巨大な商業施設と自宅マンションを結ぶ歩道橋を渡りながら、ずしりと重たい紙袋の中身を、ちらりと見やる。有頭えびとムール貝、ヤリイカ、それに鱈。家のキッチンでは、砂出しが完了したであろうアサリが待ち受けている。実桜のために用意した甘めのハーフサイズの白ワインは、小型セラーの中で適温に保たれているはずだった。
今日の夕飯はこの空と同じ色の鍋にするつもりだ。食卓に並べた時の実桜の表情を想像して、思わず口元が緩んだ。サフランイエローのブイヤベースは、実桜の好物。
「マイトさん!」
と、背後から聞き慣れた声に名前を呼ばれた。振り返ると、こちらに向かって駆けてくる、実桜の姿があった。
「追い……つけて……よかっ……た」
大きく息を弾ませながら、実桜が笑う。額ににじむ汗、紅潮した頬。いったいどこから走ってきたのだろうか。
「マイトさんは背が高いから、遠目からでもすぐわかります」
「そうかい」
「はい」
マイト、と呼ばれたことを少し寂しく思いながら、微笑みを返した。
実桜は私の本名を呼ばない。教えたばかりの夏の頃に、何度か呼ばれはしたものの、気づけばマイトという呼び名に戻ってしまった。
最初にマイトと教えてしまったから、それが癖になっているのだろう。一度定着してしまった呼び名を変えるのは、なかなか難しいことだから。
「どうしたんです?」
「いや、なんでもないよ。それよりホラ、今日の夕飯は君の好物だ。楽しみにしていてくれよな」
「わ、立派な海老。もしかして今日って」
袋の中身を確認した実桜が、瞳を輝かせる。
「うん。ブイヤベース。あとはバケットとサラダでいいかな?」
「もちろんです! あ、わたしが作りましょうか」
「ダメ。君、明日までのレポートがあるって言ってたろ? 学生の本分は勉学だ。私がオフのときくらい、そっちを優先させなさい」
暮らし始めた頃に定めた家事分担、ことに食事についての分担はすでになきものと化している。今では大半を実桜に頼っている状態だ。
ヒーローは毎日決まった時間に帰れない、休日もあってないようなもの。大丈夫ですと実桜は笑ってくれているが、やはり負担は大きいだろう。
申し訳なさそうに、実桜ははいと返事をした。こういう遠慮がちなところもかわいいのだが、もう少し甘えてくれてもいいのにと思ってしまう。
「料理を作るのはね、私にとってもいい気分転換になるんだよ。ブイヤベースは下ごしらえをしてさっと煮るだけだから、そんなに大変でもないし」
「なんだか、甘えてばかりで申し訳ないです」
まったくこれだよ、と、心の中で嘆息した。
もっともっと甘えてくれていい。私たちはもう、歴とした恋人同士なのだから……と言いかけて、ふと、思いついた。恋人同士だからこそ、できる言葉遊びがあるではないか。
「なに、食事は私が作るけど、デザートは君に用意してもらうから気にすることはないよ」
「デザート? あ、パティスリーにでも寄ります?」
「いや、さくらんぼがあるから」
きょとんとした顔の実桜に息がかかるくらいに近づいて、そっとささやく。。
「私にとってのデザートは、君だよ。まずはさくらんぼのようなその唇から食べてしまおうね」
三十年ほど前のドラマに出てきそうなセリフだが、意外に効果は抜群だ。耳まで紅くなってうつむく、実桜がかわいい。なかなかにして、いい反応。
「だから一刻も早く、課題を仕上げようね」
「はい」
頬を染めながら実桜は答え、私のあいている方の腕にそっと手を添えた。手を繋ぎたいならもっと積極的に来てもいいのにと先ほどと似たようなことを思いつつ、自分のそれよりもずっと小さな手を握り返した。
わかっている。私はこの子の、こうした遠慮がちなところを好きになったのだ。遠慮がちで、まっすぐで、ちょっと的外れなところもあって、それでも一生懸命、前を向いて生きている。そんなところが。
「マイトさん」
「ん?」
こちらを見上げてくる実桜を、見つめ返した。花が咲くように微笑みながら、実桜がさくらんぼのような口唇を開く。
「大好きです」
「……私もだ」
なんでもないふうを装ってさらりと答えてみたものの、内心は激しく動揺していた。いい年をした中年男が、好きと言われただけでこんなにもときめいてしまっているなんて、きっとおそらく、君は知るまい。
「夕焼けが綺麗ですね」
サフランイエローの空を仰いで、君がささやく。
「まったくだ」
と、私は答える。
秋の冷たい風が吹きつける歩道橋。けれど、二人でいれば心はどこまでもあたたかい。あとどれだけ、実桜と共に歩けるだろうか。
先のことは私にはわからないけれど、終わりのときが来るその日まで、こうして君と共に笑い合っていられたらいい。
晩秋のサフランイエローの空の下で、私は心から、そう思ったのだった。
2020.2.23
夢本「カレイドスコープ」のために書き下ろした話です。発行から四年経つのでこちらに再録します