空になった皿が並べられたテーブルを前に、奏音が笑う。それに「おう」と返して、一回り大きくなった腹を揺らして、ファットも笑んだ。
奏音とファットは今のところ、食事やお酒を友にする、親しい異性の友達という程度。使い古された言い方をするならば、友達以上恋人未満と言う感じだ。
そして女性というものは、「恋愛対象外」というラベルを貼った男を「恋愛対象」に昇格させることは、めったにない。学生時代から、幾度「安パイ」のラベルを貼られ、「頼りになる友人」というワクに納められてきたことか。
だが今回、このバーベキューに奏音を誘えた自分を褒めたい、とファットは思っていた。移動手段を、電車ではなくバイクと告げたことについてもだ。
車は信頼関係があれば友人同士でも乗れるだろうが、バイクのタンデムはひと味違う。マシンの形状からいって、運転する者と後に乗る者がある程度密着しないといけない。一般的に、女性は好いてもいない異性との接触をさけるものだ。そこそこの好意を抱いていないとできないだろうとファットは思う。
――これはいけるんちゃうやろか。
バーベキューというと、公園やキャンプ場で自然と触れあいながら行うものを想像しがちだが、ここは違う。巨大な商業施設の屋上に設えられたバーベキューエリアだ。
区画ごとにタイプの異なるグリルやテーブルが用意され、手洗いなどの設備も充実している。バーベキューに使用する道具や食材もその場で調達できるので、手ぶらで行っても大丈夫。屋上にあるがゆえ、虫などの心配もなく、ロケーションもいい。
若い女性からも高評価を得ている、人気のデートスポットでもある。
つまり今日、ファットは奏音との距離を詰める気持ち満々であった。
「せやなぁ、タワーバーガーも食べであったし、バジルチキンもうまかったわ」
「骨付きソーセージと海鮮もおいしかったよ」
「牛カルビと豚ロース、トマホークステーキも良かったで」
「パリッと焼いたパエリアもだよ。あとデザートのジャンボスモアもバーベキューならではって感じで」
奏音の言葉にうんうんとうなづいてから、ファットは手のひらを海のほうへと向けた。
「せやけどな、今日の一番はこれからやで。本日のメインエベントは、この広大なるサンセットです。ほな、思う存分お楽しみください」
告げながら奏音と共に視線を海へと向ける。と、見事なグラデーションに染まる空と海が見えた。水平線と工業地帯のあたりは朱。そこから空が高く、海は陸地に近づくにつれ、青い色を帯びながら徐々に濃紺へと変わってゆく。
「……素敵」
ガスグリルの横に置かれたソファに沈み込みながら、奏音が呟いた。黄昏の薄明を見つめる彼女の形良い手にレモンスカッシュを手渡して、ファットはにんまりと微笑んだ。
日が落ちるタイミングに合わせ、そこここに設えられた灯りに灯が点されてゆく。各ブースのグリルやコンロから覗く炎がゆらゆらと揺れる。
――よっしゃ、ムード満点、雰囲気上々。やさしい灯りと爆ぜる炎に照らされて、すっかり盛り上がったふたりは……。
むふふ……と、次の展開を妄想しながらヒーローらしからぬ「やや悪い顔」でほくそ笑んでいると、かつてしょっちゅう聞いていた女の声が響き渡った。
「あれ? ファーやん。そこにおんのファーやんやない?」
――いや、ちょお待ってぇ。
タイミング最悪やん、と口の中で呟きながら振り向くと、そこに立っていたのは、予想通りの相手だった。カニの甲羅を思わせる髪型をした、若い女。
「カニ子やん!」
「せやで。美少女捜査員のカニ子さんや」
「自分、もう美少女っちゅう年やないやろ」
「あほう、女はいくつになっても乙女やで。いやしかし、めっちゃ久しぶりやな、なんや? ファーやんもバーベキュー?」
「それ専用の施設で、他になにができるっちゅうねん」
ばし、とかつてコンビを組んで捜査に当たっていた相手にツッコミをいれつつ、ファットは続ける。
「しかしほんま久しぶりやな。自分がキタ署の刑事部に移動になって以来か?」
「せやせや。今もキタにおるで。今日は署の同僚たちと一緒に来とるんや」
「ほぉ」
「ファットは――………あ……なに? 彼女? えらいべっぴんさんやん。ファーやんもなかなかやるやないか」
お手柄やん、と続け、カニ子は高らかに笑う。
相変わらずデリカシーのない奴や、と言いかけて、自分もそんなものは持ち合わせていないのでお互い様だと思い直した。
「奏音ちゃん、こいつはキタ署で刑事しとる蟹屋敷モニカや。カニ子、こっちは恩佐奏音さん。俺の大事な…………メシトモや……」
「あー……」
