路上に設けられた、いくつものパーキングメーター。そこにとめられた赤い欧州車のボンネットに弾かれた陽光は、真夏ほどではないにしろ、春や秋よりは力強い。
存分に日差しが降りそそぎ、適度に心地よい風がふくこの季節は、この街を普段より綺麗に見せてくれる。
わたしがこの都会の街で暮らすようになって、二年が経過した。
この二年の間に、十八歳だったわたしは二十歳になり、母の昔の恋人だった人はわたしの恋人となった。
そしてその恋人――俊典さん――は、この春、自身の事務所をたたんで母校の教師になった。俊典さんの母校である国立雄英高校は、隣県にある。
都内の大学に通うわたしと、隣県の高校に通う彼。
一時は引っ越し、もしくは別居も視野に入れたが、通えるよ、という彼の言葉に甘え、わたしたちは未だにここ、六本木で暮らしている。
おかげで、今まで徒歩数分だった俊典さんの通勤時間は、数十倍になった。
業務を縮小したとはいえ、ヒーローを続けながら教師という仕事についた彼は、最近、かなり疲れている。
まず、俊典さんは慣れない授業に苦労していたようだった。あまり器用ではないが几帳面な彼は、授業ごとにきっちりしたマニュアルをつくり、それをもとに――というより見ながら――生徒の指導にあたっている。それらを作るのも、簡単なことではない。
しかも、彼は誰かに任せるということが苦手な性質だ。
ヒーロー業務を縮小したと言いながら、ことがおきれば通勤途中であったとしても、事件を解決することを優先してしまう。
活動時間ぎりぎりまで毎日動いてしまうのだから、事務所をたたむ前と生活はあまり変わらない。いや、通勤時間と教師としての業務が増えた分、負担は大きくなっているかもしれない。
そのうえ、彼が教師に就任してすぐに、大きな事件がおきた。
雄英の訓練施設にヴィランが侵入し、教師と生徒に怪我人を出すという事件だ。俊典さんも、お腹の傷をえぐられる怪我をした。
近頃、笑顔の影に、今までとはまた違った疲労の色が見えることがある。
やはり、雄英から近しい場所に、居を構えるべきだったのだ。
しかし――。
「君は今年、司法予備試験を受けるだろ? 大学の授業の他に予備校もある。今の生活でいっぱいいっぱいのはずだ」
「試験は受けます。でも……」
「君の学費や生活費を払っているのは、私だ。だから我々の住まいをどこにするかの決定権は私にある。違うかい?」
「……違いません」
「それとも、実桜は私と別々に暮らしたい?」
「……それは嫌です……」
「じゃあ、このままここで暮らそう。なに、通勤といっても下りだ。車にせよ電車にせよ、そう大変なことじゃない」
そう言って笑まれてしまうと、もう、なにも言えなかった。
司法試験予備試験。それは法科大学院に進学せずとも法律家を目指せる、ただ一つのルート。
俊典さんの言うとおり、わたしはその試験を受ける………正しくは受けた。
先週、短答式試験を受けてきた。発表はまだだが、受かれば七月に論文式試験、それに通れば十月に口述試験が受けられる。口述試験までをパスして初めて、司法試験の受験資格が得られるのだ。
在学中に司法試験の合格を目指すわたしにとって、今年と来年は勝負の年だ。
俊典さんは院に進むことも勧めてくれたが、やはりそれは申し訳ないと思うのだ。彼が隣県に勤めることになった、今となっては尚更に。
一刻も早く試験に通って、雄英から近いところにある法律事務所に勤めたい。
在学中に司法試験をパスすることができずとも、予備試験にさえ通ってしまえば、予備試験合格者の採用枠を設けた法律事務所はいくつかある。
そこで働きながら司法試験の合格を目指せばいい。
予備試験やロースクール制度がなかった時代、そうして資格取得を目指した人たちが数多くいたと聞いている。
もっともそれは、今と違い、司法試験の合格率が一桁だった時代の話だが。
