5話 ホワイトアウト

 ビオラから連絡が来たのは、彼とオープンカフェで会ってから、三日のちのことだった。
 一度こちらから電話をしてしまった時に、番号を登録されてしまったらしい。これはわたしがうかつだった。

 自分から呼び出しておいて勝手に席を立った負い目から、ビオラの誘いを無下に断ることができず、わたしは彼と会ってしまった。
 テストが終わった翌日に。駅の反対側にある、シアトルスタイルのカフェで。

「ねえ、この間のひとのことだけど」

 ひとしきり母の話をした後、ビオラが急に話題を変えた。

「マイトさんの悪口なら聞きません」
「結果的には、悪口になってしまうかもしれない。でも一度だけ言わせて、そして君も少し考えて欲しい」
「言っておきますけど、わたし、金銭援助と引き換えにマイトさんとつき合ってるわけじゃありませんから」

 わたしは先日この青年に指摘されて初めて、親子ほどの年齢差のあるカップルを世間がどう見るのか、ということに深く思い至った。
 そこで知ったのは、想像以上に世間の目は厳しいということだった。わたしたちのように、金銭や生活の援助が絡んだ場合はなおさらに。
 それがとても悲しく、そしてとても悔しかった。

 知らないくせに。
 マイトさんがどれほど素敵で優しいのかも知らないくせに。
 わたしがどれだけ泣いたのかも知らないくせに。
 それでも他人は、好き勝手にいろいろなことを想像する。

「ごめん、あれは俺も言い過ぎた。でもあの人は昔、バイオレットと付き合っていたんだよね」
「そう聞いています」
「あの人が、君にバイオレットの面影を重ねていないって言いきれるのかい?」

 痛いところを突かれた。それは、わたしが最も気にしていたことでもあった。
 わたしと母は、よく似ていると言われる。
 そして実際に、マイトさんは一度だけ寝ぼけて母の名を呼んだ。わたしとマイトさんが、今のような仲になる寸前の出来事だ。
 あの一件がきっかけでマイトさんの恋人になれたのだけれど、わたしはまだあの時のことを引きずっていた。

 マイトさんが好きなのは「わたし」であるのか、それとも「母に似ているわたし」であるのか。
 あの青い瞳はわたしを通して、母を見つめているのではないのか。
 そう疑心暗鬼に陥ることがある。
 それでもマイトさんはわたしに愛をささやいてくれる……だからそれでいいのだと、マイトさんを信じるのだと、自分にそう言い聞かせてきた。

「ゴメン、傷つけたね」
「ええ。本当に」

 わたしは否定しなかった。
 それでもビオラは、まっすぐわたしを見つめてこう言った。

「もし君に少しでも不安があるのなら、やはり考えてみたほうがいい」
「大きなお世話ですが、お気づかいありがとうございます」
「棘だらけの返事だね」

 それでもビオラは笑っている。どれだけ冷たくあしらおうともこのひとはめげない。
 マイトさんもそうだけど、ヒーローってどうしてこんなにメンタルが強いんだろう。

「ま、おせっかいはここまでにしとくよ。でさ、今の話とは全く別の提案をしたいんだけど、いいかな?」
「なんですか?」
「また会ってくれないか?」
「……母の話は、もう充分かと思いますけど」
「君さ、たぶん、同世代の男友達っていないだろ」
「そんなもの、必要ないと思います」
「それじゃだめだよ。他にも少し目を向けたほうがいい」
「なにが言いたいんですか?」
「ん、だからね、俺、きっと便利だよ。携帯の充電が切れても即チャージしてあげられるし、停電になっても怖くないぜ」
「便利とか、そういうことで友人を選んだりしません。それにわたしが嫌なんですよ。マイトさん以外の男の人と、二人で会うの」
「君さ、ほんと頭かたくて自意識過剰」
「は?」
「君さ、マイトさん以外の男とはろくに話したこともないんだろう? 別に付き合えって言っているわけじゃないのに、考えすぎなんだよ。男だろうが女だろうが、友達は多い方がいい。違うかい?」

