マイトさんと暮らし始めてから、一年以上が経過した。
夏が過ぎ、秋が行き、冬をこえ、また春を迎えた。来月の頭には二十歳になる。
当たり前の話かもしれないが、わたしとマイトさんの仲はやっぱり何の進展もない。
マイトさんとは、何度か母の墓前に参った。命日と、春秋のお彼岸と、お盆の時期と。母のお墓は郊外にある。山を切り崩して作った、巨大な霊園。
マイトさんは、毎回、墓前で何やら母に報告しているようすだった。わたしも一度だけ、謝罪がてら報告したことがある。わたしはあなたの愛した人を好きになってしまいました、と。
帰りはいつも、マイトさんと二人で、霊園の前にあるうどん屋さんに寄る。香川県出身のご主人が打つうどんは、コシがあってとても美味しい。
マイトさんは美味しい物を出すお店を、本当によく知っている。
***
じめじめとした梅雨時特有の湿った空気の中、しずかにポットとカップを温めた。六月も半ばを過ぎたというのに、今朝は妙に肌寒い。温かい紅茶が欲しいところだ。
ミルクをいれて柔らかな味わいを楽しもう。茶葉はアッサムがいい。色と甘みが強く出て、コクのある味わいが特徴の紅茶。
その茶葉をポットに入れる前に、ついとわたしは時計をながめた。短針が十の数字を指している。
互いの予定を書きいれているホワイトボードを眺めると、マイトさんの欄には「十一時、事務所」と書いてあった。ということは、そろそろ起こしたほうがいいだろうか。
珍しいことだ。いくら職場が近いとはいえ、始業時間の一時間前になってもマイトさんが起きてこないなんて。
疲れているのだろうなと思いながら、マイトさんの寝室の扉をノックした。やはりなんの返答もない。仕方がないので、そうっと扉を開けてみた。
「マイトさん、おはようございます」
やはり何の反応もない。
おずおずと、特大ベッドの方向に視線を向けた。薄手の布団に包まっている長身が、軽い寝息をたてている。
この時、わたしの中でちょっとしたいたずら心が生まれた。
名前を呼んで起こしてみようか。
それはマイトさんの世代の人に多くみられる、ありふれたお名前。ずっと呼んでみたかった。せっかくあるのに、他の誰からも呼ばれることがない、その名前を。
おそるおそる、マイトさんに呼びかけた。
「俊典さん」
「ん……」
名を呼ぶと、マイトさんは軽い返答だけ残して、わたしに背を向けた。毛布を抱きしめるようにして。
もう一度呼んだら、どんな反応をするだろう。今度は近くで見てみたい。
つつつ……と枕もとに近寄った。もう一度、そっと名前を呼んでみる。金色の髪が揺れるその耳元で、囁くように。
「起きてください。俊典さん」
その刹那、くるりと振り返ったマイトさんが、がっと私の手を取った。そのままベッドの中に引きずり込まれ、細長い腕の中に閉じ込められる。
なにが起きたのか把握できるまで、数秒かかった。ドドドドドと和太鼓の連打のように鳴り響いているのは、わたしの心臓。
目の前にマイトさんの肩があり、わたしの背には長い腕が回されている。
甘えるように、そっと顔をうずめてみた。薄いけれども広い胸元からは、汗のにおいと混じったスパイシーなバニラの香りがする。マイトさんがCMをしているあの香りだ。どうしよう、頭がくらくらする。
「あの……」
「ん……愛してるよ」
低いけれども甘い声と共に、わたしの額にマイトさんの唇が落ちてきた。むにゃむにゃと何やら呟いてから、大きな手がわたしの背を優しく撫でる。
これは現実なのだろうか。マイトさんは、わたしを女性として見ていてくれたのだろうか。嬉しすぎて涙が出そうだ。
だがその時、マイトさんの口から、いま最も聞きたくない名前が漏れた。
「……すみれ……」
天国から、一気に地獄へと叩き落された。
そういうことか、そういうことだったんだ。どうして気がつかなかったんだろう。だから最初にわたしが名前を呼んだ時、マイトさんはあんなにも複雑そうな顔をしたんだ。
わたしは母と似ているとよく言われる。姿も、声も。母によく似たわたしだから、母と似た声を持つわたしだから、マイトさんは名前を呼ばせたくなかった。わたしに、母の面影を重ねることすら嫌だったんだ。
