「ごめんね、突然押しかけて」
いえ……と応えようとして、驚いた顔のまま固まってしまった。
背後のビオラの顔が、ぱんぱんに膨れあがっていたからだ。
「……どうしたんですか? それ」
「ああ、これ?」
わたしの問いにそっぽを向いてしまったビオラではなく、睡さんがにこやかに答える。だが、その眼は笑っていない。
「こいつがマイトさんに生意気な口をきいたらしいから、ちょっとしめてやったのよ」
パワハラ暴力ババア……という低い呟きが聞こえた瞬間、睡さんの肘がビオラのみぞおちにヒットした。
ああ、そういうこと。睡さんはビオラを連れて謝罪にきたのか。
わたしにも話があると言ったのも、それに関することなのだろう。
それにしても、ビオラがマイトさんに何を言ったのか。なにより、それが気になった。
「どうぞ、あがってください」
ふたりをリビングに案内し、英国王室御用達の紅茶を選んで、丁寧に淹れた。
「どうぞ」
アッサムとセイロンをブレンドしたこのお茶は、赤みがかった深みのある金色だ。蜂蜜によく似た、こっくりとした香りが心地よい。
少しでも緊張をほぐしたい一心で、この茶葉を選んだ。
「実桜」
会話の口火を切ったのは、予想通り睡さんだった。
「人の交流関係に口を出すのは野暮だけど、あんた、なにやってんの? あんたのことだから浮気とか二股とか、そういうつもりはないと思うけど」
「お友達、のつもりです」
「あんたはそのつもりでも、こいつはそうじゃないわよ。マイトさんからあんたを略奪する気満々だからね」
「そんなこと……」
否定しようとしたその時、ビオラが会話に割り込んできた。
「うん、そのつもり。だからそれを、君の彼氏にも話したんだ」
「……話した?」
頭をハンマーで思い切り殴られたような気がした。
マイトさんに言った?
ビオラとわたしが会っていることを?
マイトさんの昨夜の泥酔はそのせいなの?
だったらなぜ、あのひとはあんな映画をわたしに見せたの?
そのあと、どうしてあんなことを言ったりしたの?
――君がしたいなら、そうすればいい――
マイトさんは、確かに、そう言った。
「他にも色々言ったよ……だからこんなことになってるんだけど」
自嘲するように笑って、そしてビオラは語り始めた。
***
睡さんつながりでマイクさんと面識があったビオラは、昨日、ラジオ局の楽屋を訪問した。ゲストのオールマイトに会わせてもらうためだ。
だが、当のオールマイトは番組終了と同時に姿を消してしまった。訪れた楽屋には、マイクさんとやたらと背の高い痩せた男――マイトさん――しかいなかった。
人付き合いのいいマイクさんが「せっかくだから三人で飲みに行こうゼ」と提案し、そのまま三人で街に流れたという。
そこで酒が進むうち、ビオラがマイトさんにからんだ。
いや、きっかけを作ったのはマイトさんのほうかもしれない。
『もしかして、君かい? うちの実桜と最近会っているのは』
『え?』
『あの子は、隠し事ができない子だから』
『……あなたはそれでもかまわないのですか?』
『そりゃ、面白くはないけどね。実桜がそうしたいのなら、私にそれを止める権利はないね』
『余裕っすね』
『大人だからね』
『だったら……大人なら大人らしく、相応の女性とつき合ったらどうです。自分の娘みたいな年齢の女の子を相手にして、恥ずかしくないんですか。実際、実桜ちゃんはあなたの恋人だったひとの娘ですよね』
『別に恥ずかしくはないよ。不自然だとは思うがね』
『じゃあどうして、その不自然な状態のままでいるんですか。実桜ちゃんが先にあなたを好きになったとしても、断ることはできたはずだ。いや、あなたはそうすべきだった』
『だろうな。でも、私はあの子が欲しかったんだ』
『あんたは、バイオレットの面影を彼女に重ねているだけなんじゃないのか。普通の感覚だったら、子供の頃から面倒を見ていた女の子に、手を出すなんてできないはずだ』
『いや、私は子供の頃の彼女はよく知らない』
