すさまじいまでの夕焼けをあとに、わたしたちは帰宅した。
「で、どうする?」
わたしの瞳を覗き込みながら、俊典さんがわたしにたずねる。
質問の意図をとらえかね、応えられずにいると、おふろ、と低い声が耳孔に流し込まれた。羞恥に顔が熱くなり、そっと、目をふせる。
大好きな彼の情熱に応えたいところだけれど、わたしにも、今日はちょっと考えがある。
「あの……」
「ん?」
「実は……作りたいお料理があるんです……。このところ大学の試験や予備試験の勉強にかまけて、ちゃんとご飯を作れていなかったので……」
だめでしょうか。と見上げると、俊典さんは微妙な顔をしていた。
気を悪くしたのだろうか。
「……あの……ごめんなさい……自己満足でしかないのはわかっているんですけど、時間があるときくらいは俊典さんの好きなものを作りたいなと……」
「好きなもの?」
「前に鍋を買った時、アクアパッツアが食べたいって言ってましたよね」
「ああ」
俊典さんが思い出したように目を細めた。
先日購入した、カラフルなフランス製の鋳物ほうろう鍋。そこについてきたレシピ冊子を見た時に、俊典さんがぽつりと、食べたいなとつぶやいたのだ。
鯛とあさりとムール貝、そしてイカ。
材料も手順も、とてもシンプルなレシピだ。かわいいがとても重たいあの鍋は、熱伝導性に優れ、素材のうまみを逃がさない。シンプルなレシピだからこそ、鍋の特性が活きる。
だからこそ、彼も「食べてみたい」と思ったのだろう。
「あんな、ささいな呟きを覚えていてくれたんだ」
「もちろんですよ」
「もう! 君って子はさ!」
嬉しげな声と共に、いきなり長い腕の中に閉じ込められた。本当にかわいいよという声と共に降ってくる、キスの雨。
こんな時、わたしはとてもしあわせだなと、そう思う。
「じゃあさ」
と、俊典さんが目を細めながら続ける。
「こういうのはどうだい? 帰宅に合わせてお風呂の準備をしてくれたのに悪いんだけど、これから夕飯を一緒に作って、一緒に食べて、それから一緒にお風呂に入る」
「えっ?」
一緒にお風呂だなんて、初めてではないけれど、やっぱりちょっと恥ずかしい。だから、ごまかすようにちいさく笑った。
「わたしがご飯を作っているあいだに、俊典さんがお風呂に入るのが一番効率的だと思うんですけど」
「え……効率って言っちゃう? ……そう……そうか……うん……たしかにソウダネ……うん……」
俊典さんは大きな背を小さく丸めて、しゅんとしてしまった。言い方は悪いけれど、まるでご主人様に叱られた大型犬のよう。
このひとのこういうかわいさは、少し罪だとわたしは思う。こんな顔をされてしまったら、どうしてもほだされてしまう。流されてしまう。
「あの……」
「なんだい?」
「一緒にお風呂っていうのは、どうしても外せないんですか?」
「ウン! 外せないよ。さっきも言ったけど、私、今日は甘えたい気分なんだよね」
「……じゃあ……ちょっとだけ……ちょっとだけですからね……」
応えたとたん、サファイアブルーの瞳がきらきらと輝いた。
このひとのこういう顔はまるで麻薬だ。そう思った瞬間、頬にキスを落とされる。続いてありがとう、と、甘い低音が耳元でささやいた。わたしはこの低音にめっぽう弱い。
我が国の誇るナンバーワンヒーローは、こうやって年の離れた恋人であるわたしを、手のひらの上で転がしていく。
***
食後に一緒にお風呂に入ったが、当然のように、わたしたちはそこで熱く甘い時間を過ごしてしまった。
衰えたとよく嘆いている俊典さんだけれど、それでも彼はやっぱりタフだ。
わたしは先にお風呂からあがらせてもらったが、俊典さんはもう少し汗をかきたいと、浴室に残り半身浴を楽しんでいる。
あんなに翻弄された後に半身浴なんて、わたしにはむり。
