カーテンの隙間から漏れる光が、刃のような鋭い輝きをみせる。梅雨開けも近い、七月の半ばの休日の朝。
空調が効いているため、室内の気温は心地よい。暑くもなく、寒くもなく。
だがやわらかな布の隙間から漏れ落ちる強い光から察するに、外はすでに相当暑いに違いない。
今年もまた、夏が来る。
ひとつ息をついてから、隣りでねむるひとの寝顔を見つめた。
肉の削げ落ちた頬、落ち窪んだ眼窩。シャープな顎の周りにうっすらと生えた、黄金色の髭。筋張った首と、肉のなさゆえに目立つ喉仏。
ああ、このひとがだいすきだ。たとえこのひとがオールマイトでいられなくなったとしても、わたしはこの優しくて強いひとがだいすきだ。
そう思いながら笑みをもらした瞬間、俊典さんが目を覚ました。
「おはようございます」
寝顔に見とれていたことをごまかしたくて、声をあげた。
俊典さんは寝ぼけているのか、ん……とだけかえし、口をへの字に曲げた。
こんなちょっとした表情が、とてもかわいい。
親子ほども年齢が離れているのに、そんなふうに思ってしまうのは、俊典さんのチャーミングさゆえだろう。
良きにつけ悪しきにつけ、八木俊典というひとは、人の心をひきつける。
頭をぽりぽりとかきながら、俊典さんが半身を起こした。
夏掛けが落ちて、裸の胸元があらわになる。あばらが浮いた胸に広がる、放射状の傷。六年前にヴィランによってつけられたこの大きな傷は、今も時折痛み、俊典さんを苦しめている。
本人はけして弱音を口にしないが、わたしはそれを知っている。
それでも俊典さんは、オールマイトであることをやめない。そのためにわたしが、いや、彼を案じる人たちがどれだけつらい思いをしているのか、度外視したまま。
そう思ったとたん、心の中に黒い雲が広がり始める。それを払拭しようと、わたしもベッド上で身体を起こした。
「なにか飲みます?」
「ミントティーが飲みたいな。冷たいの」
はいとこたえてベッドから出ようとしたところを、大きなてのひらにつかまった。そのままひっくり返されて、シーツの海に縫いとめられる。
「でもその前に、まずはこっち」
寝起きのかすれた低い声と共に、額にやさしい唇が下りてくる。それから頬、耳、そして口元にも。触れるだけのやさしい口づけを繰り返してから、俊典さんが小さく笑った。
笑うと眼尻に皺がよる。わたしはこの笑顔が好き。
休日の朝、わたしたちは、こんな怠惰な、あるいは熱心な獣になる。
***
塚内さんから連絡が来たのは、その日の夕方のことだった。
雄英からほど近い大きな商業施設で、ある事件がおきたらしい。
施設の名は木椰区ショッピングモール。隣県最他店舗を誇る施設だ。そこに敵連合の幹部が現れ、雄英の生徒の一人と接触したという。
すぐにモールは閉鎖されヒーローと警察が連携して捜査に当たったが、敵を確保することはできなかったようだった。
一般人であるわたしが知り得る情報は、そこまでだ。しかもわたしはこの情報を俊典さんからではなく、ヒーローチャンネルのニュースで知った。
連絡が来たとき、すでに敵は逃げ去っていたとのことだが、俊典さんは慌てて家を飛び出した。顔色が真っ青だった。
それもそうだろう。大事な生徒の一人が凶悪なヴィランと接触したのだ。
それでなくても、今年の雄英は演習中にヴィランの襲撃を受けるなど失態続きだ。敵連合と名乗る者たちの目的が「オールマイト」であることも、ますます俊典さんを苦しめているに違いない。
俊典さんが帰宅したのは、ずいぶん遅くなってからのことだ。
「ただいま」
「お帰りなさい。お食事は?」
「連絡した通り、塚内君と食べてきたから大丈夫だよ」
焦燥した顔で、俊典さんがソファに長身を投げ出した。よほど疲れているのだろう。
「なにか飲みますか?」と朝と同じことをたずねると、朝と同じ答えが返ってきた。
冷蔵庫からミントティーを出して彼の前に置く。ありがとう、と答えたその声に力がない。向けられた笑顔が、なんだかかなしかった。
光に当たるとキラキラと輝く金色の髪が、こころなしか今日は少しくすんで見える。
こんな時、わたしは自分の無力さを思い知る。
弱音もはいてもらえない。
それどころか、情報の共有すらできない。
民間人たるわたしは、流されているニュース以上の情報を得ることはできない。
