暑さ寒さも彼岸まで、と昔の人は言ったものだが、ここ最近は彼岸を過ぎてもまだ暑い。
とはいえ夕方にはさすがに日差しも緩み、過ごしやすくなってくる。職員室の窓の向こうで初秋の風に揺れているのは楓の葉だ。今はまだ青々としているが、あと二月もすれば見事な紅葉を見せてくれることだろう。
内心でそう独りごち、サーバーからコーヒーを注いで自席に戻る。自分が鼻歌をうたっていたことに気がついて、年甲斐もなくと苦笑した。
私の気持ちを浮き立たせている理由はひとつ、塩月がこの場にいるからだ。司書である彼女が職員室にいるのは、実に珍しいことだった。
「なんだァ。オールマイト。ご機嫌じゃん」
声をかけてきたのは、例によって例のごとくプレゼント・マイクだ。
「今日の特別授業がとても良かったからね。外部から講師を招いた甲斐があったよ」
さすがに本当にことを言うこともできず、そう答えた。今回の特別授業が際立って良かったのも、また事実。
「二年のヒーロー基礎学だっけか? 盛り上がってたもんなァ。俺の授業のときよりバイブス上がってた気がするぜ」
「皆、ヒーローを目指す者たちだ。やはり実地訓練となると生徒たちも熱が入るだろう。そのあたり、君にも覚えがあるんじゃないかい?」
「確かにそうだなァ。しかも今日の講師はビルボードチャート上位のベストジーニストだ。そりゃ盛り上がるってモンだよなァ」
「うん。それに彼は指導がとてもうまいんだよ。私もいろいろ参考になったな」
我が雄英高校の講師陣は一流と呼ばれるヒーローぞろいだが、たまにこうして外部から講師を招くことがある。たいていは今日のような実地訓練だ。
マイクの言う通り、生徒たちの興奮は冷めやらず、授業が終了してからも、質問と称した生徒たちによって、ジーニストの周りにひとだかりができるほどだった。
「多忙な中、快く講師を受けてくれただけでなく、放課後まで指導を希望する生徒たちの対応をしてくれている。あの姿勢には頭が下がるよ」
そう告げてコーヒーを一口飲んだ瞬間、心臓がはねあがった。塩月がこちらに向かって歩いて来たからだ。
「オールマイト先生」
両の口角を一ミリ半ほど上げて、塩月が笑んだ……のだと思う。ただそれだけなのに、ピザにトッピングされたチーズのようにとろけた心地になってしまうのは、実に困ったことだ。
私の心中など気づかぬようすで――まあ気づかれたくはないのだが――彼女が続ける。
「先日は、ありがとうございました」
花のかんばせを目の前に、「どのことだ?」と頭の中で自問した。
もしかして、夏休みに入ってすぐの花火のことだろうか。
いやいや、あれから二ヶ月近くが経過しているし、その間も当然彼女とは会っている。会っているといっても職場やマンション内ですれ違う程度だが、それでももっと早くに言う機会があっただろう。
ともかくも、彼女に礼を言われるようなことをした覚えはなかった。だから素直に首をかしげると、塩月がまた口角をわずかにあげた。
「ビブリオバトルの件です」
「ああ! 一昨日の」
「はい」
ビブリオバトルとは、知的書評合戦とも呼ばれるプレゼン形式のコミュニケーションゲームだ。参加者それぞれが推薦したい本を紹介しあい、最終的に決を採る。そこで「もっとも読みたい本」になった本がチャンプとなるのだ。
先日、我が雄英高校でも学校図書館主催のビブリオバトルが開催された。参加者は主に図書委員会の生徒たちであったが、教師の参加も可とのことだったので、私も「すごいバカでも先生になれる」をひっさげて参加した。
「いやあ、こっちこそ、おおいに楽しませてもらったよ」
「参加した生徒さんたちも、まさかオールマイト先生が来てくださるとは思っていなかったみたいで……。おかげでとても盛り上がりました」
「みんなが喜んでくれたなら良かった。ああいうの初めて参加したけど、楽しいものだね」
微笑みながらそう告げた時、職員室の扉がしずかに開いた。入ってきたのはデニム生地に身を包んだ、背の高いヒーローだ。
「ああ、ジーニスト……お疲れ様」
「維、お疲れ」
私と塩月が同時に声を上げた。
維って誰だ、とほんの一瞬疑問に思い、すぐにそれがジーニストのファーストネームであることに気がついた。
「ああ。美栗」
瞬間、胸の奥底に灼けるような痛みが走った。
このふたり、互いをファーストネームで呼ばなかったか。
愕然としている私に長身の人気ヒーローが会釈をし、次いで彼女に向き直った。
