果穂はドキドキしながらタワーマンションのエントランスに入り、大きく深呼吸をした。
いったん壁際に寄り、職場の美術館を出た時に何度もチェックしたにもかかわらず、もう一度コンパクトを出して化粧が崩れていないか確認しなおす。
眼元のファンデが少しよれているような気がしたのでそれを指先で直してから、教えられた部屋番号を入力しインターホンを押した。
聞きなれた低音が機械越しに応え、内扉が開く。
「私の家にはホームシアターがあるんだ。よかったら一緒に見ないかい?」
そんな誘いに乗ってしまったが、果穂は少し悩んでいる。
男性の一人暮らしの家に行く。それも夜に。
そのことに対してはそれなりの覚悟をしてはきた。彼とだったらそういう展開になってもきっと後悔しない。
でも相変わらず向こうの気持ちがわからない。いったい自分はどう思われているのだろうか。
家に招待されるということは、少し期待してもいいのだろうか?
最近の果穂はマイトと会うのが少し辛くなってきていた。会えれば嬉しい、好きだという気持ちはますますつのる。だが今の状態はいただけない。
はっきりしない状態が続いている現状を、どうにか打破できないだろうか。
果穂はそればかりを考えている。
マンションの上層階にあるマイトの住居は、3LDK。だが、その一部屋がいちいち広い。
自分と彼の間にはこんなにも差があったのかと愕然とした。六本木に住んでいることは知っていたが、ここまでの部屋とは思わなかった。
唖然としている果穂に気づかぬ風で、マイトが声をかけてくる。
「コーヒー好きだったよね? エスプレッソとカプチーノどっちがいい?」
「あ、カプチーノで……」
「了解!」
軽くウインクしてから、マイトは専用マシンで抽出したエスプレッソをカップに入れ、流れるようなしぐさでフォームドミルクを注いでトレイに置いた。そのままデミタスにもエスプレッソを注ぐ。
「じゃあ行こうか」
20畳はありそうなシアタールームに案内され、ここでも少し驚かされた。
スクリーンは何インチあるのだろうか。今まで果穂が観たことがあるホームシアターのスクリーンは100インチ程度。だがマイトの部屋のスクリーンはその倍近くはあるように思われた。
スクリーンの正面には大きなカウチがどんと置かれている。リビングに置かれていたソファに比べて高さがないが、幅が広くそのまま横になっても問題がないような長椅子だ。
このカウチにマイトと座った女性は何人いるのだろうか。そう考えただけで胸の奥がちりりと痛む。同時に、そんな自分を嫌悪した。
先に座ったマイトに促され、やや緊張しながら隣に座って、少し前に話題になった恋愛映画を観た。
不治の病にかかった主人公の男が女と知り合う。男は病を隠した間まま女とつかず離れずの関係を保ち、半年後に亡くなる。
男の葬儀後、残された女が一人岸壁に立ち尽くすシーンで映画は終わった。
映像も出演俳優も美しかったが、どうしてこのチョイスなのだろうかと少し苛立ちをおぼえる。
恋愛映画なら他にももっとあっただろうに、何か別の意味でもあるのだろうか。
マイト自身が病弱であることも含め、今の自分が置かれている状況に重ね合わせてそんな深読みをしてしまう程度に、果穂の中には焦りがあった。
だから映画が終わるや否や、果穂は彼に噛みついた。
「この男のひと、卑怯です」
「え?」
「ヒロインの気持ちを知りながらあんな風にするのは本当に残酷だと思います」
「死ぬとわかっているのに彼女と付き合う方がどうかと思うのだが」
「だったら、つかず離れずの関係を続けたりしちゃだめです。突き放さないと」
「……うん、それも正論だね……」
「そうですね、だからマイトさん。好きでもない女性を家に呼んだりしてはいけないんですよ」
「え?」
言ってしまった。彼はどう思っただろうか。
マイトは少し困ったように笑んだままだ。
小さなため息の音が聞こえてから、コーヒーのおかわりはいるかいと問われたので、はいと答えた。
おかわりのカプチーノは、悲しくなるほど苦く感じた。
マイトは先ほどの発言に関しては何も言ってはくれない。ただ静かに笑っているだけ。
本当にずるい人だ。女心などお構いなしで。
優しいのに残酷なひと。誠実なのにずるいひと。
おそらく彼は、この話を終わりにしたいのだろう。
だが果穂はそこで黙ることができるほど大人でもなければ、男にとって都合のいい女でもなかった。
「もう、突き放してくれていいんです。物珍しいだけの若い女なんて」
「君を物珍しいなんて思ったことはないよ」
「じゃあどう思っているんですか。わたし、マイトさんが好きです」
このとき、マイトの眉根にぐっと力が込められた。
瞬きするくらいのほんの短い時間だったが、たしかに彼の顔から笑みが消えた。
「だからこういう感じは、とてもつらいです」
「それはもう、私とは会いたくないってこと?」
「わたしの気持ちに応える気がないならそうしてください」
「……わかった……」
静かに目を閉じてマイトが答えた。
結局、具体的には何も答えてくれないのか。
きっと、この人はずっとこうしてきたのだ。
