3話 バーミリオンの路地裏

 六本木にある小さな日本庭園に面したレストランのテラス席で、そのひとを待っていた。

 あの日、ビオラは一発で電話に出てくれた。
 「母が亡くなった時の件についてお聞きしたいのですが」と告げると、静かな声で「わかりました」と、彼はそう答えた。
 仕事の関係上、日中に会えるのは一週間後になると言われた。ちょうどその日――つまりは今日――は大学も早く終わるため、わたしにとっても都合がよかった。

「どこで待ち合わせたらいいでしょう?」

 ビオラの所属事務所は都庁のすぐそばにある。都庁で待ち合わせても良かったが職場の目の前で待ち合わせるのも嫌かもしれないと、わたしは西口改札のそばにある高級チョコレート店の名前を挙げた。
 都庁前まではここから地下鉄で一本だ。こちらからの呼び出しであったため、わたしは当然そちらに出向くつもりでいた。

「いや、君の家のそばにしよう。六本木駅から近いんだよね?」
「はい」

 駅歩五分のツインタワーに住んでいるのだが、それはもちろん口にはしない。待ち合わせを駅の反対側にある複合施設にするかどうか、ほんの一瞬迷ったが、わたしは家から近いカジュアルなレストランの名前を告げた。

 この寒いのにテラス席を選んだ理由は、庭園に面したレストランはすぐにわかるし、オープンになっているぶん罪の意識が薄れる、そんなところだろうか。
 実際のところ、わたしはビオラという容姿の優れた青年には何のときめきも覚えていない。が、マイトさんに隠れて母の最期を知ろうとしている。それがとても後ろめたい。

「待たせてゴメン」
「いいえ、わたしのほうこそ、呼びだしてしまってごめんなさい」

 ビオラはエスプレッソを頼み、わたしはアールグレイを注文した。
 互いのオーダーを通した後、妙な沈黙が場を支配した。ビオラからは先日会った時のような明るさがまったく感じられなかった。

「綺麗な髪の色ですね」

 重苦しい雰囲気を払拭したくて、わたしは本題とはまったく違う言葉を口にした。
 ビオラも少しほっとしたのだろう。強張っていた表情をやや緩ませて、落ち着いた声で答えた。

「ありがとう。これね、染めてるんだよ。本当は銀色なんだ」
「銀色の髪も素敵ですよ?」
「ヒーローになれたら、あのひとと同じ色に染めようと昔から決めてた」

 わたしは返す言葉を失ってしまった。あのひとというのはきっと母のことだろう。
 このひとは母を尊敬しているというよりも、その死に責任を感じている……そんな気がした。
 だとしたら、わたしはものすごく残酷なことをしているのではないだろうか。

 やがて互いの飲み物が運ばれてきた。
 ウエイターが去って、一呼吸、いや、二呼吸ほど置いてからだろうか、ビオラが口を開いた。

「俺……君に謝らなくちゃいけない……あの事件のことについて」
「その必要はないです。謝ってもらいたくてあなたをここに呼んだわけじゃありませんから」
「え?」
「あの日帰ってから、あなたと母について調べました。ネットでもけっこういろいろ調べられるものですね」
「……ごめん。ショックだっただろう?」
「うーん……母が命を賭して救った少年がヒーローになったと思うと……少し感慨深いものがありますね」
「……粉月さん」
「でも、母を殺したのはヴィランであってあなたじゃない、あなたが責任を感じるようなことはないんです」

 そうだ、母の死はこのひとのせいではない。
 母が亡くなった当時にこのことを知っていたら、彼を恨んでいたかもしれない。
 けれど真実を知ったのは、つい最近だ。
 今さらビオラを恨んだところでどうなるものでもないし、そうすることは母の行動を侮辱することにもつながる。
 母はきっと、ビオラを救ったことを後悔などしなかったに違いない。
 今のわたしは知っている。ヒーローと呼ばれる人たちが、どれほどの覚悟をもって活動にあたっているかを。

 ビオラの顔が大きく歪んだ。

「ちょ……ビオラさん? 大丈夫ですか?」

 わたしは驚いて思わず声をあげた。男の人のこんな表情は、ついぞ見たことがなかったからだ。
 大きな右手で顔を覆って、ビオラはごまかすように上を向いた。

「ごめん、どうしたんだろ、俺。カッコ悪っ」

 悪いことをした。

 自分を庇って死んだひとがいる。
 子供の頃のその体験が、トラウマにならないはずがない。
 『命がけで自分を守った人がいる、だから自分は立派なひとにならなければいけない』
 彼はずっと、そんなふうに思って生きてきたのではないだろうか。

