早いものだ、とわたしは心の中でひとりごちる。一年前の今日、わたしたちは蓮池の前でたがいの気持ちを確かめ合った。
あの日のあの公園も、こんなふうに蝉の鳴き声がしていたっけ。
母の恋人だった人とこんなふうになるなんて、世間は色々言うかもしれない。二十歳以上年齢の離れた人との暮らしには、常識人と呼ばれる人たちが眉をひそめるかもしれない。それでもわたしは幸せだ。
年の離れた恋人は、とても優しい。どこかレストランを予約しようか、と、彼は言ってくれたけれど、多忙なひとにあまり甘えるのはどうかと思った。
だから、一年目の記念日はおうちでゆっくりしましょう、とわたしはこたえた。
素敵なレストランや歴史ある料亭でのお食事も悪くないけれど、おうちでまったりしながらふたりで過ごすことも、とても贅沢だと思うのだ。
「夕飯の買い出しはどうしましょうか?」
「ああ、じゃあ……」
俊典さんは近隣の高級スーパーの名前をあげた。
この近辺はお高いスーパーも多いが、庶民派の店もちゃんと存在する。わたしはそちらの方が好きだが、俊典さんと一緒の時はこうして高級スーパーに足をはこぶことが多い。珍しい食材の取り扱いがあるからだ。
俊典さんはあまり見かけないような食材を見つけるたびに、嬉しそうな顔をする。俊典さんは……オールマイトは、私生活でも好奇心旺盛。とてもチャーミングなひとだ。
「今日、人多いですね」
「まったくだ。なんであんなところにあんなに人だかりができてるんだ?」
俊典さんの言うとおり、鮮魚コーナーの前にちょっとした人だかりができていた。
なんだろう、と思ってよく見ると、白い帽子と防水エプロンを身につけた男性が、台の上で何かをさばいている様子。高級を売りにしているこの店では珍しい光景だ。
だが、台の上を見たわたしは、思わず小さく息を飲んだ。
ざくざくと内臓と身に切り分けられているそれは亀だった。くらいついたら離れないと言われる亀、すっぽん。
滋養に富み、コラーゲンたっぷりと聞いたことがあるけれど、台の中央に切り落とされた三角の頭がどんと乗せられているのを見ると、つい目をそらしたくなってしまう。
それに亀の頭って、書いて字の通り、アレに形状がちょっと似ている。
しかし、わたしのとなりのおじさまはそんなことにはお構いなしで、怖い言葉をぽろりと落とした。
「すっぽんか……悪くないね」
「え……」
「今日は丸鍋にしよう」
「今、夏ですよ」
「うん、真夏だね」
俊典さんは意外と頑固だ。こうしたい、と一度決めてしまったら、よほどのことがない限り梃子でも動かない。
「お兄さん、この時期のすっぽんだと養殖かい?」
「ですね」
「じゃあ、生き血もつけてもらえる?」
「ご希望の方にはおつけしていますよ。そのままだと色々問題があるので、度数の高い焼酎で割ってお渡ししていますが」
「ああ、それで構わない。じゃあ生き血もつけて、一匹さばいてくれないか」
「わかりました、すぐできますので少しお待ちくださいね」
今、とても怖いやりとりがあった気がして、おそるおそる肉の削げ落ちた顔を見上げた。
「ン? なんだい?」
「血って……そんなものどうするんですか?」
「どうするって、飲むに決まってるだろ」
こともなげにそう言われ、卒倒しそうになってしまった。
飲むの? 亀の血を? 正気ですか、俊典さん!
