二 珍珠梅の庭

 雄英の寮を出て早一ヶ月。荷物の整理も終わり、休日にはルーフバルコニーでブランチをとることが習慣になりつつある。いやはや、まったくもって素晴らしい。
 私の住まいは、オール・フォー・ワンとの最終決戦で破損などすることなく、綺麗なまま残った物件のひとつ。六本木で住んでいたような高級物件ではないが、雁行型の七階建てで、白のモルタル外壁と瀟洒な黒のアイアン柵が施されたバルコニーが特徴的な、ヴィンテージマンションだ。

「本当に、どこもかしこも『良い』んだよな」

 と、自らの住まうマンションの外観を思い浮かべながら、小さくひとりごちた。
 門扉はバルコニーと同じデザインが施されたブラックアイアンで、その先に広がるのは、黄色を基調にしたモザイクタイルが敷き詰められた中庭だ。庭の中央にはパラソルが設えられた白いガーデンテーブルセットが、植樹帯の手前にはウッドベンチがそれぞれ置かれている。広くとられた植樹帯には、白木蓮にツツジ、紫陽花や山茶花など、それぞれの季節に花を咲かせる樹木が植えられていて、我々住民の目を楽しませてくれる。
 しかも床のモザイクタイルは中庭にとどまらず、エントランスからエレベーターホールまで続いているのだ。ホールの天井に施されたステンドグラスからは、柔らかな外光が差し込む。エレベーターホール内には螺旋階段もあり、曲線を描くアイアンの手すりと黒絨毯がなんともいえないレトロな雰囲気を醸し出している。

 見ているだけでも心ときめくというか、おしゃれなのにどこかかわいらしいというか、つまりは実に魅力的な建物なのだ。外観を見て一目惚れし、最上階の一室が売りに出されたのと同時に、即決した。
 築年数はかなり古いが、エレベーターなど共有物はすべて最新のものに変えられているし、私の部屋自体も入居前にすべてリノベーションしたので、生活するのにまったく不自由はなかった。

「いや……」

 と、軽く嘆息しつつ、また独りごちる。

 不自由というほどではないが、多少気になる部分がないわけではない。古い建物であるがゆえ、鉄筋であるにもかかわらず、隣近所からの音がたまに洩れ聞こえてくることがあるのだ。

 たとえば今日がまさにそれ。
 隣で引っ越し作業をしているようで、朝から物を運び込むような音や、作業員らしき男の声などが朝早くから聞こえてきていた。
 とはいえ、引っ越しの騒音などは仕方ないことだろう。目くじらをたてるほどのことはない。多少の生活音はお互い様だ。

「それにしても、実に気持ちのいい休日だなぁ」 

 心で思ったはずなのに、口に出していたことに気がついて、苦笑した。年齢を経ての一人暮らしは、独り言が多くなる。誰も聞いていないとはいえ、気をつけたほうがいいだろう。
 それにしても、初夏の日差しが降り注ぐテラスで、スパニッシュオムレツとトーストとコーヒーのブランチをとることができる幸福はどうだ。
 アイアンの柵の向こうに見えるのは、遠い山の稜線。このあたりは背の高い建物が少ないから、七階でも景観はかなりいい。
 まさに最高のシチュエーション、と今度はちゃんと内心で呟いて、買ったばかりの小説本のページをめくった。

 おひさまの下で翻訳小説を読みながら、一日のんびりすること。
 それが昨夜の私が本日の私に課した、小さな目標だった。

***

 バタールを片手に、ブラックアイアンの門扉をくぐった。
 パンは近所の店で購入したものだ。ここのパンはめっぽう美味い。殊に私が一番好きなのは、皮はパリパリなのに中はもっちりしているバタールだ。サンドイッチにしてもよし、ブルスケッタにしても美味、パンキッシュにしても絶品で、もちろん軽くトーストするだけでも充分に満足させてくれる。ただし、すぐに売り切れてしまうのが玉に瑕。一日二回の焼き上がり時間。つまりは午前十時と午後三時に店に行かねば、ゲットすることはできない。
 ということで、このバタールは三時の焼き上がり時間に合わせて出向き、購入したものだ。

 無事好物のパンが手に入ったので、当然気分は上々だ。鼻歌交じりにアプローチを抜ける途中で、ふと、一本の樹木に目を奪われた。二メートル半くらいの、そう高くはない樹だ。ふさふさと生い茂る緑色の枝先に、コロンとした白い実のようなものが連なっている。
 いつからこんな実をつけていたのだろう。結実するということは花が咲いていたはずなのに、今までまったく気がつかなかった。
 いや、この樹そのものも、二年前にはなかった気がする。
 最近になって植えられたのかもしれないな、と考えながら庭木に近づく。と、円錐状に連なる球状の実の間から、梅によく似た白い花がいくつかのぞいていた。よく見ると、実だとばかり思っていたそれは、どうやら蕾のようだった。

