熱風・ジンバランベイ

 身体を撫でまわすようにまとわりつく熱風は、柚希に男の手を思い出させた。

 バリでも有数の高級リゾートであるこのホテルは、とてつもない広大な敷地を有している。ジンバラン湾とビーチを見渡せる丘陵が、まるまるホテルなのだから。
 ヤシの木より高い建物を建築することを禁じられているバリでは、ここのようにオールヴィラ形式のホテルがとても多い。敷地内のそこかしこに咲くフランジパニが異国の情緒を醸し出している。
 まず重厚な石門と厚い木製の扉を開くと、熱帯植物が自然かつ美しく配置された中央の庭が見えた。
 右手にはオープンエアのリビングとダイニング。正面にはサンデッキを有するプライベートプール。左手側にはエアコン完備の居室エリア内がましましている。

 居室エリアの扉をひらくと、天蓋付きのベッドやラタン家具がならぶ寝室だ。
 そして特筆すべきは驚くべき広さを誇るバスルームだった。軽く30平米はあるだろうか。大きな猫足のバスタブが置かれ、それとは別に独立したシャワーブースがある。
 シャワーブースには扉があって、そこから中庭、つまりプールに出られるようになっていた。

 リビングダイニングはオープンエアなだけに、チチャと呼ばれる小型のヤモリや小さなカエルが時々顔を出す。
 最初はぎょっとしたが、不思議なもので次の夜にはもう慣れた。
 東京では悲鳴を上げて逃げたくなるような生き物も、別の場所で見ると可愛く見えてくるから不思議なものだ。

 オールマイトの関係も、別の角度から眺めたらまた違うものになるのだろうか。

 『あなたにとって、わたしはなに?』
 そうたずねた時のオールマイトの困った顔が忘れられない。

***

 食後のコーヒーを飲みながら、大きくため息をついた。
 ジンバランビーチに面したメインダイニングから望む夕映えは確かに美しかった。青い海が夕日に照らされバーミリオンに変化していく、壮大な光景。
 この景色をあのひとと見られたらいいのに。

「柚希、さっきから溜息ばかりよ」
「ごめん」

 友人たちに指摘され、柚希は軽く肩をすくめた。

「やっぱり部屋に帰ってもいいかな」
「え? でも昨日の人たちどうすんの?」

 そう言ってきたのは交通課の友人だ。
 昨日はお隣のジャワ島まで足を伸ばして、世界遺産であるボロブドゥール遺跡に行った。
 そこで日本人男性二人と知り合い、意気投合した。いや、この場合は「友人二人が意気投合した」と表現した方が正しいだろう。
 そして今夜、その人たちとここで会う予定になっている。

「調子がよくないの……二人は楽しんで」
「じゃあわたしたちも一緒に部屋に戻るわ」

 ちいさな嘘に、そう言ってくれたのは刑事課の友人。
 罪悪感に、柚希はそっと目を伏せる。

「軽い偏頭痛だから、少し休めばきっとすぐよくなると思う。だから二人はできるだけゆっくりしてきて。それに、ちょっと一人になって考えたいことがあるの」

 最後の言葉に、二人がはっとしたように押し黙った。
 彼女たちは柚希がエリート管理官と別れたことを知っている。特に理由は話していない。
 だが、柚希を元気づけようとしている節がふたりにはあった。
 それなら尚更、わたしがいないほうが盛り上がるだろう、と柚希は思う。
 それに実際、ひとりになりたかった。気遣われる立場というのも、それなりに疲れるものなのだ。

「くれぐれも変な気を起こさないでね」
「大丈夫よ」

 交通課の友人の言葉に、苦笑を返した。
 参った。そこまで落ち込んでいるように見えていたのか。
 ただ彼女たちは勘違いをしている。
 柚希の心を占めているのはエリートではなくオールマイトだ。
 そのことについて誰かに相談できたらどんなにいいだろう。
 けれどその行為がどれだけオールマイトの立場をまずいものにするか、柚希にはよくわかっていた。

