ストロベリーカラーの半宵

 タワーマンションの隙間からのぞく満月を見上げ、ため息をついた。
 今宵はストロベリームーン。六月の満月を、こう呼ぶらしい。梅雨の晴れ間に輝く満月は確かに美しいが、それを眺める私の心は重かった。

 時計をちらりと眺めやる。時刻は23時59分。
 はい、アウト。
 我が家は上層階。エレベーターを待つ間に、私の誕生日は終わってしまうことだろう。
 マッスルになって飛べば間に合うだろうが、残念ながら、今日はそこまでの余力を残していない。

「今日は早く帰ってきてくださいね」
「もちろんだ」

 そう実桜と約束したのは、十五時間ほど前のこと。
 誕生日を喜ぶような年齢ではないけれど、共に祝おうと思っていたであろう、実桜の気持ちを思うと、心が痛む。

 夕刻に「すまない、やっぱり遅くなる」と連絡した私に、「わかりました。頑張ってくださいね」と、明るい声で答えた実桜。
 だが、そこに隠された落胆の色に気づけないほど、私は青くなければ若くもない。
 まったく、ヒーローとは実に度し難い職業だ。市民の安全は守れても、年下の恋人との約束一つ守れないのだから。

 エレベーターで41階まであがり、玄関扉を開け、リビングダイニングに続く扉をひらく。
 次の瞬間、私の眼の中に飛び込んできたのは、ダイニングテーブルに突っ伏したまま居眠りしている実桜の姿だった。
 テーブル上にひろげられているのは、判例集。

 実桜は現在、司法試験の予備試験に挑戦中だ。先月受けた、一つ目の試験の結果はもうすぐ。本人は手ごたえがあったと言っていた。結果はまだだが、次の試験はすぐにくる。それにそなえての勉強だろう。
 ここ数か月の実桜の頑張りには、まったく頭がさがる。
 もともと勉強が好きな子ではあったが、今は朝から夕方まで大学でみっちり学び、帰宅してからは時間が許す限り予備校ウェブ講座で学び、また夜に判例集と格闘する。

 それだけじゃない、実桜は合間に家事もする。
 同居当初に決めた分担制度は、いつの間にか雲散霧消。私も協力する気はあるのだが、家にいられる時間が短いぶん、どうしても実桜に任せてしまいがちになる。
 いや、そもそも「家事に協力」という言葉がさらりと出てしまう時点で、すでに私たちの家事分担は崩壊しているように思う。

 結局のところ、私は実桜の優しさに甘えているのだ。
 それなのに、実桜は環境が変わった私の体を気遣って、雄英の近くに越そうなどと提案してくる。冗談じゃない。これ以上、実桜に負担をかけるわけにはいかない。

 優しい子なのだ、本当に。
 少し変わっているけれど、優しくて、思いやりが深くて、意外と神経が細やかな、心の綺麗な女の子。

 一枚板のテーブルに頬をつけて眠る実桜を見つめて、もう何度目になるかわからない問いを投げかけた。

 実桜、君はこれでいいのか。
 親子ほども年が離れた、先の短い男とともに暮らすことに、後悔はないか。

 私は視線を実桜から窓の外へと向けた。上空に輝くのは、六月の満月。

 ふと、前にも似たようなことがあったことを思い出して、空を見上げたまま苦笑した。
 眠る実桜と、それを見つめる私と、窓の外で輝く月と。

 あれは、実桜が我が家にやってきて一年目の夏のことだ。
 あの夜の月は、十六夜。いざよいの意味は、ためらう、躊躇する。
 惑い悩み続ける月の下で、私は――。
 当時のことを思い出し、軽く頭を掻いたその時、実桜がぱちりと目を覚ました。

「ああ、すまない。起こしてしまったかい?」
「……いえ、わたし勉強しながら寝ちゃってたんですね……」
「毎日遅くまで頑張ってるから、疲れてるんだろ」
「俊典さんほどじゃないですよ」

 小さく笑って実桜は続ける。

「おかえりなさい。俊典さん。朝も言いましたけど、お誕生日おめでとうございます」
「……ただいま。今日はすまない。この埋め合わせは後日……外でちょっと豪華な食事でもしよう」

 短答式試験に合格したお祝いもかねて、と言いかけ、とどめた。本人は手ごたえがあったといってはいたが、予備試験は狭き門。発表されるまで油断はできない。

「なにか食べます?」
「いや。でも喉は乾いてるな。大丈夫、自分でやるよ」

 あわてて立ち上がろうとした実桜を制して、キッチンに向かった。
 だめです!と言いながら後を追ってくる実桜に返事をせず、歩を進め、冷えたお茶が入っているはずの冷蔵庫を開けた。
 冷蔵庫の中には、生のままの霜降りのステーキ肉と、ニンジンのグラッセと、色とりどりのサラダが並んでいた。耐熱ガラスの鍋に入っているのは、ヴィシソワーズだろうか。
 ああ、やっぱり食事の支度はしてあったのだ。私の帰宅に合わせて肉を焼くだけの状態にして。