「……こんな花があったのか」

 連なり垂れ下がる蕾たちは、まるで真珠のアクセサリーようで。
 そう感じた瞬間、脳裏に一人の女性の姿が浮かんだ。

 彼女の細い手首には、いつも一連の真珠が揺れている。塩月美栗。またの名をソルティ。我が雄英高校で、司書をつとめている女性だ。
 真珠に似た蕾から塩月を連想してしまったのは、彼女が常に真珠を身につけていることが理由ではなかった。彼女の存在そのものが、真珠をイメージさせるからだ。
 淡く輝く端正な美しさを持つ宝石と、よく似た美しさをもつ女性。

 ひとつきほど前になるが、彼女と大型書店で出くわしたことがある。まだ寮で暮らしていたので、一緒に帰り、それを見たマイクに「デートか」とからかわれた。そのまま私たち自身の恋の話に軽く飛び火したのだが、当然彼女はそれに答えず、私も「もうそんな年齢じゃないよ」とマイクをいなして話は終わった。

 けれどあの時私は、もし恋というものをするのであれば彼女がいい、と、思ってしまった。

 同じ時期に雄英職員になったというのに、彼女とはあの日までほとんど話したことがなかった。
 司書の席は職員室にもあるが、塩月は学校図書館にいるのが常だった。教師の飲み会に参加することもない。寮生活になってからも、共有スペースにいることはめったになかった。
 コミュニケーションをとるのは大切だけれど無理強いするのもよくないと、こちらから接することもしてこなかった。

 そして塩月は美しい顔立ちをしているが、あまり笑わない。もしかしたら本人は笑っているつもりなのかもしれないが、彼女が見せるのは口角がほんの少しあがるといった程度の、よく見なければ気づけない微かな笑みだ。それ以外の感情も、塩月はあまり表に表さない。
 そうした相手に話しかけるのには、誰でも多少の勇気を必要とするものだ。ましてや彼女は美しいから、なおさら近寄りがたく感じてしまう。
 だから、もう少しでいいから笑顔を見せれば、職員たちとの距離ももう少し縮まるだろうになどと、余計なことを心配していた。
 あの笑顔を、見てしまうまで。


 それは、今年に入ってすぐのこと。
 私は、雄英高校からほど近い場所にある喫茶店へと出向いた。
 レンガ造りの洋館をそのまま利用したつくりで、壁にステンドグラスがあしらわれている、レトロ建築のお店だ。店構えが可愛いというだけでなく、飲み物もフードもすべて美味しい。またコーヒーや紅茶を頼むとカップを選ばせてくれるところが心憎く、以前からたまに通う店のひとつだ。
 そこに塩月が入ってきたのだ。私の席が円柱の陰であったためか、それとも周りをあまり見ない性質なのか、私が店内にいることには、まったく気がついていない様子だった。

 そして彼女は紅茶とプリン――古き良き喫茶店で提供される生クリームがのった固めのプリンだ――を注文した。
 数あるカップの中で彼女が選んだのは、野いちごが描かれた、レトロでかわいらしいデザインのものだった。着ている服や本人の持つ雰囲気から、ノーブルなデザインのカップを選ぶのだろうと思っていたから、少し意外だった。
 塩月が紅茶を飲んで、小さく笑った。その微笑みは思った通り綺麗だったが、予想の範囲内の美しさだ。
 それにしても、本人が気づいていないからといって、のぞき見するような真似はあまり良いことではない。そう思った私が視線をそらそうとした、その時だった。

 プリンを一口食べた彼女が破顔したのだ。まるでちいさな子どもみたいに。
 普段あまり笑わない――本人は笑んでいるつもりのようだが、実際は口角が少しあがる程度のものだ――めったに表情を崩さぬクールビューティーが、ちいさな女の子みたいに屈託ない笑みを見せたんだ。

 瞬間、脳内に青白い光が閃き、どんがらがっしゃーん、という派手な音と共に雷に似たなにかが落ちた。

 それからだ。彼女のことが気になり始めたのは。
 といっても、これは断じて恋ではない。
 そもそも恋というものは、相手の人となりを知り、会話を重ね、ゆっくりと時間をかけてするものだろう。

 あんな雷が落ちるように……無邪気に笑う顔を見てしまったなどという安易なききっかけでするものでは決してない。……ないと思う。…………たぶんそうなんじゃないかな。

 だから彼女のことは、少し気になるという程度だ。
 恋というものをもしするとしたら相手は彼女がいい、とうっすら思ったりもするが、それを現実にしようとは、露ほども思わない。
 そもそも彼女と私とでは、年齢が二十も離れているのだ。向こうも私を恋の対象として見たことはないに違いない。

