昨日一日で一気に花開いたのか、それとも池側のほうが日当たりが良いのか、駅側は五分咲きだった桜が満開を迎えている。
桜から少し離れたベンチにわたしたちは腰を下ろした。中途半端な時間であるせいか、花見客はまだ多くはなかった。
二年前ここに来たときは、子連れで人気の動物園からほど近い場所にラブホテルが点在していることに驚いたのだっけ。
そう、この公園の周りはラブホテルが多い。
一説によると、我が国のラブホテルの発祥は、この池の周辺にあった江戸時代の「出会い茶屋」であるという。
ああ、ほら……わたしはまた現実と向き合うのがこわくて、どうでもいいことを考えて逃げようとしている。
これからマイトさんは、いったいどんな話をしようというのだろうか。
「写真のこと……悪かった」
唐突に放たれた低い声でのつぶやきに、わたしは驚いてマイトさんを見つめた。
「え?」
「確かにあれは、君にとって気持ちのいいものじゃなかったね。すまない」
「……わたしのほうこそごめんなさい。あれはマイトさんとママの大事な思い出だったのに……」
「いや、私の配慮がたりなかった」
自分でも驚くほど、自然に謝罪の言葉が滑り出た。言葉のやりとりというものは、こだまのようなものなのかもしれない。
負の感情をぶつければ、負の感情が返ってくる。優しい言葉を投げかければ、優しい言葉が返ってくる。きっと、そんなものなのだろう。
頭上の木々から降り注ぐ木漏れ日を弾いて、マイトさんの髪がきらきらと輝いていた。太陽光に弾ける黄金を前にしみじみ思う。
使い古された言葉だが、このひとは、やっぱりわたしの太陽なのだと。
「その……」
その太陽の化身のようなひとが、池の方向を見たまま言いにくそうに口を開いた。
「はい」
「いや、なんでもない」
「言いかけてやめるのはずるいです」
マイトさんは視線を逸らしたまま、口を大きくへの地に曲げた。いつもまっすぐにこちらを見つめてくるこのひとらしくないと思った。いったいどうしたことだろう。
「……君が無事でよかったよ……」
嘆息しながらの声に、わたしははっとした。
意識を取り戻した時に見た、打ちひしがれたマイトさんの姿が浮かんだ。
あの時、マイトさんはなにを思っていたのだろうか。
「何度も言うようだが、君が他の男のところに行きたいと言うのなら、私は止めない」
またこの話になるのかと、わたしは心の中で溜息をついた。ほんとうにマイトさんは勝手だ。
わたしの意見など全く聞こうとせず、同じことを何度も何度も繰り返す。壊れてしまったアナログプレーヤーのように。
今までのわたしであれば、ここでくじけてしまっていただろう。けれど睡さんからのアドバイスを受けた、今ならわかる。
執拗なまでに繰り返されるこの一言は、このひとが『かくあらねばならない』と心に決めているからだと。
こんなこと、もう二度と言わせたくはない。
「マイトさん。わたし、そういうことを言われるの、とても嫌です」
「え?」
慌てたように、青い瞳がわたしの瞳を覗き込む。
「はっきり言っておきますが、わたし、他の男性にはまったく興味ありません」
このとき、蒼天と同じ色をした瞳が大きく揺らいだ。
やっと確信した。
このひとは、なにか大きな不安を抱えている。それが何かはわからない。
年齢差のことだとしても、わたしは一応成人している。法的には何の問題もない。
批判されることもあるが、親子ほどの年齢差の夫婦なんて世の中たくさんいる。
男性側がそれなりの地位にある場合は、なおさらだ。
オールマイトともあろう人が、そんなことに不安を抱くとは思いにくい。
「わたし、もうビオラとは会いません。何日か前に、本人にもそう言いました」
「だったら何故、この公園に来ていたんだい?」
えっとわたしは顔をあげた。マイトさんは笑っているがその眼は笑っていない。
どうしてこんな目をしているのだろう。
「ここがわたしたちにとって、大切な場所だからです」
「え?」
「なにか?」
いや、と言葉を濁してマイトさんが口元を覆った。