広く浅く誰とでも仲良く付き合い、他人に深入りすることも愛することもなく、たった一人で。
それはなんて哀しい人生だろう。
「わたし、もう失礼します」
果穂は耐えきれずに立ち上がった。バッグと上着を掴んで部屋を飛び出す。
エレベーターを待つ間、涙ぐみながら追ってくる声を待ってはみたが、それは無駄な行為と悟った。彼はやっぱり止めてもくれない。
エレベーターを二階でおりて、人でごった返す方面を避け、高級ブティックが並ぶけやき坂方面に足をむけた。ビルの谷間に吹く風は強い。
手の甲で涙をぬぐってから、果穂は上着を羽織ってとぼとぼ歩いた。行き交う人々が皆幸せそうに見え、ますます惨めな気分が増大する。
眼の端に、初めてマイトと出会ったベンチが見えた。
一度目も二度目も、自分から彼に声をかけたのだ。彼の方からではなかったと気がついて、またひとつ、涙が落ちた。
と、その時、右腕を強い力で掴まれた。
「待ちなさい」
ああどうして、と果穂は思った。
振り向かなくても声の主が誰だかわかる。
こんなに自分を悲しませているのに、出会わなければよかったとはどうしても思えない人だ。
泣き顔を見られたくなくて、振り向かないまま果穂は声を荒らげた。
「離してください!」
「嫌だ」
どういう力のこめ方をしているのだろう。痛みは全く感じないのに、果穂がその手を振り払おうとしてもびくともしない。
「離して」
「うん、ごめん。無理」
「無理ってなんですか? 意味がわかりません」
「ごめん、ちょっと考えをまとめるから黙ってて」
黙ってろってどういうことよと果穂は思いながらも、結局は惚れた弱みで口をつぐんだ。
追いかけてくる途中で吐血したのか、マイトはもう片方の手で口元をぬぐって、軽く息を整えている。
日中は夏と紛うほどの気温だったが、日が落ちた後の街はまだ冷える。
今、冷えているのは身体だろうか、心だろうか。
自分を冷やしているのは風だろうか、それとも横に立つ男だろうか。
しばしの沈黙を破ったのは、渋めの低い声だった。
「君とはここで会ったんだよね。二度目もそうだった」
「……そうですけど……」
「君と会った時からずっと考えてた」
「なにを?」
ん、とだけ答えて、マイトは果穂の手を引いて長い下りエスカレーターに乗った。そのまま果穂の位置より一つ下の段に立つ。
エスカレーターの一段はそれなりに高さがある。おかげで二人の身長差が常よりは縮まった。目線が近くなったことで、果穂の気持ちが大きくなる。
「言えないってことですか? ずるいです」
「そうだね。だが大人の男なんてもんは、多かれ少なかれずるいもんだ。だから私は、今からもっとずるい真似をするよ」
エスカレーターがトレンチコートで有名な英国ブランドの前を通り過ぎた時、なにと問おうとした唇に、マイトのそれがかさなった。
あまりの不意打ちに、果穂は言葉も出ない。マイトの言葉をただ待つだけだ。
エスカレーターを降り、けやき坂を西麻布方面に向かって歩き出す。
もう、涙は止まっていた。
「私はね、ずっと一人で生きてきた。そうでなければならないと思ってきた。なのに、君と出会ってしまった」
けやき坂から細い路地に入り、さくら坂に出てゆっくりと歩くと、左手に公園が見えてきた。昼間は子供たちでにぎわうこの公園も、夜はあまりひとけがない。
都会の公園ならではの土のない床。果穂は、このふかふかした不思議な感触が好きだった。
マイトがそこで立ち止まり、果穂に向き合って続きの言葉を紡いでゆく。
「君が好きだ。私は君と会えなくなるのは嫌だ。けれど私といると、君はつらい思いをするかもしれない」
「……それでも、このまま会えなくなるよりずっといいと思います」
返した言葉が終わらぬうちに、そのままぐっと抱きしめられた。
「私は、君と過ごすことを望んでもいいのだろうか」
細身ではあるが常に堂々として見えたマイトの弱々しいしい声に、少し驚きながら果穂は無言でうなずく。
ありがとうと低音で囁かれ、それに応えようとした唇の上にもう一度彼の口唇がおりてきた。
先ほどまでの少し触れるだけのものとは違って、優しいが官能的な口づけだった。
ゆっくりと舌を絡み取られ、逃げようとしたところを吸いこまれて甘噛みされる。厚い舌で上あごと歯の裏側をぞろりと舐められめまいがした。大きな手が髪にさしこまれ、一度離れた唇がまた合わせられる。
何度も繰り返される情熱の波に溺れまいと、果穂は彼にしがみついた。
「君を悲しませることになるかもしれないよ」
「大丈夫です。わたしこれでも図太いので」
「頼もしいね」
頭をくしゃりと撫でまわされ、また抱き寄せられて、目もとにキスを落とされる。
果穂は幸福感をおぼえながら、結構べたべたするのが好きな人だったんだなぁと心の片隅で軽く思った。
「ずっとそのままの気持ちでいてくれ。できうるならば」
懇願するような口調を少し不思議に思いながら、果穂は静かにうなずいた。
2015.5.6
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