「はー。汗かいた」
素肌にバスローブを羽織っただけの格好で、俊典さんがダイニングに姿を現した。
「俊典さん、水分とりましょう」
冷やしておいたミントティーを手渡しながらそう告げる。帰ってくるのはありがとう、という落ち着いた声。
ごくごくと音をたててお茶を飲み干す年上の恋人の上下する喉仏がひどく性的に見え、さりげなく目をそらした。
ほんの三十分前には、あの細い身体に快楽を与えられていたのだと思うと、体の奥がまた熱くなる。
「実桜?」
「……ごめんなさい。なんでもないです」
恥ずかしい。思っていたことが顔にでも出ていたのだろうか。
自分の中にふたたび生じた欲を悟られたくなくて、なんでもないふうを装いながら、空になったグラスを受け取った。
すると、その手首を俊典さんにつかまれた。
「俊典さん?」
「もう、本当に君はわかりやすいな」
ぐいとそのまま引き寄せられて、口づけられた。
「もう一回、したい?」
耳元でそう囁かれて、顔から火が出そうだ。
どう答えていいかわからず、口をぱくぱくさせていると、俊典さんがふふっと笑った。
「私もね、今日はちょっとそんな気分なんだよね。でも、さすがに今はまだ無理」
もう少ししたらね、とウインクされてまた赤面してしまう。
と、その時、俊典さんの携帯端末が鳴り響いた。いつもの出動要請とは違う着信音だ。さっと、俊典さんの顔色が変わった。
ごめん、と言い置いて俊典さんが端末を手に取る。
なぜだろう。ひどく、嫌な予感がした。
***
連絡を受け、そのまま出かけていった俊典さんは、翌日の夕方まで帰らなかった。
彼からはなにも聞かされなかったが、その理由はすぐにわかった。
雄英の生徒がヴィランにさらわれたというニュースが流れたからだ。体育祭で優勝した、優秀な生徒だという。
帰宅後も、ひどく憔悴しているようすの俊典さんに、かける言葉がみつからない。
あまり会話のないまま食事をし、いつもより少し早めに寝室に向かった。
「実桜」
本でも読もうとサイドランプの灯りを調節していると、俊典さんがいきなりわたしの名を呼んだ。
「はい?」
「明日ね、私、ちょっとした作戦に参加するから」
「……はい」
おそらくは、さらわれた生徒を救出するための作戦だろう。
嫌だな、と思った。俊典さんがまとっている雰囲気が、常よりも重い。
「そこでもし……いや、やめておこう」
「俊典さん?」
どうしていいかけた言葉を途中でやめたりするのだろう。民間人であるわたしは、彼の言うちょっとした作戦がどれほどのものかわからない。こんなふうにされたら、ただただ、不安がつのってしまう。
こんな時、やっぱり感じてしまう。
ありがちな個性なんかではなく、ヒーローを目指せるような秀でた個性が欲しかったと。そして公私ともに、彼を支えていきたかったと。
おそらく俊典、いや、オールマイトは、そんな存在を必要とせず、孤独な道を歩むのであろうけれど。
一瞬、サー・ナイトアイの端正な面が脳裏に浮かんで、そして消えた。
支えになれるだけの能力があるのにさせてもらえないのと、その能力もないのとでは、いったいどちらがつらいだろうか。
「今夜は」
と、俊典さんがまた言葉を切って、わたしを見つめた。
こんなとき、変に察しのいい自分が嫌になる。
明日対峙する相手は、オールマイトにとって、強敵なのだ。
「君を抱きしめたまま眠ってもいいかい? 君を抱いて、君のぬくもりを感じていたいんだ」
暑いかな、と恥ずかしそうにつぶやいた年上の恋人に、いいえ、と返して、彼の腕の中におさまる。
こうして互いの体温をずっと感じていたい。これからも、ずっと。
だから、どうか、どうか無事で帰ってきてください。今までのように。
嫌な予感を振り払いたくて、薄いけれど広い胸に、顔をうずめた。