大事な、と、メシトモ、のあいだにあえて間を開けたので、察したのだろう。「もしかして。これから口説くとこやった?」とごくごく小さな声でカニ子がささやく。「せやで、これからええとこなんやから邪魔せんといて」と答えたいところだが、いかんせん奏音は耳がいい。こういう形で自分の思いを知られてしまうのは嫌だったし、冗談にしてしまうのも、今はいやだった。
だからカニ子の問いにははっきり答えず、ファットガムはへらりと笑った。
カニ子はそれ以上の追求はせず、奏音に向かって明るく笑んだ。さすが元潜入捜査員、察しが良くて大変助かる。
「どーも、カニ子です。あ。カニ子っちゅうんは苗字の蟹屋敷とこの髪型からついたあだ名なんやけども。ファーやんとは前の署にいたとき、一緒に仕事することが多うて、仲良うなったんや。いやしかし、そのファーやんが、まさかこないべっぴんさんと一緒におるなんて、ほんまインド人もびっくりやわ。せやけど楽しくごはん食べとるとこ話しかけてごめんねぇ。ウチもツレが待っとるんで、ここらでおいとましますわぁ」
カニ子はそう一息にまくし立て、あっけに取られている奏音に微笑んだあと、くるりときびすを返した。
「ほな、ファーやん。気張りや」
「やかまし。……ほな、またな」
嵐のように現れて嵐のように去って行ったカニ子の後ろ姿を見送って、ファットは大きくため息をつく。
「相変わらず騒々しいやっちゃ」
「元気でかわいいひとね」
「そうかあ? 元気なのは認めるけども、かわいいっちゅうんはどうやろか。あんま意識したことないわ」
「えー、すごいかわいかったよ。ファットはあの子にときめいたりしなかったの?」
「するわけないやろ。カニ子やで」
「ふーん……」
奏音には珍しく、なにかを含むような言い方だった。
もしかして、やきもちを焼かれているんだろうか。
脈がなければ嫉妬などしないから、そう思うと、少し嬉しい。
だがここで「やきもちか」などと言ってはいけない。女心はデリケート、こちらの不用意な一言ですべて台無しになることもある。ファットは、それを経験で知っている。
――このあと、どないするかなぁ。
雰囲気にまかせて一気にたたみ込もうとおもっていたのに、思わぬ邪魔が入ってしまった。
まったく、これが二十代前半の頃であったなら、雰囲気などそう気にせず、自分の気持ちを伝えられたのに、場数を踏み、経験を重ねたせいで、恋愛について思い切れないことが増えた。
慎重に慎重を期した今の状態が吉と出るか凶と出るかは、神様だけが知るところ。
「それに俺、かわいいタイプより、ひとつふたつ年上の綺麗なおねえさんのほうが好きやねん」
それだけ告げて、探るように奏音を見おろす。と、彼女は「ふーん」と言いつつも、どこかまんざらでもない様子。
雰囲気が壊れたと思っていたが、これはこれで、チャンスなのではあるまいか。
よっしゃ、言え。気張れ俺。
と、己を励ましつつ、ファットが声を上げかけたその瞬間、屋上テラスに破裂音と布を裂くような悲鳴が響き渡った。
反射的に音がした方に視線を転じる。と、南端のブースから、黒い水柱があがっているのが見えた。
ブースにいるのはガラの悪そうな男が三人と、派手な出で立ちの女性が二人。けれどそのほとんどが驚いたような顔をして、水柱を上げている人物を見上げている。
暴れているのは若い男だった。通常サイズの六本の腕に二本の長い触手、脚を入れると手足は十本。頭部には三角形のえんぺらがある。とすればおそらく個性はイカだろう。そうなると、男がまき散らしている黒い液体はイカスミだ。
男は己を見失った様子で、わめき声を上げながら自ブースのテーブルをなぎ倒し、椅子を放り投げている。酒に酔っただけではこうはなるまい。おそらくなんらかの薬物による、症状だろう。
とにもかくにも、早く取り押さえなくては、周囲の人に危険が及ぶ。
本日、ファットガムは休日であって非番ではない。だからよほどのことがない限り出動要請は来ないし、その義務もない。だが通報を受けたヒーローの現着を待つよりも、この場にいるファットガムが対応した方が早いのは、それこそ火を見るより明らかだ。
身体の脂肪は今朝の二割増しと言ったところ。まだ少ないが、多少なら吸着もできるし、この身体でもやれることはある。
気まずい思いで、奏音をちらりと見やる。すると奏音は黙ったまま静かに笑んで、ファットの背中をポンと叩いた。
「……おおきに」
返答と同時に、ファットは駆け出した。脂肪が落ちているため脂肪の吸着力は常より大きく劣るが、身体が軽い分すばやく動ける。