弁護士ではなく、警察庁のキャリアを目指すべきだったと思ってしまうのはこんな時だ。警察の幹部候補生になれれば、ヴィランの情報をヒーローと共有することも可能なのだから。
だがわたしが選んだのは法曹界だ。
この国はヒーローの失敗について、風当たりが強い。ヒーローは人を救おうとして誠意を尽くし、それが成しえなかった時に理不尽に責められる。そんなことがまかり通る世の中はおかしい。
だからわたしは、ヒーロー関係の訴訟に強い弁護士になりたいと思っている。
これはまだ、誰にも言っていないことだけれども。
と、その時、珍しくも家の電話が鳴った。
「わたしが出てもいいですか?」
「うん。頼む」
俊典さんが快諾したのは、個人的な要件はたいてい互いの携帯にかかってくるからだ。
家電にかけてくるのは、セールスくらいのもの。だが、それにしては少し時間が遅すぎる。不審に思いながら、受話器をとった。
「はい、もしもし」
『もしもし、あれ?』
声は老人のものだった。
お年寄りの間違い電話、そう思いかけた時、老人がまた言った。
『お嬢さん。すまんが、この電話は八木俊典のものであっているかね』
「あっ、はい。そうです。八木の番号で間違いありません」
『俊典にかわってもらえるか。わしの名はグラントリノだ』
「はい。少々お待ちください。ただいまかわります」
受話口をおさえて、ミントティーを手に脱力している俊典さんに呼びかけた。
「俊典さん」
「ん? だれ?」
「グラントリノさん、だそうです」
すると俊典さんは、飲んでいたミントティーを大きく吐き出した。もちろんそこにはいつものように血が混じる。
派手な吐血は珍しいことではないけれど、どうしたんだろう、いつもより顔色が悪いような気がする。
「ありがとう……ハハ……そう……そうか」
力なく笑う俊典さんに、受話器を手渡した。
その手ががくがくと震えているのに気づいて、驚いた。よく見ると、秀でた額に脂汗が浮いている。なんだか様子がおかしいけれど、大丈夫だろうか。
心配するわたしをよそに、俊典さんは神妙な面持ちで会話を始めた。
「お電話かわりました。俊典です。はい。緑谷少年は無事です。はい……はい……」
電話の向こうの相手には見えないのに、なぜか俊典さんはぺこぺこと頭を下げている。常とは違うその姿をこれ以上見てはいけないような気がして、席を外すことにした。
「え? あ、ハイ。今電話に出た子ですか? 彼女は、今、私がつきあっている女性です。ハ……ご指摘の通り若いです。大学三年です」
なんじゃとーッ!、という老人の叫び声が電話口から漏れ聞こえ、思わず足を止めた。そうっと振り返ってみると、俊典さんはだらだらと汗をかきながらまた頭を下げている。
「イエその……彼女はしごく若いですが、遊びじゃありません。私なりに、真剣につきあっているつもりです」
聞こえてきた声に、うれしくて涙が出そうになった。
このまま聞いていたいのはやまやまだけれど、お名前からして相手はおそらくヒーローだ。とすればやはり、席ははずしたほうがいい。
そう思いながらリビングの扉に手をかけた時、俊典さんが言った。
「それより、お伝えしなくてはいけないことがあります。彼女の名前は、粉月実桜……バイオレットの娘です」
今の今まで、わたしの心は晴れていた。けれど今の一言で、晴れわたっていた心の空の中に、一気に暗雲が広がっていく。
これはよくない、この暗雲が積乱雲の如く広がってしまったら、わたしの心の中に集中豪雨をもたらしかねない。
――バイオレットの娘――。
これは覆しようのない事実だけれど、その事実をあえて俊典さんが口にした意味を、わたしは知っている。
グラントリノという名の老人は、母と俊典さんの関係を知っている。そのため、俊典さんはわたしとこうなった経緯を、弁明せねばならないのだろう。
ただでさえ、年齢差のあるカップルは偏見の目にさらされやすい。俊典さんはかつての恋人の娘とつき合っているのだから、なおさらだ。
気にしないようにしていても、こうして母は追ってくる。
過去は変えられない。
いや、母と俊典さんがつきあっていた過去があるから、現在がある。そうでなければ、わたしは俊典さんとは出会えなかった。
それでも、やっぱり耐えられないことがある。理性ではなく感情に支配されてしまうことがある。