 小さくため息をついて、軽く視線を上げた。その先には、真珠によく似た純白の蕾。

「しかし……本当に、かわいいな」

 ああ、本当にこの花は彼女に似ている。
 白くて、はかなげで、普段は蕾のようにかたくなだけれど、ひとたび笑めば誰よりかわいい花を咲かせる。

 思わず手を伸ばして、一番上の高いところに咲いている花弁に触れた、その時。

「……オールマイト先生?」

 背後から、聞き覚えのある声がした。

 たいていの人間は、私を『オールマイト』と呼ぶ。だがそこに『先生』という単語をつけて呼んでくれる人はいない。余談だが、生徒たちの中でも私を先生と呼んだのは、記憶違いでなければ切島少年ただひとりだ。それも初めての演習時一度きりのこと。
 だから私を『オールマイト先生』と呼ぶのは、知りうる限りはただひとり。

「ソルティ」

 振り返った先に立っていたのは、想像通りのひとだった。

「「どうして?」」

 彼女と私の声が重なって、互いに顔を見合わせた。数秒おいて、どうぞ、と身振りで促されたので、では、と声を上げた。

「ここ、私の住んでるマンションなんだよ」
「そうなんですか? わたしも、今日ここに越してきたんです」

 もしや、と思っただけで、口から心臓が飛び出そうだ。なんたることだ。魔王と呼ばれた男と対峙したときですら、ここまで動揺し、身構えることはなかったというのに。
 だが、それが伝わってしまうことで、彼女に警戒されたくはなかった。だから内心の動揺を必死で隠し、口唇をひらく。どこまでもさりげないふうを装って。

「……もしかして、七階かい?」
「そうですけど……。もしかしてオールマイト先生も?」
「うん。ということは、お隣さんだね」

 このマンションは雁行型の、しかも凝った作りだから、各階、各戸で部屋数や間取りが異なっている。最上階は二世帯分しかない。私の家はルーフバルコニー付きの2SLDKで、たしか隣は1LDKのはずだった。

「でもさ、君、前に賃貸って言ってなかった? ここ分譲だよね?」
「そうなんですが、オーナーが賃しに出してるんですよ」
「ああ、なるほど。分譲賃貸か」

 はい、と彼女が両の口角を一ミリほどあげた。おそらく微笑んでくれた……んじゃないかと思う。
 塩月が私の家の隣に住む。それを考えただけで、口元が緩んでしまう。
 なんだこれ。私はどうしちまったんだ。
 一人笑いをしている中高年は不気味だろう。だから彼女に気取られぬよう、そっと手のひらで口元を覆った。
 すると、彼女がこちらを見上げ、ぽつりと言った。

「もしかして、お好きなんですか?」
「ええっ?」

 いや、ちょっと待ってくれ。たしかに君のことは気になっている。それは認める。隣に住むのも大歓迎だ。嬉しいよ。ただそれだけだ。好きとか恋とか、きっとそういうことじゃない。うん。おそらく、たぶん、そのはずだ。

 パニックになりかけた頭で、考えをまとめようとしていると、塩月がまた、口唇をひらいた。まっすぐに私を見つめながら。

「先ほどからずっと、お花に触れていらっしゃるから」
「え?」

 自分でもびっくりするくらい、間抜けな声が滑り出た。
 なんだ花か。そうだよな。うん。どう考えても花の話だ。

「いやあ、なんかかわいいなと思ってさ。特に蕾。白くってまんまるで、まるで真珠みたいじゃないか」
「そうなんですよ。蕾も花もめちゃくちゃかわいいですよね。わたしも大好きです。ニワナナカマド」

 なるほど、これはニワナナカマドというのか。かわいい見た目に反して、絶妙に生活感のある名前だ。

「珍珠梅とも言いますね。あ、珍珠っていうのは真珠のことらしくて、オールマイト先生もおっしゃった通り、蕾が真珠に似ているでしょう? お花も梅に似ていますし、そういったところからつけられた名前みたいです」
「ニワナナカマドより、そっちのほうがしっくりくるね。真珠と梅に似た花で珍珠梅。香りも梅と似ているのかな」

 そう言いながら花序に顔を突っこむと、塩月が「あっ」と頓狂な声をあげた。彼女がそんな声を上げるなんて実に珍しいことだ。
 しかし、その理由はすぐにわかった。
 美しくも可憐な花からは、なんともいえない奇妙な匂いがしたからだ。

「………うん。………香りは…………梅と違うね…………」
「正直、かなり微妙ですよね」
「……だね……。こんなにきれいでかわいいのになぁ」
「ですね。でも香りが強くないのが救いです。少し離れて見ていただければ」
「そうだね。近寄りすぎないようにするよ」

 いやはや、「この花は君に似ている」だなんて言わなくて、本当に良かった。
 職場を同じくするだけの、しかも二十も年上の男にそんなことを言われたら、不快極まりないだろうから、伝えるつもりはなかったけれど。

