2話 シトラスイエローの憂鬱

 降り続く雨が、街を灰色に染めてゆく。最新式の空調によって完璧に除湿が行われているはずの部屋にいるのに、空の色が暗いというただそれだけで、空気がじっとりと湿り気を含んでいるような気がしてしまう。
 ひどく憂鬱だ。
 目前で繰り広げられる光景を、眺めているからなおさらに。

 我が家のリビングのテレビモニターは、ヒーローに支給されている端末と一部の情報を分け合っている。そのチャンネルは端末から出る特殊な電波を感知して作動するものなので、俊典さんをはじめとするヒーローがいる時にしか、見ることができない。
 なので現在、民間人たるわたしが観ているのは、ヒーローの活躍や事件を細かく放送してくれる一般向けのチャンネルだ。
 戦闘中のオールマイトを見るのはつらいが、わたしはそれをかならず見るように心がけている。あのひとがどんなふうに闘いそして生きているかを、どんなにつらくても見届けたい。そう、心に決めている。
 そして先ほどから画面に映し出されているのは、我が国の誇るヒーローが高らかに笑う姿だった。

「また通勤の途中で事件を解決したんだ……」

 わかっていた。そういうひとだ。
 通勤距離が長くなるほど、俊典さんが事件に関与する機会は増える。それなのに、彼がヒーローとして活動できる時間は、どんどん短くなっている。

 やはり、わたしたちは雄英の近くに越すべきだ。
 そうは思っているのだが、やっかいなことに、俊典さんはあれで頑固だ。こうと決めたら、なかなか意見を翻さない。

「これ以上、君に負担を強いるわけにはいかない」

 そう、俊典さんは言う。なにが負担だというのだろうか。
 おそらくは分担制度が崩壊し、ほとんどの家事をわたしがするようになってしまったことを気にしてくれているのだろう。が、社会人であるならいざしらず、わたしは学生だ。アルバイトも、長期休暇中に塾の講師をしたことくらい。
 それはひとえに、学費や生活にかかる費用のすべてを俊典さんがまかなってくれているからだ。それらを思えば、家事の大半を請け負うくらい、当たり前のこと。

 俊典さんがわたしに負担をかけたくないと思っているのと同じように、いや、それ以上に、わたしが彼に負担をかけたくないと思っていることに、あの優しいひとは気づかない。
 世界を支え、人々の笑顔を守るために神経と肉体をすり減らしている俊典さんに、これ以上の負担をかけたくないのに。
 オールマイトは、八木俊典というひとは、そういうところがずれている。

「これ以上考えていても、仕方ないか……」

 こうした重要事項の決定権は、わたしにはない。
 わたしにできることは、一日も早く資格がとれるよう、努力し続けることだけだ。

 鬱屈とした憂鬱な気持ちを吹き飛ばそうと、自室に向かった。
 寝室を俊典さんの部屋に移した後も、わたしの私物はこの部屋においたまま。といっても、物はそう多くない。部屋にある大きな家具は、机と、扉つきの大きな本棚だけ。
 専門書がずらりと並ぶ本棚の一角に、わたしはアクセサリーや香水の類を収納している。
 そこから手に取ったのは、いつもの幸福という名のトワレではなく、黄色地に白のリーフが描かれた、ヘアミスト。
 レモンによく似た爽やかなハーブの香りは、これからの季節にぴったりだ。

 今夜は俊典さんと、食事の約束がある。
 食事に行くのに香水をつけすぎるのはあまり好ましいことではないが、香りが長持ちしないヘアミストなら、きっと問題ない。今つければ、店に着くころには香りは飛んでいるだろう。
 そんな言い訳をしつつ、髪にミストをしゅっと一吹き。とたんにシトラスとヴァ―ベナの爽やかな香りがひろがった。
 甘く爽やかだけれど、酸っぱくてほろ苦いシトラスは、わたしの恋と、すこし似ている。

 俊典さんを思うと、甘くて、切なくて、悲しくて、嬉しくて、さみしくて、そして幸せ。
 恋をするということはそういうこと。彼の一挙一動に支配されてしまうこと。

 でもその俊典さんには、秘密が多い。

 これでは堂々巡りだなと息をついて、ヘアミストを元の場所へと戻した。
 実は、このヘアミストは睡さんからのプレゼント。短答式試験に合格したお祝いだった。

 それは、おとといのこと。



「すみません、お待たせしちゃって」

 睡さんが待ち合わせに指定したのは、我が家から一番近い商業施設の紅茶専門店だった。

「大丈夫よ。呼びだしたのはこっちなんだし」

 薫り高い花が咲くように、睡さんが笑う。本当に美しいひとだと思う。
 その睡さんは、今日の夕方、この街であるヒーローと打ち合わせをする予定になっているらしい。相手は現在、庭園の脇にあるテレビ局での仕事をしているという。それが終わり次第、合流するという話だった。
 そのヒーローが誰であるか、睡さんは明言を避けたし、わたしもそれ以上のことはきかなかった。
 ヒーローが自ら語ろうとしない仕事内容について、民間人があれこれ質問してはならない。これは俊典さんと暮らしていて、自然に学習したことだ。
 彼らには、守秘義務がある。たとえ身内であったとしても、漏らしてはいけない情報はなにがあっても漏らさない。
 余計な質問は、彼らを困らせるだけ。

