2話 ダークグレイの空の下で

 濃灰色の薄闇の中、妙な気配がして目が覚めた。
 うっすらと目を開けると、わたしの隣で寝ていたはずのひとが上体を起こし、闇の中を見つめていた。この寒いのに、脂肪のないその肩の上に何も羽織らず。
 薄暗い部屋の中でもよくわかる彫りの深い横顔がことのほか厳しく見えて、わたしは思わず声をかけた。

「……マイトさん?」

 マイトさんはぎくりとしたように体を強張らせ、次にわたしに視線を向けた。先ほどまでの厳しい表情が嘘のような、優しい笑顔で。

「すまない、起こしてしまったかい?」

 頭を優しく撫でられて、わたしもごまかすように笑った。
 なにかあったのだろうか。
 それを尋ねても、たぶんこのひとは教えてくれないだろうけれど。

「マイトさん」
「ん??」
「ぎゅっ……てしてください」
「どうしたんだい? 怖い夢でも見た?」
「……そんなようなものです」

 肉付きの悪い腰にすり寄ると、マイトさんは黙って隣に身体を横たえ、わたしをその長い腕の中に閉じ込めるように抱きしめてくれた。

「手が、こんなに冷たくなってる」

 大きな手を取って頬に当てると、そんなことをしたら君が冷えてしまうよ、と深い低音に諌められた。
 わたしの年上の恋人は、秘密主義だけれど、とても優しい。

「いい子でおやすみ」

 額に落とされた乾いた唇。
 それはいつものように優しいキスだったが、なにかをごまかされたようなそんな気がして、わたしは少し切なくなった。

***

 空は曇天。鉛のようにどんよりと広がる鈍色の雲からは、今にも白い結晶が落ちてきそうだ。
 昨日買い忘れたマイトさんへのプレゼントを買って店から出ると、攻撃的な冷気が頬を刺してきた。店内でははずしていたマフラーをぐるぐると巻き直し、わたしは円形ステージの方向に目を向けた。
 そこに、見覚えのある長身が立っていたからだ。
 相手もわたしの姿をとらえたのだろう。
 ご主人様を見つけた大型犬のような勢いで、こちらに向かって駆けてきた。

 これは逃げても無駄だろうなと、うんざりしながらため息をつく。
 ヒーローは動きが素早く判断も早い。一般人のわたしが彼――ビオラ――から逃げ切れるとも思えなかった。

「やあ、偶然だね」
「……コンニチハ……」

 とても偶然とは思えない。
 だって、昨日と同じような時間帯、同じ円形ステージの前だ。

「今日は寒いねー」

 そう言って笑った青年の手には、缶コーヒーが握られている。が、開口部は閉じたままだ。
 どうして飲まずに持ったままにしているのだろうと思い、気がついた。
 青年の缶コーヒーを握る手も、鼻も真っ赤で、唇だけが青白い。この缶コーヒーは、おそらくカイロの代わりだ。

 もしかして、このひとはわたしに会えるまで、ずっとここで待っていたのだろうか。この寒い中を。

 そんなに母について話したいのかとありがたく思う気持ちが五分の一ほど、気味が悪いと思う気持ちが残りの五分の四ほど。

「何の用ですか。暇なんですか」
「暇じゃないよ、今日はこの近くで早朝から警備の仕事があったんだ。でもここに来れば君と会えるかと期待したのは事実だけど」
「ストーカーみたいな真似、やめてください」
「うーん。その言い方は心外だな。だってそうだろ? 俺はヒーローだ。任務で尾行にあたることもある。だからね、俺がその気になったら君に気づかれないようにあとをつけて、住んでいるところを断定するくらい訳はないんだよ」

 さらりと言われてぞっとした。
 しかも昨日は僕だった一人称が、今日は俺になっている。
 まずいことになったなと内心思った。

「ああ、怖がらないで。そんなことはしないよ。第一、そんなことしたらヒーロー資格を剥奪されちゃう」

 若いヒーローは続ける。

「ね、どこかカフェにでも入って、バイオレットについて話さないか」
「……わたし、つきあってるひとがいるんですよ?」
「だから?」
「彼以外の男の人とお茶を飲んだりするのは、よくないことだと思います」
「彼氏にそう言われてるのかい? ずいぶん小さい男だね」
「違います! わたしがそう思っているだけです!」
「じゃあさ、お茶は飲まなくていいから、ちょっと話をさせてよ。そこのベンチでもいいから」