俊典と呼ぶことが許されるのは、彼にとって、きっと母だけ。
なんてことだろう。マイトさんは、まだこんなにも母のことを愛している。母が亡くなって、もう十一年になるというのに。わたしと暮らして、もう一年以上経つというのに。
わたしはきっと、ずっと母にはかなわない。
涙が次から次へと溢れ出て、それと共に嗚咽が漏れた。
泣き虫は、覚悟を決めた一年前のあの日に卒業したつもりでいた。けれど今回ばかりは我慢できない。
マイトさんは寝ぼけている。それはわかっていた。だからこそ出た本音なのだろう。だが時に、本音は、真実は、人を深く傷つける。
「ン……えっ? 実桜?」
腕の中で嗚咽を漏らしていたわたしをみとめて、目覚めたマイトさんが文字通り飛び起きた。
衰えたとはいえ、さすがトップヒーローだ。眼にもとまらぬ速さで、マイトさんはベッドから部屋の隅まで飛び退いた。彫りの深いおもてが蒼白になっている。
「や、ごめ……え? どうして…… あ、いやどうしてじゃなくて……なんで?……いや、なんでってのもおかしいな……」
マイトさんもパニック状態になっているようだった。長い腕をわたわたと動かすさまは、どこか蜘蛛を連想させる。それはまるで、形骸化された戯画のよう。
「これは……私が……なにかした……んだよな……」
「……なにもされていません……」
「いや、だって……私、いま君を抱いていただろ。しかも実桜、君、泣いてるじゃないか」
「なにもされてませんったら!」
わたしは泣きながら部屋を飛び出し、自室にこもって鍵をかけた。
追いかけてきたマイトさんが扉の向こうで何やら言葉をかけているようだったが、返答する気にはなれなかった。彼はオールマイトなんだから、その気になればこの扉を破ることなどたやすいはずだ。どうしてもわたしと話をしたいなら、そうすればいい。けれどマイトさんがそんな真似をしないということも、わたしにはよくわかっていた。
わたしとマイトさんの間には、いつも母が立ちはだかる。あんなに大好きだったはずの母。けれど今は、心の底から妬ましい。
マイトさんは、どれほど母を愛しているのだろう。
十年の月日を「まだ十年」と言えるほどの想いとは、いったいどんなものなのだろう。そしてそれは「まだ十五年」「まだ二十年」と、これから先も延々と続くのだろうか。
私たちの関係は、最悪のトライアングルだ。まるでカレイドスコープ……万華鏡のよう。筒の中に入れられた三つの鏡は、マイトさんと母とわたし。
三角形の鏡の中で入り混じった色とりどりのビーズや紙は、筒を回すたびに、かしゃりと音を立てながらその模様を変えていく。
マイトさんは、追憶の中の母を追い求めている。かしゃり。
わたしは、母を想い続けているマイトさんに焦がれている。かしゃり。
最悪なことに、母はもうこの世にはいない。かしゃり。
万華鏡を回すたび、色紙たちは姿を変える。それはひどく屈折した関係。
いない人に勝つことはできない。いない人には負けることもできない。もう諦めてしまえばいい。こんな想いは捨ててしまえたらいい。
いつか本で読んだことがある、女の恋は上書き保存だと。他に好きな人を作ってしまえば、こんなにつらい思いをしなくてすむのではないかと、ふと思った。
この一年で、お化粧することにも、ヒールのある靴にも少しばかり慣れた。
男性たちが自分を見る目、そこから好意を読み取れることもある。男友達から誘われることも、増えてきている。
誘ってくれるひとの中には、優しいひとも、誠実そうなひともいた。実は今も、勉強サークルの先輩から誘われている。ためしにふたりで会ってみようか。
そう、男のひとはマイトさんだけじゃない。
***
以来、わたしはマイトさんと関わることを徹底的に避けた。できるだけ会わずにすむよう時間を調整したり、会ってもあまり話さなかったり。
マイトさんはマイトさんで、そんなわたしを腫物のように扱う。
「なにもありませんでした」
彼がそこに話を持っていこうとするたびに、青い瞳をまっすぐ見つめてそう伝えた。するといつも、マイトさんはいったん黙る。
