4話 芳しきバートンオレンジ

 草萌え、風薫る五月――と人は言う。都会の真ん中にあるこのマンションからも、青々と茂る木々が見える。この街は存外、緑が多い。

 世の中はゴールデンウイークで、今日はその中日だ。けれどマイトさんは、ゴールデンウイークもお休みがない。元々忙しい人なのだ。疲れているのか、帰宅すると夕飯もそこそこに倒れるように寝てしまう。帰宅時間がまず遅い。ここ数日は、日付が変わってからの帰宅のほうが多いくらいだ。

 ヒーロー事務所に勤務することがこんなに大変だなんて、知らなかった。母はもっとお休みを取っていたように思う。わたしがいたから、仕事量を減らしていたのかもしれないけれど。
 それにしたってマイトさんは働きすぎだ。臓器の一部がないような身体で、あんなに働いて大丈夫なのだろうか。吐血の回数も、吐く血の量も増えている。とても心配。
 それでもマイトさんは肉の落ちた顔で、大丈夫だよと静かに笑う。

「おはようございます」
「ああ、おはよう」
「今日は十時からでしたっけ?」
「うん。で、帰りは遅くなると思うから、悪いけど私のぶんはいらない」
「わかりました。わたしも、今日は大学のお友達と会う約束があるんです」
「じゃあ、そのまま外で食べてきたらどうかな。お金は足りるかい?」
「充分お小遣いをもらっていますから」
「君は本当にしっかりしてるよな」

 マイトさんは半ばあきれたように笑う。それには理由があった。
 わたしは、彼がわたしのために使ったお金を密かに集計していた。将来返済するためだ。学費だけでなく、洋服や化粧品の代金、食費や光熱費も返済分に含まれる。そのつもりで細かくメモを取っていたのだが、ある時、それがばれて叱られてしまった。

「生活にかかるお金と学費に関して、君は一切気にすることはない。すみれと結婚していれば、私が君を養うのは当然のことになったんだ」

 そう、マイトさんは言う。そうかもしれない。でも、その言葉は、わたしにとってとてもつらい。
 娘扱いはやめてほしい。

 わたしたちは父娘ではないし、マイトさんを父親として見ることなんてできっこない。実際わたしは、最初から彼をひとりの男性として見てしまっている。
 もちろん、娘のように扱われているからこそ、今、大学に通えている。けれど女性として見てもらえないのが、とても悲しくて、とてもつらい。

「お皿、出そうか」

 朝食の準備を進めていたわたしのところにきて、マイトさんが囁いた。近距離でそんな声を出されると、やっぱりどきどきしてしまう。

 マイトさんの声は低くて、落ち着いていて、とても心地よい。
 今日の朝食メニューは、ベーコンとチーズを挟んだホットサンドとエビとアボカドのサラダ、スクランブルエッグ、それにコーヒー。

「いただきます」

 ふたり向かい合っての朝ごはん。これはわたしにとって、とても幸せなひととき。
 意外だったが、マイトさんは痩せている割にけっこう食べる。
 たしかに一回の量は少なめだ。けれどそれを一日五〜六回繰り返すので、トータルの食事量は、一般の男のひとの平均を超えているんじゃないかと思う。二メートルを超える長身を維持するには、必要なカロリーなのだろう。

 それなのに、ぜんぜん身体に肉がつかない。体質というには少しおかしい気がする。やっぱり働きすぎなのだ。消費カロリーが、摂取カロリーを大きく上回っているのではないだろうか。

 動物園に行った翌日、マンションの健康相談室に行き、マイトさんの食事について相談してみた。
 本人の言うとおり、胃袋がなくても大抵の物は食べられるらしい。アルコールも嗜む程度なら摂取できる。それでも、やはり消化しやすい食材、調理法があるらしい。マンションと提携している病院の管理栄養士さんにいくつかメニューレシピを出してもらい、それをすこしずつ実践している。
 おそるべし恋愛脳。まさか自分が、こんな献身的な真似をするとは思わなかった。