***
俊典さんは、朝早くに家を出た。それきりなんの連絡もない。
時刻は夜の十時を回ったところ。
デスクの上には、開きっぱなしでまったく進んでいない問題集が置かれたままだ。こんな心境で、勉強がはかどるはずがない。
結局、今日は一日、無駄な時間を過ごしてしまった。
小腹がすいたので、昨日買ったチャバタにチーズとハムを挟んだ。テレビをつけて、それを頬張る。
これはこれで美味しいけれど、ホットプレスしてパニーニにしても良かったなと思いながら、最後の一口をごくりと飲みこんだ。
その時だった。
画面の上部に、いきなり――緊急速報――の文字が流れた。
同時に画面が街の映像に切り替わる。
緊急速報でテロップが流れることは多いが、画面まで切り替わるというのは、よほどの大事件に違いなかった。
流れてくるアナウンサーの声に、耳を覆いたくなった。
『悪夢のような光景! 突如として神野区が半壊滅状態となってしまいました。現在オールマイト氏が元凶と思われる敵と交戦中です!』
神野といえば横浜の繁華街だ。あの大都市を半壊滅状態にできるような敵は、どれほど強い個性を持っているのだろう。想像しただけでぞっとする。
アナウンサーの声はまだ続く。
『信じられません! 敵はたった一人! 街を壊し……』
映し出された悪夢のような光景を、ただ見つめた。
実力は拮抗、いや、むしろオールマイトが押されているかのように思える。
「まさか……」
前から気になっていたことがある。今まで、怖くて聞くことができなかった。
俊典さんは胃袋と、肺の半分がない。俊典さんに、オールマイトにそれほどの深手を負わせたヴィランはいま、どうしているのか。
捕まったのか、死んだのか、それとも……それともどこかに潜伏し、悪事をはたらく機会をうかがっているのか。
いま、俊典さんが対峙している敵は、そのヴィランではないだろうか。
と、その時、画面の向こうでヴィランの左手が、大きく膨れ上がった。間髪おかず、攻撃が続く。
オールマイトは、拳をもってそれを相殺したようだった。アスファルトやコンクリートが砕け、粉塵が巻き上がる。
数秒の後、わたしは息を飲んだ。
もうもうたる粉塵の奥から出てきたのは、オールマイトの真の姿だ。頬はこけ、眼下は落ち窪み、痩せ衰えた、平和の象徴。
それは、彼がオールマイトとして活動できる時間が限界に達したことを表わしている。
「あ……」
どうしてこんなになってまで、このひとは戦うのだろうと、ずっと思っていた。なにが彼を、あそこまで駆り立てるのだろうかと。
優しいから、それもある。でも、それだけじゃない。
強いから、それもある。でも、それだけじゃない。
おそらくそれは、強迫観念にも似たものだ。
頑ななまでの自己犠牲。あるいは狂気と呼ぶべきもの。
オールマイトの淵は、深くて暗い。
かつて八木俊典という少年が、世界の柱になることをめざした。
果たしてそれは、世界樹のような大いなる恵みの柱であったのか。それとも平和の礎として埋められた、人柱であったのか。
流れる涙もそのままに、画面を見つめた。
絶対に目を逸らしたりするものか。すべてをこの眼に焼きつける。
深い闇を抱え抗い続けた柱の、孤独の道を歩み続けた英雄の、オールマイトの生きた証を。
自らに全能という名の枷をつけ、抗い続けた英雄の残り火が、燃え尽きるまで。
痩せ衰えた姿をさらしながら、オールマイトが戦っている。
彼の援護に来たヒーローは、小柄な老爺、グラントリノただひとり。オールマイトの師匠の友人であり、高校時代の恩師でもあるひと。
孤独の道を歩むこと、世を支える柱として、ただ一人で闘い続けることをえらんだのはオールマイトだ。
それでも、こんなになっても戦おうとする彼を救けようとするヒーローは、恩師の他にはいないのだろうか。
