数日間の短い生を謳歌するセミの鳴き声がきこえる。土の中で長年過ごしたのちの地上は、どれだけまばゆく感じるのだろう。短い期間にパートナーを見つけ、恋をし、彼らは子孫を残していく。それは次へとつながりゆく命。
わたしとマイトさんはいま、オレンジピンクの蓮のつぼみが見える池のほとりを歩いている。
男を拘束し、警察にひきわたした後、オールマイトはいつものごとく迅速に姿を消し、その近くにいたわたしは、他の学生たち同様、警察官の簡単な事情聴取を受けてから解放された。その間、一時間くらいだっただろうか。
慌てて待ち合わせの公園に走ると、白いTシャツに紺のカーゴパンツを身につけた長身が、何食わぬ顔をしてわたしを待っていた。
「腕、大丈夫ですか?」
「手当てはしてもらったから、大丈夫」
わたしの質問に、マイトさんは軽く包帯が巻かれた左腕を軽く掲げた。
痛くはないのだろうか。
けれどマイトさんが一度大丈夫と口にしたら、わたしはそれを信じるしかない。それだけ強い意志が、このひとの言葉には込められている。
行こうかと言われたので、そのまま黙ってマイトさんについて歩いた。地下鉄とJRを乗り継いでたどり着いたのは、あの動物園のある駅だった。
「私はね、誰とも添うつもりなく生きてきたんだ」
弁天堂が右手に見える遊歩道の木陰で、マイトさんは立ち止まった。
わたしのほうではなく、蓮で覆われた池を見すえながら放たれた、悲しい言葉。それはナイフのように、わたしを切り裂く。
母以外の誰とも添うつもりはないのだと、暗に言われたような気がした。
わざわざ戸外で会うということの意味を、メッセージをもらった時から、ずっと考えていた。おかげで今日の試験はまったく手につかなかった。
マイトさんは、おそらく別居を考えている。これからもあの家で仲良く暮らすつもりなら、わたしの帰宅を待って、話をすればいいことだった。なのにわざわざ大学まで来てくれて、この公園で話すというのは、おそらくそういうことだ。もしかしたら、あの家には二度と出入りできなくなるかもしれない。
泣きそうになりながら、空を仰いだ。広くて青い夏の空が眼前に広がる。
ふと、いまお気に入りの白いワンピースを着ていて良かったと思った。好きなひととの最後の時間が汚い格好だったなんて、そんなのとても悲しすぎる。
蓮のつぼみをまっすぐ見ながら、マイトさんは続ける。
「私にはあまり時間がないんだ」
それも、なんとなくわかっていた。
ヒーロー活動を辞めてくれれば違うのではないかと思うけれど、きっとマイトさん、いやオールマイトは、自分の生き方を変えることはないだろう。
それに、春先にマイトさんがぽつりと漏らしたことがある。託せる少年が見つかったんだ、と。何を託すのかはわからないが、あの時はそのままマイトさんが消えてしまいそうに見えて、とても怖かった。
マイトさんには、きっと重大な秘密がある。そしてそれは、どんなにわたしが乞うたとしても、教えてはもらえないのだろう。
オールマイトは嘘をつくことはないが、隠し事もとても多い。
「無責任な話だとは思う……」
マイトさんが言いよどんだ。どんな顔をしているんだろう。マイトさんの顔を仰ぎ見た。
苦しそうな表情を確認して、わたしは耳をふさぎたくなった。この流れだと、きっと出て行ってくれと言われてしまう。言わせてはいけない。
こういう感じの時のマイトさんは、口にしたことを絶対に曲げない。
「待ってマイトさん!」
「なんだい?」
「あの蓮の花って、いつ咲くんでしょうか? 前にマイトさん言ってましたよね。見ごろは夏だって」
マイトさんは一瞬鼻白んだように見えたが、それでも優しく応じてくれた。
「ああ、蓮は昼過ぎにはしぼんでしまうんだ。また翌日咲くけどね。だから午前中に来れば、咲いている蓮が見られるよ」
「え、じゃあわたしとママが映っていたあの写真は?」
「あの日は、先にこっちにきてから動物園に行ったんだよ」
