7話 ディジョンイエローの溜息

 うだるような暑さの中、目が覚めた。
 昨夜はアルコールが過ぎたようだ。飲めもしないのに、もらいもののバーボンをロックでやった。おかげで全身汗まみれだ。ひどく喉が渇いている。

 カーテンと窓を開けた途端、湿気を含んだ熱い空気と眩い陽光が獰猛に襲いかかってきた。
 もう夏か、と、わかりきったことをひとりつぶやく。
 人が多いこの街の夏は、ひどく蒸し暑い。

 からからに乾いた喉を潤そうと、キッチンに向かった。冷蔵庫を開け、常備しているイオン飲料を取り出して封を切る。グラスにはあけず直接ペットボトルに口をつけ、喉にぶつけるように流し込んだ。一気に半分ほど飲み干して、はあっと一息ついてから壁の時計を眺めた。針は七時半を指している。

 時計から視線を下に移した。ダイニングのテーブルに一枚のメモ書きが置いてある。実桜が残したものだろう。映像を使わず、紙でのメモを利用するあたりが実桜らしいと笑みが漏れた。あの子は特別な感性を持っている。スクランブル交差点を往復して喜んでいた時の顔、あれは印象的だった。

 勉強に集中したいので、試験が終わるまで知人の家から学校に通います。

 メモには、そう書かれていた。
 知人の家というのが少し気になるが、しっかり者の実桜のことだ。おそらく信頼に足る相手なのだろう。
 それより、悪いことをした。大学の定期試験は七月の終わりからだ。それなのに、このタイミングで話をしたのはまずかった。

 けれど正直な話、ここで距離を置いてくれたことはありがたかった。返事はいらないと言っていたが、そういうわけにもいくまい。

 どうするべきか考えあぐね、昨夜は酒の力を借りて眠った。今も答えは出ていない。

 ずっと好きだったと、一人の女としてみてほしいと、実桜は言った。それがどんな結果を招くのか、あの子はわかっているのだろうか。
 知らないだろう。私がいままで、どんな気持ちで君を見つめてきたか。

 あの桜が見える応接室で実桜に再会した時のことを、私は今でもはっきり思い出すことができる。
 かつて動物園でパンダを見つめてはしゃいでいた子供は、その母親によく似た容姿の、美しい少女へと変貌していた。

 幼いうちから生活を共にしていれば、互いの関係は違ったものになっていたかもしれない。だが再会した時点で、実桜はもう子供ではなかった。
 少女と女性の境目で、ほころびかけた花のつぼみのような儚くあやうい魅力。その少女に一緒に住みたいと告げられた時、私がどれほど動揺したか。

 これはまずいと本気で思った。一緒に暮らして、手出しせずにいられるだろうかと。
 だから実桜には、私の名を呼ばせたくなかった。
 似ているだけに、彼女にすみれの面影を重ね、混同してしまう危険性があったからだ。すみれはすみれで実桜は実桜なのだと、私の中できちんと一線を引いておく必要があった。

 それでも暮らし始めの頃はまだよかった。当時の実桜には、少女のあどけなさがまだ残っていたからだ。
 ところが一緒に暮らしてひと月ほどたった頃だろうか。実桜は急に大人びた。それまでの少女特有のあどけなさが消え、女の色香のようなものを匂わせるようになってしまった。
 こんなに急に変わるものかと、十代の成長の早さに驚くと同時に、自分の中に生じた欲をどう処理すべきか、ひどく悩んだ。

 すみれの娘は私の娘も同じだ。そのはずだった。実桜に惹かれる。それは二人に対する、ひどい裏切りだ。
 自分の中に生じた気持ちが後ろめたくて、ことさら実桜を子ども扱いした。そうしなければ、この関係を保っていけないと思ったからだ。

 イオン飲料をすべて飲み干し、大きな溜息を落としたその時、携帯の着信音が鳴り響いた。
 画面には「MIDNIGHT」の表示。
 嫌な予感がする。だが無視を決め込むわけにもいかない。

