5話 ハニーゴールドの肖像

 今年の梅雨入り宣言は、例年より少し早かった。風薫る五月と喜んでいたのはついひとつき程前のことなのに、ここ数日はじめじめした天気が続いている。
 すっきりしないお天気にややげんなりしながら各部屋を片付け、全ての部屋の窓を少しだけ開けた。換気のためだ。続けて、ロボット掃除機のスイッチを入れた。

 マイトさんの家は、都会のマンションにしては破格の広さだ。わたしが来るまで、ここで一人で暮らしていたのだと思うと、驚きを通り越して呆れてしまう。
 まず広めのホールを有する玄関、南側に大きな窓を有するリビングダイニング、その広さは約三十畳。リビングの続きに独立したキッチンがあり、奥の通路を抜けた先は、わたしが秘密の部屋と呼んでいる、あかずのサービスルームがある。通路を挟んで反対側はバスルームだ。広い洗面所には、シンクが二つ。

 それから四つの部屋がある。東側はわたしのお部屋。お隣はマイトさんの寝室。それから最新式のマシンが置かれた十四畳ほどのトレーニングルームと、二十畳ほどのシアタールームもある。
 ただ一つ不思議なのは、家の中にトレーニングルームがあることだった。マンションの三〜五階部分には、居住者が無料で利用できるジムがある。プールだけでなく、最新式のトレーニングマシンも置かれており、トレーナーも常駐している、かなり本格的なものだ。
 なのにどうして、マイトさんは家にトレーニング機を置いているのか、その理由がわからない。

 と、廊下から、かつん、かつん、と小さな音がした。ロボット掃除機は軽いモーター音を立てながら、所定の位置へと向かっている。いったいなんの音だろうといぶかしく思いながら、廊下に出た。

 秘密の部屋ことサービスルームの扉が、開いたり閉じたりを繰り返しているのが見て取れた。各部屋の窓を開け放ったせいだろう。
 この部屋は常に施錠されているはず。それなのに、鍵どころか部屋の扉をきちんと閉めずに出てしまうなんて。今朝のマイトさんはよほど慌てていたのだろう。珍しいことだ。

 ダメと言われれば見たくなるのが心情だ。今までだって、興味はあった。こんなふうに扉がゆらゆらしていたら、見たくなって当然。けれどやっぱり見てはいけない。それはわかっている。これ以上の誘惑はまずい。鍵はともかく、扉だけでもきっちり閉めてしまおう。そう思い、ドアに近づいたその時だった。

 タイミングの悪いことに、吹き込んだ風で扉が大きく開いた。真っ先に目の中に飛び込んできたのは、薄暗いサービスルームの棚の一番上に飾られた、一枚の写真。その中で嫣然と微笑んでいる若い女性に、見覚えがあった。

 母だ。

 思った時にはもう、サービスルームの中に飛び込んでいた。

 写真の中の母は、本名にちなんだバイオレットというヒーロー名にふさわしく、紫色のヒーロースーツに身を包んでいる。

 隣には母の肩を抱いて、満面の笑みを浮かべている筋骨隆々とした男性の存在……黄金色の髪に青い瞳のそのひとは、彫りの深いマスクと逞しい肉体を所有している。それは我が国の誇る、平和の象徴、オールマイト。
 どうしてマイトさんがこんな写真を持っているのだろう、と不思議に思った。この写真のオールマイトと母は、恋人同士にしか見えないというのに。

 窓のないサービスルームの中は、昼間とはいえ薄暗い。もう母の物はないだろうかと中を見渡すと、棚の上にもう一枚、写真が飾ってあることに気づいた。
 蓮の花で埋め尽くされた池をバックに、母と小さかったわたしとが幸せそうに笑みながらピースサインをしている写真だ。この写真を撮ったのは、いったいどちらのマイトだろうか。

 そう思ったら、もうダメだった。マイトさんと母とオールマイト、三人の関係がわかるものはないだろうか。そんな考えに突き動かされて、わたしは部屋の電気をつけた。

「……そんな」

 明るくなった室内を見て、愕然とした。

 写真盾が飾ってあった棚の中に陳列されていたのは、青や赤を基調にした、ヒーローコスチュームの数々。下の段に、クリーニングの袋に入ったまま並べられている赤い布は、おそらくマントだ。
 このコスチュームの主を知らない者は、おそらくこの国には存在しない。

「どうして……?」

 独りごちながら、部屋の奥まで入っていった。羽なし扇風機やオイルヒーター等の季節物が収納されている室内で、新しめの段ボール箱をいくつか見つけた。箱の中身は、たくさんのオールマイトグッズの山。