***

 メインダイニングを出て、海沿いを歩きながら丘陵を少しずつのぼった。
 部屋までは歩くと結構な距離がある。
 スタッフに頼めばすぐに送迎用のカートを呼んでくれるが、石像や南国の植物を眺めながら部屋まで歩くのも悪くない。
 歩きながら、オールマイトとのことについて考えたかった。
 
 あの雨の夜、麻布のバーで賭けには勝ったかもしれないが、大局的な見地においては敗北している。柚希はそう思っている。

 メインダイニングやヴィラから見えるのは、綺麗な海だった。
 この景色をあのひとと見られたらいいのにと、何度思った事だろう。
 誰かが言った。人は美しい物を見た時に、愛する人を思い出すのだと。
 柚希は何度もオールマイトを思い出した。
 きっと子供のように青い瞳を輝かせて海の美しさや熱帯植物の見事さをたたえ、チチャにすら愛情の籠った目を向けることだろうと。

 どこかから、ガムランの音が聞こえる。
 ロビーフロアでの演奏だろうか。熱帯特有の植物に覆われた庭園の中から聞こえてくるガムランの音は幻想的で、柚希の瞳から一筋、涙がこぼれた。
 自分がどれほどオールマイトに執着し、消耗させられているか気がついたのだ。

 身体だけを繋げる関係に柚希は疲れ始め、オールマイトは罪悪感を持ち始めている。
 オールマイトがこのままでいいのかと逡巡しているのも、よくわかっていた。彼の性格で、こんな不健全な関係をそう長く続けられるはずもない。

「あなたのように強いひとが、どうしてそんなに優しくなれるの?」女がたずねる。
「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格がない」男が答える。
 あまりにも有名なこのセリフは、オールマイトの大好きなレイモンド・チャンドラーによって半世紀以上も昔に書かれたものだ。

 強くなければ生きていけず、優しくあらねば生きる資格がないのは、今は女も同じこと。
 柚希はちいさくひとりごちる。

「五年前……オールマイトがわたしを手放したように、今度はわたしがオールマイトを開放してあげないといけないのかもしれないわね……」

 ロビーエリアの出口近くに差し掛かったその時、ぽつり、と肩に何かが当たった。
 なに?と上を仰ぎ見る。
 ぽつ、ぽつ、と上から落ちてくる、これは水滴。
 そう思った瞬間、さあっという音と共に大粒の雨が降ってきた。

 慌てて一番近くにあったダイニングバーに飛び込んだ。
 乾季にはほとんど降らないと言われる雨だが、ごくたまに、夕方から朝方にかけて降雨が見られることがあるという。スタッフも慣れたもので、入店と同時にさっとタオルを渡してくれる。
 とりあえず、バーで雨をやり過ごすことにした。

 ジンバランベイを見おろせる、窓際の席に案内された。もう少し早い時間なら、メインダイニングとはまた違った角度のジンバランの夕焼けが見られただろうに。
 メニューを眺め、何にしようか考えて、いつものようにシャンパンをグラスで注文した。
なにごとにおいても自分はやっぱり保守的なのだと、柚希は小さくため息をつく。



 ジンバランベイに雨粒が吸い込まれるようすを眺めながら、黄金色の液体を一口含んだ。その時、目の前に大きな影ができた。めんどうな。
 振り返る気もせず無視していると、後ろから英語で声をかけられた。

「お一人ですか?」

 以前にも似たようなことがあったような気がする。オールマイトと再会した麻布のバーで。
 高級ホテルに来てまでも、ナンパ男に遭遇するのか。
 ややうんざりしながら、連れがいるのと答えようとしところを、聞き覚えのある声が遮った。

「悪いけど、彼女は私の連れなんだ」

 あぶなく手にしていたグラスを取り落しそうになった。

 先ほどとはまったく反対の理由で、振り返ることができない。 
 この落ち着いた低音の主は、我が国を代表する英雄で。
 そのナンバーワンヒーローが、どうしてここに?