 だから実桜は、私に冷蔵庫の中身を見せたくなかった、私が気をつかうから。
 優しいこの子のことだ。きっとそんなところだろう。

 おかずだけでなく、中央の段にはリボンがかかった小さな白い箱が置いてある。赤いリボンに印字されたロゴは、近隣にある有名パティスリーのもの。
 中に入っている物の予想くらい、私にもつく。

「……ねえ、実桜」
「はい」
「せっかくだから、君が用意してくれていたケーキを、少しだけもらおうかな」

 すると花が咲いたように、実桜は顔をほころばせた。
 ケーキを食べよう、そんな一言で、こんなに嬉しそうな顔をするなんて。それだけ実桜が我慢をしている証拠だ。
 すまない、と、心の中で謝罪する。

「スープと付け合せの野菜は、朝食でいただくよ」
「うれしい。ありがとうございます」
「いや、ここで礼を言うべきなのは、私のほうだろ。いつもありがとう」

 そう告げると、実桜はまた嬉しそうに笑った。

 実桜が用意していたのは、直径10センチほどの小さなホールケーキだ。綺麗に装飾されたケーキの上に、ハート型の小さなマカロンが二つ乗っている。色は黄色と濃い赤だ。

「へえ。ハートのマカロンか。かわいいな」
「これね、種類がいくつかあって、味を選べたんです。だからマンゴーと苺にしちゃいました」
「ああ。君、苺好きだもんな」
「それもあるんですけど、黄色いのがマンゴーで、赤いのが苺なんですよ」
「ん? まあ、そうだろうね」
「あのですね……こっちの黄色いのが俊典さんで、こっちの赤いのがわたしのつもりで用意したんです。だから……俊典さんはわたしが乗っかってるほうを食べてください」
「!!」

 真っ赤になりながら切り分けたケーキの乗った皿を差し出した実桜の、あまりの可愛さに吐血した。

「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」

 どうして君が謝るんだよ。それにしてもかわいいな。
 ああほんとうに、私はこうして君に癒されているんだよ。君と過ごす小さな日常の暮らしに支えられて、今の私はヒーローたりえているんだ。

 ヒーローとしての自分に支えなどは必要ない。何故なら己こそが、世の支柱であるのだから。
 一本立ちしたあの日から、ずっとそうして生きてきた。
 恋をしたことは何度かあるが、相手に支えてもらおうなどと思ったことは一度もなかった。

 けれど。
 それでも今は、心から、君に支えられていると実感する。この他愛ないやり取りが、このゆったりとした時間が、君の笑顔が私の支えだ。

「いただきます」

 甘さ控えめのケーキとともに、小さなマカロンをぱくりと一口。

「うん、君は甘酸っぱくておいしいよ」
「わたしも、俊典さんを食べちゃいました」

 少し恥ずかしそうに笑う、実桜がいとしい。

「俊典さん、これを食べ終えたら、もう一つお願いしたいことがあるんです」
「ン? なんだい?」
「月を一緒に見てもらいたいんです」

 遠慮がちな実桜にしては珍しいと思いかけ、そういうことかと得心した。
 今宵の月は、ストロベリームーンだ。

「いいよ。一緒に見よう」

 最後の一口を飲み込んで、おいで、と両手を広げた。
 恥ずかしそうに我が腕の中に納まった実桜を見おろして、額に唇を落とす。

「どうせなら、こうして見よう。ストロベリームーンは、恋を叶える月だから」
「知ってたんですね」
「まあね」

 恥ずかしい、と下を向こうとした頬をそっとおさえて上を向かせた。うるんだ瞳がかわいかったから、今度は瞼にキスをひとつ。

「二年前のわたしに教えてあげたいです……」
「なにをだい?」
「あの頃からすると、夢みたいなんです。……俊典さんとこうしていられることが」
「そうか……そうだな。それは私もだ」
「俊典さんも?」
「そうだよ。前にも言っただろ。私の本音は重いって」

 重たい本音をさらりと告げて、リモコンのボタンを押してカーテンを開けた。
 そこに広がる摩天楼と、空に輝く六月の満月。
 その月は、かつて切ない思いで眺めたものと同じ月。だがあの時の月は、いざよい続ける月だった。
 けれど今のそれは、恋を叶えるストロベリームーン。

 君をずっと離さない。この命ある限り。そう告げたら、君はどんな顔をするだろう。
 重いです、と引くだろうか。それとも、いつか池の前で話した時のように、それもすべて覚悟の上です、と静かに笑ってくれるだろうか。

「幸せすぎて怖いです……」
「……私もだよ」

 口づけを交わす我々を見おろすように輝く月の名は、ストロベリームーン。
 苺のように甘くみずみずしい日々を、これから過ごそう。
 君と二人で。

2017.06.10

2017年のオールマイト誕お祝い小説。
1話と2話の間にあたるお話です。
十六夜月の話はTの「番外編・ムーンライトシルバーのためらい」です。

月とうさぎ