4話 緋色の空に、沈みゆくもの

「どうぞ」

 促され、シンプルな木製の椅子に腰かけた。
 机をはさんで目の前に座すのは、オールマイトの元サイドキックである、サー・ナイトアイ。
 ナイトアイは背広上下をコスチュームにしている、珍しいタイプのヒーローだ。シルバーグレーのシングルスーツは、ナイトアイの端正な顔立ちと細身の体に似合う組み合わせではある。けれどそのいでたちはちっともヒーローらしくない。
 普通のサラリーマンみたいだなと、どうでもいいことをひそかに思った。

 さりげなく、事務所のなかを見まわした。事務用のデスクが数台。いくつかのラックと、テレビモニター。そして、四角い鉢の観葉植物がひとつ。
 これだけであれば、よくある個人事務所の風景だ。ただこの事務所は、ある一点で他の事務所とは大きく異なる部分がある。それは壁やラックの中身が、オールマイトのグッズで埋め尽くされていることだ。
 想像していたのとまったく違ったその室内のようすに、やや圧倒されながら口をひらいた。

「お電話させていただいた粉月実桜です。今日はよろしくお願いします」
「ああ。君のご両親のことは存じ上げている。母君は強く美しいひとだった。君は母親似だな」
「……ありがとうございます」

 母と似ている。昔は喜ばしい気持ちで聞けた言葉が、今は少し複雑に響く。オールマイトと母の関係を知っているだろう人からであれば、尚更に。
 そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、サー・ナイトアイは静かに言った。

「さて、本題に入ろう。君が聞きたいことはだいたいわかっている。オールマイトのことだろう?」
「……そうです。失礼ですが……もしかしてそれは予知ですか?」
「予知ではなく、そこからの推測だ。ずいぶん昔のことになるが、オールマイトの未来を見た時、彼に寄り添う君の姿があった」

 だからあの時、ナイトアイはあんなに驚いた顔をしていたのか。
 ナイトアイがなぜわたしの名前を知っていたのかはわからない。出会ったあの時に、わたしの未来を見たのか。それとも、オールマイトから聞いたのか。

「で、君はオールマイトの何が知りたい」

 いきなりの質問にわたしは少し躊躇した。が、思い切って口をひらいた。
 このひとがわたしと俊典さんのことを、どこまで知っているのかはわからない。けれど予知の個性を持つこのひとに対して、体裁をとりつくろっても無駄だろう。だったら単刀直入に行くしかない。

「俊……オールマイトは、いつも自らの死を前提にして話をします。それがなぜか知りたいんです」

 ほんの一瞬、ナイトアイの黄金色の瞳が大きくゆらいだ。それは瞬きする程度の、ほんの刹那のできごとだ。
 すぐにナイトアイは動揺の色を押し隠し、普段の神経質そうな表情にもどった。

 ああ、と息をついた。

 ヒーローは皆、仮面をかぶっている。敵や救助対象である人々に、心を読みとられないように。
 オールマイトが笑顔の仮面をかぶるように、きっとこのひとも仮面をかぶっている。凍りつきそうな、この冷淡な表情がそれだ。
 だがこのひとは、冷たい仮面の奥底に、強い激情を隠している。そんな気がした。

「君はオールマイトのことを、どこまで知っている?」
「……たぶん……なにも……」
「なにも知らされていないというのか?」
「はい。おそらく……わたしが知っているのは、私人としてのオールマイトです。ヒーローとしてのオールマイトに関しては、一般に流れている情報以上のことは知りません」
「彼の個性のこともか」

 はい、と答えて唇をかみしめた。
 オールマイトの個性は謎とされている。同僚である睡さんですら、それを知らない。
 八木俊典という本名と同じように、オールマイトの個性について知っているのは、ごく一部の人間だけだ。そして目の前のこのひとは、そのひとり。

 彼らしいな、と、ナイトアイが呟いた。
 そうですね、とわたしがこたえる。

「それでは、私の口から話せることはなにもない」

 あまりの絶望に、いっしゅん、目の前が真っ暗になった。
 明確な答えが得られなかったからではない。
 先ほどのサー・ナイトアイの表情と今の返答から、すべてを察してしまったからだ。

 すまない、とナイトアイが金色の瞳をまっすぐに向けて言った。

「そうですか。わかりました」
「怒らないんだな」
「はい?」
「大抵は怒るだろう。わざわざこんなところまで来て、結局なに一つ情報を得られなかったら」
「でも、お電話で『話せることはないかもしれない』とおっしゃっていましたよね。ヒーローには守秘義務がありますから、明確な答えが得られなくても、それはそれで仕方のないことだという覚悟はしてきました」