本当に誠実な人だと思う。生活や学費の援助をしている相手にこんな態度をとられても、なお気遣いを忘れないのだから。
そんなマイトさんだから好きになったのだけれど、そんなマイトさんの側にいるのが、今は正直つらかった。
「わたし、明日デートなんで早く寝たいんです」
ある夜、またしてもあの話題に触れようとしたマイトさんにそう告げると、彼は椅子ごとひっくり返って驚いていた。
「もう夜遅いんだから、静かにしてくださいね」
「……すまない」
マイトさんが吐血した口元を拭きながら、細長い身体を小さく縮める。
このときわたしは、彼に軽口をたたかれるのを少し恐れた。どんな青年なんだい、一度家にも連れておいでよ。もしそんなことを言われたら、立ち直れそうになかった。
けれどマイトさんは、それ以上なにも言わなかった。それはそれで、とても悲しい。
わがままなものだ。笑い交じりで話されるのも嫌なくせに、なにも問われないことをつらいと思うなんて。
結局、その先輩とは映画を観ただけで、二度目の約束はせずに終わった。悪い人ではなかった。会話もそれなりにはずんだし、一緒にいてもそれなりに楽しかった。
しかしこのひととキスできるかと考えた時、それはちょっと無理だと思った。
相手もわたしにその気がないことがわかったのだろう。そのまま連絡は途絶えた。
「若いうちはたくさん恋をした方がいいわ。でもね、夜も眠れないくらい焦がれているひとがいるのに、別の相手とつき合ってもあまり意味がないのよ。相手の男の子にも失礼だしね」
そう言ってくれたのは睡さんだ。
あの日、マイトさんとわたしの間で起きたことを、睡さんにも話していない。自分が彼の立場であったなら、言わないでほしいと思うだろうから。
そしてマイトさんも、この件に関しては睡さんになにも伝えていないようすだった。
***
徹底的にマイトさんを避け続けていたわたしが捕まってしまったのは、この街に梅雨明けが宣言されたその日の夜のこと。
「実桜、話がある」
真剣な表情のマイトさんに、もうごまかすことはできないなと悟った。
「わかりました。お茶、淹れますね」
キッチンに立ち、アールグレイのアイスティーを淹れた。わたしはこのお茶が一番好き。ベルガモットの香りをつけた、もっとも有名なフレーバーティー。
はたして、泣かずに話などできるものだろうか。話をすれば、進展があるのだろうか。
叶わぬ恋だとわかっていても、ほんの少しの光があれば、そこに一縷の望みを見出す。恋する女は、どこまで貪欲なのだろう。
アイスティーを淹れ終えて、互いの席にことりと置いた。
二重ガラスで表面が結露しないのがウリのグラスの中で、溶けた氷がからりと音を立てる。
「君はこの話に触れてほしくないのかもしれないが、やはりきちんと話をしておかなくてはいけないと思う。お互いぎくしゃくしてしまっているだろう? このままじゃダメだ」
マイトさんの低音を聞き流しながら、わたしは赤く塗られた自分の爪をみつめた。昨夜塗った、クリアな赤のネイル。
まだ早いかと諦めかけた赤だけれども、こういうクリアな赤はわたしの手の色を綺麗に見せてくれる。若い肌には若い肌に合った赤がある、と教えてくれたのは睡さんだ。
綺麗な色だなと爪を眺めているわたしの上を、マイトさんの低い声が流れてゆく。
「その……この間のことは悪かった……寝ぼけていたんだ。寝ぼけていたからといって、許されることではないのもわかっている。私は君を深く傷つけたことと思う。すまない。誓って言うが、君に手を出す気などなかった。だからそんなに怯えないでほしい。二度と君に触れたりしないから」
マイトさんは、わたしが怯えていると思っていたのか。
あなたは知っているだろうか。あなたのその弁明が、どれだけわたしを傷つけているか。君に手を出すつもりはない、二度と触れたりしないなどと。
あなたになら、どこに触れられてもかまわないと思っているのに。
「あの時のことは、もういいんです」
「しかし君は傷ついたろう」
「そうですね、確かに傷つきましたけど、でもそれは、マイトさんが思っているようにではないんです」
