春色の時間

 鍛えても鍛えても、衰え細りゆく身体。少し動いただけで切れる息。
 以前なら一撃で倒せたレベルの相手を、連打しないと倒せない。
 役目を終え消えゆくことをシブいと笑ってはみたものの、自らの力が徐々に失われていくことに、私はかすかな恐怖をおぼえている。
 オールマイトではなくなった私に、果たして価値はあるのだろうか。




「春色の時間」




 花見客の喧騒を避けるために、私たちは明治時代の財閥の邸宅跡の庭園へと向かった。
 旧財閥邸はすぐそこだ。公園前の大きな通りを渡るとすぐに、右手方向に入り口が見えてくる。その先は木々に囲まれた広めの砂利道がつづく。

 実桜が嬉しそうに、私を見上げて笑った。

 ああ、この子のこんな顔を見るのはほんとうに久しぶりだ。
 最近は、暗い顔をさせてしまうことが多かった。原因は自分にあると知りながら、どうすることもできなかった。
 まったく情けない話だ。

「俊典さん、かつてこの豪邸で暮らしていた人たちはここを馬車で通ったのでしょ?」
「だと思うよ」
「馬車って憧れちゃいますよね」
「え? そう?」
「憧れますよー。現在ではなかなか乗れないだろうと思うから、なおさらです」

 なるほど、よくわからないがそういうものか。
 明治時代の財閥の面々が実桜憧れの馬車で通った道を、現代の私たちは徒歩でのぼる。
 
 坂をのぼりきったその先に、広大な邸宅が待ち受けていた。

 白い壁に青い屋根のコントラストが見事な洋館とシックな和館。そこからやや離れた芝生広場に建てられた遊戯室。
 現在は通ることができないが、遊戯室と館は地下道でつながっていると注意書きがされている。
 これらすべてが個人の持ち物だったと言うのだから恐れ入る。

「すごいですね。各部屋に暖炉が設置されてるなんて」

 洋館の中で、実桜が感心したような声を上げた。

「暖炉いいよな。今は大気汚染の関係で暖炉は難しいけれど、いつか薪ストーブのある家に住みたいね。東京じゃ難しいだろうけどな」
「そういうものですか」
「ウーン。最新式のものは排気もクリーンだと聞くけれど、多少なりとも煙や匂いが出るものだからね。都会の住宅事情ではまず無理だろ」
「わたしは海の見える場所に住んでみたいです。だからいつか、薪ストーブを焚いても苦情が来ないような、程よい田舎で暮らしましょう。綺麗な海と、薪ストーブと、ロッキングチェアーに座る俊典さんと、その足元に寝そべる毛足の長い大型犬と」
「ずいぶん具体的なんだな」
「……あと二十年くらいしたらそうなればいいな、なんて、ずっと思っていたんです」
「え? そうなの?」

 そうですよ、と恥ずかしそうに実桜が笑う。
 だが実桜、すまないがその『いつか』はおそらく来ない。

 こういう会話をするたびに、実桜に対する申し訳なさと、己の中に生じてしまった生や力への未練とが暗雲となって心の中にひろがってゆく。

 この身に余るほどの強大な個性を与えられた瞬間から、それに恥じない人物であらねばならないと己を律し続けた。
 たとえこの身が砕けようとも、ひとりでも多くの人を救うのだ。それがこの個性を引き継いだ者の使命なのだと、個性と共に引き継がれてきた崇高な意思なのだと、そう自分に言い聞かせながら生きてきた。
 それこそが私の存在理由だったと言っても過言ではない。
 だから、この身を平和の礎にすることに後悔したことは一度もなかった。
 後悔はない。そのはずなのに、この幸せを手放したくないと心のどこかが叫びをあげる。
 これが平和の象徴と謳われた男の未練がましくも情けない本音であると、誰が知ろうか。

「俊典さん!」

 急に名を呼ばれてどきりとした。

「ごめん。なんだい?」
「嫌なことは、考えないで」
「……すまない」

 まったくこの子は、私には過ぎた恋人だ。
 聡く優しく、そして我慢強い。
 親子ほどに年齢の離れた二人なのに、時折立場が大きく逆転してしまうことがある。
 娘のような年齢の実桜に己の弱さを吐き出し、甘え、縋りたいと思ってしまう。
 そうしてほしいと年若い恋人は言うけれど、優しい言葉に甘え続けるわけにもいくまい。


 壁一面をミントン製のタイルで飾った部屋を抜けると、バルコニーに出た。目の前に広がるのは芝生広場だ。
 青々とした芝の上に白いイスとテーブルがいくつか置かれ、その前に小さなワゴンが鎮座している。

「俊典さん、あそこにアイスの屋台が出てます」
「君は外で食べるアイスが好きだね。家ではそんなに食べたがらないのに」
「どうしてでしょうね。アイスの販売ワゴンを見るたびに心が躍るんです」

 まったく君はいろんなものにときめくんだなと微笑ましく思いながら、柔らかな髪をくしゃりとかき回した。

「じゃあ、あとで行ってみようか」
「はい」

 元気よく答えた、その笑顔が眩しかった。
 この笑顔を、私は失ってしまうところだったのだ。
 できもしないくせに、自ら手離そうとした。私は本当に愚かな男だ。

***

 あれは一月にしては気温が高い、よく晴れた午後のことだった。
 日本庭園に面したオープンカフェで談笑している、若いふたり連れ。
 二人とも平均以上の容姿の持ち主だ。
 ここだけ語れば、あの街によくいる見目よいカップルの一例にすぎなかったろう。