「そうなんですか、それでマイトさん」
「……実桜」
マイトさんが、どうでもいいことを語ろうとするわたしをとめた。
でもいや。聞きたくない。
「そこに見える弁天堂の建物がいつ建てられたかご存知ですか? あの……」
「実桜!」
今度は、先ほどより少し、大きな声。
マイトさんが声を荒らげることはめったにないから、少し大きな声をあげられただけで驚いてしまう。
金色の髪をがしがしとかきまわしてから、マイトさんがもう一度口を開いた。
「話の続きをしてもいいかい?」
「はい」
強く呼びかけた後の優しい声掛け、マイトさんはこういうところがやっぱりうまい。
こんなの、はいと言うほかないじゃない。
「話を戻すけど、私は、君とそう長くは一緒にいられない」
先ほどとはやや言い回しが違っていることに、気がついた。そしてその言葉の意味も。
マイトさんの顔をじっと見つめる。すると少し照れたような、それでいて困ったような笑顔が返ってきた。
「それでも、いいだろうか?」
意外すぎる言葉に、わたしは愕然とした。
一番大事な言葉が抜けているが、それでもマイトさんが言わんとしていることはわかる。
「えと……あの?」
「なんだい?」
「わたし、まだあの家にいていいんでしょうか」
「君さえよければ」
その瞬間、涙がぼろぼろと零れ落ちた。
マイトさんが長い指で、そっと涙を拭ってくれる。
「泣き虫は卒業したと思っていたけど?」
「嬉し涙はいいんです……でもマイトさん、わたし、出ていくようにと言われるかと思っていました」
「うん、私もそのつもりだったよ。君の大学で、さっきの男と対峙するその時まで」
「さっきの……大銀杏の上で暴れていたひとですね。でも、なぜ?」
マイトさんは少し躊躇しているようすだったが、うん、とちいさく頷いて口をひらいた。
「君を失うことが、怖くなった」
低い声で、まったく情けない話だ、と呟いて、小さく微笑んだマイトさん。なぜかその笑顔が泣いているようにも見え、わたしは少し悲しくなる。
このひとの抱えている孤独、このひとの抱えている秘密。それはどれほどのものなのだろう。詳しいことはわからない。抱える荷物を共に背負うことも、きっとできない。
このひとは、オールマイトは、そんなことを望まない。
でもその背中を黙って抱きしめることは、わたしでもできる。
わたしは池に視線を移した。蓮の花のつぼみがとても綺麗。この花がひらいたら、きっともっと綺麗だろう。オレンジピンクの美しいつぼみ。
弁天堂、蓮池、足元には鴨、ワンピースの裾をゆらす風、セミの声。白いTシャツを着たマイトさんと、白いワンピースのわたし。
この風景を、一生忘れないでいよう。たとえこの先、なにが起こったとしても。
「二つほど質問してもいいですか?」
「なんだい?」
「マイトさんは、ママと出会わなければよかったと思うことはありますか?」
マイトさんは、片方の眉を軽く上げた。
「ないな」
「つきあわなければよかったと思ったことはありますか?」
「いや、短い間だったけど、彼女と過ごせてよかったよ」
「わたしも同じです。終焉が近いことを最初から知っているのといないのと、違いはそれだけです。それに、終わりのない恋なんてありません」
「そうだな」
「先のことを恐れていたってしょうがないんです。今を生きないと。過去や未来に縛られないで」
「そういう事を言えるのは、若さゆえの特権だな」
「……生意気だったでしょうか?」
「いや……正論だよ」
頭をぽんと叩かれた。
「なるほどな。覚悟を決めるってそういう事か」
「は?」
「私の負けだ、お嬢さん」
んん、と声を上げ、マイトさんが両手を上に上げて、身体を伸ばした。ただでさえ大きな身体が、ますます縦に長く見える。そういえば初めて会った時、このひとの姿を異相だと感じたのだっけ。今は、誰よりも素敵な人にみえるのに。
くるりとわたしに向き直って、マイトさんが続ける。