司法試験合格後も司法修習という制度があるのだが、そちらも雄英から通える範囲で希望を出せばいいと思っている。司法研修所での集合修習もあるが、研修所自体が雄英と同じ街にあるから会おうと思えばいつでも会える。
今の時点でそこまで考えるのは、時期尚早だろうけれど。
***
この季節の夕方の日差しは、上質な絹織物のよう。俊典さんが時折身に着けているシルクのシャツのような、あたたかくて、とろりとした感触。
そんなことをぼんやりと思いながら、門を出たとたん、軽いクラクションの音が響いた。
即座に、音のした方向に視線をはしらせる。するとそこには見覚えのある車が止まっていた。ガンメタリックのSUVだ。
するすると車の窓が開き、そこからひょこりと飛び出したのは、見覚えのある、肉付きの悪い顔。
「俊典さん?」
「君、驚きすぎ」
あわてて駆け寄ったわたしに、陽光を弾いてきらめく金色の前髪を軽く揺らして、俊典さんが笑った。
「今日は早く終わるって、言ったろ」
「はい。でも本当に早いなんて思ってなかったから、びっくりしました」
「ひどいな。ま、それも当然か」
苦笑する俊典さんを見て、一応自覚はあるんだな、とひそかに思った。
早く帰ると言う俊典さんの帰宅が遅くなることは、我が家ではすでに日常茶飯事。
「今日はね、これがあったから。早く帰らざるを得ないだろ」
ひょいと掲げられたのは、小さなビニール袋だ。
そこに何が入っているのか、わたしはよく知っている。
俊典さんは、定期的に病院に通い、いくつかの薬剤の処方を受けている。たとえば、鉄剤とビタミンB12。
赤血球を合成するためには、鉄分とビタミンB12が欠かせない。だが、それらを吸収するためには、胃酸の働きや胃粘膜で分泌されるたんぱく質内因子が必要となる。
そのため胃を切除したひとは、鉄分とビタミンB12の吸収が不十分になりがちだ。赤血球の合成に支障をきたし、巨赤芽球性貧血を起こしてしまう。
鉄剤は数年前から飲んでいた俊典さんだが、今年からそこにビタミンB12の経口投与が加わった。貧血の症状がみられるようになったからだ。
いまのところはこれで安定しているが、これからどうなるかは、まだわからない。ビタミンB12の補充は、筋肉注射が主流。経口投与で充分な効果が得られなければ、すぐに注射に切り替わるらしい。
お薬での補充が、このままうまくいくといい。筋肉注射は痛いときく。きっとつらいことだろう。
それでなくても、普段からたくさんの痛みを、苦しみを、我慢している人なのだから。
俊典さんを見ていると、子供の頃に読んだ残酷な神話を思い出す。
人類のために天界の火を盗み、ゼウスの怒りをかったティーターンの一神、プロメテウス。罰として彼は山頂に繋がれ、生きながら禿鷹に内臓を食われ続ける。神族であるプロメテウスは死ぬことができない。
この刑罰は、プロメテウスがヘラクレスの手で解放されるまで続いたという。
もちろん、俊典さんがヒーローとして生きるのは、刑罰ではない。彼は自分の意思で、人々を救い続けている。内臓を失った、その身体で。
それでも、いやだからこそ、願わずにはいられない。
わたしのプロメテウスを解放してくれる、ヘラクレスの到来を。
「ところで、どうする? ひさびさに一緒に夕食をとれそうだし、どこかで食べて帰るかい?」
彼の声に、ううん、とわたしは首をふる。
「今日は、うちで食べたいです。途中であそこに寄ってもらってもいいですか? 俊典さんの大好きなあれ、買い置きがなくなってしいまいましたし」
「そうだった。そうだな、あれがないと小腹がすいた時ちと困る。買って帰ろう。面倒だから、おかずもそこで揃えてしまおうか」
「ですね」
あそことは、学校と家のほぼ中間地点にあるスーパーだ。白い看板が目印の、フランス資本の冷凍食品専門店。
冷凍食品と侮るなかれ。
ここでは、調理済みのエスカルゴやフォアグラまでもが手に入る。自作したら大変なテリーヌやエビのビスクも、簡単かつ美味しく食卓に供することができる。
それだけでなく、デザートの類も充実している。ここのガレット・デ・ロワは、俊典さんの大好物。