自分の中で勝手に膨らんでいくこの黒い雲霧を払拭するには、いったいどうすればいいのだろう。
リビングを出て、寝室でベッドの上に座り込み、きゅっとクッションを抱きしめた。
しばらくして、俊典さんが寝室に顔をだした。
「実桜、気を使わせてごめん。電話終わったから」
明るく笑いながら、彼は続ける。
「いやあ、『そんな若い娘とつき合っとるのか、けしからん』と叱られてしまったよ」と。
世界を救うヒーローは太陽のように明るい。だから彼は、わたしの心に生じた醜い雲に、おらく気づいてはいない。
「グラントリノはね、私のお師匠の友人なんだ。高校時代の恩師でもある。とてもお世話になった、いわば第二の師匠なんだよ」
「そうなんですか」
「今度ちゃんと紹介するね」
笑みながら、俊典さんがわたしの隣に座った。優しく背中をぽんぽんと叩かれてはっとした。俊典さんは、わたしの中の黒い気持ちには気づかなくても、悲しい思いをしたことには気づいている。
そのまま肩を抱かれたので、体を預けた。
少し甘えたい気持ちになって俊典さんを見上げると、心得たようなキスが下りてくる。優しい口づけを数回かわして、からかうように俊典さんが言った。
「私、これからお風呂に行くけど、君も来る?」
「え……遠慮シマス!」
顔が熱くなるのを感じながら答える。俊典さんがふふ……と笑う。
きっと今、わたしは熟れたトマトみたいな顔になっているに違いない。
まってて、と低音をわたしの耳に流し込んで、俊典さんはバスルームへと消えていった。
俊典さんを待つ間、手持ち無沙汰だったのでリビングに戻りテレビをつけた。ヒーローチャンネルのような専門局ではなく、種々の番組を放送する民放だ。
映し出されたのは、余命わずかな男性と恋に落ちた女性のドキュメンタリーだった。紆余曲折を経て二人は結婚し、やがて女性は妊娠する。
「何見てるんだい」
背後からいきなり声をかけられて、びくりとした。振り返るとお風呂上りの俊典さんが立っていた。
簡単に内容を説明すると、俊典さんが口を大きくへの字に曲げた。これは機嫌のよくない顔。
「あんまり好きじゃないですか?」
「さあ、どうだろうね」
そう言って、俊典さんは少しさみしそうに笑った。彼はそれ以上何も言わなかったが、きっと気に入らないのだろうなとひそかに思った。
こういうときの俊典さんは、自分の考えを告げない。
オールマイトには触れてはいけない部分があって、そこへは何人たりとも立ち入らせない。すくなくとも、わたしが入れてもらえたことはない。
わたしと俊典さんは恋人どうしだけれど、その間には見えないラインが存在する。
けれど、この番組に対して俊典さんが思っていることは、なんとなくわかるような気がした。
以前、彼は言った。「私にはあまり時間がない」と。それに続いた「無責任な話だと思う」という言葉。おそらく俊典さんは、余命わずかな男性に自分を重ねているのだろう。
心の中の暗雲が、また大きくなってゆく。
俊典さんは別の時にも、もしも生き延びられたとしても、と口にした。常に彼は「自分は長くない」ということを前提に話をする。
でもそれがどうしてなのか、なぜ彼がそんなふうに思っているのか。それがわたしにはわからない。
だって、活動を減らし後進の育成に努めるために、雄英の教師になったのに。
相変わらず無理はしているようだけれど、それでも教師として学校にいる時間が長いぶん、ヒーロー一本でやっていた時よりは危険は少ないはずだ。
それなのに、どうして。
考えても仕方がない。その理由を知っているのは、俊典さんだけだ。だが彼は、絶対にそれを教えてくれないだろう。
そう思った瞬間、わたしの脳裏に背の高い男性の姿が浮かんだ。
彼ならば、その理由を知っているのではないだろうか。六年前まで、オールマイトのブレーンでもあった、そのひとならば。そのヒーローの名は、サー・ナイトアイ。
そして俊典さんは、ナイトアイの名前を出した時、表情を変えた。
疑問は即座に確信に変わる。
「実桜?」
心配そうに顔を覗きこまれて、わたしは現実へと引き戻された。
目前に、晴れ渡った空と同じ色の瞳がある。どこまでも澄んだ、美しい青。
比べてわたしの心の中に広がる黒い雲の、なんと醜いことだろう。
だから、とっさに嘘をついた。
「ごめんなさい。来週の試験について考えてました」
そうか、と俊典さんが答えて笑んだ。