「そうか。美栗はいま雄英にいるんだったな」
「うん。ご縁があってね。今日は維が来るって聞いて、ここで待ってたの。久しぶり」
「ああ………………美栗も元気そうでよかった」
ちょっと待て。なんだ今の間。
塩月は塩月で「待ってた」なんて言ってるし、いつもより口数も多い。
胸の奥に黒い霧のようなものがじわじわと広がっていく。
これはいったいなんなんだ。重苦しく不快で、それでいてどこか熱っぽく、じりじりと胸を焼くような、この不可解な感情は。
別にこの二人が特別な関係であったとしても、私にはなんの関わりもないことなのに。
だが、私の口を突いて出たのは、最後に思ったこととはまったく異なる言葉だった。
「なんだ、君たち。知り合いだったの?」
「ええ、同級生なんです」
「そうなの?」
「雄英のヒーロー科で三年間同じクラスだった。かつてのクラスメイトと母校の職員室で再会するというのは、ややおかしなものだな」
「そうね」
彼女はいつになく楽しそうだ。そう思ったとたん、頭に浮かんだ言葉がぽろりと口からこぼれ出た。
「いくら同級生だからって、名前で呼び合うことはそうそうないだろ」
瞬間、職員室内の空気がピリついた。
ちがうちがう、と、慌てて両手を振った。
そうだ違う。場の空気を悪くするつもりなど、決してなかった。
「その……私の時はそんな感じじゃなかったし、今の子たちも違うように見えるからさ。単純に疑問に思っただけなんだよ。……本当に他意はないんだ」
するとジーニストが軽く片方の眉をあげた。ほんの少しだけ、愉快そうに。
塩月が慌てたように、説明を加える。
「高三の時に流行ったドラマの影響なんです」
なんでも彼女たちが高校生の頃、雄英のヒーロー科をモデルにした学園ドラマがあったらしい。その最終回で主人公が「社会に出たらいやおうなしにヒーローネームで呼ばれるだろう。だから同期の仲間うちではファーストネームで呼び合おう」と提案したと。
当時高校生だった彼らはそれに影響され、以来、クラス全員が名前で呼び合うようになったという。
ヒーローとしての意識を持つために、高校時代からヒーロー名で呼び合うというのはよく聞く話だが、正直、逆は初めて聞いた。
けれどまあ、若い頃というものは、メディアに影響されることもままあることだ。
「じゃあ、今でも全員がファーストネームで呼び合ってるってわけ?」
「さすがに任務中や民間人の前ではやらないが……」
「仲間内の飲み会なんかだと、みんな名前で呼び合っていますね。ですがここは職場なので、少々不謹慎でした」
すみません、と塩月が頭をさげる。いや違うんだ。君を責めたかったわけじゃない。ただ私は――。
と内心で呟いて、はっとした。「私は」の次に脳裏をよぎった言葉と、先ほど己が抱いた感情がなんであるかに気づいたからだ。けれどそれを口に出すわけにはいかない。
「いや、こちらこそ悪かった。今は生徒たちもいないし、普段通りでかまわないよ。私の方こそ、妙なことを口走ったりしてすまなかったね」
かろうじてそう告げて、ベストジーニストに視線を投げる。と、なぜか彼は愉快そうに、小さく目を細めた。
「いえ……。オールマイト先生が謝ることでは……」
塩月がすまなさそうに目を伏せる。
ああ、そんな顔をしないでくれ。頼むから。
そう内心で呟くと同時に、胸の奥がちくりと痛んだ。
「維もゴメン」
「いや、それを言ったら私も同罪だろう」
「でも先に名前で呼んじゃったのはわたしだからさ。……今日は元気そうな顔を見られて良かった。じゃ、またね」
「なんだ。本当に顔を見にきただけなのか。相変わらず君はあっさりしてるな、塩だけに」
まあね、と答えて、塩月がきびすを返した。ベストジーニストも、それ以上彼女を引き留めるようなことはしなかった。私もそのあっさりした感じに少しほっとしながら、彼女が去るのを見送った。
「オールマイト」
と、ジーニストが視線をこちらに向けた。
「なんだい?」
クス、とベストジーニストが笑った。
彼は黙っていても美男子だが、こうしてやわらかく微笑むとますますいい男だ。塩月が待ってまで会いたかったというのもうなずける。
そう感じた瞬間、胸の奥がまた、ずくりと痛んだ。
「我らの平和の象徴は、存外わかりやすいようだ」
「わかりやすいって、なにが?」
「ご自身で気づいていないならそれで結構。ところで、このあと少しだけ時間をもらえるだろうか?」
「時間?」
「あなたと、少しばかり込み入った話がしたい」