「ごめん、驚かせたね」
「いいえ」

 ビオラが顔を覆っていた手をおろし、デミタスカップを手に取った。

「君が知りたいのはあの日に何があったか、ということかな」
「ええ……そうです。でもビオラさんが思い出したくないのなら、わたし―」
「いや、大丈夫だよ」

 エスプレッソを一口のんでから、ビオラは静かに語り始めた。
 それはひどく蒸し暑い、夏の日のできごとだったという。

 学校のプールに行った帰りに、ビオラは三人組の男たちによって拉致された。
 薬剤を嗅がされ気を失ったところを、防電シートで作られた大きな袋の中に入れられたそうだ。
 意識が戻った時はもう袋の口はぎっちりと縛られていて、中からではどうしようもなかったらしい。
 だめかと諦めかけた時、争うような声と振動がおき、袋の口が開けられたという。

「それが、君のおかあさん。蝶の羽を広げて敵と対峙したバイオレットの姿は、神話に出てくる戦女神みたいだった」

 母に致命傷を与えたのは、風の個性を持ったヴィランだったそうだ。
 バイオレットは毒の個性を持った異形系。蝶の羽をはばたかせ、毒を含んだ鱗粉をまき散らすのが戦闘スタイル。風の個性との相性は最悪だ。
 母はそれでも逃げなかった。最後まで一歩も引かずに勇敢に戦ったとビオラは語った。

「夏の夕日が路地裏をバーミリオンに染める中、毅然として立つヒーローの姿を、俺は生涯忘れない」

 ビオラは、母がどのような攻撃を受けたかは語らなかった。わたしもそこはたずねなかった。

 わたしは母の遺体の全身を見せてもらっていない。首から上だけを見せてもらった状態で、お別れをした。
 首にはぎっちりと白い布が巻かれていたが、顔には殆ど傷もなく、まるで眠っているようだったことを覚えている。うっすらと微笑んでいたその顔は、今にも「実桜」と語りかけてくれそうなほど、綺麗だった。

「そうですか」
「今でも思うよ……あの時の俺がもう少し強くてもう少し勇気があったら、バイオレットは死なずに済んだかもしれないって。俺が……」
「そんなことを思ってはだめです。母はあなたに後悔させるためにヴィランと戦ったのではありません。あなたを救うことができたことが、きっと母の誇りですし、わたしもそんな母を誇らしく思います」

 端正なはずのビオラの顔が、ふたたび歪んだ。

 ああ、このひともだ。このひともマイトさんと同じように、バイオレット……粉月すみれに囚われている。
 母が死んだことで、このひとは今でもこんなに苦しんでいる。

 ごまかすように下を向き、いったん大きく息をついて、ビオラは続ける。

「オールマイトにも似たようなことを言われたな」
「えっ?」
「『君が自分を責めてはいけない。バイオレットはヒーローとしての責務を全うしたんだ。私はそんな彼女を誇りに思うよ。だから君がどうしてもバイオレットにすまないと思うのなら、彼女の分まで幸せに生きるんだ。君が幸せになることが、バイオレットにとって何よりの供養なんだよ』って」

 はー、とビオラはまた大きく息をついた。

「俺ね……君がバイオレットの娘だって知るまで、オールマイトはバイオレットの恋人だったんじゃないかと思ってたんだ……」
「え?」

 現場に到着したオールマイトは、バイオレットを「すみれ」と呼んだとビオラは言った。
 そしてあっという間にヴィランを拘束し、血まみれのバイオレットを抱き上げたオールマイトがほんの一瞬だけみせた表情。
 子供だった当時のビオラから見ても、ふたりの関係はただの事務所の上司と部下ではないようだったと。

「笑っていないオールマイトを見たのは、後にも先にもあの時だけだ……懇意にさせてもらっているわけじゃないから、プライベートではどうか知らないけれど……」

 わたしは紅茶のカップに手を伸ばした。お茶はすっかり冷めてしまっていた。
 白いカップにお茶の赤い色が映えて綺麗だなと、ぼんやり思った。
 考えたくないことにぶつかると、どうでもいいことに思考をめぐらせ逃げようとする、それがわたしの悪い癖。

