3 青き月のワルツ

 お正月もすぎ、この家での生活にもすっかり慣れた。
 ママと俊典さんは、いまだに結婚式のことでもめている。

「34歳にもなってウエディングドレスなんか恥ずかしくて着られないわよ」
「なにが恥ずかしいんだい? よくわからないよ。それに私は君のウエディングドレス姿を見たいんだ」

 俊典さんの言い分ももっともだ。今は三十代の花嫁さんも増えたと聞くし、ママは年齢よりずっと若く見えるんだから、そんなこと気にしなければいいのに。
 そして俊典さんは拒絶されても全然諦めるようすがない。
 結婚情報誌やウエディングドレスのカタログを山ほど買い込み、ママの前にひろげ続ける。

「こんな教会なんてどうだろう? 内輪だけならかまわないだろ? 披露宴はしないで、式だけとか」
「だからもうドレスは無理だってば」
「そんなことないよ。でも神社で和装っていうのも素敵だね」
「白無垢だって無理があるわよ」
「君は何を着ても綺麗だよ」
「もう、そんなこと言ったって駄目だからね」

 そこでたいてい俊典さんが後ろからママを抱きしめて、耳元で何やら囁いて終わる。
 そう、もめているというよりも、この二人は結婚式をダシにイチャイチャしているだけなのだ。
 なんていったらいいのかな、こういうの。そう、バカップル。
 我が家の大人たちの様子を表現すると、その一言に尽きる。冬だというのに、暑苦しいことこのうえない。

 こういう時、幸せそうでいいなと思う反面、胸が苦しくなることがある。
 理由は、自分でもよくわからない。わからないけれど、胸がじくじく痛くなる。

 でもママは最近きれいになった。
 もともと美人だったけど、そうじゃなくて、内面から光輝くような美しさだ。女の人は愛されると綺麗になるというけれど、きっとそれは本当なんだ。

「ただいま」

 胡蜂が走り込みから帰ってきた。胡蜂は俊典さんにトレーニングメニューを作ってもらい、それに従い身体を鍛えている。
 おっさん呼ばわりは変わらないけれど、男二人の距離は確実に縮まっていた。

「あいつ、すごいやつだよな」

 トレーニングウエアを脱ぎながら、胡蜂がぽつりと漏らした。

「すごいひとだよ。前から言ってるじゃん」
「……そういうことじゃねえよ」
「じゃあなあに?」
「いや、やっぱいい」
「なにそれ!」

 胡蜂はわたしの知らないなにかを知っているのだろうか。
 ふたりが仲良くなってきたのは嬉しいけれど、なんだかちょっとさみしい気もする。最近のわたしはどうもおかしい。
 まるで自分が家の中心でないと気がすまない、わがままな幼子のようだ。

***

 学校から帰ると、俊典さんがリビングのソファでくつろいでいた。平日の夕方にこのひとが家にいるのは、大変珍しいことだった。

「あれ? 今日はお仕事お休みですか? ママは?」
「うん、休み。最近なかなか休暇を取れなかったからね。ゆかりは美容院」

 ということは、ママと胡蜂が帰ってくるまで俊典さんと二人なんだ。なんだかちょっとドキドキする。

「おやつでも作ろうかな。このみちゃん、パンケーキ好きかい?」
「大好きです」

 驚くべきことに、俊典さんは料理もうまい。はっきり言ってママよりもずっと上手。
 美味しくて色取りも綺麗な、こじゃれた料理をさらっと作ってしまう。たぶんこのひとは、この家の中で一番女子力が高い。

「よかった。実はハワイ風のパンケーキを作ろうと思って準備しておいたんだよね」

 俊典さんが、引き出しから紺のギャルソンエプロンを取り出した。
 いつみても所作が綺麗な人だと思う。動きにまったく無駄がない。エプロンの紐を結ぶ動作すら、流れるようで。

 青いフランス製のスキレットは、俊典さんの独身時代からの愛用の品らしい。
 これを駆使して、とろとろのオムレツやふわふわしたフレンチトーストをささっと作ってくれたこともある。

 俊典さんは手際よく小麦粉をふるい、筋ばった大きな手で卵を割った。全ての材料を混ぜ合わせ、スキレットに生地を流し込む。
 鼻歌をうたいながらの仕草にはやっぱり無駄も隙もなく、まるで武道家のような身ごなしだ。思わず見とれてしまったが、途中ではっと気がついた。
 わたしは本当に気が利かない。

「あっ、お手伝いします」
「いいから、まずは着替えておいで」

 私服に着替えてダイニングに戻ると、早くも半分ほどのパンケーキが焼きあがっていた。俊典さんは器用にも残りのパンケーキを焼きながら、隣のコンロを使ってソースを作っている。

