「マイトさん!」
一月の寒空の下で、わたしはその名を叫んだ。人目を引く長身がその場にぴたりと立ちどまり、ゆっくりと振り返った。常のように笑顔のままで。
「ああ、実桜。どうしたの?」
気がつかなかったふうでマイトさんは笑っている。ずるい、ぜったい気づいていたくせに。
「マイトさん……この間話したひとと、ママの話をしていたんです」
「そうか。で、私はどうしたらいいんだい? この姿ではオールマイトとして挨拶することはできないよ。ホラ、彼が君を追って来た」
らしくない言い方だなと思った。言葉の端に棘がある。
わたしの友人と会った時、マイトさんがオールマイトとして挨拶したことなど、ただの一度もない。それなのに。
「粉月さん、そのひと知り合い?」
追ってきたビオラを青い瞳が一瞥し、次に大きな手がわたしの頭をくしゃりと撫でた。
「ここで話すのもなんだから、いったんテーブルに戻ろうか。お店の人が飲み逃げの心配をして、こちらを食い入るように見ているよ」
「「あっ……」」
マイトさんに諭されて、わたしたちは席へと戻った。
「はじめまして。お父さんですか? 僕、新米ですがヒーローをしております。ビオラといいます」
「おと……」
ビオラが、マイトさんに深々とお辞儀をした。
お父さんはないでしょう、と思ったが、よく考えたらマイトさんは母よりもずっと年上だ。今までそれを意識したことはなかったが、知らない人からは親子のように見えるのかもしれない。
気を悪くしなかっただろうかと様子をうかがうと、マイトさんは曖昧に笑っていた。
「その……僕はかつて……すみれさんに……」
言いにくそうにしながら謝罪しようとしたビオラを、マイトさんが遮った。
「謝罪の必要はありません。君のことは存じ上げていますよ。将来を期待されているヒーローだ。すみれもきっと、今の君を誇らしく思っているはずです」
「……ありがとうございます……」
手足はぴりりと冷えているのに、頭の奥が沸騰しそうに熱かった。
冷めてしまった紅茶は身体を冷やしていくはずなのに、日が落ちかけたテラス席は充分寒いはずなのに、ちっとも寒さを感じない。
本当の父親みたいに話すマイトさんに、わたしはいらだっていた。
まるで母の……バイオレットの配偶者であるかのような言い方。わたしの恋人ではないみたいな言葉。
父親なんかじゃないと、どうして否定してくれないのだろう。
だから、口を開いた。
「お父さんなんかじゃありません。マイトさんは……さっき話した、わたしの彼です」
「え?……このひとが彼氏?」
「それだけじゃなくて、一緒に暮らしてます」
「同棲? え? このひとと? 君が?」
「おかしいですか?」
「……いや……ずいぶん年が離れている上に、バイオレットのことをすみれなんて呼ぶものだから……」
「ああ、それはね、私が昔、すみれとつき合っていたからだよ」
割り込んできたのはマイトさん。落ち着いた低い声での静かな物言いに、わたしは涙をこぼしそうになった。
なにも今、このタイミングでそれを言わなくてもいいではないか。
と、ビオラが激しい音を立てて席を立った。
周りの視線が、一斉にこちらに注がれる。
「あんた……昔の女の娘に手を出したのか!!」
吐き捨てるような言い方だった。
マイトさんは涼しい顔で笑んでいたが、見ようによっては、若者を挑発しているような表情にもとれる。
「君のお父さんは反対しなかったのか? こんなに年の離れた相手と……」
わたしのほうに向き直ってビオラが言った。信じられないといった顔をしながら。
それにわたしが応える前に、マイトさんがまた静かに割って入る。
「すみれと実桜は、母一人子一人だったからね。父親はいないよ。だから、実桜の生活の金銭的な部分は、私がすべて請け負っている。問題はあるかな?」
「あんた、まさか……金銭援助と引き換えにこの子を……」
「やめてください!」
わたしはますますいらだっていた。
「二人ともそんな言い方しないでください。これ以上いても話にならなさそうなので、わたし帰ります!」
わたしは自分の分の会計をテーブルに叩きつけて、席を立った。
***
庭園の池を通り越したあたりで、マイトさんに捕まった。
「あんな態度をとったら、彼に失礼だよ」
冷静な声。
だが、わたしはそれを無視した。
わたしはとても怒っていた。同時に、とても悲しかった。
わかっている。
怒る権利があるのは、本当はわたしではなく、マイトさんのほうだということも。
今日のわたしの行動は、マイトさんが激昂してもおかしくないものだった。
理由はどうあれ、他の男の人とふたりでいるところを見られてしまったのだから。
これが逆の立場だったら、わたしもやっぱり気づかぬふりをして引きかえし、家でめそめそ泣いていたことだろう。
それでもやっぱり、「恋人だ」とはっきり言ってほしかったのだ。あんな言葉は聞きたくなかった。
マイトさんはなぜか、まっすぐ家には向かわず、遠回りをしているようだった。わたしも、無言でそれについていく。
庭園を過ぎ円形ステージの前を抜け、高級ブランドの店舗が並ぶ通りを二人で歩いた。
イルミネーションの灯りがつくのは、五時からだ。もう少ししたら、街はきらびやかな色の光に包まれる。
けれどその輝きが映えるのは、夜の闇があってこそだ。
ほの暗い闇のなかに浮かび上がるからこそ、イルミネーションは美しい。
ああ、また、わたしはどうでもいいことを考えている。
本当に考えなければいけないのは、こんなことではないのに。
***
冷たい空気の中をただただ歩いていたからだろうか。少しずつ、高ぶっていた感情がおさまってきた。