俊典さんは笑うと眼尻に皺がよる。若い男の人にはない皺だ。けれどわたしは、この皺さえもが大好きだ。
この皺に 乾いた肌に、やつれた頬に、これまでの彼の人生が凝縮されているような気がするから。
「君なら大丈夫だよ」
頭をくしゃりと撫でられて、ちいさくはいと返答をした。
俊典さんは、優しい。
***
地下鉄から地上に出てすぐの目の中に飛び込んできたのは、真っ青な空に浮かぶ白い積雲だった。
むわっとしたこの季節特有の、湿気を含んだ重たく熱い空気。夏の訪れを知らせる太陽が、過酷なまでに肌を焼く。
とたんに汗がじわりと滲んだ。
結局、わたしは翌朝、ヒーロー名鑑でナイトアイ事務所の連絡先を調べてしまった。もちろんこの名鑑はオールマイトの私物ではなく、一般向けに売られているもの。
胸の中に生じた雲はなかなか消えてくれなかった。予備試験の二次はもうすぐ。こんな精神状態で、試験なんか受けられない。
自分の中で、ああでもないこうでもないと悶々とし続けるのは、まっぴらだった。
勢いのまま、ナイトアイ事務所に電話した。
三回コール音が鳴って、回線が繋がった。電話に出たのは、サイドキックと思しき若い女性だった。
ドキドキしながら、サー・ナイトアイに取り次いでもらえないかと伝えた。
が、相手にもされなかった。当然のことだ。
けれどどうしてもナイトアイに会いたかったわたしは、電話口の女性――バブルガール――に食い下がった。
申し訳ないと思いながらももめること数分、電話の向こうで、「なにを騒いでいる」という男性の声がした。機械を通しているので多少響きが変わっているが、サー・ナイトアイの声だった。
かちり、という音に続いて流れ始めた保留音。
おそらく、バブルガールがナイトアイに経緯を説明していたのだろう。
保留音を聞いているうちに、わたしはだんだん冷静になってきた。
馬鹿なことをした。一般人が、サー・ナイトアイのような有名ヒーローに取り次いでもらえるはずなどない。そんなこともわからないなんて。わたしはどこまで軽率なんだろう、と。
だが、あきらめの溜息をついたそのとき、受話器の向こうから冷静そうな男性の声が響いた。
『もしもし』
驚いて電話を取り落しそうになりながらも、かろうじて、はいと返事をした。
『サー・ナイトアイだ。うちのサイドキックが困っているようなんでね、かわらせてもらった。単刀直入に問うが、何の用だ』
「あの……わたし、粉月実桜といいます」
『それはバブルガールから聞いている。用件を話したまえ』
「わたし、故あってオールマイトと生活している者です」
『ああ。それも知っている。それで?』
ナイトアイの言葉に、再び電話を取り落しそうになった。ナイトアイは、わたしとオールマイトの関係を知っている。しかしわたしがバブルガールに話したのは、自分の氏名だけだ。
いったいどういうことだろう。俊典さんが話したのだろうか。それとも――。
考えをめぐらす間もなく、ナイトアイの声が追いかけてきた。
『それで、何の用かと聞いている。簡潔にお答え願おう』
「オールマイトのことで、お聞きしたいことがあります」
すると、電話の向こうで大きな溜息が聞こえた。
『聞かれても話せないことの方が多いと思うが』
「それでも、お話をさせていただきたいんです」
『なるほど』
冷えた声でそう答え、ナイトアイは黙ってしまった。
霜のようにおりてくる、冷たい沈黙。静寂の中、微かに混じる機械音が不安をあおる。
『わかった』
しばしの沈黙の後、ナイトアイはそう言った。
『では会おう。話せることはあまりないと思うが、私も君に興味がある』
そう言ったナイトアイは、一方的に約束の日時を決めて、電話を切ってしまった。
そんなやりとりがあり、わたしはいま、ナイトアイ事務所を目指して歩を進めている。
地下鉄の出口から歩くこと数分、目的のビルがみえてきた。
そのビルを見上げて、お化粧は崩れていないだろうかと、どうでもいいことを密かに思った。
自分のキャパを越えそうな案件を前にすると、まったく関係のないことを考えて逃げようとする、それがわたしの悪い癖。
でも、そういうところも少しずつ変えていかなくては。
かるく深呼吸をしてから、大きな扉の横にあるインターフォンを押した。
自らの背を焼く太陽の光を、いつもよりも熱く感じた。
2017.7.12