」
その声と共に、さし出された大きな手。
それには頼らず起き上がり、わたしは相手に謝罪した。
「ごめんなさい……よそ見をしていました……」
「いや……こちらこ……」
ぶつかった相手は、涼しげな眼元の青年だった。銀がかった紫色の髪がとても綺麗だ。まるですみれの花のよう。
だがどうしたのだろう、青年は言葉途中のまま固まってしまっている。
大丈夫ですかと声をかけるその前に、青年の口からごくごく小さな呟きが漏れた。
「……バイオレット?……」
これにはわたしも驚いた。
バイオレットは、亡き母のヒーロー名。
しかし、バイオレットはそう有名なヒーローではない。なのにわたしと同じくらいの年齢のひとが、母を知っているなんて。
「あの……」
「あ、すみません。僕のほうこそよそ見をしていたので……」
「それから……ごめんなさい……今、バイオレットって言いましたよね?」
「あっ……はい。昔ね、バイオレットって名前のヒーローがいたんですよ。君がそのヒーローとあまりにも似ていたので、つい……」
「バイオレットはマイナーなヒーローなのに、よくご存知でしたね」
「ええ……まあ……尊敬するヒーローです。……って、君もバイオレット知ってるの? 嬉しいなあ」
そう笑まれて、涙が出そうになってしまった。いや、じわりと涙がにじみ出た。
母を覚えているだけでなく、尊敬してくれているひとがいる。その事実がなにより嬉しかった。
「えっ……あの……君……大丈夫? 怪我でもした? どこか痛い??」
青年が慌てたようすでたずねてきた。
規格から大きくはずれたひとと暮らしているから気づくのが遅れたが、目前の青年もそれなりに背が高い。
長い手足をわたわたと動かして慌てる様子が、すこしマイトさんに似ていると思った。
「ごめんなさい、大丈夫です。それから、ありがとうございます」
わたしは涙を拭って、ぺこりと頭を下げた。
『バイオレットはわたしの母です』と言おうかどうか少し迷って、やっぱりやめた。いくら嬉しかったからとはいえ、道でぶつかっただけの男性に個人情報を知らせる必要などないのだ。
「あの……よかったら近くのカフェでお茶でも飲まない? バイオレットについて少し話せたらいいなって思うんだ」
「えっ……」
正直、この言葉には少し惑った。
現役時代の母の話が聞きたい。
母のどんなところが好きなのか知りたい。
それでもやっぱり、恋人以外の男性と……しかも偶然ぶつかっただけの人とお茶を飲んだりするのはどうかと思ってしまうのだ。
こういうところが、わたしが真面目すぎるとか変わっていると言われてしまう所以なのかもしれないけれど。
「ごめんなさい。家に待ってる人がいますから」
「ってことは、君はこの近くに住んでるんだね」
青年は整った顔をほころばせた。が、すぐに慌てたように付け加えた。
「あっ、だからって変なことしようとかは考えてないよ。俺……僕は怪しい者じゃないから。駆け出しだけどヒーローなんだよ。さっきまで円形ステージでのイベントに参加してたんだ。ビオラって聞いたことない?」
「ビオラ? 音楽系の個性ですか?」
「……楽器のビオラじゃなくて、すみれの仲間のビオラを名前にしたんだ」
ヒーローだったのか……それなら少し安心だ。
きいたことのないお名前だけれど、マイトさんなら知っているかもしれない。
そしてビオラとは、小さな三色すみれのことだ。
男性があのかわいらしい花をヒーロー名にするなんて、目前のこの人は本当に母が好きなのだ。
「あ、一応名刺渡しておくね。良かったら連絡して」
ビオラさんとやらは裏に何やら記して、一枚の小さな紙を差し出してきた。
受け取れないと躊躇していると、素早くやや強引に手の中に名刺をねじりこまれた。
「じゃ、またね」
「あの……困ります」
だがビオラはわたしに最後まで言わせることなく、疾風のように去って行ってしまった。
どうしてヒーローという職業のひとたちは、こう行動が迅速な上に少し強引なところがあるのだろうか。
「どうせ連絡しないのに……」
独りごちながら名刺を眺めて、目を見開いた。
