「そうだよ。気づかなかったでしょ」
「いやまァ、職業がら調べよう思たらできるんやけど」
そんなやりとりのあと、「そういうことはしたらあかんやん。せえへんわ」と笑った、まっすぐな彼のことがとても好きだと思った。
まったく、諦めるつもりで距離を置いていたというのに、会ってしまったらもうだめだ。
別れ際に「また一緒に飯食お」と言われて「そうね」と応えてしまったのだから、自分でも呆れてしまう。
結局のところ、当たって砕けたわけでもないのに気持ちに区切りをつけるというのは、存外難しいものなのかもしれない。それならば、しばしの間自然に任せてみるのもひとつだろう。
けれど、と奏音はため息をつく。
あの日、「ようあること」と、彼は言った。パートナーではない異性と一夜を共にすることを。
なんだかんだ言っても、華やかな業界の人だ。特にファットガムは関西一の人気者。メディアの露出も多い。つまり、「そういう行為」に至る機会はたくさんあるのだ。
アラサーにもなれば、そうしたわりきった関係があるということもわかってはいる。けれど身体を重ねるというのは奏音にとっては特別なことだ。つきあってもいない男性と一夜を共にするなど初めてのこと。
だから、ああもあっさり「ようあること」と言われてしまうと、やはり心中は複雑だった。
「あー、ネガティブ! よくない!」
うじうじしていても仕方ないのだ。
奏音はメイクボックスからファンデと下地を取り出して、出かける準備を開始した。
今日は友人とランチの予定だ。
ヒーローをしている彼女――つまりはファットと出会うきっかけとなった結婚式の新婦で、ヒーロー名はスワローという――とは、中三の時からのつきあいだ。
***
「聞いたでー。奏音、近頃ファットとしょっちゅう会うてるんやて?」
開口一番、彼女が言った。まったく、どこから聞いたのだろうか。
「しょっちゅうってほどでもないよ。月に一、二回くらい。ただの飯トモだよ」
「いや、忙しいアイツがその頻度で会うってただの友達ちゃうやろ。しかもそれって、二人でやろ?」
「……そうだけど」
「ファットはその気もないのに女の子とサシ飲みなんてめったにせえへんで」
「そうなの?」
意外だった。ファット本人は、パートナー以外の相手と一夜を過ごすことを「よくあること」と言ったのに。
けれど友人の言葉のほうが、奏音のよく知るファット像に近しい気もする。
となると、あの時のあれは奏音を気遣った、その場しのぎの一言であったのかもしれない。
「ほんまやて。あいつ高校の時からめっちゃモテてたから、女の子を誤解させるような真似はぜったいせえへん」
「え? ファットって、高校の時からモテてたの?」
「せやで。うちら上級生から同学年、近隣の中学生たちからもそらモッテモテや」
わかる気はする。
ファットガムはやさしくおおらかで、男気がある上に面倒見もいい大阪のアニキ。そんな彼を好きになってしまうことはよくわかる。
「あれほどのイケメンやしなァ。アイツが文化祭でたこ焼き屋台やった時なんて、ずらっと行列できたくらいやで」
イケメンという言葉に、奏音は首をかしげた。
もちろん、奏音はファットガムのことをかっこいいと思っているし、あの大きなおめめや大きなおくちはとてつもなくかわいい。
けれど彼は、「一般的なイケメン」の定義とは、少し外れているような気がする。
すると友人はからかうような視線を投げながら愉快そうに笑った。
「あー、もしかして奏音、まだ見てない?」
「なにを?」
「んー? まだならナイショや。お楽しみにとっとき」
「ちょっと、もったいぶってないで教えてよ」
「どうしよかなァ」
というやりとりを交わしていると、友人の端末がけたたましい音を立てた。
「ゴメン、呼び出しや」
「ううん、大丈夫。頑張ってね!」
ほな、とランチ代金を置いて風のように去った友人の姿と、奏音の記憶の中で出動要請を受けて駆け出す大きなひとの姿が重なる。
ヒーローは華やかな職ではあるが、基本的には滅私奉公。こうして要請がかかれば出動せねばならない。