「君も飲むかい? 美肌効果もあるそうだよ」
慌ててぶんぶんと首を振った。吸血鬼でもあるまいし、亀の血の焼酎割りなんて、とてもじゃないが怖くて飲めない。
「お待ち。今夜は頑張ってくださいねェ」
「ありがとう、そうするよ」
すっぽんを手渡しながら、魚屋のおにいさんが俊典さんをうらやましそうにみつめたのが、少し印象的だった。
***
家に着くなり、俊典さんが丸鍋を作り始めた。鼻歌交じりに野菜を刻む背の高い後ろ姿。
夏に鍋、しかも食材は亀。少し抵抗があったけれど、あんな風に嬉しそうにされてしまっては否やと唱えられるはずもない。
そうこうするうちに、土鍋の中には日本酒と水と昆布が投入された。沸いたと同時に昆布が取り出され、代わりにすっぽんの身がどばどばと入れられる。
少しすると、わーっとアクが浮いてきた。
俊典さんがわたしの知らない古い歌を口ずさみながら、楽しそうにそれをすくいとる。
手持ち無沙汰になったので、調理台の端で大根とザーサイの和え物を作った。刻んで合えるだけの、簡単な一品だ。
今日は疲れている俊典さんにのんびりして欲しくておうちで過ごすことを選択したのに、料理をしてもらっては本末転倒だなとため息がこぼれる。
「どうしたんだい、実桜、ため息なんかついて」
「……なんでもないです」
「なんでもなくはないだろ? 眉間にしわが寄ってるよ」
「えっ、ウソ?!」
慌てて眉間に手をやると、うそだよ、と微笑まれた。
鍋に野菜を投入しながら、俊典さんが続ける。
「で、どうしたの?」
「……疲れてるのに、調理させちゃって悪いな、って思って」
すると、ははは、と楽しそうに笑う声が降ってきた。
「二人分の鍋なんてたいした手間がかかるものじゃないからさ。大丈夫だよ。それに……」
と、俊典さんはいったん言葉を切って、意味深に笑った。
「なにせ今夜はすっぽんだからね。楽しみだな」
「なにが楽しみなんです?」
「え? 聞いたことない? すっぽんの効能」
「ないです。ゼラチン質が多そうだから、コラーゲンたっぷりには見えますけど……お肌がぷりぷりになるとか?」
「ン、まあ、それもあるね」
「他にも?」
「ンン……そこらへんはさ、夜になったらわかるよ」
そうして俊典さんは、また意味深に笑ったのだった。
丸鍋は思っていたよりずっと美味しかった。泥臭いかと思っていたのに、臭みはまったくない。しかもゼラチン質の多い甲羅の近くの身はぷりぷり、肉部分はさっぱりした鶏肉みたいに柔らかかった。お出汁も実に上品な味。
すっぽんが高級食材と言われる理由がわかった気がする。
空調の効いた部屋で真夏に食べる鍋も悪くないな、そう思ったその時だった。
「あ、忘れてたよ」
またも鼻歌を歌いながら、俊典さんが冷蔵庫から赤い液体を取り出してきた。本当に今日の俊典さんはすこぶるご機嫌。彼が嬉しそうだと、やっぱりわたしもとても嬉しい。
けれどしっかりとした手の中にあるアレはちょっといただけない。
血紅色の液体を持ってニヤニヤしているひょろ長い姿は、なんだかちょっと怖い。久しぶりに、俊典さんが死神みたいに見えた。
「本当にそれ飲むんですか?」
おそるおそるたずねる目の前で、小さなグラスに血が注がれていく。
「飲むよ。実桜本当にいらないの?」
「いりません。それに血なんて美味しいんですか? 寄生虫とかいないんですか?」
「天然ものだと寄生虫の危険もあるみたいだけど、養殖ものだとそう心配はいらないらしいよ。味はそう美味しくもないけど、せっかくすっぽんが手に入ったなら、やっぱり飲まないともったいないじゃないか、ものすごい効くし」
「え……効く?」
と、その時、体がヘンにあつく火照っていることに気がついた。
鍋のせいで暑いのではない。暑いのではなく熱いのだ。身体の内側から、あついなにかがふつふつと生まれてくるような、そんな感じ。
「実桜、どうした?」
「なんか……体が熱いです」
「くぅー、若いってスバラシイ。身だけでもこんなに早く効くのかよ」
「は?」
わたしの声を無視して、俊典さんは血の焼酎割りをきゅっと一気に飲み干した。
少量とはいえ、今の飲み方は胃袋のない身体にさわるんじゃないだろうか。
「すっぽんはね、コラーゲンだけじゃなく、ビタミンやミネラルが豊富で血液をサラサラにする効果もあるんだよ。冷え性なんかにも効くらしい」
「ああ、だから身体の内側からポカポカしてきたんですね」
「うん。でもね、一番効果が出るのが、身よりも生き血」
「はあ」
「ま、あとでわかるよ」
俊典さんの目が、すっと三日月のかたちに歪められた。
お鍋のシメは雑炊にした。鍋の中に青菜と青ネギと卵を入れただけのありがちな雑炊。けれどこれも、びっくりするほど美味だった。