わたしは黙ったまま、青い瞳をじっと見つめた。
これは、目の前の人がわたしに教えたやり方だ。
怒鳴ったり激高したりするより、しつこく問い詰めるより、黙って見つめられたほうがよほど効果的なこともある。
やがて晴れた空色の瞳の持ち主は、観念したように口を開いた。
「すまない。昨日はビオラと会っていたのかと思っていたんだ。あの日、彼は動物園内の警備にあたっていただろう? だからてっきり……」
「てっきり?」
「彼の警備の終わる時間に合わせて、待ち合わせていたのかと……」
「いいえ。わたし、ビオラの予定は知りませんし」
「……」
「それにしても、ヒーローって他のヒーローの予定まで、把握しているものなんですね」
深い意味もなくこぼれた言葉だったが、これはマイトさんにとって、十分すぎる爆弾だった。
顔を赤らめ目を白黒とさせながらしどろもどろになっている、平和の象徴。
わたしはそれ以上の追及をやめた。
どれだけマイトさんがビオラを意識していたか、はっきり理解したからだ。
トップヒーローがプライベートな理由で、ルーキーを意識する。それを知られることはきっと、マイトさんにとっては、恥ずかしいことであろうから。
「誤解させるようなことがあったかもしれませんけど、わたし、ビオラを恋愛対象として意識したことはありません」
「……うん」
「だからもう二度と、わたしを誰かに譲ろうとなんかしないでください」
「譲ろうとはしていないよ。ただ、君が彼を選ぶなら、仕方がないと思ったんだ」
わたしはきゅっと眉を寄せた。マイトさんはため息をひとつついてから続ける。
「正しくは、仕方がないと思おうとした……かな」
「どうして……?」
「正直な話をさせてもらうと……君たちがあのオープンテラスで会っているのを見た時に、ひどく打ちのめされたからだよ」
打ちのめされた? マイトさんが?
意外すぎて合槌を返すこともできなかった。
「心の底から似合いのふたりだ、と思った」
「……」
「君は私とではなく、ああいう男と一緒になるべきだ、そう思ったんだ」
どうしてだろう。いったいなにがこのひとをこんなに追い込んでいるのだろう?
本当だったら『あなたに自分は相応しくない』と思い込むのはわたしの方であるはずだ。当代一流の男性と平凡な女子大生では、その社会的な価値は比べるべくもない。
「マイトさん。前にも言いましたが、譲れる恋など恋ではないんですよ」
「ん」
マイトさんはまた、曖昧な返事をして、曖昧に笑った。
ああ、きっと、このひとは傷つくくらいなら何もない方がいいと、虚無を選んで生きてきたのだ。
執着も依存もせず、傷つけあうことを厭い、ひとり立ち去る。それはある意味、美学であるのかもしれないけれど。
太陽を反射して、池がきらきらと光っているのが見える。池の向こうで風に揺れている薄紅色の桜の花も、とても綺麗だ。
こんな話をしているのでなければ、幸せな気持ちでこの美しい風景を愛でることができただろうに。
でもやっぱり、これはいい機会なのだ。
思い出深いこの場所で、今まで生じた亀裂を埋める作業をすることは、きっととても大切なこと。
傷心よりも虚無を選ぶなんて、わたしが相手である以上、そんなことさせない。
「わたし、マイトさんにはもっと正直になってほしいです」
マイトさんはちょっと目を細めて、なぜか眩しそうにわたしの方を見た。
わたしはそのまま返答を待った。マイトさんは困ったような顔で、フワフワとした頭髪をかき回していた。
そしてしばらく黙っていたマイトさんが、意を決したように口を開いた。
「私の本音は、重いぞ」
「え?」
「このあいだ一緒に観た映画を覚えているか? あの映画を選んだのはまったくの偶然だったが、あれを見た時、私は未来の自分をみているようでぞっとした」
年齢の離れた夫が、若い妻にどんどん入れあげ、心を蝕まれていったあの映画。最終的に夫は妻を手にかけることを選択した。妻を永遠に己のものにするために。
でもきっと、このひとはどれだけ追い込まれたとしても、そういうことはしないだろう。それだけはわかる。