意外に甘いものが好きな俊典さんのために――おそらく彼の身体が糖分を欲しているのだ――いつも常備しているものだ。買い置きがなくなってしまったと言ったのも、これのこと。
いずれにせよ、手軽に本格フレンチが食べられるのはありがたい。冷凍食品に頼りきりはどうかと思うが、たまには、こういう食事も悪くない。
だって、今日は久しぶりにのんびり過ごせる夜だもの。できるだけ家事の手間を省いて、ふたりでゆっくり過ごしたい。そう伝えたら、呆れられてしまうだろうか。
フランスの冷凍食品専門店でガレット・デ・ロワをはじめとする食材を買い求めた後、お隣にあるオーガニック専門店でお野菜をいくつか購入した。
大好きなデザートをゲットした時の、俊典さんの嬉しそうな顔。ずいぶん年上の、おとなの男の人なのに、このひとのこういうかわいいところは、本当にずるいと思う。
***
帰宅後、それぞれ汗を流して、その後はすぐに夕飯にした。
デザートにとガレットを切っていると、俊典さんが慌てた声をあげた。
「あっ、実桜。それじゃ小さいよ。もうちょっと大きく切ってよー」
「はいはい」
ケーキの大きさひとつで大騒ぎ。なんだか小さい子みたいだ。
本当に、俊典さんはかわいい。
でもそんな彼はやっぱり大人で、ガレットを切り分けているわたしの隣で、美味しいコーヒーを淹れてくれている。
我が家では、紅茶を淹れるのはわたし、コーヒーは彼と決まっている。その役割分担だけはめったに揺るがない。
今、彼が淹れているのは、カフェインレスのエチオピアモカ。
ここ最近、俊典さんのコーヒー棚にカフェインレスコーヒーの種類が増えた。夜のコーヒータイムを楽しむために。
「ノンカフェインのコーヒーも、昔に比べると美味しくなったよね」
そう、俊典さんは笑う。けれどわたしは、その「昔」を知らない。
彼が「ついこないだ」という話が、四年も前のことだったりして、驚いてしまうこともある。
四年前の春、わたしはまだ十六だった。高校二年生。俊典さんに出会う前、まだ恋も、男の人のからだも知らなかったころのこと。
前に言われたことがある。「君たちの一年は、私の十年に等しい」のだと。まったく実感がわかないが、あと二十年もしたら、わたしにもそれがわかるのだろうか。
「さて実桜。今日のBGMは何にしようか」
ケーキとコーヒーをローテーブルに運びながら、彼が尋ねる。
「俊典さんはなにがいいですか?」
「私は君の意見を聞いたんだけどな」
「わたし、今日は俊典さんの嗜好に合わせたい気分なんです」
「なんだい、それ」
「いいでしょ?」
「ン? まあ、かまわないけどさ。そうだなあ……」
と、俊典さんは、彼と同世代の女性サックス奏者の名前をあげた。
「じゃあ、それで」
「オーケー」
破顔して、彼はオーディオプレイヤーの電源を入れた。
流れてきたのはスムーズジャズ。
会話を邪魔しない、心地良い軽やかなメロディ。
彼の好きな音楽を観ながら、彼の好きなケーキを食べ、彼の淹れてくれたコーヒーを飲む。
幸せなやさしいひと時。
「こうやって君と過ごすの、久しぶりだな」
ガレットを飲み込んで、俊典さんが言った。所作に一切の無駄がない彼は、食べ方も綺麗。
「俊典さんは忙しかったですものね。襲撃事件があって、そのあとすぐに体育祭があって、続いて職場体験の準備」
「そうだね。特に明後日からの職場体験は、私の恩師も関係しているからさ。自分が参加するわけじゃないのに、へんに緊張しているよ」
「そうなんですか」
そうなんだよ、と言いながら、ガレットを食べ終えた俊典さんが、ひょいとわたしを抱き上げた。
座ったまま、腕の力だけで一人の人間を持ち上げてしまうなんて。どんなに痩せてしまったとしても、やっぱりこのひとはオールマイトなのだな、としみじみ思う。
わたしを肉の薄い膝の上に乗せ、俊典さんがまた笑った。
「でもね。今夜は、君をたくさん可愛がってあげられそうだよ」
