五 ドロップ

 バス停から自宅マンションまでのほんの短い道のりの間に、エンゼルトランペットを植えているご家庭がある。うかつなことに、つぼみの時期になってはじめて気がついた。
 エンゼルトランペットは不思議な花で、つぼみの時は黄色なのに咲いた花は白やピンクやオレンジ色だったりとさまざまだ。なので咲くまで気が気ではなかったのだが、咲いた花は幸いにして白だった。
 なぜそんなにも一植物を気にするのかといえば、わたしはエンゼルトランペットを見るとむしょうに悲しくなってしまうからだ。
 白やピンクの花は平気なのに、薄橙色のものだけはどうしてもだめだった。
 悪いことに、我が校の図書館の前にはその薄橙色のエンゼルトランペットがある。できるだけ見ないようにと思うのだけれど、なぜだか花がひらくと我慢ができず、近くに寄ってはしみじみと眺めてしまうのだった。

 悲しくなるだけなのに。
 ひどいときには涙がこぼれてしまうのに。

 先月は花を見て泣いているところを、オールマイトに見られてしまった。きっと彼は、わたしが泣いていたことに気づいただろう。
 そのせいだろうか、その時は帰り際に食事に誘われた。といっても、彼にふさわしいような高級店ではなく、全国展開しているファミリーレストランだ。
 つまりは色気もなにもない、気軽なお誘い。ただの同僚としての、ただの食事だ。

 レストランで泣いていた理由をたずねられるかと身構えていたが、オールマイトはそれについては一言も言及しなかった。大人ならではの気遣いだ。それがとてもありがたかった。


 白いラッパ状の花の前を通り過ぎながら、わたしは彼と過ごしたファミレスの夜――こんなふうに言ったらなんだか意味深だ――を思い出していた。

***

「名前の呼び方といえばさ」

 と、包み焼きハンバーグを優雅に切り分けながら、オールマイトが口唇をひらいた。
 高校時代の同級生同士でファーストネームを呼び合う風習の、話題が終わったすぐあとに。

「ビブリオバトルの時に気がついたんだけど、生徒たちは君のことをソルティではなく、塩月先生って呼ぶんだね」
「そうですね。生徒たちはわたしの現役時代を知らないからだと思います」
「ああそうか。君が活躍していた頃、彼らは小学校の低学年だもんね」
「はい。覚えていなくて当然かと」

 これは自虐でも何でもなく、ひとつの事実だ。なにせ当時はヒーロー飽和社会。新たなヒーローが生まれては消えていった。特にわたしはメディアへの露出やファンサービスもほとんどしていなかったので、子どもたちに広く知られるほどの存在ではなかったのだ。

「なんか……ゴメン。変なことを聞いてしまったね」

 いいえ、と一言で答え、またしてもそっけない言い方になってしまったことに気づいて、慌てながらふたたび口唇をひらく。

「それにわたしはもうソルティとして活動はしていないので、生徒たちに塩月と呼ばれることには抵抗がないんです」
「……もしかして、私も君を塩月先生と呼んだ方がいいかい?」

 オールマイトが骨張った肩と太い眉をがくんと下げた。ああ、また言い方を間違えた。

「いえ、先生方も塩月先生と呼ぶ人と、ヒーロー名で呼ぶ人と半々ですから……」
「言われてみると、確かにそうだね。セメントスや相澤くんは君を本名で呼ぶし、私やプレゼント・マイクはソルティって呼んでた」
「はい、ですからお好きに呼んでいただいてかまいません」
「……じゃあ、美栗とか?」

 いきなりファーストネームを呼ばれて、どきりとした。
 維たち同級生に呼ばれる時にはなにも感じないのに、なぜだろう、とても甘やかな気分になってしまった。
 相手は職場の同僚……いや上司に近い立場の人だ。そんな相手にファーストネームを呼ばれることは、抵抗があってしかるべきはずなのに。
 今の問いに「はい」と答えていいものかどうか、どきどきしながら考えていると、オールマイトが少し照れたように「ナーンツッテ」と言って、笑った。

 驚いた。オールマイトもおじさんじみた冗談言うんだ。
 でも、それはそれとして、と内心で呟いた。
 オールマイトとして活動していた時の彼の声は、もう少し張りがあったように記憶している。けれど今の声は張りがないかわりに落ち着いていて、少しかすれている。それが、なんだか色っぽい。
 このセクシーな声で、今のような「なんちゃって」ではなく、きちんと名を呼ばれるのは、いったいどんな気分だろうか。
 オールマイトは女性からの支持も厚く、熱狂的なファンも多い。つまりはモテるということで。
 今までもあの声で名を呼ばれた女性は、おそらく大勢いるのだろう。
 うらやましい、と心中で呟いてしまった自分に驚いて、眉を寄せた。見も知らぬその人たちに羨望を抱いてしまうなんて。

