3話 エメラルドグリーンの泡沫

 マイトさんは晴れ男なのだろうか。今日はとってもいいお天気。ただし、風が冷たいらしい。
 外気温を確かめようとベランダに出てみると、ぴりっとした北風が頬を刺した。

 これでは春のコートは無理だろう。諦めて、裏にもこもこしたボアがついたGジャンに、ロングスカートを合わせた。
 睡さんが、昨日の帰り際に、スカートをはいていくのよと助言してくれたからだ。理由はよくわからないが、睡さんのおすすめなら間違いないような気がした。
 いつもならGジャンにはスニーカーを合わせるのだけれど、今日はちょっと背伸びして、昨日買ってもらったベージュのパンプスにしようと思う。少しでも大人っぽく見えるように。

 昨日教えてもらった通りに、お化粧もしてみた。簡単に目元に色を入れてみただけ。
 でもそれだけで眼元がはっきりする。それだけじゃなく、どこか憂いを含んだように見えるからお化粧ってすごい。
 お化粧をしたわたしは、すこし大人びて見えるような気がする。

「あれっ?」

 わたしの支度が終わるのを待ちながら携帯端末を眺めていたマイトさんが、変な声を上げた。

「ごめん、実桜。行こうと思っていた国立美術館なんだけど、月曜日は休みみたいなんだ。別の美術館を探すから」
「探さなくていいです。わたし、マイトさんが言ってた動物園に行ってみたいです。パンダがいるところですよね」
「ホント? そう言ってもらえると私も嬉しいな。ちょっと待ってね、開園時間調べるから。って、あぶねー」

 最後の言葉に少し驚いた。マイトさんの口からも、紳士的じゃない言葉が出てきたりもするんだ。
 もしかして、ごくごく親しい相手にはそういう話し方をするのだろうか。
 母に対しても、そうだったんだろうか。

「動物園も、ほんとだったら月曜休みだったみたいだ。春休み期間だから、今日はあいてるみたいだけど」

 よかったね、と落ち窪んだ眼窩の奥の目を細めてマイトさんが笑った。ずっと年上のひとなのに、こういうときのマイトさんは本当にかわいい。


 動物園の開園時刻に合わせて、家を出た。
 今日のマイトさんは、グレー杢のTシャツにジーンズというラフな格好。上に羽織っているのは、表地がダークグリーンで裏がオレンジという配色の、アメリカ軍のフライトジャケットだ。足元は迷彩柄の布製スニーカーで、全体的にミリタリー調を意識している感じ。

 カジュアルな服装でいると、マイトさんはスーツの時よりずいぶんと若く見える。若く見えるマイトさんと大人っぽくなったわたしが並んで歩く姿は、周りの人からいったいどんなふうにうつるのだろう。
 この時、わたしは心の中に小さな泡が生まれたことに気がついた。エメラルドグリーンの海の底でぷくりと生まれた、小さな泡。生まれた泡はぷかぷかと、わたしの心の海をただよっていく。

「実桜、キャンディ食べる? フルーツ系で好きな味はあるかな」

 地下鉄に乗った途端、マイトさんが飴の入った小袋を取り出した。

「キャンディですか? 青りんごが好きです」
「青りんご……あったあった。ハイ」

 大きな手の上に小さなキャンディの包みがちょこんと乗っているさまは、なんだかおかしかった。黄緑色の可愛い飴を、一ついただく。
 青りんごの甘酸っぱい味と香りが口の中にひろがった。

「飴、いつも持ち歩いてるんですか?」
「私は胃袋がないからね、低血糖になりやすいんだよ。予防のために、いつもなにかしら甘いものを持ち歩くようにしているんだ」
「そうなんですか」

 やっぱり、いろいろと気をつけることがあるんだ。お世話になるのだから、できることはできるだけ協力しなくては。明日こそマンション常駐の看護婦さんのところに行ってみよう。そう、ひそかに思った。

***

 この都市の大きな駅は、どうしてこう迷宮じみているのだろうか。そんなことを考えながら、ダンジョンのような駅の構内を抜け、改札を出る。
 お天気はいいが、外の風は春先にしては、やっぱり冷たい。

 駅前の広い道路を渡って少し歩くと、ZOOと書かれたゲートが見えてきた。それをくぐるとすぐ右手にあるのがパンダ舎だ。パンダはやはり人気があるのか、人だかりができている。
 パンダを見るのは、実は二度目だ。わたしは昔、母とこの動物園に来たことがある。その時、なぜかオールマイトが一緒だった。母が亡くなる、ひと月くらい前のことだったように記憶している。