「どういうことだい?」
やめろ、と頭の中で声がする。
しかし、きちんと伝えなければいけないような気もした。そうだ。もう充分気まずくなっている。もういいかげん、当たって砕けてしまえばいい。
「あの時、マイトさんにベッドの中に引きずり込まれました」
マイトさんが、ごくりと息を飲んだのがわかった。
かち、こち、と、時計が秒針を刻む音が、やけに大きく聞こえる。
「でも、それはいいんです」
「いい……ってことはないだろ」
わたしは、首を左右に振った。
「いいんですよ、マイトさん。わたしが傷ついた原因は、そこじゃないんですから」
そこでいったん言葉を切った。この先を泣かずに告げるには覚悟がいる。
「マイトさんはわたしを抱きながら、ママの名を呼んだんです……」
マイトさんが困惑しきった顔をした。
「抱きしめられたことがショックだったわけじゃない。わたしは、マイトさんが今でもママを愛していることが悲しかったんです」
「……」
「わたし、もう子供じゃないんですよ」
「それはわかってるよ。こないだ二十歳のお祝いをしたばかりじゃないか。それに、彼氏もできたみたいだしね」
最後に付け加えられた一言は、わたしの心を逆なでした。だから黙って立ち上がり、彼の前まで一気に歩み寄った。
「彼氏なんていません。一度デートしましたが、その後自然消滅しました」
あ、そう。と拍子抜けしたようにマイトさんが答える。目前で突っ立っているわたしを、訝しそうに見つめながら。
マイトさんは本当に背が高い。こうして座っていても、立っているわたしと目線がそうかわらない。
そのまま、マイトさんの髪に手を伸ばした。驚いたことに、マイトさんがびくりと身じろぎした。
なぜだろう。力も体の大きさも、男女の経験も、彼のほうが勝っているはずなのに。
マイトさんの躊躇に気づかぬふりをして、金色の髪に手を差し入れた。制止の言葉がかかるかと思ったが、彼はなにも言わなかった。
黄金に輝く髪は、想像していたよりも、細くて柔らかだった。指を差し込んで動かすと、さらさらと音を立てて、流れるように落ちていく。
一年前、わたしも同じように髪を梳かれたことがある。目の前にいるこのひとに。わたしはあの時、キスされるんじゃないかと身構えたんだっけ。
無言のまま、さらさらと黄金色の髪を梳く。耳の後ろから、ふわふわした後頭部の髪に指を這わせて。額の脇から、長めの前髪をさらさらと梳いて。
そしてごつごつとした頬骨を両の手で覆って、わたしはマイトさんの薄い口唇にそっと口づけた。
キスなんて初めてで、どうしていいかわからない。それでもドラマや映画で見たように、ついばむように、ちゅ、と音を立てて軽く吸った。
ゆっくり唇を離して、マイトさんを見つめた。すると彼は真っ赤になって口元をおさえた。まるで乙女だ。
本当だったら、そうしたいのはこちらのほうなのに。マイトさんのばか。
「これがわたしの気持ちなんです。ずっと……ずっとマイトさんが好きでした」
言ってしまったと思った。それでもわたしは眼を逸らさない。まっすぐマイトさんの青い瞳を見つめて、想いを伝えた。
もう、引き返すことはできない。
「わたしはあなたの娘にはなれない。娘としてではなく、ひとりの女として見てほしい。ずっと、そう思ってきました」
マイトさんは呆然としている。
わたしがこんな気持ちでいたなんて、夢にも思わなかったのだろう。それも仕方のないことだ。実際にわたしたちの間には、親子ほどの年齢差がある。
それでも、わたしはひとりの女性として見てほしいとずっと願い続けてきた。それを伝えられたことに悔いはない。たとえこれが原因で、援助を打ち切られたとしても。
「返事はいりません。わかってますから」
そう、わかっている。マイトさんの心の中に咲いているのは、紫色のすみれの花だ。わたしではない。
ただ気持ちを伝えたかった。それだけ。よかった。泣かずに伝えることができて。
「それじゃ、おやすみなさい」
呆けたままでいるマイトさんに、ちいさく微笑んだ。
かしゃり。
万華鏡が回る音が、聞こえたような気がした。
2015.7.23