「ごめん。悪い冗談だったね」
「いいえ」

 また一言で返してしまい、ひそかに後悔した。もともと口下手なことは自覚している。けれど、このひとの前にでると、それがますます顕著になる気がする。
 その理由はなんとなくはわかっているが、きちんと向き合う勇気を持つことはできなかった。

***

 これが、あの日わたしたちがかわした会話だ。その後も食事をしながらちょっとした雑談……たとえば今住んでいるマンションのどこが一番気に入っているか――などかわした覚えがある。

 黒いアイアンが映える自宅マンションを見上げながら、また、ちいさくため息。
 ため息をつくたびにしあわせが逃げる、と言ったのは誰だっただろうか。真偽の程はわからないが、最近のわたしは、オールマイトのことを考えるたびため息をついてばかりだ。

 最上階のあそこがわたしの部屋で、そのとなりがあのひとの部屋。
 彼はもう帰宅しているだろうか。日々疲れているだろうから、ゆっくり休んでいてもらいたい。そうは思うけれど、かの人が学校の仕事のほかに、更新の育成や復興のために、西へ東へと飛び回り活動していることを、わたしは知っている。
 もしかしたらほとんど休めていないのではないだろうか。胃袋と片方の肺のない、関節にボルトだらけの身体を押して。
 そう思うだけで、胸の奥がきりりと痛む。

 モザイクタイルが貼られたアプローチを抜けて、エレベーターホールへ出る。その間にもずっとオールマイトのことを考えている自分にあきれてしまう。

 それだけでなく、あの花火の日以来、オールマイトに会うと妙に意識してしまう自分がいる。
 この感情がなんなのかよくわからない。おそらくは、助けてもらったことからの吊り橋効果の一種であろうが。

 そもそも、わたしは恋人のことだけをきれいさっぱり忘れてしまうような、そんな薄情な女だ。恋なんてできるはずがない。そんなことが許されるはずがない。そう思ったとたん、胸に小さな疑問が生まれた。

 わたしは、許されたいのだろうか。だとしたら、いったい誰に?

 ふと頭にわいた疑問をかき消すように頭を振って、自宅の鍵をあけた。白とグレージュで統一された玄関ホールは、そう広くはないが、やはり落ち着く。ホッとしながら扉をあけて、ドレッシングルームで手を洗い、廊下に出た。
 廊下の左手には寝室、正面はリビング。この部屋のなにが気に入ったって、リビングと寝室を隔てている壁に設えられた内窓だ。リビングから寝室を、そして寝室からもリビングを望める小窓が六面もついている。
 真っ白な壁にアイアンの黒枠がいいアクセントになっていて、とてもかわいい。
 キッチンスペースに並行して備え付けられているのは、壁にチャコールグレイのアクセントクロスがあしらわれたバーカウンターだ。ここで本を読むのが、わたしの日課のひとつでもある。
 一部古いままのところもあるけれど、水回りは内装と設備がすべてリノベーションされている。この部屋はかわいくて暮らしやすい、わたしのお城。
 そういえば、オールマイトはフルリノベしたと言っていた。
 ツーボウルの洗面台やビルトインオーブンまで設えられた立派なキッチンや、広々としたルーフバルコニー。
 花火の日、バルコニーの椅子に長い手足をもてあますようにして座っていたオールマイト。彼はあんなにもかっこいいのに、どこかかわいい。

 まただ、と、またもやオールマイトのことを考えてしまった自分に気がついて、ちいさく息をついた。
 この気持ちは、すでに尊敬と呼べるものではなくなってきているように思う。けれどきっと、恋ではない。憧れじみた感情だ。そもそもオールマイトにはみんなが――殊に我々ヒーローは――大なり小なり憧れを抱いている。だからきっと許されるだろう。憧れを抱く程度なら。

 そこまで思って、わたしはふたたび「いったい誰に対して許されたいと思っているのだろうか」と考えた。
 好きになった人の存在そのものを忘れてしまうような薄情な女に、恋をする資格がない、というならわかるし、実際、自分でもそう思う。
 けれど許されるかという発想になる理由も、それが誰に対してなのかもわからない。
 もしかして、亡くなった恋人に、だろうか。

 ふう、とまた息をついて目線を下げた先で、真珠のブレスレットが揺れていた。どうしてか、身につけていないと落ち着かないアクセサリーだ。
 柔らかな光を湛える白く美しい真珠は、古代から月のしずく、人魚の涙、女神の涙、と人々に称されてきた。しずくもまた涙を連想されるもので、つまり真珠は、涙の象徴でもある。

