三 月のしずく

 新緑の隙間から差し込む陽光が、揺らめきながら輝いている。
 ――ねえ、あなたのその……とても綺麗ね。まるで――。
 そう言いながら、風に揺蕩う光線の先にいるひとに、手を伸ばした。

「ん……。まぶし……」

 カーテンの隙間から漏れた一条の光に照らされて、目が覚めた。窓ガラス越しでも紫外線は入り込む。七月の陽光は強力だからシミになるかもしれないなと思いながら、ゆっくりと身体を起こす。

 夢を、見ていた。

 その内容は覚えていない。けれどとても優しくてとても美しく、そしてとても悲しい夢であったような気がする。
 ふと頬に違和を感じて、そっと手を当て驚いた。抱いた違和感の正体が涙だったからだ。

「………どうして?」

 理由のわからない悲しみが、心の奥底でしずかに渦巻いているのがわかった。ただ、それをどうにも出来なくて、とりあえず時刻を確認しようと、枕元のスマホを手に取った。

「え? もうこんな時間?」

 心臓が口から飛び出そうになった。いつも乗っているバスが出る時刻まで、あと十五分しかない。学校へ向かうバスは、この時間でも十五分に一本。逃せば遅刻は確実だ。
 慌ててベッドから飛び出して、服に着替えた。残念ながら今日は朝食もコーヒーも抜きだ。ダッシュで洗面所に向かい、なんとか身支度を調える。

 本日は夏休みが始まって最初の土曜日。といっても、お休みなのは生徒だけ、我々職員にはさまざまな仕事が待っている。
 我が校は多くのヒーローを輩出しているが、全員が卒業してすぐに就職するわけではない。普通科、経営科、サポート科は進学する者のほうが多いくらいだ。だから夏休み中期間は、学校図書館を自習室としても開放している。その管理を任されているのが、司書であるわたしだ。
 また学校図書館の管理以外にも、蔵書の整理と点検、配架。修理に補修やシステムの管理など、やるべき仕事は山ほどあった。遅刻はできない。絶対に。

「あ、忘れるとこだった」

 手がけに気づいて、ベッドまで戻り、ブレスを出して手首につけた。やはりこれがないとしっくりこない。

 小走りでエレベーターホールに向かいながら、時刻を確認した。うん。うまくいけばバスの時間には間に合いそうだ。

 ところが、こんな時に限ってエレベーターがなかなかこない。たいした階数のマンションでもないのに、とイライラしながら待ってはみたが、エレベーターのインジケーターはずっと五階で止まったまま。おそらく階の住人が止めているのだろう。仕方ない、と内心で呟いて、一気に螺旋階段を駆け下りた。

 やっとのことでアプローチまでたどり着き門扉を見やったその瞬間、背後で聞き覚えのある低音が響いた。

「ソルティ、おはよう」
「……………おは………ようございます」
「おはよう。隣にすんでいるのに出勤時に会うのははじめてだね」

 声をかけてきたのは、我が国が誇る英雄だった。木漏れ日の下で金糸のような髪をなびかせて、彼は続ける。

「どうしたんだい? そんなに息を切らして」
「……バスを逃しそうなので……」

 やっとのことでそう応えると、オールマイトがおひさまのように破顔した。

「なんだ。だったら私の車に乗っていけばいいじゃないか。バス停で止まる必要がないぶん、私の車の方がきっと速いよ。朝から走ることないって」
「いや……そういういわけには……」

 このひとからこうした誘いを受けるのは二度目だ。
 もちろん下心などなく、親切心からの申し出ということも承知している。だが相手が相手であるだけに、そうそう厚意に甘えるわけにもいかなかった。

「遠慮することないよ。どうせ目的地は同じだし」

 そう笑うひとの上では、木蓮の葉が揺れている。金色の頭髪が、風にたゆたう木漏れ日を弾いてよりいっそうの輝きをみせた。
 実に絵になる人だと思う。なんなら、今、少しばかりときめいた。なにをやっても人目を引く人というのはいるものだ。

「大丈夫です」

 一言で答え、ふたたび門扉の向こうに視線を投げた、その時。わたしが乗るはずだった市営バスが、無情にも前を通り過ぎた。

「あぁぁ……」

 わたしのあげた情けない声にかぶさるように聞こえてきたのは、気まずそうな咳払い。

「ゴメン。バス、行っちゃったみたいだね」
「……ですね」
「今のは私が呼び止めたせいもあると思うんだけど……。よかったら責任を取らせてもらえるかな」

 申し訳なさそうな声に抗う術をわたしは持ってはいなかった。だから「お言葉に甘えさせていただきます」と頭を下げる。と、オールマイトがまた、すまなさそうに笑みを返した。