友人だけでなく、どこかで人々の為に戦うヒーローたちに、もう一度「頑張って」と口の中で呟いて、奏音は小さく息を吐いた。
***
ビルの谷間の空を紅く染めながら、おひさまがゆっくりと沈んでいく。
大きなオールマイトのネオン看板を弾いてきらめく陽光を直視しないよう目を細めて、奏音は帰路を急いだ。
人でごったがえす橋をわたり、遊歩道へと降りる。と、少し前を、黄色い大きなかたまり……いや、黄色い服を着た大きな人が歩いているのが見えた。
「ファット!」
声を上げながら駆けだすと、前方の大きなひとが、歩みをとめる。
「おう、奏音ちゃんやないか」
ふりむいたその人は、いつものように笑う。おひさまのように朗らかに。
「ねえそれ、どうしたの?」
後ろからではわからなかったが、ファットは清涼飲料水の箱を三つも抱えていた。
「あー、これ? こないだ助けたんが、ゴイチゴの会長さんでな」
ゴイチゴとは、関西では有名な中華系のフードサービス会社だ。特に豚まんが有名で、奏音の好物の一つでもある。
「で、豚まんめっちゃもらったんや。うちの事務所、今日は午後から非番やさかい、これからインターン生も交えて豚まんパーティーしよ思て。ちゅうても、非番は休日とはちゃうから、いつ要請かかるかわからへん。残念ながら飲みもんは酒やのうて、このとおりノンアルや」
「あー、ヒーローは大変だよね。こないだスワローとランチしたんだけど、彼女も途中で要請かかって出てったよ」
「俺らの業界ではようあることやな。まァ、大変は大変やけど、好きでやっとることやし、それだけやりがいもある仕事やから」
そうさらりと告げてにぱっと笑んだ彼はやはりおひさまのようで、まぶしいな、と思うと同時に、ほっこりしあわせな気持ちになった。
太陽のようなひとは、朗らかに続ける。
「せや、よかったら奏音ちゃんも一緒にどお?」
ちょくちょく二人で食べ歩いてはいるけれど、事務所にお呼ばれするのは初めてだ。しかし、行きたい気持ちは山々なれど、今日は突発の仕事がひとつ入ってしまっている。
「お誘いはすごく嬉しいんだけど、このあとレッスン入っちゃってて」
「そうなん?」
「うん。同僚が体調崩しちゃってね、ピンチヒッター」
「そうかー。そら残念」
「また誘って」
「ん」
と応えたファットは、少し考えるような表情をして、続ける。
「ほな、豚まん少し持ってき。それくらいの時間あるやろ」
「え? いいの?」
「ええよ。奏音ちゃん前にゴイチゴ好きや言うてたやん」
確かに以前、そんな話をしたような気がする。
けれど酒の席での、たわいない話題の一つだ。そんな小さなことを彼が覚えていてくれたことが、とても嬉しい。
けれど表面上はそれをおくびにも出さず、さりげないふうで会話を続ける。
「あそこの豚まんおいしいよね。わたしだけじゃなく家族も大好きなんだけど、実家のほうには売ってなくてさ。だから帰省する時は必ず買ってくの」
「奏音ちゃん、たしか実家は千葉やったっけ?」
「そうなの。中三のとき親の転勤でこっち来てさ。十年くらい前に親は地元戻ったんだけど、私は大学もあったから関西残って、今もそのまま」
「もしかして、関東よりこっちの水が合うたちゅうこと?」
深く考えたことはなかったけれど、言われてみたらそうかもしれない。
「そうかも」
「そら嬉しいな。せや、うちのインターン生も千葉の子やで」
「ああ、あの綺麗な顔した子」
するとファットがからかうように片方の眉を上げた。
「サンイーターな。この春高三になったとこなんやけど、最近はビッグスリーなんて呼ばれとるらしいで」
「優秀なんだ」
「指導者がええからな」
しれっとそんなことを言って、ファットがにかりと笑う。そうして彼はふと思いついたように、大きなおめめを見開いた。
「あー、話変わるけども、奏音ちゃん、バーベキュー好き?」
「嫌いではないけど……。虫が苦手だから、本格的なアウトドアはちょっと……」
「あー、それは大丈夫。ベイエリアにな、海が一望できるバーベキュー施設ができたんや。グリルなんかも備え付けで、きっちり整備されとるとこ。持ち込みもでけるけど、ちゃんと予約しとけば手ぶらで行っても全然オッケーなんやって。でな、俺、そこで食べてみたいメニューがあるんよ」
