10話 ウィステリアミストの消失

 新宿の空には、淡い紫がかった灰色の曇がどんよりと広がっていた。
 今日は風が強い。ビル風が強く吹く、ここではなおさらだ。
 ウィステリアミストの雲たちが、すごい勢いで流れていく。せっかくほころび始めた桜の花も、この風では散ってしまうのではないだろうか。
 睡さんことミッドナイトの所属事務所は、この街にある。

「あんたねー、そういう青臭くて面白いことは、ここまでこじれる前にお姉さんに相談しなさいよ」

 都庁からほど近いカフェの一角で、わたしの話を最後まで聞き終えた睡さんが愉快そうな声を出した。
 口元を彩る春らしいピンク色の口紅が、華やかなこのひとにとてもよく似合っている。睡さんは薫り高いピオニーの花のようだ。

「しかし驚いたわね。入れあげてるのは知ってたけど、オールマイトさん、そこまでのめり込んじゃってるんだ……」
「え? 逆じゃないんですか?」
「ばかね」

 ことりとカップを置いて、睡さんが続ける。

「まずね、男が『他の男が良かったらいつでもそっちに行っていい』なんていう場合はね、三通りあるの」
「はあ」
「まず一つ目は、女に対して責任を持ちたくない男が逃げ道として使うのよ。でもオールマイトさんは違うわね。で、もうひとつは、『そんなことしません。あなたが大好き』って言ってほしいだけの甘えた男。でもあの人はそのタイプでもないわよね」
「……たぶん」
「で、最後に残るのは、嫌なんだけどそうあらなければならないと本人が思いこんでいて、自分に言いきかせるために言うパターン。相手に対して負い目を感じている場合が多いかな。あとは不治の病かなにかで、余命わずかだったりした場合とか」

 余命わずか、という言葉にぎくりとした。
 あのひとは言っていた。私には時間がないのだと。
 それはちょっとしたことで血を吐き、ぜいぜいと苦しそうに息を吐きながらヒーローとして現場に立つあのひとを見るたびに、心をよぎる言葉でもあった。

「まあ、余命はともかく、問題は負い目の方よね」
「負い目?」
「アンタは気づいてなかったかもしれないけど、マイトさんはすごく負い目を感じてるのよ。あんたに。年齢的なものだけじゃなくて」
「負い目って、いったいなんでしょうか?」
「うーん、残念ながら、そこはあたしにもわかんないわ。あんたの前で悪いけど、あれだけの男が、可愛いけれど普通の女子大生にあそこまで負い目を感じてるのが、ホント不思議」
「君を縛るつもりはない……ってよく言われるのも、その負い目につながるのでしょうか」

 ふふっ……とおかしそうに睡さんは笑う。

「聞かれもしないのにわざわざ口にするってことはね、『本当は君を縛りたい』って言っているのと同じことなのよ」
「……」
「だからね、あんたたちの場合は、きちんと話し合えば簡単に解決すると思うわ」
「でも、話せば話すほど、どんどんこじれていきました……」
「それは、あんたがすみれさんを引き合いにだしたからよ」

 きっぱりとした言葉に、冷たい水を脳天から浴びせられたような気がした。

「いい? 今、オールマイトさんの側にいるのはあんたなの。そこを大事にしなさい。オールマイトさんがあんたとすみれさんを呼び間違えたのも一度だけで、それも付き合う前の話よね?」
「……はい」
「だったらそのことはもう忘れなさい。そのかわり、二度目があったら絶対に許しちゃだめ。たぶん、二度目はないと思うけど」

 わたしは睡さんから目を逸らして、ティーカップを見つめた。青い花やレースが模様づけされたデンマーク王室御用達のカップは、美しくて繊細。
 ああ、まただ。
 耳に痛い話題だからと別のことを考えて逃げようとしている自分に気がついて、わたしは気持ちを引き締めた。
 ここで逃げては睡さんに相談している意味がないし、なにより失礼だ。

「あんたの場合は、相手が自分の母親だから倍つらいわね。それでも、すみれさんのことは、二度と引き合いに出しちゃいけないの」

 睡さんの口から出た言葉は、予想通りわたしにとってはきついものだった。
 いつまでも母にこだわっているわたしが悪い。それはわかっている。けれどどうしてもだめなのだ。
 でも、だって、けれど……言わないようにと覚悟した言葉だけれど、それでもやっぱり難しい。

「あんたはもっと自分に自信を持つこと。それから自分が好きになった男を信じなさい。あのひとは好きでもない女を、簡単に自分のパーソナルスペースに引き入れるような男じゃないわよ」