良くなかったのはやっぱりわたしだ。マイトさんにも悪いことをしたし、確かにビオラにも失礼だった。
「マイトさん?」
「俊典だよ」
抑制された声で、マイトさんが答えた。
わたしの背を、冷たい汗が伝っていく。
いつものマイトさんなら、こんなことは言わない。
マイトと呼んでも、普通に返事をしてくれる。ほんのときたま、物言いたげに目を細めることはあったとしても。
彼がその名を呼んで欲しがっているのを、わたしは知っている。
拗れかけている今だからこそ、その名を呼ばなくてはいけないのもわかっている。
けれどわたしはもう、その名を呼ばない。呼んではいけない。
心の中で、ごめんなさいと、マイトさんに謝罪した。
「あのね、さっきの続きだけど、ビオラさんとはママが亡くなった時の話をしていたの」
「……だろうな」
大きく息を吐いて、マイトさんが浮かない顔をした。このひとは自分が痛くても笑っているくせに、ひとの心が痛むことを、とても案じる。
「ショックだったろ?」
「あの……わたし、ある程度は知ってましたよ。ママとビオラさんの事件のこと……」
「え?」
「だからどうしても気になって、本人から話を聞きたかったんです」
「……どこでそれを?」
「インターネットで検索しました。ネットは偽情報も多いですが、過去にヴィランが起こした事件なんかは、けっこう忠実に記載されていますよね」
そっちか、と、マイトさんは唸りながら空を仰いだ。
ああ、やっぱり、と心の中で息をつく。
マスメディアでの記事の拡散を防いでいたのは、やはりこのひとであったのだ。
「……マイトさん」
「ん?」
「マイトさんは、ママの最期を看取ったんですね」
「……ああ……そうだね」
「ビオラさんから聞きました。ママはオールマイトの腕の中で息を引き取ったって……」
マイトさんはなにも言わなかった。
一月の風は冷たい。
先ほどまであんなに顔や頭の奥が熱かったのに、今はしんと冷えていた。
「ごめんなさい……変なことを言いました」
「……いや……」
マイトさんは良くも悪くも大人だ。余計なことを言わない優しさ、余計なことを知らせない優しさ。このひとは、優しいけれども、いろんな意味で、少しずるい。
――ねえ、あなたは傷心と虚無だったら、どっちを選ぶの?――
この言葉はこの街に来てすぐの頃、ホームシアターでマイトさんと一緒に観た、とても古いフランス映画の一説だ。
わたしには、最後まであの映画の良さはわからなかった。けれど若い女が男に問うたこの言葉だけは、深く印象に残っている。
映画のあと、同じようにどちらを選ぶかと、わたしはマイトさんにたずねた。あの時もマイトさんは答えずに、君は?と逆に返された。
わたしは、即座に「傷心」と答えた。何もなくなるなんて、嫌だもの。
その時の言葉通り、知らない事より知ることを選んだわたしは、今、少し傷ついている。
「今日の夕飯、何にしようか」
唐突にマイトさんが言った。
「え?」
「最近、食事当番がめちゃめちゃになっているだろう? たまには私が作ろうかと思ってさ」
「え……でも……マイトさんはいつも忙しいんだから、今日みたいに早く帰れた日は休んでいてください。ご飯はわたしが作りますから」
「君、来週の月曜から定期試験だろ?」
「え?」
「ホワイトボードに書いてあったよ」
急激に顔が熱くなるのを感じた。熱くなったりしんと冷えたり、今日はとても忙しい。
トップヒーローであるマイトさんは、とても多忙だ。
すれ違いも多いため、一緒に暮らし始めた時から、互いの予定をホワイトボードに書き込むことにしている。
わたしの予定も申しわけ程度に書いてはいるものの、マイトさんがそれを気にしてくれているとは思わなかった。
こんな小さなことがこんなにも嬉しいのだから、本当にもう、どうしようもないのだ。
年齢差も世間の目も、この気持ちの前ではなんの障害にもならない。少なくとも、わたしのほうは。
「最近は君ばかりに家事をさせているからね。試験前くらいは私に作らせてくれないか。私の料理で食べたいものはあるかい?」
「……わたし……マイトさんの作るブイヤベースが大好きです。でも本当に疲れてませんか?」
「実桜は気づいてないだろ」
「え?」
「君の笑顔には、すごい破壊力があるんだ。見ているだけで元気になれちゃうんだよね。破壊されたのに元気になるっていうのも、ちょっとおかしな表現だけど」
だから大丈夫だよと、マイトさんが優しい目で言った。
ああ、良かった。いつものマイトさんに戻ってる。
そうほっとしたところを、不意に手を取られて、甲に唇を落とされた。
マイトさんは時々、こうしてわたしのことを翻弄するから本当にずるい。大人の手管というやつだ。マイトさんはわたしを有頂天ににさせるのが、とてもうまい。
こういうことを自然にするのって、同世代の男の子にはきっとできない。
「じゃあ食材を買って帰ろうか。オマール海老が売っているといいんだが。実桜、魚介類の買い置きはある?」
「鱈とホタテがあったはずです」
「いいね、それもぶち込もう」
「楽しみです」
肉づきの悪い身体にそっとすり寄ると、甘えんぼだねとまた微笑まれた。
マイトさんの瞳の色は、晴れ渡った空の色。
黄金色の髪の向こうでは、落ちゆく太陽が空をオレンジ色に染めている。夕焼けのあと訪れるのは、トワイライトの濃紺だ。
濃くて深いその紺は、やがて夜の闇色へと変わっていく。
ひた、ひた、ひた、と、足音を立て、夜の闇がやって来る。
だからあの陽が落ちる前に、家に帰ろう。
空が薄暗いトワイライトブルーに染まる、その前に。
2016.1.28