冬の夜空を見るのが好きだ。
常ですら街の灯りに押され見えにくい星が、今日はますます見えにくい。満月の凍てつくような輝きが、圧倒的に過ぎるから。
あの玲瓏とした望の前では、青白いリゲルも、赤いベテルギウスもかすんでしまう。あまりに眩い煌めきは、他の存在を希薄にする。
強く輝く氷輪は、ヒーローとしてのオールマイトと少し似ている、そんな気がした。
わたしは軽く溜息をつき、時計を眺めた。時刻は午前一時を回ったところ。東京タワーのライトも、とうに落ちた。
今日……正しくは昨日、マイトさんはプレゼント・マイクのラジオ番組にゲスト出演するのだと言って、お昼前に家を出た。
収録はもう終わったと思うのだけれど、その後マイクさんとお酒でも飲んでいるのだろうか。
その時、インターホンが鳴り響いた。
慌ててインターホンのモニターのスイッチを入れる。画面に映し出されたのは、天突く金色の髪の男にもたれかかった、長身痩躯の姿だった。
どうしたんですかと声をかける前に流れてきたのは、聞きなれた低音。
「ごーめん、実桜。鍵出せないからさー、ちょっとここ開けてくれるぅ?」
マイトさんはまっすぐ一人で立てないのか、プレゼント・マイクに寄りかかっているのにもかかわらず、ぐらぐらと前後左右に揺れている。
「ちょっと飲みすぎちゃったんだよネー」
そういうことかとほっとしながらエントランスのオートロックを解除して、マイクさんに頭を下げた。
痩せてはいるが、身長が二メートル以上あるマイトさんの体重はそれなりにある。あんな調子の大男をここまでつれてくるだけでも、一苦労だったに違いない。
「ありがとー」
能天気な声に、わたしは再び溜息をつく。
すぐにふたりはエレベーターで上がってくる。マイクさんがいる手前、パジャマのままでの出迎えは、さすがに障りがあるだろう。
お気に入りのもこもこパジャマをジーンズに履き替えたのと同時に、玄関のチャイムが鳴った。
「ただいまー」
マイクさんによりかかりながら笑うマイトさんは、驚くくらいお酒臭かった。
顔は真っ赤だし、話す言葉も微妙に呂律が回っていない。
マイトさんは時々お酒を嗜むが、常に綺麗でスマートな飲み方をしてきた。こんなふうに泥酔した姿を目の当たりにしたのは初めてだ。
「マイクさん、ありがとうございます」
「ゴメンなー、急に来ちゃって」
「いえ……久しぶりにマイクさんとお会いできて嬉しいです。良かったら上がっていってください」
「いやァ、こんな時間だし……」
「そんなこと言わないで、あがっていってよ。マイクくん」
固辞しようとしたマイクさんの手を、マイトさんがぐいと引いた。マイクさんはひきつった笑いを浮かべている。
ああ、あんなふうに手をぎゅうぎゅう握ったら、マイクさんだってきっと痛いに違いない。
「飲みなおそうよ。いい赤ワインがあるんだ。カリフォルニアのものなんだけど」
「まだ飲む気ですか? もうやめたほうがいいっすよ」
「何言ってるんだい。君、明日はオフだろ? それにね、オーパス・ワンだよ。どうだい?」
「や、オーパスは確かに魅力的だけど、オールマイトさん飲みすぎだって」
「大丈夫、大丈ー夫。私もね、明日は夕方からなんだ。だからさー、もうちょっと一緒に飲もうよ。ねー、いいだろー?」
オールマイトにこんなふうに乞われて、それを断れるヒーローはあまりいない。マイクさんは「じゃあ少しだけ」といって部屋に入った。
「実桜ちゃん、こんな時間に悪ィね」
マイクさんにウインクされてどきりとした。どうして現役のヒーローたちは、男女を問わずこうもカッコいいのだろうか。
「実桜、悪いけど準備たのむよ。私、見ての通りだから」
「はい」
お酒の準備をするためにキッチンへ向かおうとしたその時、マイトさんの声が流れてきた。
呂律は少し怪しいものの、先ほどまでのお茶らけた調子とは、まったく異なる声だった。
「マイクくん。君さ、さっきあの子のことかばったろ」
「え? なんのことっすかァ?」
「ああいう形で君がびしりと言ってしまったら、私は彼を怒れない」