 なにがどうしてだ、と、自分を張り倒したい気持ちになった。逆に、どうして今まで気がつかなかったんだろう。
 この二か月間、わたしは何を見ていたのか。母は二股をかけていたわけじゃなかった。幼かったわたしと動物園に行った相手は、確かにオールマイトであったのだ。

 どこから出てきたかわからなかった「マイト」の呼び名も。
 マンションにあるジムを使わず、自宅で身体を鍛えているのも。
 わたしの記憶が混乱していたわけも。
 この高級マンションで生活できるのも。
 すべて、マイトさんがオールマイトだとすれば納得がいく。

 わたしは呆けたように、そのまま床にへたり込んだ。

***

「実桜、どうしたんだい?」

 帰宅したマイトさん……オールマイトが床に座り込んでいるわたしを発見したのは、周囲が暗くなり始めたころ。

「あー」

 二つの写真盾を抱えているわたしをすまなさそうに見下ろしながら、オールマイトが膝をついた。優しくわたしの頭を撫でながら、落ち着いた低音が告げる。

「ずっと隠しているつもりはなかった。折を見て話をしようとは思っていたんだ。ごめん、驚かせたね」

 部屋の中を見てしまったことを、痩せ細ったオールマイトは一言も責めなかった。

「さて、どこから話せばいいのかな」

 と、優しくオールマイトは語り始めた。


 オールマイトと父は、ヒーローとしてのデビューが同時期であったという。その父は残念なことに、わたしが母のお腹にいる時に亡くなってしまった。
 オールマイトもはじめのうちは、亡き同期が残した女性をサポートするつもりで、母に接していたらしい。

「すみれはヒーロー業をしながら立派に君を育てていたよ。サポートをするうちに、私はそんな彼女を好きになってしまったんだ。彼女が私との付き合いを承諾してくれるまで、五年近くかかった。彼女はなによりも君のことを大切に思っていたからね。そして実桜も知ってのとおり、私は何度もすみれにプロポーズしたけれど、彼女は頑なにそれを固辞した。それはきっと私の立場を慮っただけではなく、君のことを考えたからだろう。君が成長するまで待ってくれと言われたことがある」

 ところが母は、仕事上の事故で亡くなってしまった。
 オールマイトはその時、わたしのことを引き取ろうとしたらしい。養子に迎えることも検討したのだと。

「でも、できなかった」
「民法と児童福祉法のせいですね」
「さすが法学部。よく勉強しているね」

 オールマイトは静かに笑う。
 児童福祉法には「独身者は血縁関係のない児童を養子にすることも、直接養育することもできない」という内容の条文がある。一般にはあまり知られていないことだが、児童福祉法における児童とは十八歳までを指す。また、民法にも同様の条文があった。

 さすがのオールマイトも、法律の壁を叩き壊すことはできない。血のつながらない女児であるわたしを、彼は引き取ることも養子にすることもできなかった。

「だから迎えに行くのに時間がかかったんだ。さみしい思いをさせてごめん」

 いいえ、と首を振った。
 知っている。オールマイトが本名を使って、施設に多額の寄付をしていたことを。

 マイトさんが最初に施設を訪ねてきた時、施設長がどれだけわたしに「失礼のないように」と釘をさしたか。それに養子になってしまっていたら、わたしは自分の気持ちを処理することができず、きっと苦しんだことだろう。
 どんな出会い方をして、どんな暮らし方をしたとしても、わたしはきっと、マイトさんのことを好きになったであろうから。

「オールマイトさん」
「ん、長いからマイトでいいよ」

 細身のオールマイトが、頭を掻いた。わかりました、と、こたえてわたしは続けた。

「ヒーローを続けていて大丈夫なんですか? ……その……体のこととか」
「うん、それもこれから話すね。ここはほんと内緒にしてくれよ」

 ここで初めて、わたしはオールマイトの事情の一部を知ったのだった。
 満身創痍で戦い続ける平和の象徴。ふだん痩せた姿なのは、ヒーロー時の姿を長く維持できなくなっているせいだという。それでも動けるうちは動きたいのだと、瞳に強い意志を宿して、トップヒーローは言った。

「そんな身体で、どうして?」

 お金は充分あるはずだ。都会のマンションを引き払い、郊外に家でも買えば、一生生活していくに困らないだろう。身体の為にも、早々に引退して悠々自適の生活を送ればいい。それなのに。

「私には責任があるからね」
「……平和の象徴としてですか?」
「うん、まあそんなかんじ」

 マイトさんは、少し傲慢だ。
 確かにオールマイトは強い。けれど我が国には、他にも立派なヒーローがいる。エンデヴァー、ベストジーニスト、スナイプ。名前を挙げればきりがない。それなのに、自分がいなくてはこの国の平和は保てないなどと。それは思い上がりなのではないか。

