おそらく戸外は、湿度と気温が嫌になるほど上昇していることだろう。この部屋の除湿は完璧であるはずなのに、この季節特有のけだるいなにかがじわじわと室内にも侵食してきている。
そんなやや重苦しく感じる空気の中、私は書類と格闘していた。
教師というものは意外にも持ち帰りの業務が多い。指導要領に基づくカリキュラム作成、教材の用意などなど。
他にもやることはたくさんあって、授業がないときはそちらの処理に時間を取られる。担任をもっている教員は、おそらくもっと多忙であることだろう。頭が下がる。
書類はあと少しなのだが、それがなかなか終わらない。
気分転換に休憩するかと、うなりながら目頭を抑えた。
「俊典さん……もしかして老眼ですか?」
「ろ……」
背後からかけられた柔らかいが意外な言葉に、私は派手に吐血した。
血がパソコンにかからなくて本当によかった。それにしても実桜、冗談にしても老眼はひどい。
「大丈夫です。恥ずかしいことじゃないですよ。早い人は三十代後半から始まるって言いますし」
「いや……ちが……」
「無理はだめです。つらいなら老眼鏡を買いに行きましょう」
待ってくれ。今の冗談じゃなかったのか。本気かよ。
やめてほしいな。私はまだまだ老眼じゃない。
小さい文字だってちゃんと見えるよ! 見えるから!!
いやいや、落ち着け。
ムキになってはいけない。ムキになればなるほど疑われる。そう、ここは極めて冷静に。
「私は老眼じゃないよ。ただね、最近パソコンを使うことが増えただろ?」
「そうですね」
「だからね、目を使いすぎてる感じがするんだよ。重いというか、しょぼしょぼするというか……」
「眼精疲労とか?」
「うん。だからこの間、パソコン用の眼鏡を買ったんだ」
話していて思い出した。
そう、忙しさにかまけてすっかり忘れていた。
パソコンを使うと目が疲れると言ったら、セメントスがブルーライトをカットする眼鏡を勧めてくれたんだった。
「……なんでそれ使わないんです?」
「今の今まで、そのことを忘れてたんだよ」
すると実桜が、なにか言いたげな顔をした。
おい。そのかわいそうなものを見るような目をやめろ。老眼の次は痴呆を疑ってるんじゃないだろうな。
大丈夫。呆けてはいないし、物忘れが激しくなったわけでもないからね。
中間テストの準備などいろいろ続いたものだから、デスクの引き出しにしまいこんで、そのまままるっと忘れてた。それだけだ。それだけだから。
私はおじさんだけど、おじいさんじゃないから。
憐れむような視線にいたたまれなくなり、私は話の方向を変えるために口唇をひらいた。
ただでさえ息苦しくけだるい昼下がりが、悲しい昼下がりになるのはまっぴらごめんだ。
「ちょっとのどが乾いたな」
「コーヒーでも入れましょうか?」
「うん。あ、いや、今日はコーヒーよりも紅茶の気分かな」
「珍しいですね。銘柄はなにがいいですか」
「君のチョイスにまかせるよ」
「わかりました」
こちらにむかって花がほころぶように微笑んだ実桜に、どきりとした。
大学三年になった実桜は、この頃ますます綺麗になった。
あの笑顔がきらきらと光り輝いて見えるのは、私が人生の夏を超え、秋も半ばにいるせいだろう。比べて実桜は、少女から大人の女性にかわる、人生の春のさなかにいる。
いそいそとキッチンに向かう後姿を眺めていたら、あの子はこんな中年男が相手で本当にいいのだろうかと、幾度も繰り返した疑問がまたむくむくと湧いてきた。
けれど、こればかりはもうどうしようもない。今年の春に思い知った。あの子を手放すことはもうできない。
本人が私に愛想をつかさない限り、ずっと実桜に甘え、縋り続けてしまうだろう。
この年になっても恋情に苦しめられるとは思わなかった。いやきっと、この年齢だから苦しむのかもしれない。年齢的にも体力的にも、これがきっと、私にとって最後の恋になるだろうから。
こんなことを考えてしまうのも、けだるい昼下がりのせいなのだろうか。