「どれ?」
これ、と言いながら、ファットが飲料の箱を片手に持ち替え、空いた方の手でスマホを差し出した。画面いっぱいに映し出されているのは、タワーのように積みあげられた、八段重ねのハンバーガーだ。
「これだけやのうて、予約しとけばオプションのチーズソースをたっぷりかけてええんやて。ホラこれ」
「めっちゃ美味しそう。これだけ量あるとわたしひとりじゃ無理だけど、ファットと一緒なら安心だね」
「せやろ? 俺は一人でも食いきれるけど、一人でこないなトコ行くのもなんやから……よかったら一緒に行かへん? もし天気良かったら、俺バイク出すで」
「え、ファット、バイク乗れんの?」
技術的な問題ではなく、彼の体重に耐えられるバイクがあるのか、という意味で声を上げた。すると関西一のヒーローは、こちらの意図を察したのか、丸い顔に満面の笑みを浮かべて応える。
「正しくは、バイクやのうてトライクやな。三輪のやつ。アメリカンのデカイので、排気量も六千t以上あるから俺の体重にも負けずしっかり走るで。タンデム用のシートもついとるから、普通のバイクで二ケツするより、奏音ちゃんも楽なんやないかな」
「排気量六千って、すごくない?」
「国産やと、車でもそうそうないやろな。アメ車とかなら珍しないけど」
「すごいねえ。……わたしトライクもバイクも乗ったことないからけっこう楽しみかも」
「そう言うてもらえると嬉しいわ。ほんでな、俺のトライクは普通車と同じくくりやからヘルメットせんでもええんやけど、安全面を思うとしといたほうがええねん。キミになんかあったらイヤやから、メット用意しといてもええ? その……髪型やら崩れてまうかもしれへんけど」
「オッケー。そしたらそのへんも対策しとく。気を使ってくれてありがとね」
「……おん……。ほな予約とっとくわ」
「よろしく」
普通に会話をしているが、内心は口から心臓が飛び出そうだった。
二人でバーベキュー、しかもバイクで行くなんて、まるでデートだ。いやファットにはそのつもりはないのかもしれないが、タンデムだなんて、嫌でも密着してしまう。意識するなと言われても、そんなの無理だ。
そんなことをぐるぐる考えながら――むろん最後まで表面上は平静を装い――会話をしながら歩いていると、あっというまに事務所ビルの前に着いてしまった。
ちょお待っとって、と言われて事務所の前で待つこと数秒。彼はすぐに豚まんの大箱をひとつ掲げて現れた。
「ほい」
「ありがとう」
大きな手から豚まんの箱を受け取って、「ほなな」という彼に「またね」とこたえてきびすを返す。
今にも踊り出しそうな足下を全力で抑えつつ、ゆっくりと歩を進めた。
ああもう、どうしよう。呆れるくらい舞い上がってしまっている。
まったくもって恋ってやつは、本当に。アラサー女を少女みたいにはしゃがせて、乙女みたいにときめかせてしまうのだから、困ったものだ。
***
「いいお天気」
思わずそう口にしてしまうくらい、日差したっぷりのいい陽気だ。風も少なく、気温もちょうど。これならトライクでのデートも快適だろう。
家まで迎えに行ったるわ、というファットの言葉に甘え、指定された時刻に外に出る。と、マンションのエントランスの斜め前に停めてある三輪バイクが視界に飛び込んできた。カウルとボディタンクの色は黒、他のパーツも黒とシルバーで統一されている、アメリカンなビッグバイクだ。
それだけならば、ファットのだ、と思ったことだろう。けれどそのバイクには、知らない人がまたがっていた。
黒いフルフェイスのヘルメットをかぶったその人は、巨大なバイクに負けないほどの長身だった。手足も長く、体つきはがっちりしている。
大型のトライク自体けっこう珍しいものなのに、それに乗る予定の日に同じような大型トライクを見かけるなんて妙な偶然もあるものだな、と思いながら奏音はエントランスの階段を降りた。
するとトライクに乗っていた人がバイクを降りて、ヘルメットを脱いだ。金色の髪が、五月の木漏れ日を弾いてきらきらと輝いている。