 くいと親指をたてて、ビオラは円形ステージの方向を指した。
 真っ白な歯をのぞかせるその笑顔は爽やかで、清涼飲料水のコマーシャルに出てくる若手の俳優のようだ。
 このひとは見た目がいいのだから、こんなストーカーみたいな真似をしなくても、女性には不自由しないだろうに。

「……あなたはどうしてそんなにわたしと話がしたいんですか?」
「バイオレットを知っている女の子に会ったのは初めてなんだよね、しかも君はバイオレットにそっくりだ。これを運命と呼ばずしてなんて呼べばいい?」
「……運命でもなんでもないと思いますけど。あなたはどうしてそんなにバイオレットが好きなんですか?」
「昔、助けてもらったんだよ」

 先ほどまでのおどけた調子とは違う声で、ビオラは言った。

「バイオレットがいなかったら、俺はきっと……真っ当な人生を歩むことはできなかった」

 ああ……そういうことだったのか……それなら少し納得がいく気がした。

「そうだったんですか。バイオレットとわたしが似ているのは当然です」
「えっ?」
「バイオレットは、わたしの母です」

 バイオレットの娘であることを明かすのは危険だと昨日は思ったが、相手がヒーローであるのなら話は別だ。
 しかもこの青年は、ミッドナイトこと睡さんの事務所の後輩。面倒なことになったら、申し訳ないが睡さんの名を出させてもらおう。
 バイオレットの娘であれば、ミッドナイトと知り合いであると告げても信憑性があるだろう。
 マイトさんや睡さんに直接相談すればすぐに解決するだろう問題ではあるが、自分のことで多忙なあの人たちをわずらわせるのは嫌だった。

 しかし予想に反して、ビオラはミッドナイトの名を出す前に顔色を変えた。その表情が暗く陰っている。まるで今日の空のように。

「君は……バイオレットが……君のおかあさんがどうして命を落としたか知っているかい?」
「仕事上の事故……犯人との接触による殉職だと聞いています」
「詳細は?」
「詳しいことは聞かされていません」
「……そうか…………しつこくしてごめん。気持ちが悪かっただろ?」
「……ええ……まあ。ちょっとだけ……」
「今日はこれで失礼するよ。本当に……待ち伏せなんかして悪かった」

 どうしたんだろう、バイオレットの娘であると言っただけでそんな顔をするなんて。
 今までの彼のテンションであれば、もっとはしゃぐだろうと思っていたのに。
 それじゃ、と背を向けて去って行くビオラの後姿を見つめるわたしの心の中に、大きな鈍色の雲が生まれた。

***

 家についてすぐ、わたしはパソコンを起動した。
 今はなんでもネットで調べられる時代だ。過去に一度、母の死について調べたことがある。
 その時は「誘拐事件の犯人と戦っての名誉ある死」という簡単なものと、難しい漢字と難解な用語が羅列された専門文書しか出てこなかった。

 けれど今のわたしは小学生ではない。記事を読めば、当時よりもっと詳しい事実を読み取れる。

 「バイオレット」「ビオラ」の両名で検索をかけると、ひとつの事件に関する記事がいくつか出てきた。
 やっぱりと思いながら、記事をいくつか読みあさる。
 そこには簡潔であるが無味乾燥な文章が淡々とつづられていた。


『当時、JR環状線沿線の内側にて、子供が行方不明になる事件が多発していた。
 被害者は優秀な個性をもった子供ばかりであった。
 ひとりの遺体も発見されず身代金の要求もなかったため、当初は失踪事件として捜査されていたが、のちに組織だった誘拐事件であったことがあきらかになる。

 誘拐組織そのものはオールマイトをはじめとするヒーローたちの活躍によって壊滅したが、そのきっかけになったのが、この誘拐未遂事件である。

 事件が起きたのは、夏の夕方。
 現場は治安のよくない地域の裏通りの一角であった。

 実行犯のA(事件当時三十歳)B(当時二十六歳)C(当時二十五歳)により拘束されていた少年D(当時九歳)を、偶然通りかかった職業ヒーローのバイオレット(本名粉月すみれ・当時二十八歳)が発見したのがことのはじまりだった。
 少年Dは優れた動体視力の持ち主であり、強力な電気系の個性を有していた。一連の失踪事件の被害者と同じ、優秀な個性の持ち主である。