「もしもし」
「オールマイトさん、おはようございます。香山です」

 相手の明るい声に、嫌な予感が高まった。自然に冷たい声が出る。

「なんの用だい?」
「あら、冷たいんですね。実桜をお預かりしてるってお知らせしようと思ったのに」

 予想通りの展開だった。これはあとあと高くつきそうだと、心の中でまた溜息。

「試験が終わるまでお預かりしますから、ご心配なく」
「わかった。すまないが頼む」
「オールマイトさん!」
「なんだい?」
「これから、どうなさるおつもりですか?」
「それは、君に答えなくてはいけないことかい?」
「このままあの子を突き放すような真似をしたら、あたし、オールマイトさんのこと『ヒーロー界一のチキン野郎』って呼びますから」
「それはひどいな」
「だってそうでしょう? かわいそうに」
「言っておくけど、実桜をベッドに引きずり込んだ件は、私、完全に寝ぼけてたんだからね」
「ちょ……オールマイトさん! そんなことしたんですか?」

 香山くんが電話の向こうで絶叫した。
 なんだ、実桜から聞いていなかったのか。まずい。藪をつついて蛇が出た。
 しかし、罵倒が返ってくるかと思いきや、きこえてきたのは真剣すぎる声だった。

「もういい加減、ご自分の気持ちに素直になったらいかがですか? あの子のことを子供だなんて思ったことはないくせに」

 見透かされていたのか、女性というのは恐ろしい。

「だからといって、私が実桜を求めていいことにはならないよ」
「なにをそんなに臆病になっているんです?」

 臆病とは言ってくれるものだ。シニカルな笑みが自然に浮かんだ。私が背負っているものがどんなものか、知っていたならきっと言えまい。

「君になにがわかるんだい?」
「あなたの事情はよくわかりませんが、実桜の気持ちは痛いほどわかります。あなたみたいな男を愛してしまうことは、女にとってとてもつらいものなんです。その点で、あの子は覚悟を決めていますよ」
「覚悟?」
「そこは本人と話せばわかると思います」
「なるほど。まあ、私なりに検討してみるよ。香山くん、ありがとう」

 それだけ言って、通話を切った。
 我が家のキッチンキャビネットの中には、丸いガラスのティーポットが納まっている。今の持ち主は実桜だが、もともとはすみれが使っていたものだ。
 昔、すみれの手を取って、懇願したことがあった。すみれが亡くなる数日前のことだ。

「毎朝、私だけのために紅茶を淹れてくれないか」

 すみれは少し困ったような顔をして、笑んだ。あれは何度目のプロポーズだったろう。
 私が結婚を申し込み、すみれがそれを断る。いつしかそれが習慣のようになっていた。
 けれどあの日、すみれはいつもとは少し異なる断り方をした。

「娘が成人したら、結婚してもいいわ」
「本当かい?」
「ええ。でも、それまであと十年以上ある。だからその間に、あなたが他の女性のところへ行ってしまっても仕方がないと思ってるの」
「そんなこと、しないよ」

 ありがとう、とポットの中で踊る紅茶の葉を見つめながらすみれは言った。

「ねえ、一つお願いがあるの」
「なんだい?」
「もしもわたしたちが別れたとして」
「すみれ!」
「いいから聞いて。別れた後、一年でいいの。一年間だけ、他のひとが淹れた紅茶を飲まないでもらえる?」

 一年だけそんなことをして、なんになるのだろう。それ以前に、別れる気などないというのに。
 すみれがなぜあんなことを言い出したのか、当時の私にはわからなかった。否、今でもよくはわからない。

「そうしたらきっと、その一年の間だけでも、あなたは紅茶を見るたびわたしのことを思い出すわ。一年だけでいい。わたしを忘れないでいて」
「わかった、約束するよ」

 了承することで安心できるのならと、私はすみれに約束した。するとすみれは、小さな花のようにふわりと笑った。
 これが私とすみれが交わした、たった一つの約束だ。

 その後、すみれを失った私は、そのまま紅茶を絶った。それから十年間、一度も紅茶を飲みたいと思ったことはない。だから自分はこのまま紅茶を飲むことはないだろうと、そう漠然と感じていた。

 しかし、奇しくも実桜が、紅茶にはまった。血は争えないものだ。紅茶のサークルに入ったと聞いた時、どうするべきかと思った。共に紅茶を楽しもうと言われることが、容易に予測できたからだ。
 だが私は、実桜の願いを至極自然に受け入れた。

「上手になったら、マイトさんのぶんも淹れていいですか?」
「上手になったらなんて言わないで、今淹れてくれよ」

 あの時自分の口から滑り出た言葉に、一番驚いていたのは私だった。私はあの瞬間、すみれよりも実桜を選んだのだ。しかも、なんの躊躇もせずに。

 頬を紅潮させながら、嬉しそうにカップとポットを温めていた実桜。
 淹れ方の説明でも書いてあったのだろう。小さな紙切れを片手に、何度も手順を確認しながら丁寧に紅茶を淹れる姿。それがとても愛しく思えた。

