7話 惑うフォレストグリーン

 ラジオ収録の翌朝、マイトさんは真っ青な顔をして起きてきた。
 かさついた青白い頬と顎に、うっすらと生えた金色のひげ。大人の男のひとのひげは、たった一晩でも結構伸びる。
 毎朝目の当たりにし見慣れているはずのものなのに、それがひどく性的に見え、わたしはどきりとした。

「……大丈夫ですか?」
「ウン……昨夜ちょっと飲みすぎちゃった」

 マイトさんはしゅん……としながらちいさく答えた。
 大きな身体を小さく丸めて、チェアに腰掛けた姿がかわいかった。性的だったり可愛かったり……まったくこのひとは、いろんな面を持っている。

「何か飲みますか?」
「……ありがとう……お茶……いや……水がいい……お水クダサイ……」

 返答しながらダイニングテーブルにつっぷした姿がまたかわいくて、笑みがこぼれた。
 ずっと年上のひとなのに、かわいいと感じてしまうのはなぜなんだろう。
 このひとはきっと、女の持つ母性本能を刺激するのだ。
 完璧なヒーローであるオールマイトが、私的にも包容力にあふれた紳士であるこのひとが、ふとした瞬間に見せる隙のようなものに、わたしは弱い。

「お水です。ウコンも一緒にどうぞ」
「アリガト……」

 サプリメントを渡した時に、長い指がわたしの手のひらに触れ、ぞくりとした。
 この指先が夜毎わたしに与えた快楽を、からだが覚えているからだ。
 過去形なのには理由がある。ここ一月ほど、この指はわたしに性的な意味で触れてはいない。

 マイトさんの年齢や体調を思えば、それもしかたのないことかもしれないけれど、ここまで期間があくのは初めてのことだった。
 もう、飽きられてしまったのだろうか。
 それとも、他に女性ができたのだろうか。
 そう考えただけで、嫉妬の炎がこの身を舐める。自分はこそこそと若い男性と会っているくせに、わたしはきたない。

「実桜には、男友達っているのかい?」

 いきなりの質問に全身が強張った。
 もしかして、ビオラのこと、何か気づいたのだろうか。
 マイトさんの声が常より掠れて聞こえたのは、夕べの酒のせいなのか、それともわたしの気のせいなのか。

「ええ……まあそれなりに」
「そうか。友達はたくさんいたほうがいい」

 軽い調子で言われ、わたしはがっかりした。
 マイトさんは下を向いたままなので、どんな顔をしているのかわからない。けれど、きっといつものように静かに笑っているだろう。そう思ったら泣きたくなった。

「いいんですか? わたしが他の男の人と、二人で出かけたりしても?」」
「ああ、君がそうしたいのなら、それで楽しいのならかまわないよ」

 穴の開いた風船のように、わたしの心はみるみる萎れる。
 ああ、わたしは嫉妬すらしてもらえない。

***

「映画でも観ようか?」

 午後になって回復してきたマイトさんが、こちらを振り向いて言った。
 思えば、マイトさんとふたりで出かけるのは本当にひさしぶりのことだ。ここ最近はビオラと出かける回数の方が多かったことに気がついて、また驚いた。

「私、今日CM撮りがあるんだよね。スタジオの最寄り駅でもいいかな。個室つきの映画館も近くにあるし」

 携帯を操作しながらマイトさんが言った。

 家から一番近くにある映画館に、個室はない。
 二メートルを大きく超える身長のマイトさんは、最後尾の席が取れないと映画を観ようとしない。後ろのひとが見えなくなることを心配するからだ。
 その点、個室だとその辺りの心配はいらない。

 わたしは、はいと頷いた。

***

 個室を有する映画館は、都庁を有する駅にある。ここは睡さんとビオラの所属する、ヒーロー事務所が存在する街。

 専用のエレベーターでプラチナフロアまであがり、劇場の係員に案内されて歩いた。
 イタリア製の高級ソファはどっしりとしており、オットマンもついている。大柄なマイトさんが座しても足を伸ばせる、ゆとりある席。
 この席で映画を観るのは三度目だが、いつ来ても少しどきどきしてしまう。
 ふかふかのソファに座ると、係員がうやうやしく傅いて、ウェルカムドリンク用のメニューを渡してくれた。
 わたしは常のようにダージリンを頼み、マイトさんはいつものコーヒーではなく煎茶を頼んだ。

「マイトさん、このコピ・ルアクってなんでこんなに高いんですか?」

 係員が去った後、マイトさんに聞いてみた。
 メニューの中に、五千円を超えるコーヒーがあるのが気になったのだ。
 ドン・ペリニヨンが一万円なのはわかるけれど、コーヒーの五千円はどうにも解せない。