***

 学校からの帰り道、商店街まで足を伸ばして、オールマイトに教えてもらったブーランジュリーに寄った。元ナンバーワン・ヒーローのおすすめ店はたしかにどれも美味しくて、わたしもすっかりファンである。
 自分用のクロワッサンだけでなく、今朝のお礼にオールマイトへのパンも買うことにした。奇跡的に残っていたバタールと、パリジャンサンド、ブリーチーズとくるみのパンと、それから。

「……甘いのも好きかもしれないな」

 ひとりごち、ショコラフランボワーズもトレイにのせた。彼はヴィエノワズリーも美味しいと言っていたから、きっと嫌いではないだろう。

 ブーランジュリーを出たところで、どかん、と、号砲花火の音がした。花火大会でもあるんだろうか、と周りを見渡す。と、商店街のそこかしこに花火大会のポスターが貼ってあることに気がついた。
 打ち上げ場所はそう遠くない場所にある海浜公園だった。このあたりは高台で、しかもうちは七階だ。きっと見えるに違いない。



 ところが、である。

「あれ? 見えない?」

 ベランダから海浜公園の方角を確認したら、花火の見えるだろう位置に隣家のひさしが張り出ていて、鑑賞が難しいことが判明した。
 これも部屋同士をずらして配置してある雁行型建物の宿命か。しかたのないことだが、実に残念、とちいさくため息。

「お隣からは綺麗に見えるんだろうな」

 外観からもわかることだが、オールマイトの部屋には広めのルーフバルコニーがある。まったくうらやましいことだ。

 少しして、外から花火の音が聞こえてきた。音に誘われベランダに出ると、風にのってこちらに流されてくる白い煙が見えた。

「いや、見たいのは煙じゃないのよ……」

 ぱん、ぱん、という音が聞こえ、数秒おいて、またしても白い煙が流れてくる。それがどうにも口惜しい。

「……もうちょっとなんだよね。たとえばこの柵を……」

 よからぬ考えが脳裏をよぎる。
 この華奢な柵の上に登って身を乗り出せば――と。

「いやいや……いい年をして、さすがにそれは……」

 ばかばかしい、と独りごちて、部屋に入ろうとしたら、またひときわ大きな音が響いた。きっと特大の花火があがったのだ。

「…………」

 少しの逡巡の後、柵に手をかけた。
 夜だし、みんな花火に夢中だろうし、うちなど誰も見ちゃいない。落ちないよう、わたしが気をつければいいだけだ。

 バルコニーの柵は、アンティーク調のデザインアイアン。瀟洒で華奢で、こういったデザインの柵にありがちなことに、支柱の先端が尖っている。怪我をせぬよう気をつけながら慎重によじ登り、花火のあがる方向へぐいと身体を乗り出した。

「やった、見えた!」

 その時夜空に咲いたのは、光の点が放射状に広がる牡丹花火だ。きれいだなあ、と、喜びに酔いしれていると、下の方角から、聞き覚えのある声が響いた。

「ソルティ? なにしてるの?」

 えっ、と、驚きながら転じた視線、その先でこちらを見上げていたのは、予想通りの平和の象徴。

「なんでもありません。お気になさらず」
 
 冷静を装ってそう応えたまさにその時、細い柵の上にぎりぎりで乗せていた足が、つるりとすべった。

「わっ!」

 とっさに手を伸ばし、細いアイアンの支柱を掴んだ。セーフ、と思いながら両手で支柱を掴むために、もう片方の手もあげる。ところが、その手が真っ赤に染まっていた。
 先端の装飾で切ったのだろう。なんとか柵を掴むことができたが、血で滑るし強く握ると痛いしで、どうにも力が入らない。

「ソルティ。頼むからそこ動かないで!」

 低いけれど優しい声がまた響く。
 いや動かないでって言われましても、と内心で呟きながら、ふたたび下を見て、ぞっとした。
 こうしてみると結構な高さだ。現役時代ならともかく、個性がほとんど使えない今のわたしでは、落ちたらただではすまないだろう。

 このまま落ちたら死ねるだろうか。

 それは唐突に心の中に沸いた、不穏な発想。
 死にたいだなんて今まで考えたこともなかったのに、どうして?
 