いや、仕事が残っているせいかもな、と私は軽く頭を振った。嫌なことは早く済ませてしまうにかぎる。
今度は忘れずに、黒い縁の眼鏡をかけた。
ブルーライトをカットする眼鏡はレンズにうっすらと色のついたものが多いが、これはレンズがクリアなタイプだ。おかげで違和感がなく、画面も見やすい。
これで目の疲れが軽減されるといいのだが。
「どうぞ」
書類作成に夢中になっていると、ことり、と、デスクの左側に紅茶が置かれた。
白地にワイルドストロベリーが描かれたカップに注がれた、濃い赤銅色の紅茶。
このカップはたしか、初めて実桜がうちに来たときに出したものだ。若い女の子が好みそうな図柄を、香山くんに選んでもらったんだっけ。
あれからもう二年も経つのか。早いものだ。
「ありがとう」
礼だけ言って視線はモニターに向けたまま、実桜が入れてくれた紅茶を一口飲んだ。
口腔内に広がる、蘭の花のような甘い香り。これはたぶん、キーマンだ。
おいしいよ、とだけ答えて、また書類にとりかかる。
***
一通りの作業を終え、パソコンの電源を落としながら実桜のいる方向に視線をうつした。
「あれ、どうしたの?」
実桜がお盆を抱えたまま、頬を上気させてこちらを見ている。
思わず手を伸ばしたくなるような、みずみずしい頬の色。まるでもぎたての桃のようだ。
「君、まさかと思うけど、ずっとそこで、仕事をしている私を見てたのかい?」
お盆を抱えた姿勢はそのままに、実桜は首をぶんぶんと上下させた。
おい、それ本当かよ。三十分くらいかかっただろ。
「どうしたんだい? なにか気になることでもあった?」
「かっこいい……」
「へ?」
「……かっこいいです。俊典さん、スクエアタイプの眼鏡似合いますね。見とれちゃってました」
もしかして君、眼鏡姿の私をただただずっと見てたわけ?
なんだよ、それ。かわいすぎるだろ。
男なんて単純なもんだ。
けだるかったはずの空気が、一気にピーチピンクに変わってしまう。
私の気分の変化に気づいているのかいないのか、実桜は私の方を見て、また花が咲くように笑った。
「俊典さん」
「なんだい?」
「ちょっとだけでいいから眼鏡をかけたままマッスルになってもらってもいいですか?」
「かまわないよ。そう長くは保っていられないけどね」
ふん、と力を籠めてマッスルになる。
三百キロ以上の重みに耐えるはずの特注の椅子が、ぎしりと軋んだ。
「どう?」
「あうぅ……どっちもかっこいいです」
「そうかい。ありがとう」
わざとゆっくり口角をあげ、おいでと言わんばかりに両手を広げた。
男女の仲になってもうすぐ一年。実桜はこれから何をされるのか察したのだろう。頬をピーチピンクに染めながら、下を向いてもじもじしている。
「おや、来ないのかい?」
「もう、本当にマイトさんはズルいです」
おい、今、わざとマイトって呼んだろ。
それはかわいい実桜の、ささやかな抵抗。
私は黙ったまま、ただ腕を広げ続ける。こうしていれば、熟れた果実が落ちるように、実桜はかならず私の手中に落ちてくる。
そして予想通り、そう待つでもなく、実桜は私の膝の上にちょこんと座った。
いい子だ。いい子にはたくさんご褒美をあげるよ。
「さて質問です」
「はい?」
「眼鏡をかけたままかわいがってもらうのと、はずしてかわいがってもらうのとどっちがいい?」
「……なにもしない、っていう選択肢はないんですか?」
「それでも私はかまわないよ。君がそれでもいいならね」
「意地悪……」
少し恨めしそうな表情で実桜が呟く。私は返答のかわりに目だけで微笑して、そのまま口づけた。
実桜、君は花の香りのお茶よりも、ずっと甘い。
真の姿に戻りながら舌をからませ、やわらかい太腿に手を伸ばした。小さく上がるかわいい声が、ますます私を刺激する。
ゆっくりと流れる、甘いピーチカラーの時間。
梅雨の晴れ間の、ある休日の昼下がり。
2016.6.20
中山さんの素敵な眼鏡マイトのイラストの影響を受けて思いついたお話。
1話と2話の合間のお話です。