「この先、私は少しずつ力を失っていくだろう。その時に私はどうなっているかわからない。もし生き延びられたとしても、失った力のかわりを求めるように君に執着し、すがりつくかもしれないんだ」
「いくらでもすがりつけばいいんです。それが共に生きるということではないでしょうか」
「簡単に言わないでくれないかな」
あまりにも陰鬱とした声に、わたしは言葉に詰まった。
「その時の私は……おそらくもう……オールマイトではない」
暗灰色の呪詛にも似たこの小さなつぶやきは、雷獣の咆哮のようにわたしの心の底で鳴り渡った。
雷が大地を走るようにわたしの脳裏にびりびりと響いたその衝撃は、ひどく残酷な現実。
この瞬間、わたしはすべての謎が解けたような気がした。
このひとは、自身がオールマイトでなくなることを、こんなにも恐れている。
だからこその自己犠牲。頑ななまでに誰かを救おうとするその姿勢も、自己が存在する理由を確かめるためのもの。もしもそうであったとしたら。
想像しただけでぞっとした。
このひとの抱える闇は、いったいどこまで深いのだろう。
「マイトさん……」
「……俊典だ……」
弱く苦しげな声。ごつごつとした骨ばかりが目立つ拳。折れそうな手首。力なく落とされた肩。細長い首筋。げっそりと肉の削げ落ちた頬。
わたしはこの時、自分の間違いにも気がついた。
あなたが今すぐヒーローを引退してくれるなら、わたしは喜んでその名を呼ぶ。
ただの男性になってくれさえすれば、わたしは幾度もその名を呼ぼう。
けれどあなたはきっと最期の瞬間まで、オールマイトでいようとするだろう。
だからこそ、わたしは軽々しくその名を呼んではならない。
ずっとそう思ってきた、けれど。
「あのひとは呼んでほしいタイプだと思うけど」
「呼んでくれっていうんだから、素直に呼んでやればいいのよ」
マイクさんや睡さんの言葉が、頭の中で蘇る。
比類なき英雄であるはずのこのひとは、本当に矛盾だらけだ。
誰より強くあろうとし、それを体現しているのに、この内情はこんなにも弱い。
あんなにも勇敢なのに、こんなにも臆病だ。
自己を犠牲に他者を助けながら、己の力が失われていくことに何より怯える、自己を殺したエゴイスト。
臓器を失い命を削り、それを人に悟られぬよう笑い続ける豪胆な英雄。失うことを怖がって、傷心よりも虚無を選ぶ怯弱なひと。
共に暮らしていたくせに、このひとの内包する矛盾に気づけなかった、わたしはばかだ。
「実桜?」
「マイトさん」
「……なんだい?」
「わたしが好きなのは、オールマイトじゃない。優しいあなたです。強くなんかなくていい。衰えたってかまわない」
残念なことに、わたしは強い個性には恵まれなかった。無個性ではないけれど、どこにでもあるような凡庸な個性。
そう、わたしはヒーローではない、ただの女だ。
だからわたしは、このひとが同業者には絶対に見せられない弱さを、孤独を、悲しみを、すべて受け入れ飲み込もう。
ヒーローではないただびとだからこそ、それができる。
共に立ち、戦うことができないかわりに、わたしは彼を受け入れる。
俊典という一人の男の、弱さと脆さと真実を。
「わたしね、オールマイトの活躍を見るたびに、いつも泣いていたんです」
えっとマイトさんが顔をあげた。そして次に、すべてを察したように肉付きの悪い顔を曇らせた。
「だから、わたしはあなたの名前を呼んではいけないと思っていました。あなたになにかあったら、わたしはきっと場所もなにもわきまえず、その名を呼んでしまうだろうから」
「そうだったのか……」
「でも、それでもかまいませんか?」
「……かまわないよ」
「わたしは弱い女です。いつまでもママに焼きもちを妬いたり、闘うあなたの姿を見ただけで泣いてしまったり……それでも、わたしはあなたの側にいたい。弱い女なりに、覚悟は決めているんです」
マイトさんは固い表情のまま、ただ静かに頷いた。
「だから、他の男のところに行ってもいいなんて、もう二度と言わないでください」
「……うん」
「それからもう一つ」
