暗黒色の闇の中、その足音はまっすぐこちらに近づいてきた。
寝室の扉があくと同時に電気がつけられ、愛しいひとが特注サイズのベッドのふちにすとんと座る。
静かな室内に時計が秒針を刻む音だけが響いていく。それでも、マイトさんがこちらを見ているだろうということは、気配でわかった。
「実桜。服のまま寝るのはよくないよ」
唐突に上から声をかけられて、びくりとした。
「起きてるんだろ。リビングもキッチンも電気がつけっぱなしだった。床暖房もね」
しまった、と思ったが後の祭りだった。
それだけではない。割れたカップは片付けたが、残りのカップとポットはシンクの中につけっぱなしだ。
「実桜」
ため息交じりにもう一度声をかけられ、観念しながらベッドから顔を出した。
泣いた時にさんざん目を擦ったから、わたしはきっとひどい顔をしているに違いない。
「どうしたんだい、その顔?」
予想通り、驚いた顔をされてしまったので、いたたまれなくなって下を向いた。
「なんでもないです!」
「実桜」
「……なんでも……ないです」
「新宿御苑」
低音がぽつりと漏らした地名に、弾かれたように顔をあげてしまった。
そこはさきほどマイトさんがヴィランと交戦し、負傷した場所だ。
ふう、と、マイトさんが大きく溜息をついた。わたしはごまかすのが下手だ。致命的と言ってもいいくらいに。
「見たのかい?」
「はい……」
「すまない。心配させてしまったね。私は大丈夫だよ」
マイトさんはにっこり笑って、わたしの頭をくしゃりとなでた。この人の笑顔と大丈夫という言葉ほど、人を安心させるものはないのだが、本人のこととなると話は別だ。全然大丈夫ではない身体で、平気だよとにこりと笑えるひとなのだから。
「ほんとうですか?」
「ああ、ちょうど現場に治療系のヒーローが来ていたからね」
ほら、と、傷痕を見せられた。
生々しいケロイド状の傷。だが確かに傷口はふさがっていた。治療系の個性で治してもらったことは、どうやら本当のようだ。
それでもきっと、傷口は痛むだろう。でもマイトさんは優しく笑う。
「ところで誰か来ていたのかい? カップが二客出ていたよ」
「睡さんが、ビオラを連れてきました」
「ミッドナイトが?」
「昨日の非礼をわびたいと……」
あー、とマイトさんは天を仰いだ。
「気にしなくていいのにな」
そう漏らしながらの笑みに、わたしは少しいらだちを感じた。
「どうして何も訊かないんですか?」
「別に聞きたくもないからだよ」
わたしは大事なところをぼかして言った。マイトさんもぼかして答えた。けれど互いに、相手が何の話をしているのか、よくわかっていた。
マイトさんの返答に、わたしはますますいらだちを募らせた。今の言いようは、まったくマイトさんらしくない。
「わたしとビオラが会っているの、知ってたんですね」
長身の恋人は一瞬嫌そうな顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻って応える。
「ああ、だが安心しなさい。君の交友関係にまで口を出すつもりはないよ」
「マイトさんはヤキモチを妬いたりしないんですか?」
「私がかい?」
肩をすくめながらのいらえに、わたしはひどく傷ついた。冗談だろう?と言われたような気がしたからだ。
「前にも言ったろ。君が他の男のところに行くのなら、私はそれを止めないと。君の好きにするといい」
「それがマイトさんの気持ちなんですか」
「まあ、そうだね。それに私といるより、あの青年といる時の君の方が生き生きして見えた。年齢相応の恋愛というものはあるものだ」
「……だから黙認してきたって言うんですか?」
「そういうわけじゃない。ただ、君を縛るようなことはしたくなかっただけだ」
ああ、またこのやりとり。
涙が頬を伝っていく。
互いの間に、黒く深い溝のようなものが生まれてしまったような気がした。
溝どころではない、これは雪渓の中に生じた深淵、クレバスだ。
「だけどマイトさん。譲れる恋なんて、恋じゃないんですよ」
予想通り、これに対する返答はなかった。我慢できず、わたしは声を荒らげた。