「参ったなァ、お見通し」
「まあ、確かに彼の言葉は正論だったな」
「……」
「まったく……正論過ぎてぐうの音も出ない」
ハハハ、という乾いた笑い声がそれに続いた。
なんのことだろう。ラジオの収録の際に、なにかあったのだろうか。
もう少し聞いていたかったが、立ち聞きはよくないと思い直して、わたしはキッチンに向かった。
家庭用のワインセラーから、マイトさんお気に入りの赤ワインを出す。
この手のワインには濃厚なチーズが合うのだと、マイトさんは言っていた。
冷蔵庫には、ゴルゴンゾーラのドルチェがあったはず。あれを薄く切って出せばいいだろうか。
こういうの、なんだかちょっと奥さんみたい。急にお友達を連れてこられて、その応対をするなんて。
切り分けたチーズをクラッカーにのせて皿に盛りつけながら、わたしはひとり、ふふっと笑った。
リビングに戻ると、明るい調子に戻ったマイトさんがマイクさんの肩に手をかけたところだった。
「だからそういうことは、素面の時に聞きますから」
「お、冷たいねマイクくん。もう少し優しくしてくれないと、おじさんマッチョになって抱きついちゃうよ」
「いやいや、それだけは勘弁して……ちょ……ほんと! マジで! ヤメテ!」
二メートル二十センチのマイトさんが、百八十五センチのマイクさんに抱きついた。
こういうのってBLっていうんだっけ。
ええと、この場合はオルマイ? それともオル山?
ああ、またしてもわたしは、現実逃避にどうでもいいことを考え始めている。
「ああ、実桜。ありがとう」
トレイを持ったまま呆然としていたわたしに気づいたマイトさんが、トゥルーフォームに戻りながら笑った。
テーブルには、赤ワイン用のグラスが三つ用意されていた。マイトさんがキャビネットから出してくれたのだろう。グラスの一つがわたしの分だと思うと、またかすかな笑みがこぼれる。
ホントはデキャンタージュさせた方が美味いんだけどね、と笑いながら、マイトさんが葡萄酒をグラスに注いでいく。
酔いで体がぐらぐら揺れているのに、お酒を一滴もこぼさなかったのはさすがだった。
「あれ? 実桜ちゃん……そうか、大学二年だもんな。もう二十歳か」
「そうなんだ。先月成人式だったんだよ。振り袖姿がまたかわいくてさ。写真見るかい? ああ、でもその前に乾杯しなきゃな。もう一度、かんぱーい」
年末の夜に新橋辺りでテレビのインタビューに答えるお父さんみたいにはしゃぎながら、マイトさんはガーネット色のお酒を喉の奥にぶつけるようにして飲んだ。
本当に、こんな飲み方をするマイトさんは初めてだ。なにがあったというのだろう。
やたらと明るくてとても楽しそうだけれど、どこか芝居がかっているように見えて、なんだか少し痛々しい。
「あー、オーパスをそんなふうに飲むなんてもったいない……胃袋がないんだから、そんな飲み方したらまずいでしょうよ」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
くるくると頭の上で手のひらを回しながらマイトさんがまた笑った。
結局その日、マイトさんはひとりではしゃいで独りでしゃべって……二本目のワインが残り少なくなったところで完全に酔いつぶれ、リビングで寝てしまった。
どうしよう……と困っていると、マイクさんが小さな声で「まかせとけ」と言ってから、マイトさんの体を担ぎ上げた。
マイクさんがいてくれて本当に助かった。わたし一人ではマイトさんを寝室まで連れて行くなんてことできっこない。
「なあ」
「はい?」
マイトさんをベッドに寝かせた後、マイクさんが革のブルゾンを羽織りながらわたしにたずねた。
「一つ聞いていいか?」
「なんでしょう?」
「実桜ちゃん、オールマイトさんのことマイトさんって呼んでるの?」
「……はい」
「二人のときも?」
「そうです」
「本名知らないの?」
「知ってます」
「じゃあどうして? オールマイトさんは呼んで欲しがるタイプだと思うけど」