 先に到着していた睡さんは、冷たいアールグレイを飲んでいた。紅茶の入ったグラスに触れている、青みがかったグレーの爪先が、とても綺麗。
 それに少し見とれながら、わたしもすみれの香りの紅茶をホットで頼んだ。

「今日はね、六本木に来たついでに、これを渡したかったのよ。一次試験突破のお祝い」

 テーブルにことりとおかれたのは、小さな紙袋だった。

「ハンドクリームとヘアミストなんだけど、よかったら使って。実桜の好きな柑橘系の香りにしたから、たぶん大丈夫だと思うんだけど」
「あっ、これ知ってます。つけるとひんやりするクリームですよね」
「そうそう。アンタ若い割に、マメに家事やってるみたいだし」
「ありがとうございます! これ、雑誌で見てすごい気になってたんです。嬉しい!」
「喜んでもらえてよかったわ」

 しずかに睡さんが笑ったその時、テーブルにわたしが注文した紅茶が運ばれてきた。カップに注いだ瞬間、香り立つ紫色の花の香り。
 すみれ……母と同じ名前の花。
 ああ、まただ。こんなことを思い出すつもりでこのお茶を頼んだわけじゃないのに。
 わたしはいつまでも、同じところに囚われている。

「どうしたの?」

 想いが表情に出てしまったのだろう。睡さんが心配そうにたずねてきた。

「あの……睡さん。ひとつ気になっていることがあるんです」
「なに?」
「母とマイトさんのことなんですけど」

 睡さんは俊典さんの本名を知らない。だからわたしは、睡さんの前では、彼をマイトさんと呼ぶ。

 そしてわたしの言葉を聞いた年上のひとは、柳眉をひそめた。
 さもありなん。睡さんは、さんざん相談に乗ってもらっている。前に一度言われているのだ。母と俊典さんの関係について、言及してはいけないと。

「実桜、そのことは……」
「ごめんなさい。そうじゃなくて……母は、彼のサイドキックだったわけですよね」
「まあ、そうね」
「母はマイトさんの支えになれていたんでしょうか。ヒーローとしての彼を、同業者として」

 白く長い指を有する手が、グラスをあじさいの花が描かれたコースターに置いた。美しいひとの口唇から、小さなため息が漏れる。

「そういった意味では、たぶんできていなかったと思うわ。オールマイトの支えになるなんて、そんなこと、すみれさんだけじゃなく、他の誰にもできないことよ」

 職業ヒーローの口からでた言葉に、わたしは絶望的な気分になった。
 あの時と同じだ。
 数か月前、我が家のテレビモニターから流れてきた、新宿御苑で起きた事件の映像。同席していた若いヒーローはこう言った。「オールマイトさんがいれば大丈夫だ」と。
 まさか睡さんも、そんな考えなのだろうか。
 ヒーローであるオールマイトの側には、誰も必要ないと。誰も、彼の隣に立つことはできないと。

「それはどうしてなんでしょう。あの人はもう戦えるような状態じゃないのに。みんながマイトさん一人に、全てを押しつけて」
「……」
「他の職業ヒーローは、どうして平気なんですか? どうして誰も、マイトさんを助けようとしないんでしょうか」
「実桜」

 興奮しかけたわたしを冷静にさせたのは、睡さんのしずかな声だった。

「……ごめんなさい」
「あんたの気持ちもわかるわ。でもね、……あたしたちヒーローも、それについてはいろいろ思うところがあるのよ。でも、どうにもならない。本当に、こればっかりはそう単純な話じゃないの……」
「はい……」

 余計なことを言ってしまった。
 たしかに、ヒーローとしてのオールマイトを支えられるような存在になるには、それ相応の実力が必要だろう。そんなことができるほどの実力の持ち主が、この国に、いったい何人いるだろうか。
 そのとき、はたと気がついた。
 オールマイトのサイドキックの中に、戦闘に特化したタイプがいただろうか。