――うわ、すごいかっこいい。
華やかなのは髪色だけではない。彼はそんじょそこらではお目にかかれないレベルの男前だった。
「時間ぴったりやなあ」
奏音に向かってそう告げて、男前の彼は、にぱ、と笑った。
まるでおひさまのように。
一瞬警戒しかけたが、この笑い方に既視感があった。
それだけでなく、よく見ると顔のパーツにも、どこか見覚えがある。
金色の髪と、大きな琥珀色の瞳と、おおきなおくちと、やや短めの眉。
そしてきわめつけは、その声だ。少ししゃがれた、低い声。
耳のいい奏音が、この声を聞きまごうはずはなく。
「ファット?」
「おう。せやで」
いたずらっぽく笑いながら、彼は続ける。
「しかし、よう俺ってわかったな」
「あ、うん。お顔のパーツに面影はあるし、それに声が同じだったから」
「あーそうか。キミ、耳ええもんな。いや。この姿見るとみんな驚くんやけど、初見から俺やて当てたんは奏音ちゃんが初めてや」
「びっくりはしてるよ。別人みたいに痩せちゃってるから」
「俺、個性の関係で痩せることあんねん」
そう言って笑った彼の頬には、大きめの絆創膏がひとつ。
衝撃を脂肪で吸収するという彼の個性と、顔の傷。とすれば、痩せたのもヒーロー活動中になにかあってのことだろう。こういう時、つっこんだことをたずねても、ファットはお茶を濁すことが多く、あまり真相を語ってはくれない。
だから奏音はいろいろ気にはなりつつも、原因の追及を避けた。
「……そんなに痩せちゃって大丈夫なの?」
「問題ないで。ただしこの身体やといつもみたいにはでけへんから、今日は絶対要請けえへん。丸一日フリーや。バーベキューでいっぱい食うて、身体戻さな」
「そんな急に戻るの?」
「せやな。この感じやと、二日もあれば」
へー、と感嘆の声をあげ、彼を見上げる。
それにしても、と奏音は内心でひとりごちる。
どこからどう見ても、申し分ないイケメンだ。なるほど、友人が「見ればわかる」と言って意味深に笑っていたのは、この姿のことだったのか。
「そんなに見つめられると照れてまうやん。まあ痩せた俺はイケメンやから、見とれてまうのもようわかるけど」
まったく照れてなどいない様子で、しれっとそんなことを言う。見た目が変わっても中身はまったく変わらない。
そこに少しほっとして、奏音の口からぽろりと本音がまろびでた。
「今イケメンなのは否定しないけど、ファットはいつもかっこいいでしょ」
「エッ? そ……そお?」
先ほどとは違い、今度は本当に照れた様子でファットが頭をかく。奏音は急に恥ずかしくなって、話題を変えようと三輪バイクに向き直った。
「このバイクも大きくてかっこいいよね。色もいいし。それに後ろの座席、三輪だと背もたれまで着けられるんだね」
「お? おお。このタンデムシート乗り心地もええねん。普通のバイクの二人乗りよりずっと楽やと思うわ」
まあ、乗ってみ、と手を引かれ、後部座席に乗り込んだ。トライクは自立するから、奏音が乗っても揺らぎもしない。
このバイク、大きくてどっしりしていて、持ち主に少し似ているな、とひそかに思った。
「で、これしてな」
と渡されたのは、新品のヘルメットだった。
もしかして、このために用意してくれたのだろうか。
「大きさちょうどええな」
「……ありがとう」
ん、と答えて、笑んだ彼の髪は陽光と同じくらいにきらめく金色。
やっぱりファットはおひさまみたい、と思いながら、バイクにまたがる彼の背を見つめる。
「いちおう背中でも吸着するけど、しっかり掴まっててな」
「うん」
ファットがセルモーターのスイッチを押すと、ドルン、という音とともにエンジンがかかった。初めて体感するバイクの振動。どきどきしながら、常よりも細い――だが奏音のそれよりははるかにしっかりした腰に、そっと手を回す。
「ほな、出発しまーす」
その声を合図に、止まっていた景色が風と共に動き出した。
2025.4.30
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