「そういえば、大学はどう?」

 食後のコーヒーを飲みながら、マイトさんが問うてきた。
 マイトさんはコーヒーが好きだ。サイフォン式、手動式、カプセル式等、いろんな種類のコーヒーメーカーや豆を用意して、気分で飲み分けている。
 今日はブルーマウンテン。酸味が柔らかく、香りの高いコーヒーだ。

「慣れてきました。仲のいい友達もできましたし、最近その友達と同じサークルに入ったんです」
「勉強サークルのほかにかい?」
「はい。勉強サークルは月一なので、もうひとつ入れそうだなと思って」
「それはよかった、で、どんなサークルに入ったんだい」
「紅茶のサークルです」
「紅茶?」

 マイトさんが、驚いて軽く血をふきだした。
 紅茶のサークル、そんなに変わっているだろうか。とても楽しいのだけれど。それに、母は紅茶が好きだったらしい。いつも美味しい紅茶を淹れてくれたと、そうミッドナイト……睡さんが教えてくれた。

「紅茶のサークルって、どんなことをするんだい?」
「美味しいお茶の入れ方や茶葉の種類を学んだり、英国風のアフタヌーンティーを体験したりするんです。紅茶っていろんな種類があるんですね」
「アフタヌーンティーって、3段のティースタンドにスコーンやサンドイッチがのって出てくる、あれかい?」
「そうです。スタンドもカップも、すごくかわいいですよね。そういうものを見るのも楽しくて」
「ああ。確かに」
「紅茶の話題がでたので聞いちゃいますが、紅茶を淹れるポットってありますか?」
「あるけど」
「よければお借りしたいんです。先輩から美味しい茶葉をいただいたので」
「ああ、そういうこと。ちょっと待ってて」

 マイトさんが立ち上がった。
 ティーポット、あるんだ、とわたしは口の中でつぶやいた。今までマイトさんが紅茶を飲むのを、見たことがなかったから。
 緑茶の急須で代用できないこともないけれど、せっかく美味しい茶葉をもらったのだから、ちゃんと淹れてみたいなと思っていた。

 開けてはいけない秘密の部屋のほうから、ごそごそと音がする。少しして、マイトさんはほこりのかぶった箱を持ってキッチンに戻ってきた。

 箱の中に入っていたのは、コロンとした丸い形のガラス製のティーポット。ガラスは保温性に欠けるらしいが、丸い形はジャンピングを起こしやすく、茶葉がスムーズに開くと聞いている。

「これ、使って」
「ありがとうございます。上手になったらマイトさんのぶんも淹れていいですか?」
「上手になったらなんて言わないで、今淹れてくれよ」

 ウインクと共にそう言われ、胸が躍った。
 淹れて、と頼まれたことだけではない。くれよ、という、その口調。
 最近のマイトさんは、紳士的な口調が時々崩れる。そんなとき、彼の特別な存在になれたのかもしれないと思ってしまう。

 どきどきしながら、茶器を温めた。先輩にもらったレシピを参考にし、教わった手順に沿ってお茶を淹れていく。茶葉はセカンドフラッシュと呼ばれる、夏摘みのダージリン。等級はオレンジペコ。うまく淹れられれば、きっとおいしいはず。

「どうぞ」

 上手くできたかなと期待半分、不安半分でマイトさんの前に紅茶を置いた。
 わたしも彼の正面に座って、お茶を味わう。

 ダージリンはあまりにも有名な茶葉だが、それだけにきちんと淹れると本当に美味しい。カップの中の茶の色は、濃いけれど明るいオレンジ。紅茶は、舌や喉だけでなく、目も楽しませてくれる。夏摘みダージリンの特徴ともいえる、マスカットのような香りが芳しい。

「うん。美味しいね」
「ありがとうございます。マイトさんコーヒー党だから、なかなか言い出せなくて」
「いや、紅茶も好きだよ。ただ自分ではうまく淹れられなくてね。ある時期から飲むのをやめてしまったんだ」
「そうなんですか。じゃあ、時々はこうやって紅茶を淹れてもいいですか」
「もちろんだよ」