 毒を含んだ鱗粉で相手の動きを止める個性を持っていた母は、どちらかといえば後方から戦闘を援護するタイプだ。
 母の他にも、かつてオールマイトの事務所には何人かのサイドキックがいた。だが、分析力や潜入捜査に秀でたタイプが大半であったように記憶している。
 もちろん彼らは普通に戦っても強い。しかしオールマイトやエンデヴァーのように、圧倒的な力で相手を制圧するタイプはいない。
 オールマイトの片腕と呼ばれたヒーローですらそうだ。
 そのヒーローの名は、サー・ナイトアイ。個性はたしか、予知。

 と、その時、睡さんの端末がぶるぶると震えた。画面を確認した睡さんが小さい声で、ああ、と呟く。

「そろそろお時間ですか?」
「そうみたい。ごめんね」
「そんな。今日はありがとうございました。嬉しかったです。……それから、さっき言ったこと……ごめんなさい」
「……いいのよ。あたしとアンタの仲じゃない」

 薫り高い花がひらくように笑った年上のヒーローは、やっぱり、心身ともに美しいひとだった。


 睡さんと別れて、商業施設内をあてもなくひとり歩いた。
 家は目と鼻の先だが、なんとなくそのまま家に帰る気がしなかった。

 どうして、オールマイトはいつもひとりなんだろう。
 作戦上、彼が誰かと共闘することがあったとしても、相棒はあくまでも補助的な立場をつらぬく。たいていにおいて、メインで戦うのはオールマイトだ。
 それは、仕方のないことなのだろうか。
 世界を支える、全能のヒーロー。どうして誰も、彼の隣に立とうとしないのだろう。
 こんな時、自分に秀でた個性があったらと思ってしまう。何の役にも立たないような、平凡な個性などでなく。

 物思いにふけりながら、下りのエスカレーターに足をかけた。その瞬間、つま先がずるりと滑った。

「危ない」

 滑り落ちるその寸前で、細長い腕がわたしを抱きとめた。
 反射的に下をみおろし、ぞっとした。
 このエスカレーターは、たいへん深い。一番下まで転がり落ちていたら、大怪我をしていたに違いない。

「すみません。ありがとうございます」

 礼を言いながら振り返り、驚いた。

 助けてくれたのは、シルバーグレーのスーツを着た、背の高い男性だった。わたしはこのひとを、何度もヒーローチャンネルで見たことがある。
 柳を思わせるひょろりとした長身に、濃い緑色の頭髪。整った面差しとメタルフレームの眼鏡が、どことなく冷酷そうな印象を与えるヒーロー。
 サー・ナイトアイ。
 それは先ほど睡さんと話していたとき脳裏に浮かんだ、有名ヒーローその人だった。

 だが、わたしが驚いたのは、助けてくれたひとが有名ヒーローだからという理由だけではなかった。相手の方がわたしよりもずっと、驚いた顔をしていたからだ。

 だが、サー・ナイトアイは驚愕をすぐに冷徹さの仮面の中に押し込んで、眼鏡をクイと引き上げた。

「助けて下さって、ありがとうございました。あの……わたしになにか?」
「……怪我がなくてなによりだ。足元には気をつけたまえ」

 返ってきたのは、先ほどみせた動揺とは全く異なる氷のような視線と、きわめて冷静な声。

「すみません。ありがとうございます」

 もう一度、頭を下げる。
 背の高いヒーローは薄い口唇を開いて何かを言いかけ、そしてとどめた。

「なにかお礼をさせてください」
「いや、結構だ」
「でも……わたし、実は……」
「礼など無用」

 オールマイトと、と続けようとしたわたしの声を、サー・ナイトアイは遮った。
 下の階に到着したとたん、彼は踵を返して昇りのエスカレーターに足をかけた。サー・ナイトアイはわたしを救けるために、下りのエスカレーターに乗ったのだ。
 もしかしたら、睡さんの待ち合わせの相手は彼かもしれない。直感的にそう思った。
 有名人が多く住まうこの街で、ヒーローを見かけることは珍しくない。が、たしかナイトアイの事務所はこの辺りではなかったはずだ。けれど彼ならば、テレビ局での仕事もあるだろう。

 先ほど見せた表情がやや気になるが、母とわたしは似ている。そしてオールマイトの事務所にいたサー・ナイトアイが、母を知らないはずがない。
 きっとそれだけのことだろう。そう、きっとそれだけ。



 朝から雨が降り続いている雨は、まだやまない。
 グレーにけぶる街並みは、見ているだけで気分を滅入らせる。だから傘は、明るい色を選ぶようにしていた。
 今使っているのは、シトラスイエローの傘。オールマイトのイメージに近い、明るい黄色い傘。