「美味しいです」
「それはよかった」
ふたりではふはふ言いながら、あつい雑炊をかきこんだ。
「あー、私の方も効いてきた。相変わらず凄いな」
急に、かー、とか、くー、とか言い出した俊典さんをよそに、片付けを開始する。お鍋を作ってくれたのは俊典さん。片付けはわたし。
とはいえ、ほとんどの食器は食洗機があらってくれるのだから、楽なもの。
「実桜―」
食洗機のスイッチを入れた瞬間、背後から長い腕で抱きしめられた。俊典さんはリーチが長い。わたしはいつも、その中にすっぽり閉じ込められてしまう。
ふと、背に何か硬い物があたっていることに気がついた。
「あの……俊典さん?」
「私、明日はお休みだから。今夜はたっぷり仲良くしようね」
耳元でささやかれたその声は、語尾にハートマークがついているんじゃないかというくらい甘い。わたしはそこでやっと思い至った。すっぽんの生き血の効能に。
「もしかして……すっぽんの効能って……あっち系?」
「ウン、そう。もうギンギンになってるよ」
俊典さん、その言い方はおじさんぽいです。
「これで今夜は若い男には負けないぞ」
「他の男性がどうなのかは知りませんけど、生き血なんか飲まなくても、俊典さんの……は充分すごいです……」
「もう……そんなこと言われたら、オジサンますます頑張っちゃうぞ」
ぼんっ、という音と共に、俊典さんが膨れ上がった。
えっえっ、もしかして、今日はマッスルでイタすんですか……だいじょうぶかな……ただでさえいつもこのひとには翻弄されているのに、今夜はわたし……壊れちゃうんじゃないだろうか。
「優しくするから大丈夫だよ」
シャツを脱ぎながら、俊典さんが笑った。
言葉にたがわず、これ以上なく優しい仕草で俊典さんがわたしに触れる。
唇に、頬に、眉に、優しい指が下りてくる。こんな感じは久しぶり。
んっ、と小さく声をあげると、かわいいね、と微笑まれた。
「だって、俊典さん、ずるい。こんなふうに触れるなんて」
「覚えているかい? ちょうど一年前も、こんなふうに君に触れたよね」
もちろん覚えている。
気持ちを通わせあってから身体をつなげるまで、俊典さんは二週間もの時間をかけた。
舌を絡ませるキスから始まって、少しずつ、本当に少しずつ、夜が来るたびに慣らされていったわたしの身体。じっくりと時間をかけて開発された身体は、今はもう、俊典さんの思いのまま。
「もちろん、あの頃みたいに今夜は途中でやめてはあげないよ。ゆっくり時間をかけて、何度でもしようね」
「何度でも?」
「私の体力が続く限りは」
ウインクしながら笑む年上の恋人。
彼の太い指が、わたしを今宵もとろかせてゆく。
「ああ、君、本当にここが好きだよね」
「わたしにも……させてください……」
気持ちよさに蕩けかかったバターのようになりながら、わたしはおねだりをした。してもらうのも大好きだけど、俊典さんにも、たくさん気持ちよくなってもらいたい。
がちがちになった太くて長いそれに手を触れると、俊典さんが小さく息をついた。
こうして夜は、ごくゆっくりと更けていく。
***
鼻腔をくすぐるコーヒーの香りで目が覚めた。ベッドからやっとの思いで身体を起こす。一晩かけて死ぬほどの快楽を叩き込まれた下半身の筋肉が、きしきしと悲鳴を上げた。
「おはよう」
目の前には、アイスコーヒーのグラスを手に涼しげに笑む、長身痩躯。こちらはこんなに疲労困憊しているというのに、この差はいったいなんだろう。
痩せ衰えていてこれだ。このひとの全盛期は、いったいどれほどすごかったのだろう。
「実桜、今日、すごくきれいだ」
わたしが密かに考えていることになどまったく気づかぬ様子で、年上の恋人はそっとささやく。
自分の頬に触れてみた。確かにもちもちのぷりぷりで、手のひらに吸いつくようにしっとりしている。
これはすっぽんの効果なのか、それとも昨夜のアレで女性ホルモンがたくさん出たためなのか。
「たくさん愛し合うと、女性はきれいになるって言うよね」
しれっとそんなことを言う痩せた背中を、もう、と軽く叩いた。
「ごめんごめん。でもね、本当に、ここ最近、君はどんどんきれいになってるよ。眩しいくらいだ」
はい、と手渡されたアイスコーヒーは、わたしの好みの濃さだった。
わたしが綺麗になれたのだとしたら、それはきっと、すっぽんの効果でも満たされたセックスのためだけではないと思う。
女をきれいにするのは、きっとこうした幸せな時間の積み重ね。
この時間がずっと続けばいい。
そう思って笑ったところに、優しいキスが下りてきた。
2016.9.20
AFO戦の少し前のお話です