 それでも今回は、どうごまかそうとも逃げられないような気がした。
 母は、マイトさんの腕の中で逝ったのだ。
 愛する女が自らの腕の中で冷たくなっていく、その時のマイトさんはどんな気持ちだったのだろう。

「あの時はオールマイトの大きな身体が、とても小さく見えたよ」
「そうですか……」

 わたしは、母とマイトさんの関係については言及しなかった。
 ダウンジャケットを着ているにも関わらず、体がしんと冷えていく。それはこの話題で心が冷えたせいかもしれなかった。
 あんなに知りたかったはずなのに、知りたくなかった。
 わたしはどこまでも矛盾している。

「だからね、バイオレットが結婚してたのも、俺と同じくらいの年齢のお子さんがいたのも知らなかったんだ。……それに亡くなった時、バイオレットはまだ二十代だったろ?」
「母は、二十歳そこそこでわたしを産んだそうです」 

 母はプライベートを公表してはいなかった。たったひとりの家族であるわたしに危険が及ばないよう、配慮したのだ。

 わたしが施設で育ったことは黙っていよう、と思った。それを知ったらこのひとは、もっと責任を感じてしまうだろうから。

「ありがとうございました。ヒーローとしての母を知ることができて、とても嬉しかったです」
「……また会ってもらえないかな」
「前も言いましたが、わたし、付き合っている人がいるんです」
「バイオレットの話を聞けるだけでいいんだ。今日はヒーローとしてのバイオレットの話をしたけど、次は君が家でのバイオレット……すみれさんの話をしてくれないかな」

 このひとが見ているのはわたしではない。わたしと違う紫色の髪をした、わたしとよく似た顔立ちをしたヒーローだ。

 ビオラ。
 特出した個性を持ち、一流校である雄英を出て、大手事務所に所属し、華々しくデビューした期待の新鋭。
 均整のとれた体つきと整った顔立ち、明るく屈託のない性格も相まって、若い女性から支持を得始めている。新時代を担う英雄候補のひとりと言われる。

 同世代の男性がこぞってうらやましがるに違いないこのひとは、目には見えないすみれの檻の囚われ人だ。
 銀色の髪をわざわざ紫色に染め、鎮魂のために生きる、悲しいヒーロー。

 このひとの心から、バーミリオンに染まる路地裏が消えることはおそらくないのだ。
 それはどれほど、重い十字架なのだろう。

「あの……」

 返事をしようと口を開いたわたしは、そのまま言葉を飲み込んだ。池の方から見慣れた長身が歩いてくるのが見えたからだ。
 ひょろりと伸びた長身痩躯と、太陽の日差しを受けて輝く金色の髪。
 黒の革のトレンチコートを着て、わたしが贈ったストールをさらりと首元に巻いている。

 どうしようかと思ったが、わたしとビオラの関係そのものには、さしてやましいことはない。
 声をかけようと決めたその瞬間、マイトさんが不意にこちらのほうを見た。
 長い脚が歩を止めた。ほんの短い時間だけ。その間、五秒ほどだっただろうか。
 いや、もしかしたらもう少し短かったかもしれない。
 そしてマイトさんは何事もなかったかのように、また歩き出した。まっすぐこちらに向かっていた足を、別方向のミュージアムに向けて。

 どうして?

 気づかなかったはずはない。マイトさんの視力はいいはずだ。
 ビオラとわたしのことを誤解したのだろうか。
 そう思った瞬間、わたしは行動を起こしていた。テラス席と庭園の間を遮るものは何もない。

 長身痩躯に向かって駆けだしたわたしを、暮れはじめたオレンジ色の太陽が穏やかに照らし出していた。

2016.1.25

【注】夢主母の死に際は原作8巻の「(オールマイトが)現場に来て救えなかった人間は一人もいない」との部分に反するようですが、本作の場合、オールマイトが到着した時点で彼女はすでに致命傷を負い、虫の息でした。
ですので、この場合はオールマイトは対象者を「救けられなかった」のではなく「到着が間に合わなかった」と解釈していただけると助かります。

短編の「黎明」は夢主母のお話です

月とうさぎ