 俊典さんとの待ち合わせは、蜘蛛の形のオブジェの前だ。
 時間ピッタリに到着すると、細長い蜘蛛の足の下で、ダークな色合いのスーツを着た男性が立っているのが見えた。
 いつもの辛子色のスーツも素敵だけれど、ああいう暗い色も似合うな、とひそかに思う。なんのことはない。きっとわたしは彼が何を着ていたとしても、似合う、素敵、と、そう言うのだろう。
 恋をすると、人はちょっぴりおバカさんになるのかもしれない。そう思いながら、こちらに向かって手をあげた彼に、手を振った。

「お待たせしちゃいました?」
「いや、私も今さっき着いたところだよ。君は時間ぴったりだな」

 ふふ、と笑いながら、大きな手に自分の指をからめた。大人の彼は、そんなわたしにやさしく微笑む。
 ああ本当に、わたしはこのひとが好き。笑んだ時に寄る、目もとの皺までもが大好きだ。

「しかし、せっかくのお祝いなのに、本当に焼肉でいいのかい?」

 手をつないで歩きながら、俊典さんが言った。
 そういえば「君の予備試験の合格祝いと、私の誕生会をかねて食事に行こう」と言われ、「じゃあ焼き肉」と答えたわたしに、俊典さんは少し呆れた声を出したんだっけ。

「ステーキとか、目の前でシェフが焼いてくれる鉄板焼きとかでもいいんだぜ?」
「焼肉がいいんです。俊典さんと焼肉、憧れてたんですよ」
「え? 君と焼肉食べたことなかったっけか」
「はい。だからちょっとワクワクしてます」
「そうか、それは気づかなかった。悪かったね」
「いいんです。今から行けるんですから」

 そう答えたわたしに、俊典さんはやさしく目を細めた。

***

 俊典さんが予約していてくれたのは、高級そうな焼き肉店の夜景が一望できる個室だった。

「焼肉なんて、色気がなくてすみません」
「そんなことはないさ。知ってるかい? 焼き肉を食べている男女二人連れはね、深い仲なんだってさ」
「深い仲?」
「セックスしている関係ってことだよ。店の人たちも、私たちをそういう目で見ているかもしれないね。ここ、個室だし」
「え? え? そうなんですか?? 初めて聞きました」

 いきなり出てきた単語に羞恥を感じ、両手で顔を覆った。顔が熱い。周りからそんなふうに思われているのだろうか……どうしたらいいかわからなくなっていると、俊典さんがいきなり笑い出した。

「大昔に流行った俗説だよ。今のひとはあんまり知らないんじゃないかな」
「俗説なんですか?」
「うん。それなのにそんなに顔を赤くして、本当に君はかわいいな」
「からかわないでください!」
「ゴメンゴメン」

 両手をぱちりと合わせて口先だけの謝罪をする俊典さんは、こうしてときどき、わたしをからかう。

「でもね」

 声のトーンを一段落として、俊典さんがささやいた。途端、ぞくりとするような色気が彼から匂い立つ。
 それは甘いけれどもスパイシーで、優しいけれども力強い。俊典さんが愛用している香りのような、濃厚な色香。

「肉とにんにくで精力もつけることだし、今夜は覚悟しといて」

 こういうとき、大人の女性はどんなふうに返すのだろう。わたしは顔を赤くするしかできないのだけれど。
 答えに詰まって、別の話題を切り出した。

「そういえば」
「なんだい?」
「一昨日、サー・ナイトアイに会ったんですよ」

 すると俊典さんが、きゅっと眉間にしわを寄せた。
 なんだろう。少し嫌な感じ。

「彼と、なにか話したのかい? っていうかね、どういう経緯で彼に会ったの?」
「あっ、違うんです。エスカレーターからすべり落ちそうになったところを助けていただいたんです……だからお話らしいはなしはしていません。お礼を言うくらいしかできませんでした」
「ああ……そういうことか」
「背が高くて、素敵な人でした」
「そうだね。彼は紳士だから」
「なにかお礼をと思うんですが」
「それは必要ない。彼はそれをよしとしないだろうから」

 そう言って、俊典さんはにこりと笑う。瞬間、作り笑いだ、とひそかに思った。本心を隠そうとするとき、俊典さんはこういう笑い方をすることがある。
 同時に、サー・ナイトアイがわたしの顔を見た時の、驚愕した顔が脳裏に浮かんだ。
 心の中に、もやもやとした何かが広がっていく。
 
 けれど、なにを隠そうとしているんですかとたずねたところで、俊典さんが答えてくれないのはわかっている。
 だからわたしは、それ以上の追及はせず、黙って窓の外に視線を向けた。
 この街についたしがらみや夢に破れて散った人々の嘆きを洗い流すように、振り続く雨。
 わたしの中に生まれたこの新たな憂鬱も、雨が流してくれればいいのに。そう心の中で呟いて、眼下に広がる、人口の星々を見おろした。

2017.6.23
月とうさぎ