 ナイトアイが神経質そうに眉を顰めながら、机の上で組んでいた指を組みかえた。

「それに……」
「それに?」
「今ので、なんとなく答えの予想はつきましたから……」

 ナイトアイの瞳が、ふたたびゆらいだ。

 このひとは写真で見るよりずっと整った顔立ちをしているな、とぼんやり思った
 トパーズのような黄金色の瞳が、とてもきれい。頬から顎にかけてのシャープで繊細なラインと、すらりと伸びた高めの鼻梁が涼やかだ。
 ナイトアイのことを眺めていて、ふとその眉の色が気になった。頭髪が暗い緑色をしているのに、眉の色が金なのはなぜだろう。
 髪と眉が違う色をしているひとは、たいていにおいて、髪の方を染めている。もしかしたら、このひとの自毛は金色なのかもしれないなどと、意味のない推測が頭に浮かんだ。

 わたしは現実から逃げたくなると、まったく関係のないことを考えてしまう癖がある。それを是正したいと考えていたけれど、今この時くらいは許されるのではないだろうか。
 涙をこらえながら、そう思った。

「君は、聡明だな」
「だったらいいんですが」
「いや、君は聡い」

 そう言って、ナイトアイは大きくため息をついた。わたしはそっと目を伏せた。
 ナイトアイの溜息の理由が、わかる気がしたから。
 このひとの見たオールマイトの未来がわたしの思うようなものであったとしたら、ナイトアイはオールマイトの側にあり、何か手を打とうとするはずだ。
 けれど今、ふたりは別々の道を歩んでいる。それがどういうことか、少し考えればわかろうものだ。

「彼はどうしている」

 その声は低く、絶望の淵に立っているもの特有の響きだった。

 思い起こせば、ナイトアイに助けてもらったと伝えた時の、俊典さんの態度もおかしかった。いつもの俊典さんならば、今度三人で食事でもしようと明るい声で言うはずなのに。
 あの時に気づくべきだった。彼らはすでに、決別しているのだと。
 
「元気ですよ。……元気でいようとしています。満身創痍の体に鞭打って、世の中を救い続けています」
「そうか……そうだな。愚問だった。ヒーローとしての彼は、なにがあっても揺らがない」

 表情は変わらないが、ひどく打ちひしがれた声だった。
 サー・ナイトアイは、常に冷静沈着で物事を理路整然と解決していくヒーローだ。だがその彼が、さきほどから一般人たるわたしにもわかるほど動揺している。
 冷静沈着なナイトアイを冷静でいられなくさせてしまう唯一の存在。それがきっと、オールマイトだ。

 未来を予知できるナイトアイがここまで絶望している理由は、一つしかない。
 そして最悪なことに、その未来を変えるためにわたしたちができることはなにもないのだ。オールマイト本人が、それを望まない限り。

「だからこそ、彼は『オールマイト』たりえているのだろうな」

 絶望的な言葉を告げながら、金色の瞳が、君ならわかるだろう、と問いかける。
 わかります、と瞳で答える。

 オールマイトはエゴイストだ。たとえ何があろうとも、己の望む道をゆく。
 彼を案ずる人がいるのに、オールマイトはそれらの想いを振り切って、満身創痍で戦場に立つ。それを阻むことは誰にもできない。
 なぜならそれこそが、八木俊典がオールマイトとしてあり続けるために選んだ道なのだから。

「……一つ言っておきたいのだが、彼が君に自分のことを語らないのは、優しさゆえだ」
「そうなのでしょうね」

 優しいのはあなたのほうです、と静かに思った。本当に、冷たいようで、サー・ナイトアイは優しい。
 先ほどのやりとりからも、それがわかる。
 わたしの質問に対して、その場限りの嘘でごまかすことだってできたはずだ。けれどナイトアイはそうしなかった。まっすぐわたしの目をみつめ、答えられないとはっきり言った。
 あれはきっと、このひとの誠意であり、優しさだ。

「今日はありがとうございました」
「いや……役にたてず、すまない」
「いいえ。おかげで自分の気持ちが整理できた気がします。お忙しい中、お時間を割いていただき、ありがとうございました」

 いつか家にも遊びに来てください。そう言おうかと迷ったが、出過ぎたことだと気づいてやめた。
 ナイトアイは長く黙していたが、やがて小さく微笑して、わたしに右手を差し出した。長く繊細な指を有する、大きな手だった。
 わたしはそれに自分の右手を重ねて、ナイトアイ事務所を後にした。



 外に出た瞬間、吹きゆく風にひやりとしたものを感じて、空をみあげた。
 つい数十分前まであんなに明るかった空が、ずいぶんと暗くなっている。あの時浮かんでいた積雲は、すでに巨大な積乱雲と化していた。
 遠くで響く雷鳴と、かすかに混じる水の匂い。
 これは、一雨くる。