「うん、なんとなく君の考えていることはわかるよ。でもね、実桜。私でなくてはできないことが、まだあるんだ。そして私には、この身が朽ち果てるまでヒーローであり続けなくてはならない責務がある」
「そんなのって……」
「実桜」

 マイトさんの声のトーンが変わった。いつもの低いけれど優しい声ではなく、どこか突き放したような毅然とした響き。
 あ、これダメなやつ、と心の中で呟いた。

「これが、私の生き方なんだ」

 涙がぽろりと零れ落ちた。わかっている。わたしが口を出していいような問題ではない。でもそれを理解し、黙っていられるほど、わたしは大人ではなかった。
 大人の女性は、こんな時いったいどうするのだろう。わたしはやっぱりまだまだだ。どうしても、涙を止めることができない。
 だから、ボロボロ泣きながら、マイトさんにしがみついた。

「ありがとう、心配してくれて」

 先ほどとはまた違う優しい声で、マイトさんがわたしを抱きとめながらのその背をなでる。
 けれどもこの声にも、有無を言わせぬなにかが含まれている。これ以上は口出しできない。このひとの考えを変えることはできない。拙いわたしでもよくわかる。

 ああ、と、心の中で嘆息した。
 こうやって人は、大人になるのだろうか。泣いて駄々をこねるのが子供の特権だとしたら、優しい声で宥めながらも己の意思を通すのが、大人の特権なのだろうか。

 わたしはもう子供ではない。けれどもやっぱり、大人でもない。
 この世の安寧は、満身創痍のヒーローが支えている。この薄い胸、この細い腕。繰り返す吐血、繰り返すダンピング発作。

 今わたしを受け止めているこのひとの身体は、皆が知っているあの無敵のヒーローとは、まったくかけ離れたものなのに。
 それでもこのひとが決めたことであるなら、わたしに口をはさむ権利などないのだ。

 マイトさんの薄い胸元からは、シナモンが混じったバニラのような甘い香りがした。甘くむせ返るような香りにあてられ、わたしはそっと上を向く。その先にあるのは、マイトさんの彫りの深い顔。
 ほんとうに、どうして気づかなかったのだろう。よく見ると、オールマイトの面影がちゃんとある。その青い瞳に宿る輝きは、平和の象徴そのものだ。

 ふいに、マイトさんがわたしの頬に手を当てた。大きな手が頬から顎、また頬と撫で、耳の後ろを通って髪を梳く。
 マイトさんは何も言わない。わたしの目をみつめながら、髪をさらさらと梳いている。彼の青い瞳に、わたしが映っている、きっとわたしの瞳にも、マイトさんが映っている。
 やがて大きな右手が、またわたしの頬まで降りてきた。

「実桜」

 マイトさんが低く甘い声で、わたしの名を呼んだ。かわいくはいと答えたかったが、うまく声が出ない。どうしよう。こんなとき、どんなふうにすればいいのだろう。
 するとマイトさんが、わたしの頬をぷにっとつまんだ。

「お腹すかないか? 久しぶりに外に食べに行こう。待っているから支度しておいで」

 肩透かしをくらって、拍子抜けしてしまった。キスされるかと思った。愚かにも、小さな期待を抱いてしまった。
 バカみたいだ。わたしはマイトさんにとって、かつて愛した女性の娘でしかないというのに。

***

「おじゃましまーす」

 有名店のマカロンと共に登場したのは、十八禁ヒーロー、ミッドナイトこと香山睡さん。
 今日は梅雨冷えの影響で、やや肌寒い。なので温かい紅茶を淹れてみた。フレーバーティーが好きな睡さんのために、フランボワーズの紅茶を。
 ポットに茶葉とお湯を淹れ、カバーをかぶせて、葉がひらくのを待つ。

「しかしいつ来てもすごい家よね。このテーブルは一枚板の一点ものだし、ソファも有名な欧州メーカーのものだし」
「いつ来ても……って、今までも何度か来たことがあるんですか?」

 そこで睡さんはくすりと笑った。睡さんには、わたしがマイトさんの正体を知ってしまったことも話してある。

「あるわよ。でも、ヒーロー仲間とね。安心なさい、二人きりじゃないから」

 優しい姉のようなひと。爪の先までお手入れが行き届いた大人の女性。睡さんは、わたしの気持ちにきっと気づいている。たぶん最初の、あの日から。
 睡さんの長い指には、ダークな赤で塗られたネイル。その色は、わたしにはまだ似合わない。