そう告げたジーニストの瞳は、もう笑ってはいなかった。
*
「込み入った話ってなんだい?」
邪魔がはいらないほうがいい、とのジーニストの言葉に、私は外ではなく校内の仮眠室を選択した。緑谷少年とさんざん込み入った話をしてきたこの場所は、大切な話をするにはもってこいだ。
「美栗は今でもあんな感じなのか?」
私が差し出したお茶を一口飲んでから、ジーニストが静かに問うてきた。
「あんな感じって?」
「話している間、彼女はまったくといっていいほど笑わなかった」
「いや笑ってたよね。ほんの僅かにだけど」
いや、と応えて、ジーニストが湯飲みを茶托にそっと置いた。
こうした仕草ひとつとっても、いちいち絵になる。彼はヒーロー界でもトップを争う実力者だ。しかも顔やスタイルがいいうえに肝も据わっているし、性格も良ければ面倒見もいい。かなりの人格者でもある。アラフォーの男盛りだし、なにより彼女と年もつり合う。
ベストジーニストがまた、口唇を開いた。
「ああいう無理に口角を引き上げるような笑い方ではなく、本当の笑顔を見せることは、もうないのだろうか」
「……ってことは、昔はもっと笑ってた、ってことだね」
「昔はああじゃなかった。もっと……大輪の花がひらくように笑う子でしたよ。あの一件までは。……記憶もまだ戻っていないのでしょう?」
「……君、ソルティのこと、どこまで知ってるの?」
「おそらく、あなたよりずっと詳しいことを。私は当時の彼女を実際に見てきたので」
彼女が記憶の一部を失っているということは、私も知っていた。採用時にそれについての協議もされたが、失われた記憶は司書の業務には支障のない部分だったので、彼女は無事採用となった。
「記憶は戻っていないようだよ。でも生活や今の仕事には支障がないようだ」
「……そうだろうな」
含むような言い方だった。まったくもってジーニストらしくない。いつもの彼ならば、もう少しはっきり、そして鋭く、まるでゼロコンマ数ミリの間を縫い止めるファイバーのように正確に、話題に切り込んでくるはずだった。
「ジーニスト、言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれないかな」
うむ、とジーニストがうなずいた。
「これは本来なら極秘デニムなのだが……」
「極秘デニムて」
「まず誤解なきよう先に言っておくが、私と美栗はただの友人であり、お互いに特別な感情を持ったことなど一度もない。むしろ彼女より、彼女の恋人だった男のほうが親しかったくらいだ」
恋人、と内心で復唱し、息をついた。胸に大きな穴が空いたような気がしたからだ。だがそれを表に出すわけにはいかない。だから平静を装って、言葉を紡ぐ。
「その恋人とやらも、雄英の同級生だったのかい?」
「いや。彼は士傑だった。だが卒業してすぐ行われた合同捜査がきっかけで仲良くなってね。以降深い交流があった……親友だったよ。あなたも知っていると思う。ブランダーバスだ」
そのヒーローなら確かに知っている。狙撃系の個性を持ったヒーローで、東京を拠点に活躍していた。人柄のいい男であったと記憶している。
「そうか。彼女はブランダーバスとつきあってたのか……。待ってくれ、……ってことは」
「そうだ。八年前に亡くなっている。美栗との共闘のなかで」
そしてジーニストは、八年前の出来事の詳細を語り始めたのだった。
*
「……ジーニスト。今の話、他の人間には……」
「もちろん、他の誰にも話していない。ごく近しい人間しか知らないことだ」
「そうか……」
ほっと安堵の息をついた。噂話のひとつとして話していい内容とは思えなかったからだ。
「だがなぜ、それを私に?」
「あなたなら美栗を救えるのではないかと思った。なにせあなたは最高のヒーローだから」
ジーニストは救うという言葉を使ったが、それがヒーロー活動において使われているものとは少々ニュアンスの異なるものであることは、私にもわかった。
「いや……そう言ってもらえるのは光栄だけど、それは難しいんじゃないかな。そもそも、ソルティはそういった意味で私に助けてもらいたいとは思っていないだろう」
「しかし、あなたは救いたいと思っているのでしょう?」
図星を突かれ、答えにつまった。たしかにその通りだ。救えるものなら救いたい。
けれど今の塩月に対して、私ができることなどあるのだろうか。
「あなたは今までご自分のすべてをかけて、世のため人のために生き、平和の象徴であり続けた。けれどあなたも、誰か特定の人のために生きることがあってもいいのではないかと、私は思う」