 あと少しだけ持ってほしいと願いつつ駅前の通りに出た瞬間、最初の一粒が落ちてきた。
 あっと思った次の瞬間、ざあっという音と共に、大粒の雨が降ってきた。
 むき出しの腕に、雫が飛礫のように降りかかる。目の前もろくに見えないくらいの驟雨。
 夢中で駆けだし、一番近くの喫茶店に飛び込んだ。

 レトロな雰囲気の喫茶店だった。ウエイトレスに案内され、ニルギリを注文した。
 自前のハンドタオルで腕や髪を拭き、はあとおおきく息をつく。

 結局のところ、サー・ナイトアイと会ってわかったことは、二つ。
 一つは、オールマイトを助ける人がいなかったのではなく、オールマイト本人が、それを必要としていなかったということ。
 そしてもう一つは、オールマイトの命がそう長くないということだ。
 そして全く関係がないようでいて、この二つの問題は密接に絡み合っている。

 睡さんの言うとおりだった。母であろうが誰であろうが、ヒーローとしてのオールマイトを支えることなど、誰にもできない。 
 オールマイトと同じものを見たい、オールマイトの助けになりたい。そう願ったヒーローは、おそらく山ほどいただろう。
 だが、オールマイトはそれらすべてを拒絶してきた。
 そうでなければ、現在こんなことになってはいない。あんな身体で、ヒーローを続けようとするはずがない。
 未来を知り、彼を救おうとしたサーの声すらも拒絶した結果、今がある。
 
 ああまでオールマイト……俊典さんを駆り立てているものは、なんなのだろう。「オールマイト」ではない自分に自信が持てないせいだろうかと考えたことはあるけれど、どうも、それも違う気がする。彼がヒーローという立場に執着する理由が、きっとあるはずだ。わたしの知り得ない、大きな理由が。
 けれど秘密主義の俊典さんが、その理由を話してくれるとは思えなかった。

「お待たせしました」

 ウエイトレスに会釈してから、運ばれてきたニルギリをみつめた。
 美しい花が描かれた白いカップと、紅色のお茶のコントラストがきれいだ。
 店内を流れているのは明るい協奏曲だった。メインの楽器はフルートだろうか。聞いたことがある曲だけれど、作曲者は誰だったろう。

 鮮やかな橙色のお茶を一口飲んで、また関係のないことを考えてしまったと、ため息をついた。
 逃げても逃げても、この問題からは逃げられないというのに。

 サー・ナイトアイが見たであろう俊典さんの未来を思うと、目の前が真っ暗になる。
 ヒーローをやめてほしいと、あの背にすがって叫びたい。でも、それはしてはならないことだ。
 俊典さんが修羅の道を歩くと決めたのであれば、わたしにできることは、彼の日常をごく平凡な穏やかであたたかいものにすることだけ。

 考えている間にすっかり冷めてしまったニルギリを時間をかけて飲み干し、窓の外を見やった。

 いつしか雨はやんでいた。黒い雲を切り裂いて姿を現した太陽が、空を銀色に染めている。
 照りつける太陽は、わたしの俊典さんのようだ。
 あの巨星が墜ちるというのなら、わたしはその瞬間まで、絶対に目をそらさず見守りつづけよう。
 強く、そう思った。

***

 予備試験と大学の前期試験の両方も無事終わり、わたしにも本格的な夏が来た。
 高校は大学よりも少し早く休みにはいるが、教師は休めない。研修その他、仕事は実にたくさんある。俊典さんは、なおさら多忙なはずだった。
 ところが。

「ああ、実桜。私、今日から明後日まで休みを取ったから」
「えっ?」
「一年生が林間合宿でね、私は担任を持っていないし、いまのうちに少しずつ夏期休暇を消化しておこうと思って」
「そうなんですか? どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか?」
「ゴメン。ギリギリまでどうなるかわからなかったんだ」

 そうだったんですね、と言いながら俊典さんの膝にのると、そうだったんだよ、と長い腕に抱きしめられた。

「ただ、いつでも出動できるように、遠出はできないんだ。だから今日は近所をぶらぶらして、明日は上野に蓮の花でも見に行こうか」
「いいですね」

 上野恩賜公園の蓮池は、わたしたちにとって大切な場所だ。あそこで交わした言葉を、あの時のあの景色を、わたしはきっと、一生忘れないだろう。

「今日は買い物にでも行こうかと思うんだけど、どうだい?」

 俊典さんは駅の向こう側にある大きな商業施設の名前をあげた。わたしがそれに反対するはずもない。

「すぐ支度します!」

 そう叫んで、自室へと駆けだした。

***

 互いの服をいくつかみた後、陶磁器メーカーのショップに寄り、新しいマグカップを買った。
 フルーツや花々の束が型押しされた、お揃いのマグだ。俊典さんのは淡いブルー。わたしのは淡いピンク色。
 お揃いの食器を一緒に選ぶ。こんな些細なことに幸せを感じてしまう。
 それでいい。小さな幸せを大切にして、このひとと暮らしていこう、そう思いながら、そっと俊典さんの左手を握った。