絶望しかけたその時、紅蓮の炎が敵に襲いかかった。
炎の個性を持ったヒーローは何人もいる。だが、地獄の業火を思わせるほどの炎を自由に操れるヒーローは、たったひとりだ。
「エンデヴァー……」
オールマイトの窮地に駆け付けたのは、ひとりではなかった。フレイムヒーローと共に、何人ものヒーローたちが現れた。
しかし、それを喜ぶ時間はない。ヴィランが、ヒーローたちをまとめて弾き飛ばしたからだ。
次の瞬間、ヴィランの右腕が膨れ上がった。ただ大きくなったのではない。
巨大な右腕の中に埋もれた、いくつもの腕。そのうえに、槍状のとげや鋲のようなものがびっしりと生えている。
次の瞬間、画面の中で巨大なエネルギーがぶつかり合った。
響く轟音。再び巻きおこる粉塵。鉄筋コンクリートの建造物が、砂のように崩れ落ちる。
実力が拮抗した梟雄と英雄の激突は、街に災害レベルの被害をもたらした。
その光景は、さめない悪夢を見ているかのようで。
けれど終わりがないように思えた戦いにも、必ず最後の瞬間がやってくる。
オールマイトの繰り出した拳は、最後の一撃となってヴィランをとらえた。ユグドラシルの如く世界を支え続けた我らの英雄が神野の大地に穿った、深く巨大な穴。
オールマイトが放った一撃による風圧が、瓦礫を巻きあげながらトルネードのように上昇していく。
「……俊典さん……」
やがて、ヴィランが動かなくなったことを確認したオールマイトが、片方の腕を高く、高く天に掲げた。
それは、一つの時代の終焉を知らせる合図。
オールマイトという伝説が、神話となった瞬間だった。
***
晩夏の太陽は、早朝からでも容赦なく肌を焼く。すでに気温は三十℃を越えているだろう。
それなのに、蓮池の周りは最後の花を楽しもうとする人でいっぱいだ。
朝の蓮は香りが高い。やや青臭いハーブのような香りの中に、花の甘さがほんのりと混じる、独特の芳香。
「蓮の花ももう終わりかと思ったけれど、そうでもないね」
右腕にギプスをつけた俊典さんが、へにゃりと笑う。そうですね、とわたしは答える。
今着ているのは、お気に入りだった白いワンピース。一年前の、あの日と同じ。
神野の事件の後の俊典さんは、本業の教師としての業務だけでなく、引退表明に続くマスコミへの対応などで、多忙を極めた。
おかげで、あのすさまじい夕焼けを見た日に交わした蓮を見に行く約束は、八月もなかばを過ぎた今日まで、実現させることができなかった。
俊典さんの言うとおり、もうすぐ蓮の花も終わる。神野の夜、オールマイトの残り火が燃え尽きたように。
「きれいですね……」
盛りを過ぎてなお咲き誇ろうとする、蓮の生命力を感じながらつぶやいた。俊典さんが、うんとうなずく。
「今日は、大事な話があるんだ」
「はい」
「これからの私たちのことだ」
話の内容は、なんとなくわかっていた。雄英は新学期から寮制になる。目的が生徒の保護であるがゆえに、教師も敷地内に住むことになるだろう。
だとすると、これから俊典さんが住むのは、国立高校の職員寮だ。
本人とその家族以外の人間がそこで暮らすことは、法的にも倫理的にも、許されることではないだろう。
恋人という微妙な立場のわたしは、もう、俊典さんと一緒には住むことはできない。
「実桜」
「はい」
「前にも言ったけれど、私はおそらく、あまり長くは生きられない」
俊典さんの口から出たのは、想像していたのとはまったく違うものだった。できるなら、もうそういった悲しい話はしないでほしい。そうでなくても、別居という悲しい現実が待っているのだから。
すると俊典さんは軽く眉をあげ、しずかに笑った。
「ああ。ごめん、言い方が悪かったね。そういう意味じゃないんだ。このあいだの戦いで、未来から逃げられたのかどうかはわからないけれど、私はこれからも抗っていくつもりだよ」