「さて、隣に座ってもいいかい?」

 柚希の向かい側に移動してきたオールマイトがいつものように微笑む。
 オールマイトはバティック柄の開襟シャツにチノパンという、バリの高級リゾートに相応しい装いだった。

 どうぞといらえると、ありがとうとかえされた。流れるような仕草で、オールマイトがウエイターに手を挙げる。注文したのはビンタンビール。
 その土地に行ったらその土地の物を楽しむ、実に彼らしい選択だと思った。

「君に話が合って来たんだ」
「はなし?」
「ああ。ところで、お友達はどうしたんだい?」
「彼女たちは日本人男性と意気投合して……」
「なぜ、君はひとりなの?」
「頭が痛くなっちゃったのよ」
「元気そうに見えるけど?」
「わたしひとりがあぶれちゃったの」
「は? そんなはずはないだろう。君に惹かれない男なんているもんか!」

 興奮した調子のオールマイトを、唖然として見上げた。

「あ……いや……それは私の主観だな……」
「ところで、どうしてここに?」
「プライベートジェットをチャーターした」
「え?」

 プライベートジェットって、いったいいくらかかったのだろう。
 呆れた眼を向けると、オールマイトは大いにきまり悪そうな顔をした。
 ヒーロー界のトップに君臨する英雄のこんな顔が見られるのは、特別な関係にある人間だけだろうと、密かに思った。

「そうじゃなくて、バリに来た理由が知りたいんだけど……」
「今日は水曜日だ」
「は?」

 またしても間抜けな声が出てしまった。
 オールマイトは完全にそっぽを向いてしまっている。左手で口元を覆っているので顔はよく見えないが、耳が真っ赤になっていた。
 その手元には黒の樹脂製の時計。柚希が昔贈ったものだ。
 柚希とオールマイトをつなぐ、数少ないカラビナのひとつ。

 もう、この関係を終わりにしようと思っていたのに、本当に困ったひと。
 こちらが押すと引くくせに、引いたら引いたで追いかけてくる。
 どうしてこんなところまで。
 ねえ、オールマイト。

「私たちが会うときは、いつも雨だな」
「そうね」

 さらさらとジンバランベイに降り注ぎ海へと溶けてゆく白銀の雨を見ながら、オールマイトが運ばれてきたビンタンビールを口にする。
 上下する喉仏が、いつにもましてセクシーだった。
 柚希はもう一度彼にたずねた。声色に、媚を含まないように気をつけながら。

「ねえ、どうしてここにきたの?」
「先週聞かれたことの返事を、まだしていない」
「もしかして、わざわざそれを言いに?」
「まあね。そしてさっきも言ったけど、今日は水曜だよ」

 照れ臭そうにオールマイトが、に、と笑った。

「どうしてわざわざ」
「君が東京に帰ってきてからでは、手遅れになるような気がした」

 答えられなかった。確かに、東京に戻ったら別れを告げるそのつもりだったからだ。表情を読んだのか、オールマイトが苦笑する。

「やっぱりか。私の勘もまだまだ鈍っていないな」
「でも水曜にこだわらなくても、わたしが成田をたつ前に言えばよかったんじゃない?」
「私もね、この答えにたどり着くまで少々の時間を必要としたんだよ」

 その理由は知っている。だからそこは言わせてはいけない。忙しい中、ここまで来てくれたこのひとに。
 ふたり過ごせる時間が、あまり残されていないなどということを。

「ね、わたしから先に言わせてもらってもいいかしら」
「なんだい?」
「女はね、あなたが思うほど弱くはないの」
「うん」
「それにわたしには安定した職があるわ」
「知っているよ」
「あなたに何かあったとしても、一人で生きていけるのよ」
「それは頼もしいね」
「だから何の心配もいらないわ。安心して、わたしのところにいらっしゃい」