わたしは唇をかみしめた。マイトさんになにか言われたのだろうか。
「マイクさんは、マイトさんの本名をご存知ですか?」
「いや、知らない」
「他のヒーローの方たちは?」
「うちの学校で知っているのは、リカバリーガールと校長くらいかもしれないな」
「だからです」
わたしの言に、マイクさんはサングラスの奥の瞳を大きく瞬かせた。
「なーるほどなァ」
「はい?」
「なるほどね、こりゃナンバーワンが惚れるわけだ。徹底してンな」
わたしは徹底なんてしていない。それに気づいてしまって以来、自分を戒めている。それだけだ。わたしにマイトさんの名を口にする資格はない。
「あのさ」
「はい?」
「実桜ちゃんさ、すごい愛されてるから。実桜ちゃんも同じ気持ちなら、あの人が何を言い出しても離れちゃ駄目だぜ。ああいう人と添うってことは、並大抵の覚悟じゃできないとは思うけど」
「覚悟はできてます」
するとマイクさんは、長身をのけぞらせて笑った。
「マジで肝が据わってんなァ。ま、俺たちの平和の象徴をよろしく頼むよ。俺らにゃ、まだまだあの人が必要だ」
そう言い置いて、マイクさんは帰っていった。
*
「……へんだよね」
リビングに戻り、男性陣の使ったグラスを片付けながら独りごちた。マイクさんの言が意味深に思えたからだ。
マイトさんの態度もおかしかった。一緒に暮らしてもうすぐ丸二年になるが、酔いつぶれた姿を目の当たりにしたのは初めてだ。
「いったい、何があったんだろう」
呟きながら、瓶に少量残された葡萄酒を自分のグラスに注いだ。
先ほどお付き合い程度に一口ふたくち飲んだけれども、わたしにはまだワインの美味しさがわからない。
マイクさんやマイトさんは「シルキーかつクリーミー」だとか「重厚でありながら甘やかなタンニン」だとか言っていたけれど、わたしにとっては少し渋くてやや甘くってちょぴり苦い、不思議な味だ。
それでもやっぱり、この綺麗な色をしたお酒は、オトナ気分を味あわせてくれる。宝石を溶かしたような、深く濃厚な赤紫の、なんと美しいことだろう。
グラスを手に寝室に行くと、明かりがついたままだった。いつの間に脱いだのだろう、スーツのズボンが床に脱ぎ捨ててある。
ベッドの縁に腰掛けて、わたしはそこに横たわる男を見つめた。
掛け布団を蹴飛ばし、ワイシャツと下着というカッコいいとは言えない姿ですやすやと眠るのは、自分の命を引き換えに世界を守る、満身創痍の哀しい英雄。
ヒーローとして立つ時は太陽光を集めて煌めくその髪が、LEDの白い光を反射してかすかな輝きを放っている。
硬質な光を受けた、肉がげっそりと削げ落ちた頬。
ビオラと会うようになって気づいたことだが、若い男性と中年男性とでは肌の質感が全然違う。
マイトさんのそれは、水分の少ないかさついた肌だ。
だがこの乾いた肌に刻まれたいくつかの皺が、世の不条理をすべて飲み込み己の中で消化した、男の生き様を物語る。
この眼尻の皺も、このかさついた肌も、この肉が落ちた頬も大好きだ。
尖った顎も、落ち窪んだ眼窩も、その奥の青い瞳も、涙が出そうなくらい大好きだ。
ビオラとのやり取りは新鮮で楽しい。けれどそれだけ。
見つめているだけで瞳に膜が張るような、髪にそっと触れただけで身体の芯がしびれるような、そんな甘く切ない気持ちにさせられるのは、枯れ木のように痩せこけたこの中年男ただひとりだ。
わたしはワイングラスを手に取って、くるりとまわした。
グラスの内壁を粘るように伝って落ちる、透明な水滴。
それを「ワインの涙」と人は呼ぶ。
涙を流しながら揺れる赤ワインの向こうで寝息を立てているひとが、こんなにも愛しい。それなのに、互いの間に見えない壁ができてしまったような気がするのはなぜなんだろう。
暗い赤紫色の宝石を思わせる液体を、一口含む。
ベリーの香りがするそのお酒は、少し渋くてやや甘い、どこかせつない味がした。
2016.2.7
【注】本作は原作11巻の内容が本誌で発表される前に書かれたものです。オールマイトが大量に飲酒する場面がありますが、どうかご了承ください。