 へにゃりと笑まれて、とても幸せな気持ちになった。
 こうしていつも、マイトさんと紅茶を楽しめたらいいのに。

***

 サークルで仲良くなった子は三人いるが、今日はそのうちの一人と会う約束をしていた。彼女と日本庭園の入り口で待ち合わせ、たくさんのお洋服や雑貨を見た。ポットカバーを買い、焼きそばで有名な中華屋さんで夕飯を食べる。
 食後、メインストリートを少し歩いた。この先はお洒落な飲食店が多い。

「この先に、ちょっとすてきなカフェバーがあるの」

 友人おすすめのカフェバーは、確かにかわいらしかった。テラス席のテーブルと椅子は、白で統一されたハワイアンテイスト。中も明るすぎず暗すぎずのちょうどいい照明で、雰囲気もよさそうだ。

「入ってみようか。あっ、でも、ここ未成年大丈夫?」
「ソフトドリンクも充実してるみたいだし、大丈夫じゃない?」

 ハワイアンテイストのお店だからだろうか、店内はココナッツの香りがした。
 案内されたテーブル席に座り、メニューを開いたと同時に、横から声をかけられた。声の主は隣に座っていた二人連れの男性だった。二人とも流行りのドラマに出てくる俳優のように、整った顔立ちをしている。

「よかったら一緒に飲まない?」
「ごめんなさい。わたしたち未成年なんです」
「あー、じゃあ俺らは飲むけど、君らはソフトドリンクにしたら?」

 正直な話、嫌だなと思った。男性たちは一見紳士的だったが、どこかべたついた雰囲気があったからだ。友人の顔をちらりと見やった。まずいことに、彼女は興味がありそうな感じを、全身から醸し出している。

「どうする?」
「イケメンだし、一緒にお茶を飲むくらいならいいんじゃない?」

 返ってきたのは、想像通りの答えだった。たしかに男性たちは、お洒落で顔立ちも整っている。でも、わたしはこういうところで声をかけてくるような男性は好きじゃない。早くマイトさんに会いたいなと思ってしまう。
 けれど、ここで変にしぶるのも友人に悪いような気がした。せっかくできた友達だもの。少しの時間我慢するくらい、わけはない。

「ここにはロングアイランドっていうアイスティーがあるんだけど、けっこう美味しいよ」
「どんな感じのお茶なんですか?」
「ちょっと甘めのフレーバーティーって感じかな」

 言われて注文したロングアイランドアイスティーは、濃いオレンジ色の飲み物だった。フレーバーティーなのに、レモン風味の清涼飲料水のような味がする。でもこれはこれで、案外美味しい。

 他愛ない話をするうちに、二杯目を飲み終えてしまった。時計を見たらもう十一時だ。
 そろそろおひらきにしましょうと言うと、男性二人は快く了承してくれ、二人分のアイスティーの代金ももってくれた。
 ところが、じゃあねと店内で別れたはずの男性二人が、店の外までついてくる。
 早足でやり過ごそうと思ったが、足がもつれた。横を見ると、友人も同じような状態に陥っている。

「大丈夫?」

 男の一人に腕を取られた。友人ももう一人の男につかまっている。
 まずいと思ったその時、通り沿いに止まっていた黒いワゴン車から、男が四人降りてきた。
 ストリートギャング系の男たちだ。
 春の夜はまだ肌寒いというのに、肩や腕にたっぷりついた筋肉を強調したいのか、四人とも上着なしのタンクトップ姿。それぞれが肩に、天使、スカル、クロス、悪魔の入れ墨をしていた。
 自分の身に、とんでもないことが起ころうとしていることに気がついた。だがふたりとも、男たちに腕をつかまれている。振り払おうにも力が入らない。友人も似たような状態のようだった。なぜだか、頭がくらくらする。
 女が二人に男が六人。このままワゴン車の中に連れ込まれたら終わりだ。
 助けてと大きな声を上げようとしたが、声が出ない。男たちの中に声を殺す個性の持ち主がいるのだろうか。