『どういうことだ。バイオレットが亡くなったのは、実桜ちゃんが小学生のときだろう?』
『私が実桜を引き取ったのは、あの子が高校を卒業してからだ。それまであの子は養護施設にいたんだ』
『あんた……最初からそういうつもりだったのか』
『どういう意味だい?』
『純粋なあの子を騙して、自分の慰みものにするつもりで引き取ったのかって言ってるんだよ』
『慰みものとは、また古い言い方をするね』
『言い方なんてどうだっていい。答えろよ』
『さっきからなんなんだい? それは君には関係のないことだろう?』
『てめえ……』
怒りにまかせて、ビオラがマイトさんの胸ぐらをつかんだ。
それと同時にかかった、制止の声。
『おい、坊や。そこまでにしときな。それ以上その人を侮辱するのは、俺が許さねえ』
『マイクさん?』
『その人はおまえの無礼を笑って流してくれるだろうがな、俺は自分の尊敬してる人が罵倒されるのを黙ってみていられるほど、人間できちゃいねえんだ』
『……』
『年がどうの、すみれさんがどうのって言ってるが、おまえは実桜ちゃんが自分のものにならない苛立ちをマイトさんにぶつけてるだけだろうがよ』
『……ちょ……マイクくん……言い過ぎ……』
『ハァ? 言い過ぎてんのはこの坊やのほうでしょうが。マイトさんは目下の者に甘すぎるんですよ。こういう奴には、きっちり上下関係をわからせてやらなきゃダメです』
『うん……わかったから……わかったからちょっと落ちつこうか。ね……ね』
マイクさんの剣幕はすさまじく、逆にマイトさんが止めに入らねばならないほどだったという。
結局その場は、マイトさんがマイクさんを宥める形になりお開きになった。
ビオラの口から語られたのは、おおむねそういうことだ。
その顛末を睡さんに伝えたのは、マイクさんであったらしい。
わたしは少なからずショックを受けていた。やっぱりマイトさんは知っていたのだ。
知っていてなお、あんなことを言ったのだ。
「マイクさんがいなければ、一発ぶん殴ってやれたのに」
思い出して不愉快になったのか、ビオラが口をとがらせる。
「何言ってんの。あんた、マイクに助けられたのよ」
「は? どういうことっすか?」
「言葉の通りよ。あんたにマイトさんは殴れないと思うし、もしマイトさんがそれをさせてくれたとしても、周りがあんたを許さないわ。一緒にいたのがマイクで良かったわね。セメントスだったら、東京湾に沈められてたかもしれないわよ」
「まさか、あの温和なセメントスさんが」
笑うビオラに、睡さんがため息交じりに言葉をかえす。
「しかねないわよ。他の雄英教師陣でも、似たようなことになってたでしょうね」
「事務所でも聞きましたけど……マイトさんって何者なんすか。いま雄英って出てきたからヒーロー関係者なんでしょうが、あんなひと、俺、見たことないっすよ」
「雄英関係者になる予定の人、とだけ言っとくわ……あのひとが何者か知ったら、あんたぶっ飛ぶわよ。それより実桜」
睡さんがわたしのほうにくるりと向きなおった。いつもと違う、厳しい瞳だ。
「人の色恋沙汰に口を挟むつもりはないけど、もう少し考えて行動しなさい。友達づきあいにしろなんにしろ、その『オトモダチ』に自分の大切な人を攻撃させるような付き合い方をしてはだめ。そこらへんの線引きだけはきっちりしないと」
正論だ。
男女の間に友情など存在しない、などと言うつもりはない。けれどどちらかが相手に恋愛感情を持ってしまったら、友情関係を保つことは難しい。
ビオラがわたしに好意を抱いているのは、最初からあきらかだった。
「あの……わたし」
「言わなくていい」
口をひらいたわたしをビオラが制した。
「言わなくていいよ。実桜ちゃんの気持ちはわかってるから。ただ、やっぱり悔しいんだよ」
「ビオラ……」
「周りの反応やこの家から察するに、あのひとはきっとすごい人なんだろう」
ビオラがまっすぐにわたしを見つめた。色素の薄いアッシュグレーの瞳に、吸い込まれそうだ。