「待ってくれ。それじゃあまるで、私が彼女を好いているみたいに聞こえるよ」
「実際、そうでしょう」
確かにここ最近の私は彼女のことばかり考えている。姿が見えれば目で追ってしまうし、声が聞こえれば耳をそばだててしまう。話ができれば嬉しいし、近くに来ると鼓動が早まる。彼女のことを想うだけで一喜一憂し、こんなにも特定の誰かの心情を案じ、存在を大切に感じ、そして幸福になってもらいたいと願ったのは初めてのことだ。
「いや、違うって」
「先ほどは、私に嫉妬していたようだが?」
「まさか。そんなんじゃないよ」
応じた声がかすれてしまった。これではジーニストの指摘を、暗に肯定しているようではないか。
私の動揺と葛藤を見透かしたように、ジーニストが軽く目を細めた。
なんということだ。今までどれほど強大な敵と対峙しても、己の中に生じた動揺を、相手に悟られることなどなかったというのに。
オールマイト、とジーニストがやわらかく笑みながら続ける。
「私はあなただから話した。これからどうするかはあなたの自由だ。ただもう一度言うが、皆を救けるヒーローが誰かひとりのヒーローになることがあったとしても、決しておかしいことではない」
包み込むように柔らかな声に聞き入りながら、視線を窓の外に向けた。すでに陽は落ち、周囲は闇に包まれている。
記憶をなくした時の彼女の心情は、この闇のようだったのだろうか。そう考えただけで、心が張り裂けそうになる。
貝が体内に入り込んだ異物を有機物で包み真珠を作るように、塩月は自分の中のうつくしく幸福な時間を、悲しみの殻の中に閉じ込めてしまった。
そんな彼女に対して、私にできることがあるだろうか。
己に問いかけたところで、答えなどすぐに出るわけもなく。
私は小さく息をつき、仮眠室のカーテンを、静かに引いた。
*
ジーニストを見送ってから、校舎のセキュリティを再確認して外に出た。
まっすぐに駐車場に行けばいいものを、足は学校図書館へと向かってしまっている。時刻は九時を少し回ったところ。とうに彼女は帰宅したことだろう。
内心で呟きながら視線をあげて、どきりとした。
学校図書館の前には、小さな植え込みがある。小さな電灯の下で、ぼんやりと浮かび上がっているのは淡橙色のエンゼルトランペットの大きな花だ。そしてその花の前に、やや青ざめた塩月が立っていた。
「ソル……」
と、その名を呼ぼうとした時、大粒の真珠が彼女の頬を伝った。
いや、と内心で首を振る。電灯の光に照らされてそう見えただけ。あれは真珠ではなく、涙だ。
しずかに塩月は泣いていた。下向きに咲く天使のラッパのような美しい花を見つめながら。
声をかけたかったが、なぜかできなかった。彼女の姿があまりにもかなしく、けれどうつくしかったから。
彼女はしばしの間声も出さず泣いていたが、ふいに淡橙色の花に手を伸ばした。目の端に真珠を一粒乗せたまま。
そうして彼女は花をぐっと引き寄せて、自らの唇を花弁に寄せた。
「だめだ!」
反射的に、身体が動いた。
彼女の元に駆けより、花に触れていたその手を掴む。
驚愕した塩月が、大きく目をみひらいた。
「エンゼルトランペットには毒があるんだ。花にも葉にも、樹液にも」
えっ、と小さな声が聞こえて、彼女が花から手を離す。
「樹液が目に入ったら失明することもあるし、口に入っても大変なことになるよ。多くはないが、誤食での死亡例もある」
「……そうなんですか」
知らなかったです、とうつむいて、彼女は続ける。
「とてもいい香りだったので」
「あっ、もしかして、匂い嗅ごうとと思っただけ?」
「はい」
「ゴメン。ちょっと勘違いした」
「いえ。教えていただけて良かったです」
そう答えた彼女の頬には、こぼれた真珠――涙の後が一筋残っていた。それにはあえて触れないようにして、私は必死に別の話題を探した。
「……ところで、いつもこんな時間まで残っているのかい?」
「いつもではありませんが、司書の仕事はけっこうありますので、持ち帰ることや残業も多いんです」
そういえば先日のビブリオバトルの準備は、彼女がひとりでやっていた。それだけでなく、私が把握している本に関する仕事だけでも、選書、発注、蔵書の整理、カバー貼りなどがある。我々教師が知らない業務も入れれば、おそらくもっとだ。
「そうだったのか。バイトになるだろうけど、人員を増やせないか上に掛け合ってみようか?」