「マイトさんはいつもそうですね。わたしを対等に扱ってくれない」
「そんなつもりはないよ」
「だって、これがママだったら!」
この瞬間、マイトさんの表情が変化した。笑顔ではないマイトさんが、わたしの目の前にいる。
「君はいつも、すみれを引き合いに出すんだな」
硬く強張った、冷たい声。
わたしは、マイトさんを怒らせてしまった事に気がついた。
でもきっと、彼は真実を突かれたから怒ったのだ。だからここで引くつもりにはなれなかった。
「今、すみれは関係ないだろう。いいか、君がどんなに嘆こうと、わたしとすみれが付き合っていた過去を消すことはできないぞ」
ああ、違う。こんな言葉を聞きたかったわけではない。ぐさりぐさりと、言葉の棘がわたしの心を突き刺していく。
「マイトさんは、わたしとママとどっちが好きなんですか?」
「すみれはすみれで、君は君だ」
「そんな言葉じゃ納得できない! だって!」
「だって……なんだい?」
わたしは知っている。マイトさんは未だに――。
「マイトさんは、未だにママの写真を大切に飾っているじゃないですか」
かつて開かずの部屋とわたしが呼んでいたサービスルームの棚の上には、未だに二つの写真盾が飾られている。
マイトさんと母と、幼かったわたしの三人で映っているものがひとつ。バイオレットの肩を抱いて笑うオールマイトの写真がひとつ。
「なんであんなものを、いつまでも飾っているんですか!」
「……すみれとの思い出を、取っておいてはいけないかい?」
「わたし……あれがあそこにあるの、嫌です」
「わかった」
マイトさんは立ち上がって、サービスルームに向かった。
わたしも慌てて後を追う。マイトさんの一歩は大きい。
ほんの少しの距離だけれど、前を行くマイトさんに追いつくために、わたしは走らなければならなかった。
やや乱暴にサービスルームの扉を開けたマイトさんは、棚の上に飾られた全盛期のオールマイトとママの写真を手に取った。
そのままどこかにしまうのかと思いきや、マイトさんは写真立てから中身を取り出し、その中央に両手をかけた。
長い指がゆっくりと紙を前後に引きはじめる。
ぴり……ぴり……と、写真の縁に、とりかえしのつかない亀裂が入っていく。
破けていく。
なにが?
母とマイトさんの思い出が。
違う。破れてしまうのは写真ではなく、マイトさんの心だ。
写真の中で笑うのは、母の肩を抱くオールマイト。マイトさんに寄り添うバイオレット。
わたしの知らない母と、わたしの知らないマイトさん。
「だめ!」
亀裂がオールマイトの頭に差し掛かる寸前に、わたしはマイトさんの腕にすがりついた。マイトさんの手が止まる。
「ごめんなさい! 違う……違うの」
違うのに。破り捨てて欲しいと頼んだつもりはなかったのに。
わたしの見えないところにおいやってほしかった。それだけだった。
本当に、どんどんわたしたちは拗れてゆく。
「もうやめよう」
写真を無造作に棚に置き、マイトさんがぼそりと呟いた。
「これ以上話しても、いいことは何もない」
「マイトさん…でも……」
「俊典だ」
初めて聞いた、吐き捨てるような冷たい声。
あ……とわたしが声を絞り出したのと、マイトさんが背を向けたのが同時だった。
「すまないが、すぐ風呂に入って休みたい。疲れてる」
とりつく島もない感じだった。
バスルームへ向かったマイトさんの足音を聞きながら、わたしは暗黒色のクレバスの中にはまり込んでしまったような錯覚に陥って呆然とした。
この深淵は、互いの間に生じた亀裂が巨大化したものだ。
大きくなった亀裂は谷をつくり、そこに冷たい雪が積もって深いクレバスと化した。
最初の亀裂はいつ入ったのだろうか。
わたしがビオラに会った、あの日からだろうか。
それとも、わたしがビオラに電話をした……あの夜からだろうか。
***
そしてこの日から、マイトさんの帰宅がまばらになった。事務所に寝泊まりする回数が増え、家に帰ってきてもすぐに寝てしまうか、着替えだけ持ってまた出かけてしまうのかのどちらかで。
マイトさんは、4月から大きく環境が変わる。
それに合わせ、オールマイトのマネージメントを請け負う秘書だけを残して、事務所そのものを縮小している最中だ。