「どうしたの?」
「急に甘えたくなったんです。このまま歩いたりするの、嫌ですか?」
「いや、嬉しいよ」
「よかった」

 彼の手の甲を自分の頬に押し付けてから、ふふ、と笑うと、俊典さんもにこりと笑う。

「あのさ、ひとつお願いがあるんだよ」
「はい?」
「君にプレゼントさせてもらいたいものがあるんだ」
「プレゼント?」
「ウン。靴をね、買わせてほしいんだよ。ちょっと大人っぽいやつ」

 そうわたしに告げた俊典さんが向かったのは、レッドソールで有名な高級ブランド店だった。
 世の女性たちが憧れるブランドだけあって、店内に整然と陳列された靴たちはどれもやっぱり、とても素敵。
 シンプルなのに、どうしてこんなに綺麗なんだろう。これを履いたらわたしの足も綺麗に見えるだろうか。

「綺麗ですね」
「履いてみたら?」

 でもと声をあげる間もなく、俊典さんが店員に声をかた。
 即座に目前に並べられる、素敵な靴たち。
 躊躇しつつも、そっと足を入れてみた。履いてみると、想像していた以上に脚が綺麗に見えることに驚いた。

「似合うね。いいじゃないか」

 試着したのは、ベージュピンクのシンプルなラウンドトゥだ。ヒールの高さは、ここでは低めの8.5センチ。さすがに10センチ、12センチのヒールで歩く自信はわたしにはない。

「サイズもそちらでよさそうですね。お客様は足が綺麗でいらっしゃるから、とてもよくお似合いです」

 店員にありがとうございます、と返して、もう一度鏡を見た。
 たしかにとても素敵だし、足が長く綺麗に見える。
 誘惑に、ぐらりぐらりと心が揺れた。
 ただ問題は、価格だ。このブランドは、ヒールも価格もとにかくお高い。
 俊典さんを見上げると、平然とした顔でにこにこと笑っている。

「……あの、わたしはまだこの靴に相応しい女性になれていないと思うんですけど」
「ん。まあ、ブランドにこだわりすぎるのはどうかと思うけどね、一級品にはその価格に見合った質と格がある。若いうちから一級品に触れるのも、エレガントな女性になるための一つの方法だと思うよ。質のいいもの、そうでないもの、双方に触れてみなければ、物を見る目は養われない」
「そういうものでしょうか」
「そんなもんだよ。だからね、この靴を私に買わせてくれないかな。さっき買った淡いピンクのワンピースにも合うと思うよ」

 先ほど買ったドレッシーなワンピースが脳裏に浮かんだ。たしかにあのワンピースとこの靴は、とてもよく合うだろう。

「明後日の夜までに、これを履いた君をエスコートできるようなレストランを予約しておくよ」

 ね、と俊典さんはふにゃりと笑んだ。もうだめだ。この笑い方にはとことん弱い。
 最高の笑顔に押し負けて、わたしは素敵な靴を手に入れた。



 店舗の外に出ると、すさまじいまでの夕暮れだった。空が、いや、乱立するビルの群れまでが、見事な緋色に染まっている。

「暑いですね」
「まったくだ。家に帰ったらすぐに汗を流したい気分だよ」
「そうだと思って、さっき端末で時間予約しておきました。家に着いたらすぐ、ぬるめのお風呂に入れますよ」
「私の恋人は気が効く」

 さりげなく髪にキスを落とされた。くすぐったい気分でうふふと笑う。続いて耳元に流し込まれる、あまい低音。

「せっかくだからさ、一緒に入ろう」
「恥ずかしいから……だめです」
「今日はね、私も君に甘えたい気分なんだよ」

 いいだろ、とささやかれ、背を甘いなにかが駆け抜ける。体の奥に、ぽつりと小さな焔が灯った。
 自分の中に生まれた情熱の炎をごまかすように、わたしは再び空を見上げた。

 そこに広がっていたのは、あまりにも圧倒的な日没。
 豪奢にすぎる、金がかった緋色の空と、大都会の街並み。
 それはなにかの前触れのような、恐ろしくも美しい夕焼けだった。
 
2017.8.4

サーの前髪メッシュはオールマイトをリスペクトしてのものですが、この話の夢主はそれを知らないという設定です

月とうさぎ