「そうしていただけたらありがたいです」
ぽつりと塩月が答えた。相変わらず、淡々とした表情と声。
けれどこの人の中には、本人ですら知らない深い感情が、核となって存在している。少しいびつな、けれど独特の光沢と美しさを持つ、バロックパールのようなかなしみ。
そう思ったら、愛しさがあふれてとまらなくなった。
私はこの人が好きだ。心の底から守りたいと思う。
きっとこれが、恋というものなのだろう。
もちろん、具体的な行動を起こすつもりはない。自分の気持ちを伝える気もない。
塩月はおそらく私を嫌ってはいない。尊敬されているようなふしもある。けれどヒーローとして尊敬されることと、異性として恋情を抱くことの間には、かなり大きな隔たりがある。
こんな老いぼれに想いを寄せられたところで、彼女にとっては迷惑なだけだ。
けれど塩月。善き隣人、善き同僚として接することなら、君は許してくれるだろうか。
「この時間に一人で帰るのは危ないよ。どうせ同じ建物に帰るんだし、よかったら一緒に帰らないか?」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
「えっ?」
「なにか?」
「いや。いつも一度は断られるからさ。次の誘い文句を考えていたところだったんだ」
すると塩月は小さく目を細めた。それは彼女をよく見てきたからこそわかる、しごく微かなほほえみ。
「どんな誘い文句か、聞かせてもらっても?」
「いや。それはナイショだ。次回に持ち越させてもらうことにするよ」
「あら、では次にお誘いいただけた時は、お断りしなくてはなりませんね」
また誘ってもいいということなのか、それともただの社交辞令なのか、こういった経験に乏しい私には判断がつかない。
「そうか。そういうことになるな。できれば次もすんなり了承いただきたいものだけどね」
だからどちらともとれるよう、けれど次を匂わすような言葉を交え、微笑みかけた。それに対して、彼女はまた、ほんの僅かに口角をあげただけだった。
「でもさ」
雄英高校の敷地は広い。駐車場までの道すがら、間が持たなくなるのが怖くて、私は語り続ける。
「君が雄英卒なのは知っていたけれど、ジーニストと同級生だったなんて知らなかったよ。みんながファーストネームで呼び合うなんて、よほど仲のいいクラスだったんだね」
「そうですね。今でもたまに集まりますよ。卒業後は皆が一旦ヒーローになりましたし」
ふと、塩月が寂しげに目を伏せた。
「といっても、同じクラスで現在ヒーローをしているのは、維の他にはもう数人しかいません。みな心を折られたり、負傷したりしてやめていった……なんて、それはわたしも同じですが」
「私が君の年齢の時も似たようなものだったな。ヒーローは危険が伴う職業だから」
仕方ないことなのかもしれないね、と続けようとして、慌てて言葉を飲み込んだ。
塩月は個性が使えなくなり活動を停止した。それだけでなく、大切なひとを失っている。本人に記憶がないとはいえ、仕方ないなどと、口にしていい言葉ではない。
「でもこれからは、きっと変わるよ。なにせ公安のトップが目指しているのが『ヒーローが暇をもてあますくらい平和な社会』だからさ」
「ホークスですね。彼は若さに似合わぬ慧眼の持ち主だと思います。公安の秘蔵っ子だと聞いていますが、どれだけ苦労したらあれほどまでの人物になれるのか……」
「まあ、人にはいろいろあるよ」
君にもね、と、心中でつぶやいた。
先ほどのジーニストの話を思い出しながら、本当に、今の君を形成したのはどれほどの悲しみだったのだろう、と。
「オールマイト先生。どうかされました?」
車の前まで来ていたにもかかわらず、自分の世界に入り込んでいた私に、塩月が不思議そうな顔を向けた。
「……いや。良ければ、軽くなにか食べていかないか? 私、胃袋がないからさ、量が食べられないぶん一日の食事の回数が多いんだよね。この時間だからファミレスとかになっちゃうけど……どう?」
「それはいいですね。実はわたしも、お腹すいたなあって思ってました。あ、さっきの話の流れから言って、ここは一度断るところでしたね」
「いやいや、一度で承諾してくれてありがたいよ。じゃあ、行こうか」
車のドアを開けて、彼女を中へといざないながら、心の中で小さくつぶやく。
そのバロックパールのような悲しみの核ごと、私は君を愛するよ。決して見返りなど求めることなく。
2026.3.28