蓮花色の聖夜

 萎えかけた足を引きずるように、エレベーターのボタンを押した。
 久しぶりに、精根共に尽き果てた。常ならば一息に自宅まで飛んで行くものを、そうするだけの気力もなかった。
 扉が開くと同時に箱の中に身を滑らせて、壁によりかかる。完全に扉が閉まったのを確認し、大きな溜息をついた。

「なんたることだ」

 ぼそりと漏らした、ひとりごと。

 今日は実桜と恋人同士になってから初めて迎えるクリスマスイブ。それなのに、もうすぐ日付が変わりそうだ。
 こんな日に限って、事件が立て続けに起きた。もともと年の瀬は事件が多い。それでも全てを解決し、事務所で背広に着替えているときに、また新たな事件が起きた。

 本来であれば、このあとは予約していたレストランで実桜とクリスマスディナーを楽しむはずの時間。だがしかし、やはり私は平和の象徴。恋人と過ごす時間と事件を天秤にかければ、事件に傾く。目の前の事件を放置して、一人の男に戻ることはできなかった。

 ところが悪いことは重なるもので、一つ事件を片付けたら、また一つ新たな事件に遭遇する。気づいたら、自身の活動時間を軽く超え、こんな時間になっていた。
 まったく、私はヒーローとしてはナンバーワンかもしれないが、恋人としてはワーストだ。我が国では恋人同士が過ごす日と認識されているクリスマスイブに、若くかわいい恋人を放置するなんて。

 はあ、とまた大きく息をついて、キーをかざした。インターホンを鳴らそうかとも思ったが、この時間だ。もしかしたら、実桜はもう休んでいるかもしれない。
 ところが、実桜は起きていた。リビングの扉を開けたとたんにかけられた、出迎えの声。

「おかえりなさい、マイトさん」

 付き合い始めてもう半年近く経つというのに、実桜はいつまでも私をマイトと呼ぶ。いつもは流せるのだが、疲れているせいだろうか、今は、ほんの少しだけ気になった。

「ただいま。ところで君は、いつになったら私を名前で呼んでくれるのかな?」

 詰問調にならないよう、柔らかい声を意識しながらそう告げた。実桜がややすまなさそうに、首をすくめる。

「ごめんなさい……」
「いや、はじめにマイトと呼ぶように言ったのは私だからね。一度癖になってしまうとなかなか抜けない。少しずつでも変えていってくれればいいから」

 ややさみしいが無理強いはすまい。少しずつ、定着させていけばいい。

「それより、今日はすまなかったね」
「いいえ。それだけ事件が多かったんでしょう? お疲れ様でした。先にお風呂にします?」
「ああ、そうだね。熱い湯にざっとつかって、すぐ出るよ」
「お食事は?」

 どう答えるか、やや躊躇した。空腹ではあるが、あまり重たい物は食べたくない。かといって空腹のままでいると、胃袋のない私は低血糖によるダンピング発作を起こしやすくなる。

「チキンのスープがありますよ」
「え?」
「西城岩井に寄ったらいい感じの骨付きの鶏肉があったので、お野菜と一緒に煮込んでスープにしちゃいました」

 西城岩井は、ディナーの予定だったレストランから自宅の間に位置するスーパーだ。ディナーをキャンセルする旨を伝えたとき、実桜は近くのデリでなにか買うといっていたのに。わざわざスーパーに寄ったのか。

「もしかして、私のためにか?」
「帰りが遅くなっても食べられるようにと思って。スープなら温め直せば美味しく食べられるし、食欲がなくても大丈夫かなと」
「……ありがとう。それだけいただくよ」

 たしかに、スープなら食べられそうだ。野菜も肉も充分にとれる。ありがたいことだと心から思った。

「マイトさんがお風呂に入っている間に、スープを温めておきますね」

 うんとうなずいて、浴室へと向かう。
 名前の呼び方などという小さいことを気にしたことを、少しばかり後悔しながら。

***

 実桜の作ってくれた骨付き肉のスープを食べた。疲れた身体と腸に、優しい味のスープはしみる。ケーキもターキーもシャンパンもないけれど、これはこれで温かいクリスマスだ。
 と言っても、それは私の立場になって思うこと。