 だが私は、頭をマグナムで打ち抜かれたくらいの衝撃を受けていた。
 端正な顔立ちの青年と談笑していたのが、私の実桜であったからだ。

 実桜の目の前に座っていた青年に始めて会ったのは、もう十年以上も昔のこと。
 西日の差す路地裏で、私の恋人に守られた幼い少年。
 彼が『ビオラ』というすみれにちなんだ名のヒーローになったと聞いた時、とても嬉しく思ったものだ。
 そのビオラが実桜と微笑みあっているのを目の当たりにして、似合いの二人だと心から思った。先の見えない己とは違う、前途ある青年。ああいう男が、実桜にはきっと相応しいと。
 だから、わざと挑発するようなことを言った。それなのに、年長者である私に対しても臆することなく、実桜を案ずる気持をそのままぶつけてくるまっすぐさ。その姿に、この男ならきっと実桜を守っていけるだろうと、そう思った。

「俊典さん?」

 けげんそうな実桜の声に、我に返った。

「ごめん、なんでもないよ」

 少し前と同じやりとりだ。
 怒られても仕方がないと思いながら笑みを返すと、実桜は黙って私の手をとって、自分の頬に押し当てた。

「だいすきです」

 ……本当に、この子は私には過ぎた恋人だ。

 だからこそ、怖かった。
 全てを失ったその時に、実桜に捨てられてしまうことが。

 己の身に余る強大な個性を得た責務。その重荷から解放される喜びよりも、力を失い、無個性のただの男に戻ることがまず怖かった。
 このまま静かに消え去っていけるならまだいい。
 だがもしも、衰えきった姿で生き延びてしまったら、自分はどうなる。

 そうなった時の私はきっと、どんな汚い手を使っても実桜を自分に縛り付けようとするだろう。
 そのまえに手放してやらなくてはと思った。
 私がまだ、オールマイトであるうちに。

 しかし、実桜が救急車で運ばれたと聞いた時、目の前の景色が色を失った。
 白と黒だけが支配するモノクロームの世界へと。

 思い知らされた。実桜を自ら手放すことなど、私にはもうできはしないのだと。
 実桜に相応しい男に、彼女を託す。ずっとそう思ってきたというのに。

 どこまで利己主義なのだ、オールマイトよ。
 そう自分を律しようとしたが、私の中の俊典がそれを許してはくれなかった。
 なんの価値もない、ただの男の俊典が。

 それでも実桜は、価値も個性もないこの男が好きだと笑う。
 あなたの側にいたいのだと、あなたの泣けるただ一つの場所になりたいのだと。

 私はこの誘惑に抗うすべを持たなかった。
 理性も実桜の未来を憂う気持ちもすべて投げだし、若い娘のまっすぐな情熱とその優しさに甘えて生きたいと思ってしまった。そんなことが許されるはずがないのに。

 ああ、けれど。
 この子のいない人生など、もう私には考えられない。

「だいすきです」
「私もだよ」

 私を見つめて同じ言葉を繰り返す実桜に、大きくかがんでそうこたえた。

***

 芝生広場の小さなワゴンで、私はコーヒーを、実桜はアイスを注文した。朗らかな春の日ざしの中で目を細めている実桜が愛しい。

「美味しいです」
「あの……一つだけ……きいてもいいですか? これで最後にしますから」
「なんだい?」
「わたしにママの面影を重ねたことはありますか」

 問われた言葉の重さに気がつき、私は軽く息を飲んだ。

「……そうだね、君と再会した最初の頃は、多少はあったかもしれない。君とすみれは似ているから」
「……そうですか」
「だが君は君で、すみれはすみれだ。だから最初の頃は、君に私の名を呼ばせたくなかった。君にすみれの面影を重ねるようなことはしたくなかったからね」
「え?」
「それはすみれにも、そして君に対しても失礼なことだから」
「……」
「私が愛しているのは、そのままの君だ」

 実桜がほろりと涙をこぼした。
 人差し指で真珠のようなそのしずくを拭ってやる。
 ああ、実桜。私は本当に君を泣かせ続けているな。

「実桜。ついでだから言っておくが、君が気にし続けている私がすみれを思い続けた『十年の重み』だけれどね、君たち若者にとっての十年と、私たち中高年にとっての十年はまったく違うよ。過ぎる速さも、意味も重みも」
「はい……」
「われわれ中高年にとっての十年は、今の君の一年に等しい。といっても、君がそれを実感できるようになるには、おそらくあと二十年ほどの歳月を必要とするのだろうね」
「にじゅうねん……」
「私にとって、すみれは今でも大切な女性だ。それをごまかすつもりはない。だが、今の私が愛しているのは君だけだ。それではだめかい?」
「いいえ……嬉しいです……ありがとう」

 アイスクリームの最後の一口を飲み込んで、実桜は続ける。

「あとね、俊典さん。ここ数か月……ずっと触れてもらえなくて寂しかったです」

 頬を紅潮させながら恥ずかしそうに告げられた言葉は、抑え続けていた私の欲を呼び起こすには充分すぎた。

「食べ終わったなら……次……行こうか」
「次?」
「うん、ごめん。家まで我慢できそうにないんだ」
「……でも……まだ午前中ですよ」

 意味を察したのか、真っ赤になって実桜がいらえる。
 今すぐ君が欲しい……と囁くと、可愛い年下の恋人は赤面したまま頷いた。

 空は青く、雲は白い。
 薄紅色のさくらが、やわらかな春風に揺れている。
 私に明日は読めないが、実桜と過ごすこの時は宝石よりも価値がある。
 だからこの命がある限り、実桜が笑ってくれている限り、この幸せなやわらかい春色の時間に身をゆだねよう。

 時は春……すべて世はこともなし。

2016.3.31

(注)最後の一行はロバート・ブラウニングの詩からの引用です

月とうさぎ