臓器を失った日から、じっとりと纏わりつくこの季節独特の空気に毎年オールマイトは悩まされていた。己の肉体に過度の負担をかけている彼の身には、気圧の変化と湿気の多さは人一倍堪える。
だが、この日のオールマイトは、苦手であるはずの低気圧もものともせず、鼻歌交じりで自宅のキッチンに立っていた。
しとしとと降り続く雨と気温の高さに、戸外の不快指数は高数値を記録しているに違いない。けれど彼の心の快適指数が測れたならば、おそらく100に近い数値をたたき出しているはずだ。
無論それは心地よく効いている空調のおかげではない。
果穂とつきあい始めて、ひと月近くが経過した。そして今夜、仕事帰りの彼女がそのまま自宅に泊まりに来る約束になっている。
未だ身体の関係はないが、さすがに今夜は彼女もそれを意識しているだろう。
オールマイトは鼻歌を歌いながら時刻を確認した。時計の短針が7を指し、長針は2を指している。
果穂の仕事はシフト制だ。今日は七時に上がれると話していた。彼女の務める美術館は近隣にある。
時間通りに帰れることが多いので、おそらくあと十分ほどすれば彼女はここに到着するだろう。
幸いにしてディナーの準備も上々だ。
ジュンサイのコンソメスープ、ブルゴーニュ産のエスカルゴに薄切りにしたバケットを添え、季節の野菜のゼリー寄せ、ヒラメのソテーにデザートは柚子のソルベ。
エスカルゴはブルギニョンソースを詰めた物の冷凍品をブルゴーニュから空輸したものだ。それはオーブンで焼くだけだし、ゼリー寄せと柚子のソルベは近くのデリで購入した。自分で作ったのはスープと平目のソテーだけだが、一応平目にかけるベシャメルソースは手作りしてみた。男の料理としてはまずまずなのではないだろうかとオールマイトは一人うなずく。
本来ならばワインも供するべきなのだが、焼き鳥屋での件もある。記念の一夜になるかもしれないのに、アルコールのせいで台無しになるのは避けたいとオールマイトは思った。
食事はミネラルウオーターとコーヒーで通し、アルコールはシャワーの後がいいだろう。
彼女のために用意したハニーウイスキーを箱から出して冷やしておく。
ハニーウイスキーはバーボンに蜂蜜を加えたリキュールだ。
ロックでも、冷たくひやしてストレートでも、炭酸水で割っても美味しくいただける。
胃袋のないオールマイトはごく少量しか飲酒できないし、ハニーウイスキーは甘すぎる。が、きっと果穂は気に入るだろう。
白い花のような果穂の喜ぶ姿を想像し、思わず笑みがこぼれた時インターホンが鳴った。それに応じてオートロックを解除する。
オールマイトはここで一つ深呼吸した。
今夜は大事な一夜になるだろう。
だが一線を越えるその前に、果穂には真実を知らせておきたかった。
今まで隠し続けていたことだ。場合によっては非難され、嫌われてしまうかもしれない。それでも覚悟を決め、腰に巻いていた黒のギャルソンエプロンの紐を緩める。
部屋のインターホンが鳴るのと同時に、オールマイトは全身に力を込めた。
そうして、一呼吸おいてからゆっくりと扉を開ける。
「いらっしゃい」
「え? あれ? オールマイト……さん?」
マッスルフォームになったオールマイトを前に、果穂がドアの後ろに下がり部屋番号を確認する。
間違いではないことを確かめて、彼女は怪訝な顔でこちらを見上げてきた。
「とにかく入って」
「え?」
呆然としている彼女を室内に引っ張り込んで、ドアを閉めた。
「い……いきなりなにをするんですか?」
「気づかない?」
「は?」
「私だよ」
訝しげな顔で果穂が、オールマイトの頭の天辺から足のつま先までを眺める。見つめられすぎて穴が開くんじゃないだろうかと思い始めたころ、果穂の表情が急に硬直した。
「もしかして……マイトさん?……」
「そう、私。今まで黙っててごめん」
口を開けたまま、果穂がこちらを指差し呆然としている。言葉も出ないようすだった。無理もないとオールマイトは心の中で苦笑する。
全身に入れていた力を抜いて、元の姿に戻りながら彼は微笑んだ。
「びっくりした?」
「なんとなく、ヒーローなんじゃないかとは思っていたけど、まさかオールマイトだとは思わなかった……」
「黙っていたこと、怒ってる?」
「事情を話してもらえるなら、怒らない」
「とりあえずあがって」
食事をしながら、話せる部分だけを彼女に伝えた。
臓器をいくつか失ったこと。そのため、ヒーロー時の姿から今の姿に変わってしまったこと。それでもまだ自身は平和の象徴として立ち続けなくてはならないこと。
全てを語り終えて、オールマイトは果穂をじっと見つめた。彼女はどう思っただろう。