 母がヒーローのお友達を家に連れてくることは珍しいことではなかったので、今まで気にしていなかったのだが、こうして動物園に来てみるとわかる。あれはとても不自然だった。
 周りの男女二人連れはカップルに、子連れは幸せなファミリー以外には見えない。
 子連れの女性と出歩く、スーパースター。
 スキャンダルになってもおかしくないような真似を、あのオールマイトが、友達相手にするだろうか?
 あまり考えたくないことだけれど、母はマイトさんとオールマイトの両方と付き合っていたのかもしれない。マイトさんは果たして、それに気づいていたのだろうか。

 また一つ、わたしの中で小さな泡が生まれた。エメラルド色の海の中をただよっていく、小さな泡たち。それはなかなか海上まではたどりつけず、海流に翻弄され海の中をただよい続ける。
 この泡立つ気持ちがなんなのか、わたしにはまだわからない。

「実桜。もうすぐ見えそうだよ」

 マイトさんの声に、我に返った。彼の言うとおりパンダが見えてきた。ぺたりと床に座り込んで、笹を抱えて食べているだけ。それだけなのに、なぜあんなにもかわいいんだろう。
 あんなに大きいのにかわいいなんてずるい、と思いながら、隣に立つひとのことを思った。
 このひともこんなに大きいのに、ちょっとしたしぐさがとてもかわいい。かわいい大人の男のひとがいるなんて、わたしはマイトさんに出会うまで知らなかった。

「かわいいですよねえ」
「まったくだ。でもパンダは狂暴な一面をあるらしいよ。外国の動物園で、檻に近づすぎて襲われた人もいる」
「……夢を壊すのやめてくださいよ」
「ごめんごめん」

 そんなやりとりを交わしながらパンダ舎をあとにした。続くトラとライオンのゾーンを抜け、桜がたくさん咲いている広場に出る。売店でホットドッグを買い、ガーデンテーブルで一緒に食べた。頭上には満開の桜。
 この広場は家族連れが多い。隣のテーブルは母子三人連れ、その向こうは親子四人。それぞれが皆楽しそうに笑い合っている。それは幸せの光景だった。

「覚えているかな……私は君と、ここに来たことがあるんだよ」

 ホットドッグを手にしたマイトさんが、家族連れを見ながら懐かしそうに言った。
 あれ?と思った。
 記憶の中で動物園に来た相手は、オールマイトのはずだ。けれどマイトさんは、わたしとここに来たと言う。マイトさんに会った記憶すらないというのに。

 八歳はそんなに幼くないと思う。でも、わたしはその直後に母を失っている。ショックで記憶の混乱がおきたのかもしれない。オールマイトとマイトさんの記憶を混同してしまった……考えにくいことだけれど、可能性はゼロではなかった。
 マイトさんがコーヒーを一口飲んで、続けた。

「帰り際ね、すみれにプロポーズしたんだけど、ふられてしまったんだ」
「そうなんですか?」
「うん、何度プロポーズしても、すみれは承諾してくれなかったなあ」
「何度も? ふつうはプロポーズしてだめだったら、そのまま別れちゃうものじゃないんですか?」
「だって私はすみれを愛していたし、すみれも私を愛していたからね」
「だったらどうして、ママはマイトさんと結婚しなかったんです?」
「すみれにはすみれの考えがあったんだろうね」

 マイトさんは困ったような顔をして笑んだ。いけないことを聞いたと思った。
 またしても、わたしの中で小さな泡がぷくりと生まれた。ひとつ、ふたつと小さな泡が増えていく。これが集まったら、いったいわたしはどうなってしまうのだろう。

「さて、そろそろ移動しようか」
「……はい」

 そう答えたものの、内心では、自分の足元が気になり始めていた。まだ痛くはないが、このまま歩き続けていたら、ちょっとつらいことになりそうだ。
 けれどそれを言い出せないまま、マイトさんの言葉に従って歩いた。小さな橋を渡った先は、コビトカバやキリンのエリアだ。

 キリンは黄色くて、首が長くて背が高い。首の長いその生き物を指して「ちょっとマイトさんに似ています」と言うと「私もそう思うよ」と苦笑いが返ってきた。

 やがて、鴨が泳ぐ池のほとりに出た。中央に弁天堂を有するこの池は、とても大きい。一部が動物園の土地にあり、そのほかが自治体の所有になっている。動物園側と公園側の境目に出口専用の門があったので、そこから公園に出た。

「けっこう時間かかったね」
「そうですね。でも、とても楽しかったです」
「それはよかった」

 マイトさんの金色の髪が陽光に透けている。彼は白い歯を見せて笑みながら、池のほうを指さした。

「あそこに蓮の葉がまばらに浮いているだろう? この葉が、夏になるころには池中に広がって、いっせいに花を咲かせるんだ」
「それは素敵ですね。見てみたいです」
「七月下旬から八月上旬がピークらしいよ」