「これは製法が特殊なんだよ」
「製法?」
「コーヒーの実を食べた、ジャコウネコの糞からできてるんだ」
「糞?!」
「コーヒー豆ってのはコーヒーの種子だろ。だから実の部分は消化されても、種子は未消化のまま排泄される。それを洗浄して焙煎したのが、コピ・ルアク」
「……糞……」
「顔色が悪いよ。実桜」
「……だって……それって衛生的に大丈夫なんですか?」
「充分に洗浄してあるから大丈夫みたいだよ。独特な芳香があってけっこううまい」
「飲んだことあるんですか!?」
「昔ね。知らないで飲んだ」

 知ってしまってからは飲めなくなったな、とマイトさんは肩をすくめる。
 ジャコウネコの分泌液から香料がとれることは知っていたけれど、糞から採取した豆を飲料にするなんて。

「マイトさんは何でも知ってますね」
「いや、まだまだ知らないことはたくさんあるよ。君の倍くらい生きているから、多少は物を知っているだけだ。でもいつか、君はこの年齢差が嫌になることがあるかもね」
「……そんなこと……」
「ああ、実桜、そろそろ始まるよ」

 マイトさんの声と共に、座席の灯りが落とされた。
 個室と名付けられているが、ここは映画館。左右に壁があるだけのバルコニータイプの部屋であり、密室ではない。明かりが落ちてから音を立てることは、マナー違反だ。

***

「……なんか……すごかったです」
「そうかい?」

 映画が終わって、プラチナルーム専門のエレベーターに向かいながらそう呟いた。
 とにかく、刺激的で濃い映画だった。
 全編通して流れるのは、サラサーテのチゴイネルワイゼン。

 メインの登場人物は年齢差のある夫婦と、妻の愛人。
 平たく言うと、愛憎入り混じったどろどろのサスペンスだ。
 冒頭はふたりの出会いだった。四十半ばの精力的な男と、二十歳前後の娘。
 そして出会いから十五年の歳月が経過した現在に、事件はおこる。老いていく夫と、まだ若く美しい妻。
 出会った頃は頼りがいのある大人の男だった夫が、年齢を経るごとにどんどん妻に執着していく。

 夫にうんざりした妻と、それに気づいて独占欲をあらわし始める夫。妻がうんざりしているのは夫の衰えではなく、その病的なまでの執着であることに、夫は気づかない。
 やがて妻は、見た目の良い同年代の男と深い仲になっていく。男は夫が失ってしまった美しさと力強さと、そして若さを持っていた。
 この愛人とのベッドシーンもまた濃厚だった。夫との行為が執拗な愛撫を繰り返すだけであるのとは反対に、愛人は妻の体の準備が整うが否や、その体内に侵入する。
 野生動物のような荒々しくも激しい行為に、妻は夢中になっていく。 
 だが妻は夫と別れることは考えていない。なぜなら夫には莫大な資産があったからだ。

「毒薬なぞは使わず、せめてこの手で縊り殺してやる。そうすればあいつが最後に見るのはおれだ。あいつが惚れているのは違う男かもしれないが、最期の瞬間、あの瞳の中に映るのはおれなんだ。それだけでいい」

 作中で妻を殺害する決意をした時の夫の言葉が、狂気を孕んでいてぞっとした。
 映画を鑑賞する前は気がつかなかったが、パンフレットにはR-15と記載されていた。確かに、この映画はそうした方がいいだろう。金や性や若さへの執着。それぞれの思惑がチゴイネルワイゼンの旋律に乗って織りなされる、耽美な世界。

「あんなふうに執着されたら怖いだろ?」

 マイトさんの声に、わたしは我に返った。

「うーん、まあ、あそこまで行くと怖いですけど、ちょっとくらいのヤキモチだったらいいんじゃないかと思います。それにあのご主人は、殺したいほど奥さんを愛してたってことですよね」
「あまりにも身勝手で歪んだ感情だね。ああいうものを愛とは呼ばない」
「そうでしょうか」
「愛とは、相手の幸せだけをただひたすらに望むものだ」

 このひとにとってはそうなのだろう。自己を犠牲に人を救ける、自己犠牲の塊のようなこのひとには。

「ま、老いらくの恋ってのは、ああいう厄介なものなのだろうな」
「え?」
「あの妻はこれからも他の男と恋愛できる可能性があるが、夫の方はもう無理だろう。だからこそ、なおさら激しく執着したんだろうな。まさに緑の眼の怪物だ」

 緑の眼の怪物……英語圏では嫉妬のことをそう表現することがあると聞いたことがある。
 自らの瞳と同じ色の、深く暗い森の中を彷徨う怪物の姿が、なぜかこの時頭に浮かんだ。

「いずれにせよ、あの夫みたいにはなりたくないね。女性に執着し、すがりつく。男としてあんなにみっともない姿はないよ」
「……わたしが、あの奥さんと同じことをしたらどうします?」
「それにはさっき答えたよ」