ヒーロー業のかたわらにそれを進めているのだから、多忙なのはわかる。けれどこういった状況化でのすれ違いは、正直きつい。
家庭内別居というものがあるなら、おそらくこれがそうだろう。
互いにすれ違ったまま、日にちだけが過ぎていく。
そんな中、ビオラがわたしに会いに来た。
それは最後に睡さんを交えて会ってからひと月近くが経過した、三月の下旬に差し掛かった日のことだった。
「ごめん。突然会いに来たりして」
「いいえ。わたしもあなたとは一度きちんと話をしないといけないと思っていたから」
マンションのすぐ近くにある日本庭園のベンチで、わたしたちは話をした。
頭上を仰ぐと、ほころび始めた桜の蕾が目に映った。
ああ、もうすぐマイトさんと暮らして二年になるんだ。
もう二年。でも、まだ二年。
「あれから、大丈夫だった?」
言いにくそうに、ビオラが口を開いた。
「大丈夫もなにも、マイトさんは大人だから」
嘘をついた。本当のことを言わない方がいい時というものもあるのだ。
「そうか……なら良かった。それだけ気になったものだから。」
ほっとしたように、ビオラが笑った。
「君の方の話ってなに?」
「うん。わたしね、もう、あなたと二人きりでは会わない」
「友達としても?」
「ええ、友達としても」
「そうか……」
ビオラは残念そうに下を向いた。
鼻筋の通った横顔を眺め、本当にこのひとは端正な顔立ちをしているなと思った。心身ともに美しい、立派な青年。
だからこそ、このひとはもう解放されないといけない。わたしたち母娘から。
「ねえ」
「なに?」
「もう、髪を染めるのはやめたら? 紫の髪よりも、銀色の方がずっと似合うと思う」
「そりゃ、大きなお世話じゃないか?」
「バイオレットの娘のわたしだから言うの。あなたはもう、母から解放されるべきだと思う」
マイトさんが母とわたしを重ねているのかどうかは、いまでもわからない。
けれどこれだけは言える。
もっとも母とわたしを重ねていたのは、銀色の髪をバイオレット色に染めた、この青年であったのだと。
「母を尊敬してくれることは、とても嬉しい。母のようになりたいと思ってヒーローになってくれたことも。でも、もう母に囚われるのはやめて。あなたはもう、自分の人生を生きなきゃだめ」
「……」
「バイオレットは、粉月すみれは、きっとそう思ってる」
しばらく下を向いていた、ビオラがゆっくりと顔をあげた。
「参ったな。バイオレットとよく似た君にそんなふうに言われたら……」
「うん。でもね、ママもそう言うと思うの。本当に」
「その辺のことは、自分でもう一度良く考えてみるよ」
ビオラはやおら立ち上がり、ジーンズの尻のあたりをぱんぱんと叩いてから、大きく伸びをした。わたしも彼に合わせて立ち上がる。
「マイトさんのことは悪かったね。俺が引っ掻き回した形になってしまった」
「いいえ。それで壊れるような仲なら、そこまでだったのよ」
「君は本当に潔いな」
「ありがとう」
そんなことはないのよ、と思ったが、それは口に出さなかった。
じゃあ、と、差し出された手をわたしは握る。
偶然触れてしまった事はあったが、こうしてきちんとこの人の手を取ったのは、そういえばこれが初めてだ。
「ああ、言い忘れてた。ミッドナイトから伝言」
「睡さんから?」
「なにか困ったことがあったら、いつでも相談しにおいでってさ」
じゃあな、と少しさみしそうに笑って、ビオラは去って行った。彼は最後の最後まで、春の風のように爽やかな好青年だった。
ビオラと別れた後、春の香りがする庭園でわたしはしばらく立ち尽くしていた。
睡さんは、いつもわたしが困っていると助けてくれる。
年度初めの準備で忙しいだろうに、こんなことで連絡をしてもいいものだろうか。
でももしかしたら、あのひとならこの状況を打破できるようなアドバイスをくれるかもしれない。
睡さんはわたしだけでなく、ヒーローとしてのオールマイトのことも、よく知っている。
わたしは再びベンチに腰掛け、睡さんにメッセージを送るための準備を開始した。
この暗黒色のクレバスから、抜け出すために。
2016.2.28