「どうぞ」

 目の前に置かれたティーカップを手に取って口元まで運ぶと、かすかにマスカットのような香りがした。懐かしい、夏摘みのダージリン。

「ん、美味しいね」

 紅茶を淹れる腕は、すみれのほうが上だったように思う。けれど、ありがとうございますと実桜がはにかみながら笑んだ瞬間、これ以上ないだろう安らぎを感じた。
 これからずっと実桜の淹れてくれた紅茶を飲むのも悪くないと、私は確かに思ったのだ。

***

 朝から、嫌になるくらいの晴天だった。

「今日の最高気温は三十六度の予想です」

 テレビから流れる女性アナウンサーの声に、それじゃあまるきり体温じゃないかと独り言を返した。
 むわっとした外の空気を想像し、窓すら開けずに溜息をつく。空調の効いた部屋から戸外を眺めた。テレビ局の主催する夏フェスタの効果も相まってか、この街は朝から晩まで人であふれている。

 こんなに人がいるのに、私の大事なあの子はいない。それが、こんなにもさみしい。

「さみしい?」

 ぼそりと一人ごちた。
 ヒーローは、常に孤独であらねばならない。それなのにどうしたことだろう。実桜の不在に、こんなにも私は打ちひしがれている。

 今朝一番に香山くんがメッセージを入れてきた。今日は試験の最終日だそうですよと。ご丁寧にも、終わる時間まで明記して。
 香山くんは、本当に実桜をかわいがってくれている。ありがたいことだが、このぶんだと本当にチキン野郎と呼ばれそうだ。
 笑みと共に、溜息をひとつ落として目を閉じた。

 私と実桜のほころびの発端は、あの日の朝だ。夢を、見ていた。
 実桜が、私の名を呼ぶ。笑いながら、私は実桜をこの腕に抱いた。だがその姿を、遥か遠くからすみれが見ていた。罪悪感にかられて、私はすみれの名を呼んだ。

 腕の中に感じるぬくもりと、すすり泣く声に目が覚めた。同時に、自分の腕の中に実桜がいることを確認し、蒼白になった。実桜を組み敷いてしまいたいと考えたことが、少なからずあったからだ。
 その後、当然ながらふたりの関係は悪化した。

 信頼していた相手にいきなり抱きつかれて、さぞ怖かったことだろう。怯えられてもしかたがない。それでもなんとか、元のような関係に戻りたかった。謝罪してすむものではないとわかってはいたが、せめて実桜が安心して過ごせるようにと、その話題に持ち込んだ。

 ところがそこで「ずっと好きだった」と告げられた。
 あの夜、自室へと消えた実桜を追いかけ、そのまま自分の腕の中に閉じ込めてしまいたいと、どれだけ思ったことだろう。
 抱きしめて、口づけて、その柔らかい肌に手を這わせて。

 あれからずっと、私は考え続けている。彼女の気持ちを受け入れるか否か。
 大人として、そして保護者代わりとして、しなくてはならないことはわかっている。それは実桜を突き放すことだ。

 おそらく、私は彼女と長くは一緒にいられない。たまゆらの恋に、若い実桜を引きずり込むわけにはいかない。きっと悲しい思いをさせる。そのうえ、親子ほども年齢が離れている二人だ。社会的にも歓迎されることではないだろう。

 このまま実桜は成人し、大学を卒業し、安定した仕事につき、私ではない他の男と恋をし、結婚して子をなしていく。私はそれを庇護するだけ、それが正道というものだ。

 けれど、私の中で「明日デートなんです」と、実桜から告げられたときの衝撃が蘇る。
 あの時、自分でも驚くほどの不快感に襲われた。どんな男なのか。どこまでの関係なのか。そう実桜を問い詰めそうになる自分を、必死に抑えた。あまりの不愉快さに、吐き気すらした。私は自分がどれだけ矮小な男であるかを、あの時思い知ったのだ。

 しなければならないこととしたいことの間にある隔たりは、こんなにも大きい。

***

 私大の双璧、そう謳われる大学の敷地内には、最新式のシステムを誇る建物のほかに、歴史ある建造物が多く残されている。
 古き良き大正ロマンの面影を残す一部の学舎や、震災や大戦を潜り抜けなお、立派な姿を残す旧図書館や演説館。東門を入ってすぐのところには、創始者の名前を冠した公園まである。