ファットガムがいた位置から南端のブースまで、かかった時間はおよそ数秒。その間に、ファットは相手との戦闘プランを組み立てている。
敵の攻撃を受け止める脂肪が少ない現状で相手を確保するには、できるだけ手数の少ない攻撃で戦意喪失させることが肝要だ。
相手の個性はイカ。幸いにして、食べることができる生物の個性持ちとの戦い方は、環との戦闘訓練で研究済みだ。墨や毒を有していると思しき触手やたくさんの手足はやっかいだが、イカには急所が二カ所ある。
そのひとつが――。
「ここや!」
暴れている男の眉間に、ファットは右ストレートをたたき込んだ。
何百キロもある自身の体重を自在に操るため、ファットガムの筋肉量は多い。鍛えられた拳を急所に受けた男が、一瞬にして膝から崩れ落ちる。
「よっしゃ」
と、右手でガッツポーズをキメながら、左手でその腕をばちんと叩く。
「さすがファーやん、一撃やん」
「まぁな。急所にバッチリ決めたさかい、しばらく目ぇ覚まさへん思うけど、早よ確保してくれへんか」
「了解」
そのままカニ子に丸投げしたいところだが、おそらくそうは行かないだろう。暴れていた男は何らかの薬物を使用している様子だった。薬物といえばファットの専門分野でもある。かかわってしまった以上、同じブースでバーベキューをしていた連中からも話を聞かねばならない。
せっかくのデートを邪魔されたいらつきを隠しもせず、腰を抜かしている男の仲間を見おろすと、彼らは観念したように、小さくなってうつむいた。
***
「見て、あれファットガムじゃない?」
「ほんとだ。関西まで来た甲斐があったね」
そんな声を受け流しながら、パトロールを終え、事務所へと向かう。江州羽は関西でも有数の繁華街であり、観光地でもあるので、さまざまな地方の人が訪れる。そしてそういう街は、他の地域より事件も多いものである。
そんな地域を担当するファットガムは常より多忙で、ただでさえ予定を合わせることが難しい。そのうえ、奏音も最近はどうやら忙しいようで、なかなか会うことができなかった。
けれど忙しいというのも、方便なのかもしれない。と、ファットは思うことがある。
バーベキューの日は、事件の処理が終わるまでの間、奏音を一人にしてしまった。時間にして一時間ほど。
もちろん誠心誠意を込めて謝罪したし、奏音もかっこよかったよと言ってくれたが、せっかくのバーベキューのシメがあんなことになってしまったのは実に申し訳ない限りだった。
ふたりで出かけた最中に一時間も放り出されて、いい気持ちがするはずもない。以前も、あとすこしで付き合えそうだった子に、似たような理由でふられたことがある。
しかし、これがヒーローという職業だ。華やかなようで、最も必要とされるのは自己犠牲の精神。それはトップを走る先達たちを見ていてもわかる。
だから後悔はない。ないけれど、心の底から残念なのは、また事実だった。
――うまくいきそうやったけど、振られてまうかな……。
そうため息をついたとき、事務所の前に、一人の女性が立っているのが見えた。どう考えてもそのひとは、事務所の誰かを待っているようで。
そして、ビルと夕陽を背景に、糸杉のように静かにたたずむそのひとの姿を、ファットガムが見まごうはずもなかった。
「奏音ちゃん!」
巨体を揺らして、だがフットワークは軽やかに、ファットが奏音の元へと駆け寄る
「どないした? なんか相談事?」
「違うの。実はね」
と言いながら、奏音が見せてきたのは免許証だ。
「二輪の免許証やん!」
「うん。トライクの後に乗せてもらって気持ちよかったから、バイクの免許取っちゃった。だからね、これ一番にファットに見せたくて」
――ええ、そうくる? トライク気に入ったんなら、「また乗せて」って言うとこやないん?
と、内心でツッコミを入れつつ、同時に、自分はこのひとのこういう一風変わったところも合わせて好きなのだ、と、しみじみ思った。
「もしかして、最近忙しい言うとったん、教習行っとったから?」
「そうなの。免許取ってびっくりさせたくて」
「ほんまびっくりしたわ」
方便でもなんでもなく、事実であったと知って、ファットは安堵して笑んだ。
いの一番に知らせに来てくれたことも、とても嬉しい。
「今度、ツーリング行こうね」
オレンジ色の夕陽に照らされた笑顔を心から愛おしいと思いつつ、ファットは大きくうなずいた。
2025.6.1
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