こんなふうに、答えに困るようなことを言ってのけるのも、きっと彼が大人だからだ。大人の女性はこんな軽口に、いったいなんと答えるのだろう。
やっと二十歳を迎えたばかりのわたしには、まだ正解がわからない。だからそのまま、素直に気持ちを伝えるしかない。
「…………しいです」
「え? なに?」
はっきり言うのが恥ずかしかったので、彼の胸に顔をうずめた。けれどこういうときの俊典さんはいじわるだ。
「実桜。ちゃんと言って」
「……」
「実桜」
優しい口調、柔らかな低い声。けれど彼は、優しい声でわたしをじりじりと追いつめる。
「……そうしてもらえるの……うれしいです」
顔をあげることができないまま、酷く小さな声で応えた。
見えないけれど、きっと彼は満足そうに笑んでいるのに違いない。
顔がひどく熱かった。笑んでいるだろう彼と反対に、わたしはきっと、くちゃくちゃの顔をしているだろう。真っ赤なうめぼしみたいに。
大人と子供の差は、こういう些細なところにもある。
「いい子だ」
大きな手がわたしの頬にあてられ、優しく上を向かされた。
そこに降りてくるのは、少しかさついた唇だ。
俊典さんは、ちょっといじわる。けれどその手は、限りなく優しい。
丁寧に、宝物を扱うように触れられて、わたしは水面に浮かんだ木の葉のように、俊典さんという名の風に翻弄される。
今夜もまた、熟練された手で与えられる快楽に、わたしは溺れ、溶けてゆく。
***
「実桜、先に出るね」
優しい低い声に、目が覚めた。
慌ててがばっと飛び起きると、俊典さんはにこっと笑った。
「ご……ごめんなさい」
「大丈夫だよ。たまにはいいさ。この時間に起きれば君は間に合うだろ?」
「はい」
「じゃ、行ってくるね」
くるりと背を向け玄関に向かう彼を追い、いってらっしゃいのキスをして見送った。
失敗した、と、わたしは小さく息をついた。
今日は二限からだから、授業は余裕で間に合うけれど、俊典さんの朝食を準備できなかったことが悔やまれる。
ため息をつきながらダイニングに向かうと、テーブルの上には、俊典さん作のオープンサンドが置かれていた。
ブールの上に茹でたじゃがいもとブロッコリー、厚切りベーコンと、スクランブルエッグ、そしてチーズをのせて焼いたもの。
相変わらず俊典さんは、女子力が高い。
そういえば初めて作ってくれた朝食も、クロックムッシュをフレンチトースト風にアレンジしたものだった。
我が国の誇るナンバーワンヒーローは、マメでお料理上手なスーパーダーリン。
それに比べて。
「わたしはただの女子大生」
自嘲気味にそうつぶやいて、紅茶ポットに茶葉を淹れた。選んだ茶葉はダージリン。先日購入したばかりの、今年のファーストフラッシュだ。
紅茶をテーブルに運び、視線を窓の外に移した。
初夏の空は、こんなにも明るい。きっと庭園の緑も濃く美しく、目にうつることだろう。
けれど、その鮮やかな黄緑の向こうに、幸せな日々の影に、潜む小さな不安がある。
いつも笑顔のオールマイト、完全無欠のオールマイト。
優しくて紳士で、普通のひとの俊典さん。
見た目は異なる、同じ人。
けれどそのひとには絶対に表に出さない闇がある。あるいは狂気とよぶべきもの。暗くて深い、彼の淵。
母は、彼の持つ深淵を、共に見ることができたのだろうか。
わたしは未だ、その存在に気づいたところで立ち止まっているけれど。
母ならそれが、できたのだろうか。同業者であった、母ならば。
詮無いことだ、と息をつく。
母と自分を比べることには、意味がない。
どんなにあがいても、平凡な個性しか持たないわたしはヒーローにはなれないし、まして母……バイオレットにもなれない。
わかっているが、なぜか意味もない不安に押しつぶされそうになる。
わたしのプロメテウスを救けてくれるヘラクレスは、まだ、どこにもいない。
2017.5.22
こちらの世界の司法研修所は埼玉にあるのですが、ヒロアカ世界では雄英と同じ街にある…ことにしました