 私はその公園の一角にあるガーデンチェアに座って、実桜のことを待っていた。
 時刻は午後一時五十分。香山くんからの情報によれば、今、試験の最終科目が終わったところのはずだ。溜息をついて、携帯端末を眺める。

 実桜には、ここで待っている旨、メッセージを送っておいた。返信は、わかりましたとたった一文。スタンプではなく文章で返してくるところが、律儀な実桜らしいと思った。

 実桜の気持ちを知ってしまった以上、もう一緒には暮らせない。生活や学費の援助は、もちろん続ける。その上で、新しい部屋を借りられるよう手配しようと思った。
 そうでもしないと、私はいずれ、実桜を抱いてしまうだろう。そして一度でも実桜を抱いてしまったら、手放すことなどできはしない。
 ひとたび手に入れてしまった幸せを手放すことは、とても難しいことだ。

 自宅でなく、外で話そうと思ったのはそのためだ。密室では、何が起こるかわからない。
 一時の寂しさは、やがて時間が癒してくれるだろう。私は孤独の中で生きていく。今までも、そしてこれからも。

 と、その時、学内の奥の方から悲鳴が上がった。これはもう職業病だ。反射的に声のした方に向かって走り出す。
 悲鳴を上げていたのは、女子生徒だった。

 この大学のシンボルともいえる、大銀杏。その天辺にひとりの男が座りこみ、口から何かを吐き出している。
 男の口から吐き出された液体が、銀杏の木を取り囲むように置かれたベンチにかかった。嫌な音がして、コンクリートの土台ごとベンチが溶ける。

 あの液体は酸の一種か、それとも高熱のなにかだろうか。現状ではよくわからないが、このままにしておくわけにはいかない。大銀杏は中庭の中央にある。学生どうしの待ち合わせ場所になっているともきいた。一歩間違えれば大惨事だ。

 幸いにも、周囲の目は酸を吐き出している男に注がれている。素早く建物の陰に移動して、マッスルフォームに姿を変えた。
 そのうえで、自分を鼓舞する意味合いと敵を威嚇するその為に、高らかな笑い声をたてた。むせ返るような真夏の熱風を従えて。

「もう大丈夫、私が来た!」

 巻き起こる歓声、注がれる期待と縋りつくような視線。この重圧、この責任。これある限り、私はヒーローであることを退くわけにはいかない。

 男を正面から見据えた。相手が私、オールマイトだと知っても、男は臆する様子がない。眼の焦点が定まっていないようすだ。薬物でも使用しているのかもしれない。
 個性はすごいが、それ以外はたいしたことはなさそうだ。この相手なら、おそらく一撃で決められる。
 だがその時、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。

「マイトさん!」

 この声、この呼び方は、実桜だ。

 この叫びに男が瞬時に反応し、逆に私は少し遅れた。
 男の口から出た液体が、実桜に向かって放たれる。

 ホーリーシットだ、どちくしょう。

 この時、怯えた実桜の表情が目に入った。瞬転、すみれの最期の姿が脳裏に浮かぶ。

 間に合わなかった応援要請。深紅に染まったヒーローコスチューム。うす暗い路地裏で途絶えた呼吸。どんどんつめたくなっていった身体。いくら呼んでも返答はない。どんなに乞うても、彼女の瞳は開かない。

 もしもいま、実桜を失ったなら――。

 瞬きする間もないほどのほんの短いこの刹那、私を支配したのは今まで経験したことのない恐怖だった。
 ヒーローは孤独だ。いままでずっと、その覚悟で生きてきた。

 ――けれど――。

 しゅうう、という、嫌な音と肉が焦げる臭いに、我に返った。

「マイトさん、マイトさん! 腕が」

 腕の中で、実桜が泣き叫ぶ。
 間一髪で間に合った。数秒前まで実桜が立っていた部分が、どろどろに溶けている。男の吐き出した液体は、幸いにも私の左腕をかすっただけですんだ。

 大丈夫、かすり傷だよ。心配いらない。実桜、君が無事でよかった。

 そっと実桜をその場に座らせて、いつものように大きく笑んだ。

 振り返ると同時に、大地を蹴った。風を巻きこみ、銀杏の木が、枝が、葉が、大きく揺れる。
 渾身の力を込めて、男の延髄に手刀を叩き込んだ。一呼吸のちに崩れ落ちる、男の身体。

 それはひどく蒸し暑い、真夏の昼下がりのできごとだった。

2015.7.26
月とうさぎ