「実桜?」

 と、その時、後から聞き覚えのある声がした。
 涙が出そう。こんな時に出くわすなんて、タイミングがいいにもほどがある。映画に出てくるヒーローみたいだ。

「その人たちは友達……じゃないみたいだね」

 マイトさんは怒っているようすだった。こんなに怒っている彼を見たのは初めてだ。顔は笑っているが、目がまったく笑っていない。

「なんだ、おっさん」

 ワゴン車側の男が、マイトさんに詰め寄った。肩に天使の入れ墨のある、一番大きな男だ。マイトさんよりやや身長は低いが、体の幅は倍以上ある。
 マイトさんはそれでも臆することなく、男を冷ややかに見下ろした。

「私はその子の保護者だ」

 その言葉と同時に旋風が巻き上がり、砂埃が踊った。それだけだった。
 だが旋風が収まると同時に、歩道に男たちが倒れ伏している姿が目に飛び込んできた。いったいなにをしたのだろう。早すぎて、何が起きたかすらわからない。
 そのままマイトさんは男たちを縛り上げ、ポケットから携帯端末を取り出した。

「あ、塚内くん。私だ。都心部で、若い女性が連れ去られて暴行される事件が多発していたよね。犯人を捕まえたから、ひきとりにきてくれないか。うん、たぶん間違いない。被害者の証言どおり、六人のうち四人は肩に墨が入ってる」

 連絡先はどうやら警察のようだ。マイトさんは警察にも顔がきくらしい。
 ヒーローの活躍の陰に隠れ、敵引き取り係などと揶揄されがちな警察だが、現場処理はとても迅速だ。すぐに警官が駆けつけ、男たちを搬送していった。
 その後、わたしたちも軽く事情をきかれた。

 警官の話によると、わたしたちが彼らに飲まされたのはフレーバーティーではなく、アイスティーとは名ばかりのカクテルだったそうだ。
 中身は、ラム、ウォッカ、テキーラ、ドライ・ジン 、オレンジリキュールに、少量のレモンジュースとコーラ。
 こういったアルコール感のあまりないアルコール度数の高いカクテルを、レディキラーと言うらしい。
 わたしたちは未成年だが、今回は酒と知らずに飲まされてしまったため、以後気をつけるようにと軽く注意をうけただけですんだ。

 だが、わたしは帰宅後マイトさんに少ししぼられた。見た目がいいだけの男についていってはいけないこと。優しくいい人にみせかけた悪人が多いこと。
 低い声で淡々と話しているが、その抑制された感じが逆に怖い。激昂され怒鳴られるよりも、むしろこうやって静かに怒られる方が効く。

「ごめんなさい。気をつけます」
「うん。あのね、君は魅力的だから、特に気をつけないといけないよ。世の中、悪い男はたくさんいるんだからね」

 最後にそう告げて、マイトさんはわたしの頭をポンポンと叩いた。
 その時、マイトさんからふわりと甘い香りがした。これは彼が愛用している男性用香水だ。オールマイトがCMキャラクターを務めている、高級男性トワレ。甘くてスパイシーなバニラとシナモンとウッディ。若い子はあまりつけない、大人の男のひとの香りだ。

「あの……っ」
「なに?」
「マイトさんは、わたしに魅力を感じたことがあるんでしょうか?」

 唐突になにを聞いているのだろう、わたしは。恥ずかしくなって下を向いた。
 マイトさんはなかなか返事をくれない。どうしてだろう。いつもなら多少変なことを言っても、笑って返してくれるのに。怒ってしまったのだろうか。
 おそるおそる顔を上げて、驚いた。

 マイトさんが真っ赤になって硬直している。左手の甲を口に当てたまま。

 なに、これはどういうこと?
 もしかして、期待してもいいのだろうか。

「大人をからかうもんじゃないよ。もう寝なさい」

 慌てたように立ち上がり、マイトさんが後ろを向いた。けれどその耳が、真っ赤に染まっているのが見てとれる。
 どうしよう。マイトさんがあんな顔をするなんて。顔が熱い。どきどきとリズムを奏でる心臓を、御することができそうにない。

 わたしは、しばらくその場から動くことができなかった。胸に抱いてしまった、愚かな期待をかみしめながら。

 2015.7.17
月とうさぎ