 自分で買ったとばかり思っていたけれど、もしかしたらこれは、亡くなった『彼』からの贈り物かもしれない。

 そう思うようになったのは、オールマイトに憧れじみた想いを抱き始めてからだ。だからそれと同時に、『彼』に対する罪悪感も強まっている。

 好きだった人のことや、共に過ごせた日々を思い出せたらいいのに。ブランダーバスという『彼』のヒーローネームを聞いても、なにひとつ思い出せないなんて。
 せめて『彼』のために泣けたならもうすこし楽になれるだろうか、などと手前勝手なことを考えて、そんな自分を嫌悪した。

***

「おや? ソルティ? 今帰りかい?」

 秋も深まってきたある日の夕方、昇降口で背後から声をかけられた。低いのに甘やかで、落ち着いているのに明るいこの声の主を、わたしが違えるはずもなく。

「はい。オールマイト先生も?」
「うん。今日は早く終わったからさ、たまには定時に帰ろうと思って」
「わたしもです。補助で入った司書の方がとても仕事が速いので」
「そうなのか。それは良かった」

 オールマイトがかけあってくれた甲斐あって、優秀なひとが入ってくれた。非常勤の司書は別の施設との重複配置になることも多いのに、単独配置なのも助かるポイントのひとつだ。しかも経験者で、前出したとおり仕事も速い。
 そもそも国立高校の職員が年度途中に増員されることなどあまりないのに。さすが平和の象徴。その二つ名は伊達じゃない。

「すべてオールマイト先生のおかげですわ。ありがとうございます」

 深々と頭を下げると、オールマイトは「やめてよー」と声をあげた。手をぶんぶんと振る、その姿がおちゃめでかわいい。
 思わず口元を緩めていると、彼がちいさく咳払いをして、続けた。

「どうだい? 定時あがり組どうしで、夕飯を一緒にというのは」

 どきり、と心臓が跳ねた。もちろん、こちらとしては大歓迎だ。
 けれど、オールマイトは軽い気持ちで誘ってくれているのに違いない。あまり食いつきすぎたら、引かれてしまいそうだ。

 どう返そうか、と、少し迷って、いつも通りでいいのだと思い直した。褒められたことではないが、わたしは愛想がないことには定評がある。

「割り勘にしていただけるなら」
「えええ……。君、ファミレスの時もそうだったよね。私、けっこう古いところがあるから、女性にお財布を出させるのにすごく抵抗があるんだけど……」
「それでもです」

 オーケー、とオールマイトがおおげさに肩をすくめた。アメリカナイズされたそんなしぐさも、このひとにはよく似合う。



「君はなにが食べたい?」

 車に乗り込んだと同時に、そうたずねられた。

「食べたいというか……行きたいお店でもいいですか?」
「かまわないよ」
「近くにかわいい喫茶店があるんです。あ、喫茶店のフードだと足りないでしょうか?」
「いや。私は胃袋がないからね。一度にたくさんの量が食べられないんだ。だから足りないということはないよ。ところで、君の言うかわいい喫茶店っていうのは、国道沿いにあるレンガ造りの洋館かい? 壁にステンドグラスのある」
「さすが、チェックされてたんですね」

 もちろん、とオールマイトが得意そうに胸を張ってから、エンジンをかける。だからいちいちかわいいってば、と内心で呟いて、だが表面上はちいさくうなずくに止めた。
 オールマイトがシフトレバーをチェンジして、ゆっくりと車を発進させる。

「あそこさ、店構えがかわいいだけじゃなく、何頼んでも美味しいし、カップを選ばせてくれるのもいいよね」
「はい」

 そんなたわいない会話をするうちにも、車は駐車場を出て、国道を進んでゆく。少しして、かわいらしいレンガ造りの建物が見えてきた。



 通されたのは、ステンドグラスの真下にあたる席だった。

 オールマイトはイタリア製の磁器で――オーストリアの女帝のためにデザインされた柄の復刻版だ――コーヒーを、わたしは白地にピンクの薔薇がガーランド状にプリントされたイギリスのカップで紅茶を注文した。
 フードは彼がカレーでわたしがナポリタン。喫茶店の定番だが、この店では、どちらもとても美味しい。

 ところが、ナポリタンを食べ始めたとたん、後悔の念に襲われた。
 いや、味は美味しくて最高なのだけれど、問題はこちらのほうにある。油断すると、ケチャップが口の周りについてしまうではないか。
 これはあまりに美しくない。うっかりしていた。オールマイトのまわりの女性は、もっと美しく食事をするひとばかりに違いないのに。

「どうかした?」

 口元を汚さぬよう細心の注意をしてナポリタンをたいらげていたわたしに、オールマイトが怪訝そうにたずねてきた。まさかケチャップで汚れるのが気になってしかたない、などという間抜けなことは言えない。だから「いいえ、なんでもありません」とだけこたえ、さりげなくペーパーで口元を拭いた。口紅が落ちてしまうがしかたない。見苦しいよりずいぶんましだ。