「でも君はあのひとに愛されている自信がないじゃないか。どうせあのひとは、君にも何も言わないんだろ?」
その通りだ。それどころか、君がそうしたいならかまわないと言われた。
マイトさんの言はわたしの意見を尊重しているように見えるが、おそらく違う。
わたしは突き放されてしまったのだろうか。
「……」
応えようとした瞬間、二人のヒーローの端末が鳴り響いた。
この音は、休日のヒーローに近くで事件がおきたことを知らせる音だ。出動要請ほど切羽詰まったものではない。
しかし周囲に出動できるヒーローがいなかった場合、休日のヒーローが駆り出されることもごくまれにある。そのための待機要請だ。
わたしは慌ててモニターの電源を入れた。
我が家のリビングのモニターは、ヒーローに支給されている端末と一部の情報を分け合い、大きな事件の詳細や現場が映し出されるようになっている。マイトさんがそう設定した。小さな端末よりも大きな画面の方が、全体像をとらえやすいこともあるからだ。
「御苑ね……」
睡さんの言うとおり、モニターに映し出されたのは新宿御苑。そこで大型のヴィランが暴れている。
数人のヒーローが対応しているが、ヴィランは力が強く動きが素早い。確保に少々手間取っているようだった。
ひどく嫌な予感がした。
現場は、マイトさんが出向いたはずのスタジオからとても近い。
この二人に届いた待機要請が、マイトさんの端末に届かないはずはない。
そしてこの予感は的中した。
「もう大丈夫、私が来た!」
スピーカーから響いた、聞きなれた声。
動揺したわたしの手が、テーブル上のカップを倒した。がしゃりと派手な音がしたようだったが、そんなことを気にする余裕はない。
「ああ、オールマイトさんが行ったなら大丈夫だな」
ビオラの言に、わたしは愕然とした。
プロのヒーローですら、この認識なのだ。
オールマイトが行けば万事解決。たとえ、どんなに強い相手でも。
周囲にいるヒーローたちも、オールマイトの邪魔になるのを危惧してか動こうともしない。
絶対的なその信頼は、どこから来るのだろう。
世界を支えるスーパーヒーロー。正義の象徴、平和の象徴、オールマイトを皆がそう呼ぶ。
その最強のヒーローが満身創痍であることを知る者は、とても少ない。
オールマイトを妄信する人たちは、知らない。
あのひとが人々を救うために、どれほどの犠牲を払っているのか。
その時、ヴィランの攻撃がオールマイトの左わき腹にヒットした。
「やめて!」
思わずわたしは叫んでいた。
ヒーローコスチュームに、わずかに滲んだ赤黒い血。
真実を知らぬ人には、それはただのかすり傷に見えたろう。だってほら、なんでもないというように、オールマイトは笑っている。
けれどわたしは知っている。
あのひとの左のわき腹には、深く大きな傷跡がある。肺の片方と胃を摘出しなければならなかったほどの深い傷。
左……攻撃を受けたのは左だ。左はだめ。
「低気圧が近づくと疼くんだよな」と、彼が漏らすのを、一度だけ聞いたことがある。
気圧が変化した程度で痛む部分を傷つけられるのは、どれほどの苦しみだろうか。
絶望でモニターの映像がぐらぐらと揺れる。
涙がぼろぼろと溢れ出た。
気持ちが悪い。震えがとまらない。息が苦しい。
これ以上、もう見ていられない。
「実桜!」
ぱあん、と、眼前でかしわ手が打たれた。相撲でいう「猫だまし」と同じ行為だ。
その音と風圧は、動揺しきっていたわたしを現実に引き戻すのに充分だった。
「睡さん……」
「落ち着いてちゃんと見なさい。あんたの覚悟はそんなもんだったの?」
「……はい」
睡さんの声に従い、視線をモニターへと戻す。
わたしが動揺して画面から目を離していた間に、オールマイトはヴィランを取り押さえたようだった。
声高らかに笑いながら去る姿を見ながら、わたしはほっと息をつく。
出動要請があった後など、リアルタイムであのひとが戦う姿を目の当たりにするたびに、わたしはこうなる。