 そう内心で叫びつつ、掴まっているアイアン柵を見上げた。血に濡れた自分の手と、そこで頼りなげに揺れる、一連の白い珠。

 とたん、頭の奥に、電流のようなものが走った。

 わたしは絶対死んではいけない。

 浮かんだのは、先ほどとはまったく正反対の想いだった。
 この一連の感情はいったいなんだ。
 とはいえ、今それを考えている時間はない。その前に現状をどうにかしなくては。はいあがることはできないだろうかと思いながら、怪我をしていないほうの手にぐっと力を入れた、その時。

「あれ?」

 身体が、ふっと軽くなったような気がした。
 次いで耳孔に飛び込んで来た低い声に、心臓が跳ねる。

「もう大丈夫。なぜって?」

 それは、モニターや現場で聞いたことがある大声ではなく、ささやくような、やさしい響き。

「私が、来た」

 これほどまでに安心できるフレーズを、わたしは知らない。
 細いけれども力強い左腕が、わたしを抱きかかえてくれている。

「このままベランダに戻るよ。じっとしててね」

 うなずくと、オールマイトは「いい子だ」と言って、柵に掴まっている手を軽く見やった。そして、ぼん、という音と共に膨れ上がった逞しい右腕が、本人とわたしの両方を、上空へと跳ね上げる。と同時に、彼はわたしを抱えたままムーンサルトのような宙返りひねりをキメて、ふわりとベランダへ舞い降りた。

「っは……! あぶなかった!」

 わたしの身体を解放し、オールマイトがベランダに尻餅をつく。いてて、と腰をさすってから、屈託なく、彼は笑った。

「間に合ってよかった。……君、あんなところで何してたの?」
「花火を見ようと思いまして……」
「ええ? そんな理由かい?」
「………………ハイ」

 まったくもって恥ずかしい。
 さすがに何の弁明もできずもじもじしていると、立ちあがったオールマイトがハンカチでわたしの止血をしながら、満面の笑みを浮かべた。

「それならうちで見たら? きっとよく見えるよ」

 いくらなんでもこんな時間に、しかも男性一人暮らしの家に上がり込むわけにはいかない。しかし救けてもらった以上、失礼な真似はできなかった。どう断ろうか頭を悩ませていると、唐突に、彼がごぽりと血を吐いた。

「……オールマイト先生!」
「ああ、大丈夫。よくあることだから」

 その言葉に、八年前の病院でのやりとりを思い出した。
 オールマイトは、あのあともヒーローを続けていた。そして先の大戦で、このひとは個性なき身体であるにもかかわらず、オール・フォー・ワンの前に立ちはだかった。その結果、現在は身体中がボルトだらけであるときく。
 それなのに、わたしがうかつな行動を取ったせいで、かなりの無理をさせてしまった。

 申し訳ないと心から思った。けれどここで謝るのは違うということもわかっていた。このひとはきっと、救けた者からの謝罪など望むまい。

「本当に……ありがとうございました。落ちたら大変なことになるところでした」
「うん。そう思うならさ、さみしい一人暮らしのおじさんと一緒に花火を見てくれない?」

 うっ、そうきたか。そう言われてしまったら、断ることは難しい。
 オールマイトは人格者だ。けれどその人格者も男性であるということで、危険がないとは言い切れない。しかしここまで言われて断るのも、また失礼に当たるかもしれず……。
 もろもろ考えを巡らせながらも、わたしは自身の中にある、微かな想いに気がついていた。

 これが他の男性であったなら、ここまで迷いはしない。即座に断る。
 自分でも、前々からなんとなく気づいてはいた。わたしはきっと、オールマイトになにか特別な想いがある。
 だがこれは、恋愛感情ではないと思う。そう、これはきっと尊敬に近い感情だ。

 迷い続けるあいだにも、花火の音は鳴り続いている。

「どうだい?」

 そう言ってちいさく首をかしげた、平和の象徴。その姿はあまりにかわいくて、この世を支えた御柱のイメージとは、大きくかけ離れているように思えた。

 しばしの逡巡ののち、「では、お邪魔させていただきます」とわたしは応えた。心中で「なるように、なれーッ」と、『なんか小さくてかわいいアレ』みたいな声を出しながら。
 するとオールマイトが「やった」という声とともに、にぱ、と笑った。まったく邪気のない、愛らしい笑顔で。
 このひとはこんなに大きいのに『小さくてかわいいアレ』よりもずっとかわいい。
 そう思ってしまった自分に動揺しながら、オールマイトと共にベランダから室内へと移動した。
 通りすがりに、リビングのテーブル上に置いていたブーランジュリーの袋を手に取った。

「えっ、なんだい? お礼ならいらないよ」
「いえ、これはもともとオールマイト先生の家にお届けしようと思ってたんです。以前、バタールがお好きって言ってらしたでしょう? 夕方お店に行ったら、奇跡的にまだあったので」