「そういえば」

 と、最後のひとくちを飲み込んで、わたしは話題を変えた。

「花火を見た時、パールパウダー入りのシロップを出していただいたじゃないですか」

 ああ、と軽く眉をあげ、オールマイトがカレーのスプーンを置いた。前から感じていたことだが、彼は食べ方が綺麗だ。おしぼりで顔を拭いたりもしない。平和の象徴と呼ばれるにふさわしい品位を、このひとは充分すぎるほど持ち合わせている。
 そんなひとの前でケチャップまみれのおくちを晒すようなことにならず本当によかった、と思いながら、言葉を紡ぐ。

「同じメーカーからリキュールも出ているんですよ。シロップとリキュールの両方を購入して、たまに飲んでます。細やかなきらめきととろりとした形状が、本当に真珠を溶かしたみたいで素敵ですよね」
「そうなんだよ」

 オールマイトが嬉しげに目尻をさげた。自然、目元には皺が寄る。この人が大切に年齢を重ねてきた証だと思うと、その皺すらもが愛おしい。

「君、いつも真珠のブレスレットしてるだろ? だからさ、ぴったりだと思って出したんだよ。気に入ってもらえたならよかった」

 わたしがいつも真珠を身につけていることを把握されていたのは意外だった。それだけよく見てくれているということだろうか、と自分に都合のいいことを思いかけ、職業柄観察眼が優れているだけだ、と思い直した。
 オールマイトがわたしのことをよく見ているだなんて、そんなはずはない。
 そんなわたしの思いなどまったく気づかぬようすで、にこやかに彼は続ける。

「あのシリーズ、ほんとうに綺麗だよねえ。君が言ったとおり、真珠を溶かして飲んでるみたいな気分になるし」

 ええ、と答えてカップを手に取って、紅茶を飲んだ。
 次の言葉を探したが、どうにもうまいセリフが出て来ない。焦れば焦るほどだめだ。もっと話したいと思っているのに、完全に会話が途切れてしまった。
 互いの間に沈黙が流れた。

「そうそう、真珠といえばさ。このステンドグラス」

 と、新たな会話を見つけてくれたオールマイトが、壁を指した。
 黄金の冠をかぶった、有翼の女神の絵柄だ。二頭の白馬が引く銀の戦車に乗っている。女神の周りにちりばめられたしずくの形をした白い珠が、とてもきれいだ。

「海外の神話をモチーフにしているんだよね。これについてはたぶん君の方が詳しいと思うけど」
「月の女神ですよね」
「そうそう。さすがだね。で、まわりにあしらわれている白い珠、これしずくみたいだけど真珠で、女神様の涙をイメージしているらしい」
「涙、ですか。戦車に乗って勇ましい感じですのに……学術的に深い意味があるんでしょうか?」
「うーん。どうだろう。真珠は涙の象徴だからじゃない?」

 そのあっけらかんとした調子がおかしくて、笑いそうになってしまった。このひとはとんでもなくすごい人なのに、たまにライトなノリになる。そんなところもかわいくて。

「この女神様さ、君に少し似てるよね」
「ええっ?」
「あ、ゴメン、いやだった?」
「いえ、嫌ではないです。むしろ光栄というか……なんか照れくさいですね」
「えっ、あ……そうか。そうだね。私も今ごろになって気恥ずかしくなってきたよ」

 言うほど照れてもいない様子で、オールマイトが自身のカップを取って唇に寄せる。流れるようにスムーズで、優雅さすら感じられる、その仕草。
 それを見て、やっぱり女性慣れしているんだなあ、と、落胆してしまった自分が、とても嫌だった。
 なにを考えているの、と自戒の言葉を内心で呟いて、視線をオールマイトの口元から斜め上へと移動させる。
 そして、はっとした。

 金色の髪の間からのぞく彼の耳が、赤く染まっている。
 平静を装っているが、このひと、もしかしたら本当に照れているのかもしれない。

 それをかわいいと思ってしまった瞬間、今まで抑え続けていた感情が一気に膨れ上がった。

 どうしよう。わたし、このひとのことが、本当に好きだ。

 一度自覚してしまったら、もうだめだった。これは尊敬でも、憧れでもない。
 オールマイトを想う気持ちが、次から次へとあふれ出てくる。

 どうしたらいいのだろう。こんな気持ちを抱くことが、許されようはずはないのに。

 そう内心でつぶやいた時、水の入ったグラスについていた水滴が、しずくとなって伝って落ちた。まるで、涙が流れるように。

2026.4.2
月とうさぎ