 確かにそれはその通りだろうと、素直に思った。

「第一、あの年齢であんたが初めてのオンナだったら、それはそれで引くでしょうよ」
「……まあ……たしかに……」
「それから、オールマイトさんを本名で呼ぶかどうかってことだけど」
「はい」
「本人が呼んでくれって言ってるんだから、あんたは余計なことを考えないで、呼べばいいのよ」
「でも……もし他の人の前で呼んだりしたら……」
「それでもいいと思っているから、呼んでくれって言ってるんじゃないの? そういうことを考えない人じゃないと思うわよ。あとね、それ、拗れてる原因の一つだと思う。はっきり言うとすねてんの」
「すねてるんですか? マイトさんが?」
「男はね、いくつになっても子供みたいな部分を残してるのよ。ううん、男っていうより、人はみんなそうなのかもね」

 睡さんもマイトさんもわたしから見たらすごい大人なのに、それでもやっぱり子供のような部分を残しているという。なんだか少し、不思議な気がした。

「ま、このまま放置して、追わせてみても面白いかもよ」
「そんなこと、マイトさんがするわけないじゃないですか……」
「どうかしらね。あのひと、あんたに関しては嘘みたいに余裕ないわよ」
「とてもそうは思えません……」
「ふふふ。まあ、そう思っていらっしゃいよ」

 睡さんはピオニーの花がひらくように、華やかに笑った。

***

 午後から出勤予定の睡さんにお礼を言って、その場で別れた。
 短い時間だったけれど、力になる言葉をたくさんもらえた気がする。
 途中のカフェでひとりランチをして、わたしは駅へと向かった。
 家に帰る前に、行きたいところがある。わたしとマイトさんの原点でもある場所だ。
 あの大切な場所で、これからのことをゆっくり考えてみよう。そう思った。

 けれど地上を走る環状線を降りた瞬間、自分の失敗に気がついた。ここが、都内有数の桜の名所であることを失念していた。
 曇天であるにもかかわらず、公園側の出口は、ほころび始めた桜を見に来た花見客でごった返している。

 公園内を通っていくべきか、混雑を避け迂回するべきかほんの少しだけ迷って、それでもわたしは前者を選んだ。人が多くとも、薄紅色の花を楽しみながら歩きたかった。

 最も人気が高い桜並木に向かう人の波に押されながら園内を歩いていると、不意に前方の人だかりが大きく揺れた。
 モーセの十戒を見るように、左右に分かれる人の波。
 そのはるか向こうから、柄の悪い集団が暴れながらこちらに近づいてくるのが見て取れた。

 ヴィランというほどではないが、たちの悪い若い男の集団だ。
 明らかに酔っている体で、ひとりは口から火を噴いて桜の枝を燃やし、もうひとりは身体から岩石を出しては、それを周囲に放り投げている。大音量で音程のとれない歌をうたう男の声に、売店の窓ガラスにびしりとヒビが入った。悪臭がする濁った色の液体を振りまいている者もいる。

 けれどここは有数の花見の名所だ。人も多いが、警察やヒーローもそれなりの警護体制をとっている。
 当番のヒーローたちがこちらに向かって駆けてくるのを確認し、安心した瞬間だった。

 がつん、と頭に大きな衝撃。

 一瞬にして、周囲の景色が黒一色に塗りつぶされた。

***

 目が覚めた時、わたしは薄暗い部屋の中にいた。
 灰色がかった白い壁と、カーテンのついた無機質なベッド、腕に伸びているのは点滴のチューブだ。

 自分が病室のベッドに寝かされているときことに気づくまで、少しかかった。

 今、何時なのだろう。ここはどこの病院なのだろう。
 気になることはいくつかあったが、薄紫をおびた灰色の靄がかかっているような感じがあって、うまく頭が働かなかった。とにかく眠い。
 頭を打ったせいだろうか、それとも点滴に眠くなる作用のお薬でも入っているのだろうか。
 ふうと息を吐き、わたしは再び眠りに落ちていった。

 それからどれくらい時間がたったのだろう。

 そっとベッドサイドに目を向けると、額の位置で祈るように五指を組み、うな垂れている長身痩躯がそこにいた。
 わたしは少し打ちのめされた。

 平和の象徴、正義の象徴と謳われる英雄とは思えない、憔悴しきったその姿。痩せた姿になってもなお、傲然と前を見据えていたはずのひとなのに。
 いつもの凛とした偉丈夫はどこにもいない。ここにいるのは、強く握れば折れてしまいそうな痩せ細った体の、ひどく頼りなげな男のひとだった。
 著しく精彩を欠くその姿が哀しくて、わたしはマイトさんのほうへ手を伸ばした。

 気配を察したのだろう、はっとしたようにマイトさんが顔をあげた。そこに浮かんでいるのは、わたしを安心させるような満面の笑み。だが、それがますますわたしを哀しくさせた。
 このひとは、自分の弱い部分を、こうして隠して生きてきたのだろうか。

「実桜、気がついたのか」
「大丈夫かい?」
「はい」

 よかった……と、心の底から安心したかのようにマイトさんは息をついた。

 マイトさんの話によると、公園で暴れていた集団が放った何か――おそらく岩石――が頭に当たり、わたしは気を失ってしまったらしい。すぐに病院に搬送され、いろいろ検査をされたそうだ。