 バイオレットは当日オフでありコスチュームを着用していない状態ではあったが、ヒーローとしての責務を全うし、Dを救出しようと試みる。
 だが三対一、バイオレットにとっては不利な戦闘であった。B、Cを続けて制圧したものの、Aによってバイオレットは致命傷を負い死亡する。
 バイオレットからの応援要請を受け現場にいち早く到着したオールマイトにより、実行犯は拘束された。オールマイトが到着したその時にはすでに現場は血の海と化し、バイオレットは虫の息であったという。

 ※この事件の少年Dが、現在人気急上昇中の若手ヒーロー、ビオラである。「ビオラ」は楽器のビオラではなく、すみれの一種である「ビオラ」を意味するらしい。命の恩人であるバイオレットをリスペクトしてつけた名前であると、ビオラ本人が公言している※』


「……そういうことだったの……」

 わたしは、パソコンの前で大きな溜息をついた。以前調べた時には、ここまでの情報は掲載されていなかった。
 バイオレットは有名ヒーローではなかったし、職業ヒーローの殉職はそう珍しいことではない。
 それが今になってここまで詳しい記事になっているのは、彼――ビオラ――の存在によるものだろう。
 自分のために命がけで戦い殉職したヒーローを尊敬し続け、自らもまた同じ職業についた、容姿に恵まれた若者。
 そんな美味しい話題を、マスコミが放っておくわけがない。特番を組まれてもおかしくないくらいだ。
 この話題が一部のマニアしか見ないであろうネットだけの記事にとどまり、目につきやすいメディアに登場しないのは、それを阻止した人間がいるからだろう。
 マスコミ各社に強い影響力を持つであろうその人物が誰なのか、なんとなく想像がついていた。

 母の死をお涙ちょうだいの美談にしたくなかったのか、この記事をわたしの目に触れさせたくなかったのか、母が助けた若者がマスコミに利用されるのを見たくなかったのか、そのどれかはわからない。
 彼……オールマイトの性格を思えば、そのすべてであるような気もする。

 だからマイトさんは、ビオラの名を聞いた時、あんなに難しい顔をしたのだろう。

「ママの最期は……どんなだったんだろ……」

 こんな記事なんかではなく、そばにいた人間からきちんと話を聞きたいと思った。
 けれど、こればかりはマイトさんにたずねることはできない。

 愛した女性が目の前で死んでいったときのマイトさんは、どんな気持ちだったのだろう。自分に厳しいあのひとは、どれだけ自分を責めただろう。「間に合わなかった」そのことを。
 マイトさんは、今でも自分を責め続けているのだろうか。
 だから昨夜も、あんなに厳しい顔をして闇の中を見つめていたのだろうか。

 ああ、いやだ。今は母のことを考えたいのに、
 大好きだった母なのに、マイトさんが間に入るとわたしの気持ちは鈍色になる。
 黒とまでは言わない。けれど暗い、どこまでも暗い灰色だ。まるで今日の空のように。

 『女は相手の過去にまで嫉妬する』
 そんなフレーズの小説を、少し前に読んだ。その通りだ。わたしはいなくなった人に嫉妬している。
 女はどこまで、恋に貪欲なのだろう。

 わたしは軽く頭を振った。いずれにせよ、今したいのは、すべきなのは、嫉妬ではないのだ。

 昨日むりやりに渡された小さな紙の存在を思いだし、クローゼットを開けた。
 コートのポケットをごそごそとまさぐり、くちゃくちゃになった名刺を取り出す。指先でそれを丁寧に伸ばして、裏に書かれた連絡先を確かめた。

「アドレスじゃなくて電話番号か……」

 ため息交じりに独りごちて、震える指で書かれた数字と通話ボタンをプッシュする。
 この時、どこかから、ぴしりという音が聞こえた気がした。
 それは薄い氷が割れたときのような、ガラスにひびが入ったときのような……なにかに亀裂が入るときの音に、とてもよく似ていた。

2016.1.22
月とうさぎ