 また一緒に来られたらいいと、心の中でつぶやきつつ、歩を進めた。
 この時期は公園側も大勢の人でにぎわっている。屋台もいくつか出ているようだ。その一つにソフトクリーム屋さんがある。今日は三月の最終月曜日、お天気は良いが、風は冷たい。北風の吹く今日の体感温度は、実際の温度より数度低いといわれる。それでも、なんだかむしょうにソフトクリームが食べたくなった。

「食べるかい?」
「え」
「食べたそうに見てたから」

 ウインク交じりにそう言われて、わたしは苦い笑いを返した。そんなに顔に出ていたなんて。恥ずかしいと思うけれど、欲には勝てない。
 マイトさんの言葉に甘えることにして、二人仲良く屋台に並んだ。マイトさんはバニラ味を、わたしはストロベリーを選び、一番近いベンチに座る。
 幸福感ににまにましているわたしの前に、白いソフトクリームが差し出された。

「一口食べる?」

 頭のねじが、ばふんと飛んだ音がした。
 いま、ひとくちたべるかとおたずねになりましたか?
 それはいわゆる「かんせつきっす」というものなのですが、おじさまは、それをわかっていらっしゃる?
 あまりのことに呆然としながらマイトさんの顔を見ると、ん? と首を傾げられた。

 なんて顔をするんだろう。こんなに年上の、こんなに大きな人なのに、もふもふのパンダも顔負けのかわいさ。
 こくりと小さく頷いて、一口いただく。なんでもないふうを装ってはいるが、本当は顔から火が出そう。
 いただきっぱなしは悪いと思い、わたしのソフトも差し出すと、マイトさんはにこりと微笑んでから、はくりとクリームにかぶりついた。唇についたピンク色のクリームを舐めとる舌が、やけに艶めかしい。

 あてられているわたしに気づいているのかいないのか、マイトさんは楽しげに話を続ける。けれどわたしの心臓は先ほどから大暴れだ。そのせいで、うまく声が出せなかった。なんのリアクションもしないのは変なので、必死に頷きながら、ソフトクリームを食べきった。

 ところが、冷たい風の吹く中でソフトクリームを食べたものだから、すっかり身体が冷えてしまった。そして隣には、もっと冷えているだろうひとがいた。マイトさんは体脂肪が少ないから、本当につらそうだ。歯の根があっていないのか、がちがちと音を立てている。

「……実桜……なにか……温かい物でも……食べたくない?」
「……食べたいです……」
「少し先に美味しいお蕎麦屋さんがあるから、ゆっくり歩いて、早めの夕飯にしようか?」
「はい」

 池側の出口からお蕎麦屋さんに向かうまでの道は、今までとは違う雰囲気だった。細い路地だからか、それとも暗くなり始めたせいだからか、マゼンタや赤のネオンが点ったお店が多いような気がした。どことなく、いかがわしい感じがする。

 その中に、入り口が植え込みで隠れている、変わったつくりの建物がいくつかあった。植込みの側には大きな看板があって、サービスタイム、ご休憩、ご宿泊と書いてある。
 これはもしや、ラブホテルというものではないだろうか。しかもこの通り、同じような建物が連立している。そこに入った経験はないが、何をするところかくらいは知っている。

 隣に歩く人を、ちらりと見上げた。
 マイトさんは何事もないような顔をしている。自分が意識しすぎなのだと気づいたら、急に恥ずかしくなった。
 少し冷静になったせいだろう、動揺していた時に気にならなかったある感覚が、一気に襲いかかってきた。動物園では気になる程度だった足先が、痛みはじめている。慣れないヒールのある靴で、長時間歩いたせいだろう。靴擦れができているのかもしれない。

「どうしたの? もしかして足痛い?」

 気づかれてしまった。さきほどのソフトクリームの時も思ったが、本当にこのひとは察しがいい。

「おんぶしようか?」

 驚いてマイトさんを見上げると、屈託ない笑顔が返ってきた。
 悲しくなった。こんなことが言えるのは、わたしを子供だと思っているからだ。おんぶだなんて、睡さんには絶対言わないだろう。さっきソフトクリームをわけあったのも、わたしを本当の娘のように思っているからできたこと。

 最初にしつこいくらい言われたではないか。「すみれの娘は私の娘のようなものだ」と。それはとてもありがたいことだ。実の娘のように思ってもらえるなら、学費を払うかわりに身体をよこせなと言われる危険もない。
 それなのに、どうしてわたしはこんなにも悲しいのだろう。

 ぷくり。またわたしの底で、何かが生まれた。この泡立つ気持ちがなんなのか、なんとなく自分でもわかっている。でも、それはあり得ない。出会ったばかりの人なのに、そんなのおかしい。