「君はまだ若い。私が嫌になったら、いつでも離れてくれて構わない。そうなったとしても、生活と学費の面倒はみるから」
そう言ってからマイトさんははっとしたように顔をあげ、そうか、こんな気持ちだったのか、と小さく呟いた。なんだかわからないけれど、このつぶやきは、きっと、わたしには立ち入れない案件。立ち入らない方がいい話題。なんとなく、そんな気がした。
そしてマイトさんは、それ以上、なにも言わなかった。わたしもなにも聞かなかった。変に言葉を交わしたりしたら、今日わたしたちにおこったことのすべてが、雲散霧消してしまうような気がした。
そのまま馬鹿みたいに暑い公園で、ふたりして、しばらく池を眺めていた。木陰とはいえ、猛暑日の戸外はやはり暑い。汗がつつつと胸元を伝って落ちてゆく。
視線をもう一度、弁天堂へと移した。ゆらゆらと陽炎が立ちのぼり、木造のお堂が揺れているように見える。それでも、帰りましょうと声をかける気にはならなかった。
どれくらいの時間、そうしていただろう。不意に、マイトさんが声を上げた。
「暑いな!」
「え? あ、はい」
「ちょっと待っててくれ」
マイトさんがすごい速さで走っていって、またあっという間に戻ってきた。大きなその手には、五百ミリリットルのスポーツドリンクが二本。
お行儀が悪いが、二人ともその場でキャップをあけて、そのまま飲み干した。飲料は喉を通り、食道を通り、胃に到達し、体を少しだけ冷やし、そして潤してくれる。ほんの少しだけ、こめかみがキンと痛くなった。
「ごめん、熱中症にさせてしまうところだったね。帰ろうか」
「はい」
歩を進めていくと、公園の出口付近にアイスクリームの屋台が立っているのが見えた。脇には夏休み期間限定と書かれた幟が立っている。美味しそうだなあと食い入るように眺めていたら、マイトさんが隣でくすりと笑った。
「食べるかい?」
「はい」
一番近いベンチに座って、アイスを食べた。マイトさんは自販機で買ったコーヒーを飲んでいる。
「実桜」
「はい?」
「君、キャリアを目指すと言っていたけれど、どこの省庁に進みたいんだい?」
少し、躊躇した。他に進みたい道ができてしまったからだ。言ってもいいだろうか。自分の目標を。
「あの、実は公務員試験ではなく、別の道に進みたいと考えているんです。在学中に予備試験を受けようかと思って……大学に入って知ったんですけど、法科大学院に進まなくても司法試験が受けられるシステムがあったんですね」
司法試験予備試験。合格すれば、法科大学院を経由せずとも司法試験を受けられる試験だ。合格率は受験者の三パーセントほどだが、ごくまれに大学在学中にこの試験に受かり、その翌年に司法試験をパスする者もいるときく。わたしはそれを目指すつもりだった。
「なるほど。さすがに自分の適性をよくわかっているね」
「えっ?」
「君は法曹界に進んだ方がいいと思っていたんだ。弁もたつし、心も強い。きっといい弁護士や検事になるだろう」
そんなふうに思われていたのか。少し恥ずかしいけれど、自分の志した道を肯定されたようで、なんだか嬉しい。
「頑張れ」
「はい」
「ところで実桜、話を変えて悪いけど、アイスを一口くれないか?」
先ほどよりもやや甘い声でマイトさんがささやいた。
昨年の春、ソフトクリームを分け合ったことを思い出し、照れ笑いが漏れる。
マイトさんの口元にスプーンを持っていくと、低い声で諌められた。
「違うよ」
なにと問いかける暇もなかった。
マイトさんの顔が近づいたかと思ったのと、唇を押し当てられたのがほぼ同時だった。閉じていた唇をこじ開けるようにして、柔らかい舌が侵入してくる。思わずスプーンを取り落そうになったところを、マイトさんに支えられた。その間に侵入してきた舌は、わたしの口の中で生き物のように動き続ける。角度を変えて繰り返される口づけは、この間わたしからマイトさんにしたものとは、ぜんぜん違った。