「なんだい?」
「もう、無理して笑わないで」
ぐっとマイトさんが息をのんだ。
どんなに愛し合っていても、出せない部分はきっとある。殊にこのひとはそうだ。
「自分の弱みを誰にも見せないということは、とてつもなく弱いことと同じなんですよ」
このひとは、『正義と平和の象徴、オールマイト』だ。
だからこそ、他者には立ち入らせない絶対的な部分がある。そこには誰にも入れない。
もしもその領域に入れる人間がいるとしたら、それはオールマイトを救える存在……『オールマイトの意思を継ぐ者』ただひとりだろう。
かつてマイトさんは言っていた。『託せる少年が見つかったんだ』と。
当時のわたしには意味がわからなかったが、もしも託したものが『オールマイトの意思』であるなら、きっとその少年は、次世代の『最高のヒーロー』になりうる器であることだろう。
だから『英雄オールマイト』の救済は、会ったこともない、その誰かにまかせる。
けれど『俊典』の弱さを受け入れ慈しむことは、わたしの仕事。
「あなたが泣けるただ一つの場所に、わたしはなりたい」
ざあっ、と一陣の春の風が吹き荒れ、わたしの視界を一瞬うばった。だからこの時、マイトさんがどんな表情をしたのかわたしにはわからない。
咲いたばかりの桜の花びらが、輪舞を踊るようにひらひらと舞い落ちてゆく。
「実桜、私は臆病で弱い男だ」
と、マイトさんが口を開いた。
「だから、この力が失われていくことが、本当はとても怖い」
「はい」
「力を失った後どうなるかも、実のところ、まだわからない」
「はい」
「それでもきっと私は、オールマイトになれなくなるその瞬間まで、ヒーローをやめないよ。だからもっと、君を泣かせる」
「いいですよ。たくさん泣かせてくださいね」
「それどころか、私は君の前で泣いたりしてしまうかもしれないよ」
「どうぞ。それはお互い様ですよ」
「実は嫉妬深かったりもするんだぜ?」
「そうなんですか? それは楽しみですね」
「そんな情けない私でも、本当にいいのかい?」
「他の人ではダメなんです」
マイトさんはそれ以上問おうとはせず、静かに上を向いた。
わたしたちの間には、60センチ近い身長差がある。座っていても、上を向かれたら彼がどんな表情をしているか、わたしからは見えない。
春の風が、さらさらとまたわたしたちの上を通り抜けてゆく。優しくあたたかい気持ちになれる、やわらかい春風。
「あー……」
しばらく上をむいていたマイトさんが、いきなり声を発した。
「君はこの半年で、ずいぶん大人になったんだな」
「そうですか?」
「まったく本当に、君には油断ならないよ」
わたしを見おろして、少し照れたようにマイトさんは笑った。
「じゃあまずは手始めに、今から私を名前で呼んでくれないか」
「はい、俊典さん」
ずっと呼びたかった名を呼んで、薄い胸に頬を寄せた。大きな手が私の髪をくしゃりとかき回す。
わたしたちにとって、本当にここは忘れられない場所になってしまった。
薄紅色の桜の花の手前に、六角形の弁天堂が見える。
周りが騒がしくなってきた。少しずつだが花見客が増えてきたのだろう。それに気づいたのか、俊典さんが微笑んだ。
「場所、移動しようか」
「……どこかに行くんですか?」
「君さえ大丈夫なら、ちょっと寄り道をしようかと思ってね」
「寄り道ですか?」
「古き良き時代の洋館は好きかい?」
「はい」
「そりゃよかった。ここから歩いてすぐのところにね、財閥のお屋敷だった庭園があるんだ。行ってみないか」
「行きたいです」
うん、と互いに頷きあって、立ち上がった。
わたしの想い人は背が高い。だからついと上を見上げた。
落ちてくる宝石のような木漏れ日と、それを跳ね返す黄金が眩しい。
池の向こうに咲き乱れている、薄紅色の桜たちが風に揺れている。
この先何があったとしても、わたしはこの公園の夏と春の光景は、ぜったいに忘れはしないだろう。
この日、わたしたちを隔てていた暗黒色のクレバスの上に、薄紅色の架け橋が確かにかかった。
2016.3.21