それでも目を逸らしてはいけないのだと、毎回モニターの電源を入れ、そして泣く。
肝が据わっているなんてとんでもない。
わたしはマイトさんにこの動揺を知られたくなくて、虚勢をはっているだけの臆病者だ。
「実桜」
わたしが落ち着くのを待って、睡さんが声をかけてきた。
「はい」
「わたし達はいったん帰るから。マイトさんには、あたしがビオラを連れて昨夜の非礼をわびに来たとだけ、伝えてもらえる?」
「……わかりました」
睡さんはビオラとわたしのことについて、あれ以上追及してはこなかった。
わたしの動揺を見たビオラも、なにも言及しなかった。
***
ひとりになったリビングで、わたしはしばらく呆けていた。
視界の端に、割れてしまった紅茶のカップが映っている。
ああ、破片を早く片付けなければ。あれはお気に入りだったのに。
英国王室御用達の、美しい茶器。
マイトさんの姿を彷彿とさせる色合いの、空色の地に金色の蝶が描き出された、優雅なカップだ。
わたしはそろそろと立ち上がり、緩慢な動作で割れたカップを片づけ始めた。
「痛っ!」
かけらで手を切ったのだろう、指先からじわりと血が滲んだ。
こんなちっぽけな傷ですら痛いのに、あのひとはどれだけの痛みに耐えてあの場に立っていたのだろうか。
あのあと、あのひとは見えないところでどれほどの血を吐いたのだろうか。
瞳から、すうと涙がこぼれ落ちた。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。どこから処理していいのかわからない。
マイトさんとビオラが会っていたことと、そこで語られたこと。
年上の恋人の考えがまったく読めなくなってしまっていること。
そして、オールマイトの怪我に動揺したわたしを、ビオラに見られてしまったこと。
ビオラはきっと気づいただろう。マイトさんの正体を。
それでも何も言わず立ち去ったのは、彼が一人前のヒーローだからだ。
守秘義務が伴う仕事は、他にもたくさんある。
けれどもその中で、もっともそれが徹底されているのがヒーローだろう。
ヴィランにとらえられた時に、ヒーロー側の極秘事項をぺらぺらしゃべられては困るのだ。
だから彼らは、そのための精神訓練も受けている。
それにくらべてわたしはどうだ。
オールマイトの活動を見ては涙を流し、心配し、そして苦しむ。
覚悟を決めたつもりでいても、やっぱりわたしはまだまだだ。
マイトさんに何かがおきた時、わたしはきっと、その名を叫んで縋りつくだろう。
それに気づいた瞬間から、わたしはマイトさんの本名を呼ぶことをやめた。
なのに、先ほどのわたしの行動は、すべてを台無しにしてしまった。
おそらくビオラは、マイトさんの正体について他言することはないだろう。
だからといって、それを知られていいというわけではないのだ。
これはぜったいに、あってはならないことだった。
俊典さん……と、心の中で呼びたかったその名を呼んだら、再び涙があふれ出た。
箍の壊れた桶の中の水のように、涙はぼろぼろとこぼれ出てくる。
ぐちゃぐちゃになった思考を洗い流そうとするかのように、わたしは声を出して泣き続けた。
***
どれくらい時間がたったのかわからない。泣きすぎて目がしょぼしょぼする。喉も痛い。
今のわたしは、きっとものすごい顔になっていることだろう。
そう思って鏡を見ようと立ち上がったその時、がちゃりという音がひびいた。
これは鍵を開ける音だ。
どうしよう。マイトさんが帰ってきた。
こんな泣きはらした目では、マイトさんの前には出られない。
心配していたなどと知られてしまったら、マイトさんの負担になる。
あれほどの重荷を背負って生きている人だ。わたしが新たな荷になるようなことがあってはならない。
これ以上、「オールマイト」の妨げになるようなことはしたくない。
慌てたわたしは寝室へと走り、そのままベッドの中にもぐりこんだ。
「ただいま」
リビングから、帰宅を知らせるマイトさんの声がした。
2016.2.20