 若い実桜にしてみれば、つきあって初めて迎えるクリスマスイブがこれでは、不満がつのることだろう。それでも実桜はこうして笑っていてくれる。この子の優しさにどこまでも甘えていると気づかされるのは、こんな時だ。

「メリークリスマス」

 なにもなかったかのように、実桜が細長い箱を差し出した。実桜からのプレゼントはネクタイだった。使いやすそうな、紺地のストライプ。
 慌てて私も、懐から小さな箱を取り出す。
 ラッピングを開けた実桜が、わあ、とちいさく声を上げた。中身はオレンジピンクの宝石がついたネックレスだ。指輪と迷ったが、さすがに時期尚早だと思い直して、こちらにした。

「かわいいです。着けてみてもいいですか?」
「もちろんさ」

 思った通り、主張しすぎないペアシェイプカットのサファイアは、実桜によく似合っていた。

「これ、いい色ですね。ピンクというか、オレンジというか。なんだか、蓮の花の色みたい」
「おや、するどいね。その石の名前は、パパラチアサファイア。パパラチアはシンハラ語で、蓮の花を意味するんだ。きっと現地の人も、その色を見て蓮を連想したんだろうね」
「そうなんですね。蓮の花にはいい思い出があるので、なんだかとても嬉しいです」
「蓮のつぼみの前で気持ちを伝え合った私たちに、ぴったりだろ?」

 ふふ、とやや照れくさそうに実桜が笑う。

 サファイア……コランダムは色によって名前を変える。赤い石はルビーと呼ばれ、それ以外のものはサファイアと名付けられる。その中でパパラチアと呼ばれるのは、ピンクとオレンジの比率が半々のものだけだ。少しでも片方の色味に傾けば、それはピンクあるいはオレンジサファイアとなる。天然のパパラチアが希少価値と言われるゆえんだ。

 ハイブランドの製品も検討したが、実桜の性格上、ブランド物は避けた方がいいと判断した。だからぱっと見ではその価格のわかりにくい、だが見る者が見ればわかる、資産価値のある上質な裸石を選んで、シンプルなネックレスに加工してもらった。

「とてもよく似合うよ」

 ネックレスをつけて微笑む実桜に、口づけを落とす。すると実桜は、そのまま私に体重を預けてきた。
 これはやはり、そういう流れになるのだろうか。追い打ちをかけるように、実桜が続ける。

「今日はこうして眠りたいです」

 君を抱いてから眠りたいのはやまやまだ。だが残念ながら、今夜の私はそこまでの体力を残していない。

「実桜、すまない。今日はちょっと……」

 言いさしたその唇に、そっと優しくあてられた、細く白い指。
 そうじゃなくて、と、実桜は首を振る。

「身体で繋がることよりも、ずっと大事なことがあります」
「大事なこと?」
「こうして一晩、ずっと抱きしめていてください。手をつなぐだけでもいい。今日はあなたのぬくもりを、ずっと感じていたいから」

 うん、とうなずいて、実桜を受け止めている腕にほんの少し、力を込めた。
 そうだ。君はそういう子だったね。
 あの蓮池の前で、過去や未来にとらわれず、私と今を生きたいと言ってくれた、実桜。
 どうしようもなく目の前の実桜が愛しくなって、今度は柔らかい唇に、触れるだけの口づけを落とした。

「それはいいアイディアだ。私も、君のぬくもりをずっと感じていたいよ」

 はい、とうなずいた君の胸元には、蓮の花の色をしたコランダム。
 今日はこうして君を抱きしめるしかできないけれど、このぬくもりに感謝しながら、心からの愛を誓うよ。
 この聖なる夜、君だけに。

2020.2.23

夢本「カレイドスコープ」のために書き下ろした話です。発行から四年経つのでこちらに再録します

月とうさぎ