「検査の結果は異常なかったそうだよ。ただ頭を打った後は急変することもあるから、今日は念の為に一晩入院したほうがいいそうだ。明日の朝までに何もなければ、そのまま家に帰ろうね」
「ごめんなさい、心配かけて……」
「馬鹿なことを。そんなことは気にせず、君はゆっくり休みなさい」

 マイトさんはそう言って、わたしの頬に優しく触れた。

「本当に……大事に至らなくて良かった……」

 愛おしげにわたしを見おろすのは、晴れ渡った空と同じ色の青い瞳。

「お腹すかないかい? 栄養補給のゼリーなら用意してあるけど、固形物が食べられるようならサンドイッチか何か買ってこようか?」
「あ……ゼリーいただきます。マイトさんは? 何か食べました?」
「私はさっきおにぎりを食べたから、大丈夫だよ」

 不思議なことに、お腹はあまり空いていなかった。
 マイトさんに起こしてもらって、用意してくれたゼリー飲料をゆっくりと口に含む。マスカット味のゼリーはひんやりしていて、するりと喉を通ってくれた。

「……マイトさん」
「ン? なんだい?」
「手を……繋ぎたいです」

 いいよと差し出された手をとって、節くれだった指にちゅっと口づけた。
 ぼぼっという音がしそうな勢いで、マイトさんの顔面が朱に染まる。
 このひとはずっと年上であるにもかかわらず、こういうところが本当にかわいい。
 頼りになる大人の男性としての顔も、ヒーローとしての英雄然とした顔も素敵だけれど、わたしはマイトさんがちょっとした時に見せるこういった隙がとても好き。

 こほん、と咳払いしてマイトさんは続ける。

「実桜、横になろうか」
「横になっても……少しの間、こうして手を繋いでいてもらってもいいですか?」
「もちろんだよ。私も今日はここに泊まらせてもらう手はずをつけたから」
「え? どこで寝るんですか?」

 あそこ、とマイトさんは部屋のソファを親指で差した。
 こんな大きい人が、あんな小さなソファで寝られるのだろうか……それに疲れているはずのマイトさんを、あんなところで寝かせてはいけない気がする。
 でも今日は、ずっと一緒にいて欲しい。こうして手を握っていてほしい。

「実桜」
「はい」
「ずっとそばにいるから、だから安心して寝なさい」

 お返しだよと、手の甲に優しく唇を落された。

 何という単純さだろう。
 「ずっとそばにいる」
 そんな一言だけで、わたしの心に吹き荒れていた白い嵐も紫がかった灰色の雲も消失し、若草色に彩られた大地が目前に広がってゆく。
 脳内お花畑か、と過去の自分なら突っ込むだろう。
 だが、恋する女なんて、しょせんはそんなものなのかもしれない。

 暗黒色のクレバスは未だに大きく口をあけ、わたしが落ち込むのを待ち受けている。
 それでも見通しさえ悪くなければ、深淵に落ちることを避けることはできるはずだ。
 わたしたちの歩む道は一つではない。クレバスを迂回して進むルートを選択することも、間に橋を架けることも、きっとまた可能なのだ。

***

 翌朝、わたしたちは病院を後にした。
 医師からは、この後もめまいやしびれ等の異常が起きたらすぐに受診するようにと釘を刺された。

「頭の傷って怖いんですね」
「そうだね、だからしばらく無理はしないで。なにかあったらすぐに言うんだよ」
「わかりました」

 朝になって初めて気がついたのだが、わたしが運ばれてきたのはあの蓮池からほど近い場所にある、国立の大学病院だった。
 池側の門を出て大きな通りに出れば、すぐに公園が見えてくるだろう。

「君が大丈夫ならだけど、外で少し話をしようか」
「はい」

 わたしはうなずいた。
 マイトさんがどこに行こうとしているのか、なんとなくわかるような気がした。昨日、わたし自身も行こうと思っていた場所だ。

 春には桜が、夏の朝には美しい蓮の花が咲くあの池。
 桜の花がほころび始めているので人は多いだろうが、こちら側から行けば、花見客でごった返している公園中央の桜並木は避けられる。

 わたしは黙ったまま、マイトさんの後について歩いた。
 初めてこの街を訪れたのは十年以上も前のこと。母とオールマイトと、幼かったわたしと。
 次にマイトさんとここに来たのは二年前、18歳の春のことだった。
 そして昨年の夏、あの公園で蓮のつぼみを見ながら互いの気持ちを確かめ合った。

 今日これから、ほころぶ薄紅色の花の下でわたしたちは何を語るのだろう。

 蒼天の下、生暖かい春の風が吹いた。
 それは昨日よりも一段温かく、そして優しい風だった。

2016.3.9
月とうさぎ