「香りが強くないってことは、この蕾が全部咲いてもそんなに匂わない?」
「たぶん。花序にお顔をつっこんだりしない限りは」
「さすがにもうしないよ」

 笑いながらそういらえると、彼女がまた、密やかに笑った。――今度のは、確実に微笑していると言っていい笑みだった。
 かわいいな、と思ってしまった。
 それはプリンの前で破顔した時の子どもみたいなかわいさとはまた別の、大人の女性のかわいさだった。あの時の笑みが太陽の下のひまわりであるのなら、今の笑顔は宵闇の中で儚げにひらく白い花。

「香りはさておき、この花が満開になったら、きっと見事だろうね」
「ええ。ニワナナカマドは一つの枝にたくさんの花をつけますから、すごくきれいだと思います。楽しみですね」
「まったくだ」
「このマンションを選んだ理由のひとつが、中庭のニワナナカマドなんです」
「そうなんだ。君、花が好きなのかい?」
「そうですねぇ。好きは好きなんですが、切り花よりも土に根付いた花木のほうが好みです」
「じゃあ、鉢植えを育てたりしてる?」
「それが自分ではなかなか……。だから、こうしてちゃんと花木を管理してくれるところに住みたかったんですよ」
「そうだね。それならこのマンションを選んで正解だよ。ここは共同スペースの管理も完璧だからね」
「ありがたいです。それにここは、なにからなにまで『良い』ですよね」

 え、とまたしても間抜けな声を出しかけた。彼女がいま言ったのと同じことを、独りごちた覚えがあるからだ。

「わたし、昔からこういう心ときめくレトロな建築物が大好きで」
「わかる、わかるよ。その気持ち」
「だからこのマンションを初めて見たときから、ずっと憧れてたんですよね。たまに雑誌とかにも載ってるじゃないですか」

 珍しく饒舌な塩月に、私はうんうんとうなずいた。
 そういえば、件の喫茶店も、このマンションと同じく、レトロ建築の良さを凝縮したような外観や内装だった。あの店が好きなら、たしかにこのマンションも好きだろう。
 もしかして我々は、感性を同じくする者同士なんじゃないだろうか。

「白い壁も、ベランダのアイアン柵も、モザイクタイルの床も、中庭の木々も、エレベーターホールのステンドグラスも、各戸をずらして配置していることも、もうなにもかもが素敵ですよね。ここ、お家賃はこのあたりの相場より少しばかりお高いんですが……今のお給料ならなんとかなりそうなので、思い切って住んでみることにしました」

 たしかに私の部屋も、建物が古いというのに、価格設定は相場より少し高めの金額だった。

「まあ、家賃は高めかもしれないけど、このあたりは環境もいいよ。緑も多いし、駅も近いし」
「学校の目の前で止まるバスが運行しているのも、助かりました」
「なに、君、バスで通うの?」
「学校までの坂道がきつくて……バスに乗ってしまえばすぐですからね。オールマイト先生は車……それとも歩きですか?」
「私は車だね」

 口から出かけた「よかったら毎日乗せていこうか」という言葉を、すんでの所で飲み込んだ。
 さすがにそれはやりすぎだ。下心なんてないけれど、彼女はそうはとらないだろう。彼女に気持ちの悪いおっさんと思われたくない。
 だから私は話題をそらした。ほんの少しだけ。

「……このあたりは交通の便もいいし、近くに大きめの商店街もある。そこにね、すごくうまいパン屋さんがあるんだよ」

 ほら、とバタールの入った紙袋を軽く掲げる、と彼女がまた、両の口角をかすかに上げた。口元に添えられた細い手首には、一連の真珠。

「それは素敵ですね」
「私はバタールが特に好きなんだけど、バゲットもうまいよ。ヴィエノワズリーもおすすめだ。とにかくフランス系のパンが充実している」
「こんど行ってみます。お店の名前、教えてください」

 了解、と呟いてから、店の場所と名前を伝えると、ありがとうございます、という静かな声が返された。

「オールマイト先生、これからお隣同士になりますが、どうぞよろしくお願いします」
「ああ。こちらこそ」

 よろしくね、と手を出しかけて、そして止めた。そんな自分が不思議でならない。挨拶の握手くらい、誰とでもしてきたことなのに。

 それでは、と会釈して門へと向かった塩月の後ろ姿を、自然なかたちで見送った。私の目の前で揺れるのは、彼女を彷彿とさせる、真珠のような蕾たち。
 この硬い蕾がゆるんで、花がすべて開いたらどれだけ美しいだろう。そう思った瞬間、花房の中に塩月の笑顔が見えた気がして、口元を押さえた。
 頬がゆるんでしまうのを、とめられそうになかったから。

2026.3.7
月とうさぎ