「わたし、なにをすればいいですか?」
「ん、じゃあお皿でも出してもらおうかな。あとコーヒーをいれてもらっていい?」

 慌ててコーヒーメーカーに二人分のカセットをセットした。最近のコーヒーメーカーは便利だ。カプセルをセットするだけで、あっという間に美味しいコーヒーが淹れられる。
 淹れたてのコーヒーの美味しさを、やっとわたしもわかるようになってきた。ミルクと砂糖は必須だけれど。

 できたコーヒーを野苺の柄のカップに注いでいるうちに、俊典さんのパンケーキもできあがったようだった。

「うわ、きれい!」

 パンケーキにかかっているのは真っ白いソース。俊典さんは本当にまめだ。ソースのうえには、砕いたナッツがトッピングされている。

「これ、美味しいですね。ココナッツの香りがする。何が入ってるんだろ」
「ココナッツミルクと生クリーム、あと練乳が少し」

 ふわふわのパンケーキと甘い香りのソースに、時折来るナッツの食感がたまらない。
 プロでもないのに、こんなに可愛くて美味しいおやつを作れるおじさんなんてそうはいない。

 俊典さんとおしゃべりしながらおやつを食べた。すごい幸せ。ママがこのひとと結婚してくれてよかった。

 おいしいパンケーキを食べ終える頃、ママが帰宅した。

「すごい甘い香りがするわ」
「ココナッツクリームのパンケーキだよ。君も食べるかい?」
「……んー、今から食べたら夕飯を作りたくなくなっちゃうから、我慢しておくわ。そのかわり、夜にブルームーンが飲みたいんだけど」

 ブルームーンは、ママが俊典さんと結婚してからよく飲むようになったカクテルだ。
 器用な俊典さんはカクテルまで作ってしまう。
 「青い月」という名がついているけれど、ブルームーンは薄紫色。すみれのリキュールが入っているせいらしい。とっても綺麗な色のお酒だ。

「ねえ、ママ。どうしてブルームーンにハマってるの?」
「……色が綺麗だから……かな?」

 ママはわたしから目を逸らしながらそう言った。
 あっ、これ、嘘だ。
 ママは嘘がつけない、思ったことがすぐ顔に出る。こうやって目を逸らしたり、口元をもごもご動かしたり。本人はごまかせているつもりみたいだけどそうじゃない。
 わたしも胡蜂も気づかないふりをしているだけなのだ。

 ブルームーンは、たぶん俊典さんとの思い出のお酒なんだろう。
 まったく、乙女か!

 大体、紫なのにブルームーンって名前がもう意味深だ。
 ブルームーンは文字通り「青い色の月」って意味だけど、そのほかにもいくつか意味があって、一月に二回満月がくることもそう呼ばれる。

 まるでママの結婚みたい。
 一度の人生に、二回の幸せな結婚。
 悲しいことにパパとは死別してしまったけれど、その暮らしはとても幸せだったのだと昔に聞いたことがある。
 今の結婚に関してはいわずもがなだ。

「このみちゃん」
「はい?」
「カクテルには花言葉ならぬ酒言葉みたいなものがあるんだよ。たとえばカシスソーダで『あなたは魅力的』マルガリータで『無言の愛』」
「へえ……」
「で、ブルームーンは『完全なる愛』なんだ。まるで私とゆかりの仲のようだね」

 でた、バカップル発言。
 俊典さんのこういうところ、本当に日本人離れしていると思う。ママもまんざらでもなさそうな顔だ。

「ブルームーンには別の意味もあるじゃない」
「そっちはもう私達には関係ないだろ」
「酒言葉なんて、いまどき流行らないわよ」
「流行る流行らないは関係ないさ」

 ブルームーンの持つ、もう一つの意味ってなんだろう?
 聞いてみようかと思ったその時、俊典さんが後ろからママを抱きしめた。
 あっ、これ、いつものやつだ。

 これ以上ふたりのバカップルぶりを見ていても仕方がないので、わたしはここから退散することにした。どうせふたりには、もうわたしなんか見えていないに違いない。
 耳元で何やらささやいている俊典さんに、ママは「もう……」とか「いやね」などと甘えた声で返している。

 仲がいいことは素敵なことのはずなのに、この時胸がずきりと痛んだ。
 ミツバチなんてものじゃない。スズメバチにでも刺されたように、わたしの胸が熱をもってずくずくと痛む。
 これはいったいどういうことなんだろう。