 オールマイトが目をぱちくりと見開いた。
 数秒遅れて響く、豪快な笑い声。
 笑いすぎてまた血を吐いたりしないかしらと心配しながら、柚希も彼に笑みを返す。

 さんざん笑って咳込んだ後、予想通りオールマイトは少量の血を吐いた。慣れた手つきでそれをぬぐって、優しい瞳で彼は言う。

「この間の答えだけど、君は私の愛しい人だよ。私には君だけだ」

 ああ、この言葉、それだけでいい。
 続く未来なんて、なくてもまったくかまわない。

「雨、止んだわね」
「そうだな」

 それ以上は互いに何も言わずに、バーを出た。
 どこかから、またガムランの音が聞こえてくる。
 雨に濡れた熱帯の植物は、また緑の濃さを増したように見えた。

 どちらからともなく手をつなぎ、ヴィラの方角に向かって歩いた。

 一緒に海に行けたわけでもない、観光できたわけでもない。けれど、この人と異国の地を歩いている。ただそれだけのことがこんなにも嬉しい。



 ヴィラの石門の前まで来て、さすがに少し躊躇した。ここは友人ととった部屋だ。そこにオールマイトとはいえ、男性をあげるのはいかがなものか。

「柚希」
「なに?」
「この先は君だけの部屋じゃない。私があがりこむわけにはいかない」

 こういうところが心憎いのだ。本当に。
 古き良き時代の紳士のように振る舞える人。
 でも、このまま別れてしまうのは名残惜しい気がした。やっと心が通じ合えたのに。

「今夜、東京に帰るの?」
「……出国許可が、二十四時間しかおりなかった」

 はっとした。一警察官が海外渡航するこにすら、煩雑な手続きがいるのだ。
 ヒーローも公務員である以上、ナンバーワンの彼が勝手に国を離れることなど許されるはずがない。
 計画的にならいざ知らず、名立たるヒーローが急に国を離れるなどと、国家としてはたまったものではないだろう。
 ましてや今まで一度も国内を離れたことがない英雄様だ。亡命を疑われても不思議ではない。リミットを設けたとはいえ、よく国が許可を出してくれたものだ。

 プライベートジェットはVIP専用ターミナルを利用できるため、出入国の手続きの待ち時間がほとんどないと聞いたことがある。それでも、往復するだけで十四時間以上はかかるはずだ。

「早朝に立つつもりで、この二つ先のエリアに部屋をとってある。あまりゆっくりはできないし、友達との旅行の邪魔をする形になってしまうけど、よかったら来ないか?」
「オールマイト」
「名前で呼んでくれないかな」

 ごめんなさいと呟いてから、俊典、と呼ぶと、彼は嬉しそうに笑んだ。

「ああ、でも友人たちが心配するかもしれないわ……連絡をいれないと」
「ん、それは大丈夫じゃないかな。さっきメインダイニングで会った時に挨拶しておいたから」
「ハイ?」
「その時に、今夜柚希を借りてもいいかなって言ったら驚いていたよ」
「……ええと、それは今の姿で……よね?」
「いや、この姿だと警戒されるだろ?」

 じゃあなにか、マッスルフォーム……誰もが知っているオールマイトの姿で友人たちに挨拶したのか、この人は。
 そのうえで、何食わぬ顔で「友達はどうした」などと聞いてきたのか。
 本当にもう、この人は。
 いつも笑顔でいるくせに、どこまで食えない人なんだろう。

「……二人とも職業柄守秘義務は身についていると思うけど……一般人とつき合っているなんて知られたらあなたの立場がまずくならない?」
「問題ないよ。同じトップクラスのエンデヴァーも、家庭を持ってる。私にそういう存在がいても、おかしいことじゃないだろう?」
「え?」

 ねえ……それって、と聞こうとしたところに、また低音が注ぎ込まれる。

「だから来いよ、柚希」

 ああもう、本当にずるいひと。
 そんな風に誘われたら、断れないのを知っているくせに。

 鳴いているのはチチャだろうか。
 眼の端にうつるのは、フランジパニの白い花。
 返事のかわりに、オールマイトの薄い腹に顔をうずめた。

 どこかから聞こえるガムランの音色。
 この身体を撫でまわすのは、バリ特有の熱い風。

 ねえ、オールマイト。
 部屋に行ったら、何から話をしましょうか。
 ジンバランベイを見おろせる、オープンエアのリビングで。

2015.8.19
年齢制限のあるこちらの続き「熱風・フランジパニは夜香る」をPrivatterに掲載しています。
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月とうさぎ