 ……そういうものなのだろうか。
 たしかに、わたしは頭がかたいといろんな人からよく言われる。

 思ったことが顔に出てしまったのか、ビオラはちょっと嬉しげな顔をした。この人は嬉しい気持ちが顔に出る。
 まるで大きな犬みたい。存在しない尻尾がぱたぱたと動くさまが見えるよう。

「だからさ、俺と友達になってよ。なんなら『マイトさん』に許可をもらえばいいじゃないか」
「許可ってなんですか? マイトさんはわたしの友人関係にまで口を出すような、そんな心の狭い人じゃありません」
「じゃあかまわないね。また連絡するよ。それじゃあ」

 一方的にそうまくしたてて、ビオラは席を立った。あまりにも彼が素早かったので、断ることさえできなかった。

***

「ただいま」
「おかえりなさい、早かったですね」
「ウン、このところ出動要請が続いていたからね。今日は私でないとダメな案件以外は連絡しないよう、頼んでおいたんだ。事件と聞けば、私はすぐに飛び出していっちゃうだろ? 大概にしておかないと、重大な事件が起きた時に動けなくなってしまう」

 マイトさんは満身創痍。にもかかわらず、いつも限界を超えた無茶をする。
 事件や事故を見過ごせない人なのだ。自分がどんな状態であったとしても。

「それ、本当に自分から頼んだんですか?」
「エ……」

 マイトさんが、ぶはっと大量に吐血した。
 ああやっぱり。
 今回の要請制限も本人が言い出したのではなく、ボロボロの姿を見かねた誰かの進言によるものに違いない。

 いずれにせよ、マイトさんが早く帰ってきてくれて嬉しいのは確かだった。話したいこともある。その後は、久しぶりに甘えてみようか。
 ここ数日、マイトさんと寝ていない。いや、普通に寝てはいるのだけれど、性的な意味で寝ていない。
 テストがあったり、マイトさん自身の仕事が忙しかったりしたためだろうが、それでもやっぱり、求められていないような気がしてさみしかった。

 食後、お酒ではなくハーブティーを片手にくつろいでいるマイトさんに、わたしは少し前から考えていたことを切り出してみた。

「わたし、奨学金を申請しようかと思ってるんです」
「ダメ」

 間髪をいれず、予想通りの答えが返ってきた。有無を言わさぬ口調なのも、これまた予想通りだ。

 でも、わたしは嫌だったのだ。
 「若い女の体目的で、経済援助をしている金持ちの男」
 マイトさんが、そういった偏見の目で見られることが。

「学費を自分でなんとかしようとする、その気持ちは立派だ。でもね、奨学金と言えば聞こえはいいが、借金であることにはかわりないんだよ。必要ならば仕方ないと思うけれど、しなくてもいい借金をわざわざ背負う必要はないだろう?」
「給付型の奨学金もあります、わたしの成績なら、たぶんパスできると思います」
「それもダメ」
「どうしてですか?」
「給付型の奨学金には枠がある。そこに君が割り込む。すると何が起きる?」
「……その中で一番成績の低い人が、奨学金を切られます」

 マイトさんの言わんとすることを、わたしは理解した。
 一般的に考えて、奨学金を受けている生徒の大半は、経済的に苦労している。
 経済的に余裕がある保護者――この場合はマイトさんのことだ――がいるわたしより、もっと切実な気持ちで奨学金を欲している学生は、たくさんいるのだ。
 それは施設で育ち、マイトさんに会うまで進学をあきらめていたわたしにも、痛いほどわかる。

「実桜」
「はい」
「もしかして、こないだあの青年に言われたこと、気にしてるのかい?」
「……そんなこと……ありません……」
「そうかい。だったら、今までどおりでいいじゃないか。私は、援助交際気分で君の学費を出しているわけじゃない。それに前から何度も話しているけれど、君が私から離れていったとしても、ちゃんと生活と学費の面倒はみるよ」
「わたし、マイトさんから離れたりしません」