 さらりと言われて、わたしはぎゅっと目を閉じた。
「君がいいならかまわない」
 きっとそういうことなのだろう。
 これが逆の立場であったなら、わたしは嫉妬でおかしくなってしまうだろう。
 わたしはマイトさんに執着している。けれど、マイトさんはそうではない。わたしたちの間には、決定的な温度差がある。

「……相手がママなら?」
「え?」

 絶対聞こえていたはずなのに、マイトさんが聞き返した。
 わたしは返答を辛抱強く少し待ったが、やっぱりなんの答えもない。わかっている、母が亡くなってからの歳月を「まだ十年」と言い切った人だ。
 マイトさんが、母に執着していないはずはなかった。

「……どうしてマイトさんは、今日この映画を選んだんですか?」

 返答の前に、ほんの少しだけ時間がかかった。すくなくとも、わたしにはそう感じられた。

「個室で上映していたのが、この映画だけだったからだよ」

 マイトさんは、わたしとビオラのことに気づいているのかもしれない。
 知っていて尚、この映画を見せた理由はなんだろう。わたしにはマイトさんの考えがまったく読めない。

 いつでも私から去っていいんだ、と言うマイトさん。
 女に執着する男にはなりたくない、と言うマイトさん。
 そして……わたしがビオラと会っているのを見て以来、わたしを抱かないマイトさん。

「今度、あのジャコウネコのコーヒーを飲んでみたいです」

 わたしは心にもないことを口にする。これはいつもの現実逃避だ。

「本当かい? 確かに美味しいんだけど、私はもういいな。そういえば実桜は紅茶党だけど、コーヒーはどんな銘柄が好きなんだい?」
「うーん、コーヒーの銘柄はイマイチ良くわからないんですよね。淹れ方の好みもないです。マイトさんは?」
「そうだね、アメリカンの気分のときは、軽くローストしただけの豆をパーコレーターで淹れたりもするし、濃いのが欲しいときはそれ用の豆を選ぶしなぁ。どれって言われても、一つには絞れないかもね」

 楽しそうな日常の会話。けれどそれに中身はない。
 わたしに好きなコーヒーの銘柄などないことを、マイトさんは知っている。
 マイトさんが気分でコーヒー豆やその淹れ方を変えることを、わたしは知っている。
 たがいに知っていることを繰り返すこのやりとりは、答え合わせですらない空虚なものだ。

 この時、わたしは、以前見た映画のことをまた思い出した。
「ねえ、あなたは傷心と虚無だとどちらを選ぶの?」
 あまりにも有名な、古い、古い映画。
 わたしは迷わず傷心を選んだが、マイトさんは答えなかった。
 もしかしたらこの人は、虚無……空虚を選ぶのかもしれない。

「実桜、悪いけどこれからCM撮りなんだ」

 駅前の大きなビジョンの前で、マイトさんはそう言った。

「あ、そうでした。頑張ってくださいね。それから帰りは気をつけて」
「ありがとう、遅くなると思うから夕飯はいらないよ」
「……わかりました」

 くるりとわたしに背を向けて、家に向かう路線とは反対の方向へ歩き出した、細長い後ろ姿を見送った。

 マイトさんと別れたわたしは、独り寂しく都営線の改札へと向かった。
 この路線はどの駅も深い。長いエスカレーターで地下の奥深くへと下っていく。
 あのパンダの動物園に行く時も、この路線を利用した。
 この線の車高は都内の地下鉄の中でも最も低い。背の高いマイトさんは完全に頭がついてしまう。
 マイトさんは、いつも窮屈そうに身をかがめて、苦笑いしていた。

 なんだろう、とても嫌な感じだ。
 さっきから、まるで二度と会えない人を思い出すような、そんな感覚に囚われている。

***

 ひとりの夕飯をどうするか思案していたその時、チャイムがなった。
 モニターをのぞくと、そこに立っていたのはセクシーな美しい女性。
 18禁ヒーロー、ミッドナイトこと睡さんだ。
 その時、わたしは睡さんの背後にもう一人いることに気がついた。
 そっぽを向いているので顔は見えないが、紫色の頭髪とその均整のとれた長身に見覚えがあった。

 ビオラだ。
 どうしてビオラと睡さんがここに?

「実桜、ごめんね。いきなり来ちゃって。いまマイトさんいる?」
「ええと……お仕事です……」

 ビオラがいる手前、CM撮りとはいえず、わたしは言葉を濁した。

「あ……あのどういったご用件かわかりませんが、よかったら上がってきてください」
「……そうね。あたしあんたにも話があるの。連れが一人いるけど、そいつと上がらせてもらうわね」

 答えた睡さんの、表情と声は硬かった。
 掌にじわりと汗がにじんだ。睡さんのこんな様子は初めてだったからだ。
 おそらくこの訪問は、昨夜マイトさんの様子がおかしかったことと関係があるのだろう。確証はないが、そんな気がしてならない。

 わたしは覚悟を決めて、入り口のオートロックを解除した。

2016.2.11
月とうさぎ