 お礼と言ったら受け取ってくれなさそうだな、と思い、とっさにそう告げた。すると彼はうっすらと頬を紅潮させて、ええっ、と声を上げた後、口元に手を当てた。
 ああもう。なんてかわいいひとだろう。

「私のことを思い出して買ってくれたの? 嬉しいな」
「ショコラフランボワーズやパリジャンサンドもあります。よろしければ花火を見ながら食べません?」
「そりゃいいね。一緒に食べよう」

 はい、とうなずいたわたしに、うん、とうなずき、オールマイトが歩き出した。目の前を進む、見上げるほどの長身と、薄いけれど広い背中。
 わたしを抱きとめてくれた腕は驚くほど細かったが、とても力強かった。密着していた胸と腰も、肉付きは悪いが思っていたよりがっしりしていた。きっと骨格がしっかりしているからだろう。
 先ほどのようなかたちではなく、もうすこしちゃんとあの身体に抱きしめられたなら、いったいどんな感じだろうか。

「ソルティ?」

 声をかけられて、我に返った。妙なことを考えてしまった自分が、とても恥ずかしい。
 そして同時に驚いてもいた、誰かに抱きしめられたらなどということを考えたことが、今まで一度もなかったから。



「どうぞ」
「うちよりずっと広いですね」

 思ったことが、意図せず口から漏れ落ちた。
 オールマイトの部屋は、1DKの我が家とは間取りも作りもまったく違っていた。まず、LDKが三十畳以上ある。傷口を洗うために通された洗面所も充分な広さで、ボウルもダブル。廊下も玄関ホールも広かった。2SLDKと言っていたけれど、案内されていない部屋もそれなりの広さだろうから、床面積はうちの三倍以上あるかもしれない。
 とはいえ、元ナンバーワンの住まいと思えば、この部屋は質素な部類に入るのだろう。本来なら、一等地の最高級物件に住めるような人なのだ。

「ガーデンセット出すから、そこ座って待っててね」

 オールマイトがルーフバルコニーに通じる窓を、大きく開けた。広がるのは、ウッドデッキが敷き詰められた開放的な空間だ。もちろん、念願の花火もばっちり見える。

「わあ」

 子どもみたいな声を上げてしまい、慌てて口を覆った。
 そんなわたしに気づいているのかいないのか――おそらくは気づいていて尚気づかぬふりをしてくれているのだろうが――ガーデンテーブルをセットし終えたオールマイトが手招きしたので、わたしもバルコニーに出た。
 と、ひときわ大きな音が上がった。
 割物花火のひとつである冠菊だ。弾けた星が大きな輪を描き、長く尾を引きながら、月の下を通って暗い夜空へ落ちてゆく。まるで月のしずくみたいに。

「きれい」
「本当だね」

 思わずもらした言葉に応じてくれたのは、部屋の持ち主だ。気づけばテーブルの上には木製のボードが置かれ、そこにキャロットラペやパテ、わたしが買ってきたパンなどが、おしゃれに盛りつけられていた。

「あ……すみません。ありがとうございます」
「好きでやってることだから気にしないで」

 声と同時に、パールのような輝きを持つ乳白色の飲み物が置かれた。グラスの中できらめきながら舞い踊るパウダーはとても綺麗だけれど、カクテルだろうか。
 オールマイトのことは信頼しているけれど、さすがにこのシチュエーションでアルコールを入れたくはない。

「……カクテルですか?」
「いや、これはモクテル……ノンアルのカクテルだよ。パールパウダー入りのライチシロップを炭酸で割ったんだ」
「……きれい。それにこの盛り付けもとってもかわいいですね」

 お酒ではなかったことにほっとしながらそう告げると、オールマイトがまた、笑みを浮かべた。このひとの笑顔は、かわいいだけじゃなく、穏やかでやさしくて、そしてどこか温かい。

「ありがとう。私、乙女趣味というか、綺麗だったりかわいかったりするものが好きなんだよね。癒されるし、心も豊かになる気がしてさ」
「ああ。それわかります。わたしもそんな感じです」
「うん、知ってる。そうじゃなきゃここ住まないでしょ」

 たしかに、とちいさくうなずいた。新築とさして変わらない価格の古マンションに住みたがるのは、一部の趣味人だけだろう。

「乙女っぽいものが好きだなんて……おかしいですよね。こんな無愛想なくせに」
「どうしてさ。美しいものやかわいいものが好きなのは、けっしておかしなことじゃないだろ? 特に君みたいな、きれいでかわいいお嬢さんはさ」
「お嬢さんだなんて……わたし、けっこうな年ですのに」
「私からみたら、君は充分に若くてかわいいお嬢さんさ」