「はい」
「運命と呼ばれるものに、勝てるかどうかはわからない。けれども、負けないように抗い続ける。そんな私でよければ」
と、俊典さんが、言葉を切った。
「それでもよければ、私の家族になってもらえないか」
夢のようだと思った。今の言葉は間違いなくプロポーズだ。
けれど、ここで終わらせないのが俊典さんだ。優しいけれど、彼はそんなに甘くない。
「でも、今すぐにとは言わない。君はいま、大切な試験を控えているからね」
「……はい」
俊典さんの言いたいことはよくわかる。
わたしは先日、予備試験の二次に合格した。秋には口述試験が待っている。ここで落ちたら、最初からやり直しだ。また、短答式試験からやり直さねばならない。
「だから、すべては最後の試験が終わったら、だ」
「……わかりました」
わたしのことを思って言ってくれているのだと、わかってはいる。
離れて暮らすといっても、予備試験が終わるまで、もしくはその後の司法試験が終わるまでの、たった数か月だ。人生という長いスパンにおいて、その数か月はたいした期間ではないだろう。俊典さんの案は、最善だと思う。
それでもやっぱり、その物わかりの良さが、少しさみしい。
「どうしたの?」
「俊典さんは本当に大人ですよね……いつも余裕たっぷりで」
恨みがましい言葉が口をついて出た。
大きな蓮の花が咲く池。向こうには弁天堂。足元には鴨。ワンピースの裾を揺らす夏の風。白いギプスをつけた俊典さんと、白いワンピースを着たわたし。
一年前のあの日とよく似ているけれど、異なる景色。
「君は本当にわかってないね」
「すみません……」
「私はね、君に対してはまったく余裕なんかないんだよ。常にいっぱいいっぱいだ。本当は、君の夢もなにもかも犠牲にさせて、私の側に置いておきたいくらいだ」
「……」
「でも、それは愛じゃないよな。だから待つんだよ。君が夢をかなえる日まで」
「わたし……俊典さんと離れて暮らすのはいやです……でも……今が正念場なんですよね……」
「……そうだな」
「だから……必ず受かります。秋の口述試験も、その後の司法試験も」
うん、と俊典さんが破顔して、わたしの頭をくしゃりと撫でた。
「じゃあ、これから銀座に買い物に行こうか」
「はい?」
「すべては試験が終わってからなんだけど……その……今のうちからね、君を縛りたいんだよ」
「縛るんですか? 銀座で? わたしを?」
わたしのいらえに、俊典さんが、ぶは、と大きく吐血した。
「……君が望むなら、物理的に君を縛ることもやぶさかじゃない。けれどね、私が縛りたいのは、君の心と未来だ」
「こころと、みらい?」
「ここにつける指輪をね、買わせてもらいたいんだよ。一生持てるような、品質のいいものを」
俊典さんがここ、と言いながら差したのは、左手の薬指だ。そこにつける一生モノの指輪がどういうものであるか、うといわたしにもよくわかる。
「私は未来を変えてみせる。だから、君の心と未来を、私にあずけてくれ」
落ち窪んだ眼窩の奥を細めて、枯れ枝のように細い腕を広げて、俊典さんがわたしを見つめた。
サファイアブルーの瞳に映るわたしの顔は、器用なことに、泣きながら笑っている。
「わたしでよければ、よろこんで」
「ありがとう」
そう微笑んだ俊典さんに、しがみついた。細長い身体が、長い腕が、わたしをやさしく抱きとめる。
未熟な果実にも似た、青くて甘い蓮の花の香りにつつまれながら、そっと目を閉じた。
未来が見える人がいる。その人が見た俊典さんの未来は、明るいものではなかった。
けれど、それは絶対じゃない。未来を変えることは、きっと不可能じゃない。
だから――。
歩いて行こう。マーブル状の混沌の中を、抗い続けながら。
これからもずっと、このひとと心を寄せ合って。
2017.9.24