「すごくおいしいわ。実桜ちゃん、紅茶いれるの上手ね」
「毎週サークルでいろいろ研究してるんですよ。あとわたしが当番の日は、マイトさんにも飲んでもらっているので」
「えっ? オールマイトさん、紅茶飲むの?」

 睡さんはひどく驚いたあと、しまったという顔をした。
 いったいどういう意味なんだろう。
 なんでもないと言いながら目を逸らしていた睡さんを、じっと見つめた。このやり方はマイトさんのやり方。激昂したり怒鳴ったりするより、よっぽど効果があるものだ。
 睡さんが、やがて観念したように口を開いた。

「オールマイトさんね、ある時期からいっさい紅茶を飲まなくなったの。業界じゃ、有名な話」

 脳裏に、マイトさんの声がよみがえった。

 ――自分じゃうまく淹れられなくてね、ある時期から飲むのをやめてしまった。

 睡さんが、少し気まずそうな顔をしている。
 その時あっと思い至った。気がつかない方がおかしい。

 紅茶を淹れるのが、上手だった母。ある時期とはきっと、十年前だ。母が亡くなったから、マイトさんは紅茶を飲まなくなった。
 もしかしたら、わたしが今使っているポットも、母が使っていたものかもしれない。恋人同士だったんだもの。相手の家に私物を置いていたって、おかしくない。

「でも、あなたが淹れたお茶は飲んでくれるのよね」

 睡さんの慰めるような声。

「淹れてくれと……言われました」

 いやだな。今はフランボワーズの甘い香りが、なんだかとても鼻につく。

「じゃあ、あんた、やっぱりマイトさんにとって特別な存在なのよ。他ではきっぱり断っていたわよ、紅茶は飲めないって」

 そうなのだろうか。母を通してでも、わたしはマイトさんにとって特別な存在になっているのだろうか。

「そうそう、オールマイトさんの新しいポスター見たわよ」

 さり気なく、睡さんが話題を変えた。
 マイトさんは現在、欧州メゾンブランドのCMキャラクターを務めている。男性用のオードトワレ。利己主義者という意味を持った名の、個性的な香りだ。本人もそれを愛用している。
 ポスターは、モノクロの背景の前で、後ろを向いたオールマイトがマントをなびかせて立っているという、至ってシンプルなものだった。

「オールマイトさんは結局、究極のエゴイストなのかもしれないわね」

 一瞬、意味がわからなかった。エゴイスト……利己主義者。人のために生き、人のために戦い、どこまでも自分を犠牲にしているマイトさんがエゴイストだとは、どうしても思えない。
 わたしの想いを見透かして、睡さんが目だけで笑んだ。

「絶対に、あのひとは自分の生き方を変えないと思うわ。満身創痍の彼を、こちらがどれだけ心配しても、ごめんと一言だけ残して現場へ向かうだろうひと。ヒーローの鏡だけれど、ああいうひとを好きになると、女はとてもつらいわよ」

 ああ、それはそうかもしれない。

「まだ十代のあなたに、酷なことを言うようだけど」

 睡さんはそこでいったん言葉を切った。爪と同じダークな赤で彩られた唇が、白い紅茶カップに触れる。とても官能的だと思った。
 フランボワーズフレーバーのお茶を一口飲んで、睡さんは続けた。

「あの手の男を好きになったのなら、いろんな意味で覚悟を決めなさい」

 強い視線と共に放たれた言葉に、息を飲んだ。
 この美しい人は、恋愛だけでなく全てにおいて、覚悟して生きてきたひとなのだ。いやきっと、ヒーローとは、総じてそういうものなのだろう。

「でも睡さん。わたしとマイトさんって、それ以前の問題なんじゃ?」
「年齢のこととか?」
「その前に、マイトさんがわたしを好きになってくれるかどうかが、一番の問題ですよね」
「あら、そこは簡単にクリアできると思うわよ」
「そうでしょうか。たしかにかわいがってもらっているとは思いますけど、でも、それはきっと……」

 そこで気づいて、言葉を切った。ああ、そうか。
 でも、とか、だって、なんて、言ってはいけないんだ。覚悟を決めるというのは、きっとそういうこと。

「クリアできるよう、頑張ります」

 フランボワーズティーのおかわりを淹れるため、立ち上がった。先ほどと同じ要領で、新しい茶葉とお湯を入れる。
 子供と大人の境目でかなわぬ恋慕に身を焦がしながら、わたしはこれからどうなっていくのだろう。
 二度目に淹れたフランボワーズのお茶は、いつもより甘く、そしてすっぱい香りがした。

注: 作中で法律を捏造しています。実際には「独身者は血縁関係のない児童を養子にすることも直接養育することもできない」という条文はありません。

2015.7.19
月とうさぎ