まるで口腔内を蹂躙されるような、激しい口づけ。解放された瞬間に、おもわずぷはっと息継ぎをした。
「ん、甘い。ごちそうさま」
最初のキスの時は乙女みたいに真っ赤になっていたくせに、自分がする側に回った途端、大人の余裕を出すなんてずるい。
悔しかったので、マイトさんの口の中にわたしのアイスを突っ込んだ。
「わたしにも同じものをください」
んー、と今度はわたしから顔を近づける。
マイトさんは一瞬目を丸くしたが、無言でアイスクリームをごくりと飲み込んだ。迫ろうとしたわたしの額を、人差し指でちょんと抑えて。
「だめ」
「どうして?」
「これ以上したら、我慢できなくなるから」
「?」
「この周辺になにがあったか、覚えていないのかい?」
はっとした。植え込みで隠れた入り口と、ご休憩、ご宿泊と書かれた看板。
「初めての場所がああいうところは嫌だろ。それに今日の今日じゃ早すぎる」
「大切なのは場所や時間ではなく……相手なのだと思います」
「……いいのかい? その気になるよ?」
わたしの腰に手をまわしながらそうささやいたマイトさんの声は、低いのに艶を含んでいた。
どうしよう。男女の経験のないわたしでも、ぞくりとするほどの色気だ。
「でも、わたしまだ一番大事なことを言ってもらっていないので嫌です」
「え?」
少し考えて、マイトさんはふふっと笑った。
唇を息がかかるほどわたしの耳に近づけて、そっと囁く。
「君が好きだよ」
ああもう、このひとは本当にずるい。アイスクリームを食べているというのに、体中がこんなにも熱い。
「あのっ……わたし予習していないので、どんなふうにすればいいかわからないのですが」
「君は本当に勉強が好きだな」
呆れたような声で笑われた。
「大丈夫。私が丁寧に教えるから。予習なんかいらないよ。何故って? なにをされるかわからない方がドキドキするだろ?」
あまりの色香にくらくらする。
「食べ終わったなら、行こうか」
そのまま手をつないで、歩き出した。
けれどマイトさんの足は連立するラブホテルを素通りして、駅の方面へと向かっていく。
「あの……ああいうところ、よらないんですか?」
「おや? よってほしいのかい?」
「質問に質問で返すのはずるいです」
むっとしながら返したわたしに、ふ、とマイトさんが笑う。
常に笑っているひとだけれど、そのいくつかは作り笑いであることをわたしは知っていた。でも、今の笑顔は演技じゃない。
「ご休憩の時間内じゃ、とても終わらせられないと思うからね。家に帰ってから、ゆっくり……ね」
既定の時間じゃ終わらない? ……そんなに時間がかかるものなの?
未知の行為を想像し青ざめたわたしを見つめて、マイトさんがふふ、とまた笑った。からかわれたことに気がついて、わたしは口をとがらせる。
と、その時、ビルの合間から覗く西の空が、黄味がかった赤、スカーレットに染まり始めていることに気がついた。
「きれい……」
マイトさんも同じことを思ったのだろう。何も言わずに西の空を見上げている。本当に見事な、スカーレットの落日。この美しい夕日をマイトさんと見ることができてよかった。
「マイトさん」
「違うよ」
甘えるつもりで呼んだ言葉を否定され、首をかしげた。返されたのは、温かい声。
「これからは、名前で呼んでくれないか」
「いいんですか、わたしが呼んでも」
「うん、もう混同することはないと思うから」
混同ってどういうことだろう。あとでゆっくり聞いてみようか。でも今は、このままこのひとと、寄り添いあって歩きたい。
「君だから、呼んでほしいんだ」
注ぎ込まれた甘い声。「きみだから」という、たった五文字の言葉。その五文字がいま、こんなにも嬉しい。
鮮やかなスカーレットの空の下で、としのりさん、と、彼の名を呼んだ。ありがとう、と小さく言われて、幸せだと、心から思う。
かしゃり、わたしの中で万華鏡が回転する音がきこえた。
今、色とりどりのビーズたちは、どんな形を作っているのだろうか。
2015.7.29