 君を縛るつもりはないとか、嫌になったらいつでも離れて構わないとか、マイトさんは時折そういうことを言う。
 そんなことしませんと言っても、若い君を縛るつもりはないんだよと静かに笑う。

 そのたびに、わたしの心にしんしんと雪が降る。
 しめやかに降っていた雪は少しずつ勢いを増し、地吹雪を起こして辺り一面を白一色に塗りかえる。
 白に視界を奪われたわたしは、自分のいる場所も、行くべき方向も、真実すらも見えなくなって、ひとり悲しく立ちつくす。

 マイトさんにとって、やっぱりわたしは「いつでも手放せる」そんな程度の存在でしかない。

「本当です。マイトさんがわたしのことを嫌にならない限り、別れたりしませんから……」

 せめて「君を嫌になるはずがないじゃないか」と言ってほしい。そう思いながら少し待った。

 でもマイトさんは曖昧に笑うだけで、何も言ってはくれなかった。
 マイトさんはいつもそうだ。
 オールマイトは嘘をつかない。だから口先だけの約束もしない。
 その誠実さに、わたしはいつも泣きそうになる。心の中を地吹雪が舞う。
 ホワイトアウトを起こした心は、もう、どこに向かえばいいかわからない。

 先ほどまでのわたしは、今日ビオラと会ったことを、マイトさんに話すつもりだった。
 ビオラとは、もう二度と会うつもりはなかった。

 だけど今、わたしの中でなにかが壊れてしまった。

「……学費のこと、わかりました。これからもよろしくお願いします」

 他人行儀にそう告げて頭を下げたわたしに、マイトさんは「ああ」と言って、また曖昧に笑った。

***

 それから、わたしはビオラと頻繁に会うようになった。

 もちろん会うのは昼間だけ。週に数度、お茶を飲んだりランチを食べたりする程度のつき合いだ。
 はじめは母の話をすることが多かったが、徐々に互いの話をするようになった。
 同年代の男性の友人があまりいなかったわたしにとって、ビオラとのやりとりは新鮮だった。

 何でも笑って許してくれるマイトさんと違って、ビオラはつまらないことですねたり怒ったりした。
 そのうえビオラは「友達になろう」と誘って来たくせに、ふとした拍子に指先が触れてしまっただけで、赤くなったり青くなったりもする。

 マイトさんは濃厚な香りをつけているけれど、ビオラはすっきり系のフレグランスをつけていた。ダージリンティーを基調にした嫌みのない爽やかな香りは、ビオラにとてもよく似合っていると思った。

 恋愛経験の乏しいわたしでもわかる。
 これは、大変良くない傾向だ。
 一つ間違えば、マイトさんとわたしの関係を壊しかねない、危険なものになりつつある。

 いつの間にか、わたしとマイトさんとビオラの間には奇妙なトライアングルが形成されていた。
 もともとわたしたち三人は、母を失ったという部分で、それぞれ悲しみを共有している。
 それは母を中心にした合わせ鏡のような、奇妙な三角形だ。
 筒の中で三角形に組み立てられた鏡は、新たなカレイドスコープ――万華鏡――になる。
 だがカラフルで様々な模様を形成していくはずのそれは、未だ白一色に塗りつぶされたままだ。

 今のわたしには、なにも見えない。
 視界を奪われた世界で、わたしはひとり立ちつくしている。

 わたしとビオラが会っていることを知ったら、マイトさんはどうするだろう。
 怒ってくれるだろうか。それとも――。

「最悪……」

 曖昧に笑うマイトさんの顔が見えた気がして、わたしはひそかに嘆息した。

 ああ、心の中に、またしんしんと雪が降る。

2016.2.3
月とうさぎ