「あっ、下心は一切ないからね!」

 黙りこくってしまったわたしを気遣ったのか、マイトさんが弁明を始めた。
 このひとはわかっているようで、わかっていない。下心はないと言われれば言われるほど、わたしの心は傷つくというのに。

 涙がぽろりと零れ落ちた。
 涙と一緒に、心の中の海の底から、ぷくりぷくりと生じてゆく泡。今朝がたから、わたしの中に生まれ続けた小さな泡たち。それが一か所に集まっていく。集まった泡は、それぞれがくっつきあって、やがてひとつの泡になる。

「実桜?」

 マイトさんが慌てている。わたしはめそめそと泣き続ける。
 こんなことで泣いてしまうなんて、子供である証拠だ。わかっている、けれど涙がとまらない。

「ごめん」

 マイトさんがわたしのまえでひざまずいた。中世の騎士がお姫様にするように、やさしく手をとられて、下からそっと覗きこまれる。
 涙でお化粧が崩れて、今のわたしはきっとひどい顔をしているだろう。そんな顔を見られたくない。

「実桜……その……」
「何も言わないでください」
「いや……でもね」
「……いいから黙っててくださいってば!」

 マイトさんは困っているようだったが、わたしはわたしで困っていた。
 まさか、そんなことはありえない。暮らし始めてまだ三日だ。マイトさんのことなど、わたしは何も知らない。
 高校の時、すぐに男の子を好きになってしまう子がいた。体育祭で活躍していた。文化祭でバンドを組んでかっこよかった。黒板の上の方に届かず困っていたら、代わりに手を伸ばして拭いてくれた。そんなつまらないことで、すぐに男子を好きになり、相手の態度に一喜一憂してしまう。そんな彼女たちを、恋愛脳と心のどこかで馬鹿にしていた。

 でもどうだろう、今のわたしは。彼女たちと大差ない。
 どうしよう。こんな気持ちになるなんて。
 わたしは自分の気持ちを持てあまして、ぽろぽろと涙を流し続けた。感情を抑えられない、子供じみた自分を嫌悪しながら。

***

 会話のないままお蕎麦をたべて、無言のままで家に帰った。その後もなんとなく、マイトさんとは気まずいままだ。
 寝る寸前、睡さんから電話がかかってきた。確かに昨日番号を交換したけれど、いったいなんだろう。

「あなたの保護者に泣きつかれたのよ」

 おどけた調子で睡さんは言った。それを聞いて、二人に対して、急に申し訳なくなった。
 マイトさんがわたしのことを子供としてしか見られないのは、仕方ないことなのに。わたしのわがままは、睡さんまでも巻きこんでしまった。

「おんぶしようかって言われたんだって? マイトさんはセクハラ発言であなたを傷つけたと思っているみたいだけど、ちがうわよね」
「……はい」
「子ども扱いされたように感じた?」
「はい」
「あー、まあねぇ。あのひと真面目だから」
「真面目、ですか?」
「マイトさんはね、実桜ちゃんのことを子どもだなんて思ってないわよ。そう思いこもうとしてるだけ。そうしないと、向こうも落ち着かないのかもしれないわね。血のつながりのない男女が一緒に暮らすんだもの。意識してないなんて、絶対嘘よ」
「そうでしょうか……」
「そうよ。子どもだと思ってたら、最初からあたしになんか頼らないわよ。あなたをオンナだと認識しているから、あたしを呼んだの。あのひとね、仕事でもなんでも一人で解決しちゃうタイプなんだから」
「そうなんですか? わたし、マイトさんのこと全然知らないんです」
「だから、そこはこれから知っていけばいいのよ」

 マイトさんが助っ人に頼んだのがこのひとで良かったと、心から思った。
 相談してみようか、ずっと気になっていたことを。

「あの……たとえばの話、たとえばの話なんですけど」
「なに?」
「出会ったばかりの相手を、好きになったりできるものでしょうか」
「できるんじゃない?」

 睡さんはなんの躊躇もなく答えた。

「そのひとのことをよく知らなくてもですか?」
「そうよ。だって恋って、『するもの』ではなく『落ちるもの』だもの」

 この瞬間、自分の中でどうしようもないくらい大きく膨らんだ泡が、ぱちりと弾ける音がした。
 睡さんは「恋でもしてるの?」とも「相手は誰?」とも問わなかった。続いたのは、ただ一言。「応援しているわ」とだけ。だから、ありがとうございます、と言葉を返した。
 いろいろ詮索されないことが、今はとてもありがたい。

 うたかたの恋とひとは言う。弾けた泡は儚く消えると。果たしてマイトさんへのこの想いは、どんな経過をたどるのだろう。
 通話の終了した携帯を握りしめ、そっと、眼を閉じた。

2015.7.15
月とうさぎ