わたしが日ごろから姉のように慕う睡さんことミッドナイトの所属事務所の名前が、そこに印字されていた。
***
玄関の扉を開けた瞬間、プレゼントを買いそびれてしまったことに気が付いた。どうしてわたしはこうそそっかしいのだろう。
「おかえり」
ゆったりとした欧州製のソファに座っていたマイトさんが、視線を新聞紙からわたしに移して微笑んだ。わたしも大好きなひとに笑みを返す。
「あのね、マイトさん」
「……なんだい? 実桜」
マイトさんはなにか言いたげな顔をして、でも、何も言わずに微笑んだ。
何がいいたいのか、なんとなくわかっているが、わたしはあえてそれを問わない。
マイトというのはオールマイトの本名ではない。彼には俊典という名前がある。
付き合うことになった日に「これからはその名で呼んでくれ」と言われたが、わたしは 今でも頑なに「マイトさん」と呼び続けている。
俊典。
それは、ずっと呼びたいと願い続けていたお名前だけれど。
今でも本当は呼びたいと、密かに願い続けているのだけれども。
「今日、ママのファンだったひとに会いました」
「へえ、私と同じくらいの世代の男かい?」
「どうしてそう思うんです?」
「すみれは目立った活躍はなかったけれど、一部の男性に人気があったんだよね。美人だったから」
ああそういうこと、とわたしはちょっと面白くない気分になる。
ヒーローとしての母の話をマイトさんにたずねたりしないのは、このつまらないやきもちが原因だ。
私の知らない母をマイトさんは知っていて、私の知らないマイトさんを母は知っている。
その母は、マイトさんの心を奪ったまま逝ってしまった。
未だに、母はわたしとマイトさんの中でひっそりと存在し続けている。少なくとも、私はそう思っている。
このトライアングルは、まるでカレイドスコープだ。
筒の中に入れられた三つの鏡は、マイトさんと母とわたし。
三角形の鏡の中で入り混じった色とりどりのビーズは、筒を回すたびに中の模様を変えていく。それは屈折した美しさの、屈折した関係。
亡き母を長年想い続けていたひとを好きになってしまったその時から、ある程度の覚悟はしていたけれど、それでもたまにこうしたもやもやに襲われる。
わたしは欲張りだ。こんなに大事にされているのに、過去にまでやきもちを妬くなんて。
「で、すみれのファンはどんな人だったんだい?」
「若い男の人でした。ヒーローをされている方で、ビオラってお名前らしいんですけど。ご存知ですか?」
するとマイトさんは一瞬、とても難しい顔をした。
なんだろう、素行のよくないひとなのだろうか。とてもいい人そうにみえたけど。
「もしかして、あまり評判の良くないひとなんでしょうか?」
「いや……好青年だと聞いているよ。なかなかいい男だったろう?」
「たしかに素敵なひとでしたけど、マイトさんほどじゃありません」
にっこり笑ってそう答えると、マイトさんはぶはっと派手に血を吐いた。
「君も言うようになったね」
「え? だって本当にそう思うから」
わたしは変わっていると言われることが多い。最近はその回数が減ってきてはいるけれど、やはりこうしてたまにやらかす。
なにか、おかしなことを言っただろうか。
はじめて会った時は死神めいた異相だと思ったりもしたけれど、今のわたしにとってはマイトさんが一番かっこいいのに。
軽く首をかしげていると、マイトさんが身体を屈めてわたしの瞼に口づけた。
「まったく……君は本当に油断ならない」
「え?」
「君は、どれだけわたしを虜にすれば気が済むんだい?」
「よくわかりません……虜になっているのはわたしの方だと思いますけど……」
ほらこれだ!と軽いため息と共に吐き出された声は、低いけれどもとても甘くて。
「今日は夕飯の前に実桜を食べてしまおうかな」
ひょいと抱き上げられて、膝の上に乗せられた。
そこで落とされる口づけは、やっぱりどこまでも甘かった。
この年上の恋人はとても優しい。わたしはとても幸せだ。
この幸せが、ずっとずっと続けばいいのに。
2016.1.17