 オールマイトはさらりと言ったが、これ、けっこうな殺し文句だ。天下のオールマイトにこんなことを言われたら、たいていの女はどきっとするんじゃないだろうか。
 さすがは元ナンバーワン。きっと、こういうやりとりも慣れているのだろう。真に受けたりしないようにしなくては、と気を引き締めつつ、ちいさく笑んだ。

 花火はまだ上がり続けていた。
 宙空を菊、牡丹、椰子が彩り、蜂や飛遊星が跳ね回る。

「ただ、思っていたよりおてんばさんだったから、ちょっとびっくりしたけどね」

 お転婆って言葉、久しぶりに聞いた。死語なんじゃないだろうか。
 だが、さっきの行動を見られてしまったからには何も言えない。

「返す言葉もありません。本当にお恥ずかしい……助けていただきありがとうございました」
「いや。いいって。久々にいい運動になったよ」
「個性を使わず七階まで飛んで来るのはいい運動どころではないと思うんですが……さすがです」

 ああ、とオールマイトが軽く眉をあげた。

「うちのマンションは、奇数階にルーフバルコニーが設置されている部屋がひとつはあるだろ。緊急時だし、足がかりに使わせてもらったんだ。二〜三階くらいの高さなら今の身体でもジャンプできないことはないからね。ただ、これが十階建てとかだったら、危なかったな」

 つまりは、あの一瞬のうちに二階ずつジャンプして七階までたどり着いたということだ。個性がない、しかもボルトだらけの身体でそこまでできるなんて、やっぱりすごい。

「それよりほら、食材も乾いちゃうし、どんどん食べながら花火を楽しんで。パンは絶対美味しいはずだから」
「いただきます。パンだけじゃなく、このラペもパテもすごく美味しいです」
「それはよかった」

 オールマイトがそういらえた瞬間、空に大きな花火があがった。特大の錦冠菊だ。頭上で開いた大きな菊が、金色の尾を引きながら、ゆっくりゆっくり落ちてくる。
 さっきも思ったが、お月様を背景にこちらに向かって流れてくる金色の尾は、まるで月のしずくみたいだ。

「わあ……」

 またしても声を上げてしまったことに気づいて、視線を泳がせた。テーブルの上にはパールのきらめきを有する美しい飲み物と、美味しいお菜。そして――。
 そして、晴れ渡った空の色をした瞳が、こちらをじっと見つめていることに気がついた。

「なにか?」

 羞恥心を抱いたことを隠したくて、語尾が強くなってしまった。失礼だっただろうかと、様子をうかがうように彼の顔をまた見つめる。と、そこには先ほどとは違う、照れくさそうな笑顔があった。

「ごめん、笑った顔がかわいいなと思ってさ。あっ、いや、深い意味はないんだよ。純粋にそう思っただけ」

 不快だったらゴメンね、とオールマイトがぽつりと言った。頬を染めて、恥ずかしそうに。

「わたし、いま笑ってました?」
「笑っていたよ」
「そうですか。笑っているつもりでも、周りからはまったく笑わないと言われることが多かったので、ちょっと意外です」
「笑おうと思わないで自然に出た笑顔だったからこそ、良かったんじゃない? 私、君の自然な笑顔、とても好きだな」

 さらりと告げられ、胸の奥がかすかにうずいた。
 これはいったいなんだろう。少女でもあるまいし、社交辞令に近いような褒め言葉に、こんなにも心が波立ってしまうなんて。
 だがともかくも、自分の中に生じた僅かな動揺を、目の前の人に気づかれたくはなかった。だから、無表情のまま、会話をつなぐ。

「そんなものでしょうか」
「うん。きっとそんなもんだよ。それよりほら見て、そろそろ佳境だ」

 地響きのような音を立てながら、立て続けに花火があがった。大小さまざまな光が洪水のように空を覆い、まるで昼間のような明るさだ。
 どん、という大きな音と共に、煙の中からまた花火があがる。ひとつが消える前に、またひとつ。

 それぞれが先ほどみた巨大な冠菊のように、長く尾を引いては月夜の中に消えてゆく。月のしずくが流れるように、きらきらと輝きながら。

 しばらくして、ひときわ大きな空砲が鳴った。これは花火の終わりを知らせるものだ。

 すこしもの寂しい気持ちになって、月のしずくの残像が浮かぶ宙を見つめた。
 先ほどから自分の胸に生じ続けている小さなさざなみの正体がなんなのか、わからないまま。

2025.3.16
月とうさぎ