***

 変な時間に目覚めてしまった。

 喉が渇いたなあと思いながら、枕元の目覚まし時計を確認する。時刻は一時を回ったところだった。
 明日がお休みでよかった。お水を飲んだら、ネットでもするかな。

 廊下に出ると、胡蜂の部屋の電気がついていることに気がついた。
 あいつ、まだ起きてるんだ。毎朝六時に起きて朝のトレーニングとやらをしているというのに、本当に元気なものだ。

 とっくに寝ているであろうママたちを起こさないよう、忍び足で階段を下りリビングダイニングに向かう。
 するとリビングの開き扉のすきまから、明かりが漏れているのが見て取れた。
 珍しい、まだ起きているのだろうか。

 扉は全部閉まっておらず、ほんの少しだけ開いていた。
 そっとそこから中の様子をうかがう。なぜそうしたのか、自分でもよくわからない。

 ソファに二人は座っていた。
 ただし、普通に座ってはいなかった。俊典さんの細い腿の上に、ママが横向きで座っていたのだ。

 あうぅ。これ、見たら絶対ダメなやつ。

 でもどうしても目が離せなくて、そのまま覗き行為を続けてしまった。
 すると俊典さんがママの顎に手をかけた。 
 ああ、これドラマで見たことある。顎クイってやつ。こうした男の人が女の人にすることは、たいてい決まってる。
 予想通り、俊典さんはママの唇にキスをした。ママが俊典さんの細くて長い首に手を回す。

 いやだ、どうしてわたしこんなの見ているんだろう。見たくないのに、目を逸らすことができない。
 やがてふたりの唇が離れて、俊典さんの口唇がゆっくりと動いた。
 「あいしてる」
 声は聞こえなかったけれど、きっと俊典さんはそう言った。

 わたしは弾かれたようにその場から逃げだした。
 廊下で急に物音がして、きっと二人は驚いたことだろう。わたしが覗いていたことも、きっとバレバレ。
 でもかまわない。だって、年頃の娘がいるというのに、あんなところであんなことをしている方が悪い。

 階段をあがりきったところで、胡蜂が部屋からにゅっと顔を出した。

「おまえ、バタバタうるせーよ」

 眉間に皺を寄せながら声をかけてきた胡蜂は、わたしの顔を見て、はっとしたように息をのんだ。そのままぐいと手を引かれ、部屋の中に引きずり込まれる。

「どうしたんだよ」
「……なにが?」
「なにがじゃねーだろ。なに泣いてんだよ」

 言われて初めて気がついた。
 ほんとだ、わたし泣いてる。

「なんかあったのか?」
「……下で、ママたちがキスしてた」

 あー……とうめくような声を出して、胡蜂が頭を抱えた。

「あいつらもうかつだけどよ、あんだけ仲良けりゃそれくらいするだろ」
「……胡蜂はショックじゃないの?」
「そんなものは、おっさんが来た最初の日で打ち止めだ。だいたい結婚するってのはそういうことだろ。寝室や防音ばっちりのシアタールームでは、もっとすごいことしてるだろうぜ。」
「すごいことってなによ」
「ヤってるってことだよ」
「そ……そんなことするわけないじゃん。……と……俊典さんだってけっこう年だし……」
「馬鹿かおまえ。枯れきった熟年夫婦ならまだしも、あいつら新婚だぞ」

 たしかにそうだ。あんなに仲がいいんだもの。そして結婚しているんだもの。別におかしなことじゃない。頭ではわかっている。
 それなのに、わたしはどうしてこんなにショックをうけているんだろう。

 ママが俊典さんとキスしたことがショックなのか。
 それとも俊典さんがママにキスをしたことがショックなのか。

 なんだかわからないもやもやに支配され、なかなか涙が止まらない。いっこうに泣き止まないわたしを呆れたように眺めていた胡蜂が、ばりばりと頭をかきながらため息を吐く。

「おまえさあ……」
「なに?」
「……まあいいや。元気出せよな」

 ポンポンと肩をたたかれた。
 ずっと胡蜂を子供だと思っていたけれど、本当に子供だったのはわたしだったのかもしれない。
 いつから胡蜂はこんなに大人になっていたのだろう。

 そのまま自室に戻って、出窓のカーテンを開けて空を仰いだ。
 星の見えない暗い夜空に、凍りつきそうな冬の月がぽっかりと浮かんでいる。ママの好きなブルーな月ではなくて、白くつめたい月だった。
 氷輪というのだっけ、こういう寒い夜の月。

 白くつめたい氷輪を見上げながら、わたしは自分の心に生じたもやもやと対峙する。
 そこに見たくないものが見えてしまった気がして、わたしは大きくため息を吐いた。


2015.9.3
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月とうさぎ