だが始めの驚きが去った後の果穂は冷静だった。そして静かにこう言った。
「ありがとう。大切な事を話してくれて」
でも、と顔を上げて彼女が続けた。
「マイトさんがわたしとつきあうまでに時間がかかったのってそのせいなの?」
一口水を飲んでから、オールマイトがうんと頷く。
「基本的に私は、ヒーローは特定の相手を作ってはいけないと思っているんだ」
「なぜ? 危険な職業だから?」
「それもあるね」
「人気によっては、マスコミに追い回されるから?」
「うん、それもある」
「相手がヴィランに狙われるかもしれないから」
「それは大きいね。そういういろんな事の全てをひっくるめて、相手につらい思いをさせるだろうからさ」
「だからヒーローの方は同業者との結婚が多いの?」
「……そうだと思うよ」
「でもマイトさん、わたしとつきあってるよね」
「そうだね。君につらい思いをさせるとわかっているのに、どうしても自分の気持ちを抑えられなかった。それは私のエゴだな」
ふうとため息をついて果穂がこちらを見つめてきた。
「それでも、わたしはあの時マイトさんが追いかけてきてくれて嬉しかった……オールマイトの恋人でいるのって本当に大変なことだと思う……だからわたし、努力するから」
「ありがとう」
可愛いことをとオールマイトは思う。できうるならば、ずっとその気持ちでいてほしい。人の気持ちに変わらぬものなどないことを、知らぬわけではないけれど。
食事もシャワーも済ませて、ハニーウイスキーを提供しようとしたその時、オールマイトの携帯が鳴った。
確認すると、近隣の繁華街で数体のヴィランが暴れているという呼び出しだった。
出動要請をこんなに忌々しく感じたのは初めてだとオールマイトは思った。しかし自分を待っている人がいる以上いかねばならない。
「ちょっと待っててもらえる?」
筋肉を増大させた巨躯をヒーローコスチュームに包んで、オールマイトは夜の街へと飛び出した。
***
結局日付が変わる寸前まで帰れなかった。
悪いことに今日のヴィランは強敵だった、怪我がなかったのが目下の幸いというところだろう。
「悪いんだけど今日は帰ってもらってもいいかな?」
オールマイトは気まずい思いで切り出した。当然ながら、果穂は不思議そうに尋ねてくる。
「どうして? 泊まっていってはだめなの?」
「うん。今夜はおすすめできない」
「どうして?」
「たぶん自分を抑えられないと思うから」
まずいことに今夜のヴィランは強かった。
強い相手と戦ったあとは、種の保存本能が作用して性欲が強くなる。たいていの同業者がそう口にする。
平和の象徴などと持ち上げられてはいるが、このオールマイトもそれは同じ。強敵を倒した後は己の欲を吐き出したいだけの、ただの牡に成り下がる。
もちろん誰彼かまわず行為に及ぶことはないし、嫌がる相手を組み敷いたことなどない。
こういう時はパートナーがいると大変助かる。
だが、おそらく果穂は行為に慣れていない。男性経験の有無は不明だが、男慣れしていないことは今まで接してきた感じでわかる。
何より彼女はオールマイトを受け入れるのは初めてだ。
身長と男性器のサイズは比例しないと言われるが、自分は見事に比例している。
己の雄はただでさえ女性に無理を強いる。その上制御できない状態では、彼女を壊してしまいかねない。
「だからね、泊まりはまたの機会に……」
「帰るのは嫌」
おっと始まったとオールマイトは思った。
白いデイジーのような印象の果穂だが、実はなかなか気が強い。嫌なものは嫌、できないことはできないとはっきり言える強さがある。
その気丈さこそが、オールマイトが彼女を選んだ理由の一つだ。果穂がひとり静かに涙するタイプであったなら、おそらく二人の仲は進展していなかっただろう。
「じゃあ、私リビングで寝るから。嫌でなければ私のベッド使って」
「嫌」
「え? 嫌なの? 枕カバー変えたからたぶん加齢臭とかないと思うんだけど……」
「そうじゃないの。一人でベッドを使うのは嫌」
あさましい話だが、自分の喉がごくりとなる音が聞こえた。こちらも我慢の限界だ。この誘惑は大きすぎる。
「いや、でもね」
「大丈夫」
「ぜったい大丈夫じゃないって。今夜は抑制できるかどうか自信がないよ」
「マイトさんは優しいからきっとできる」
「いやそう簡単なものじゃ……ンン……わかった……善処する……」
***
シャワーを浴び、バスローブ姿で戻ると、彼女は緊張した面持ちでベッドルームで待っていた。
ベッドサイドのテーブルにショットグラスに入れたハニーウイスキーを置いて彼女の横に腰掛ける。
「飲むかい?」
果穂が無言でこくりと頷いたので、グラスの酒をごく少量含み、口づけで流し込む。
ハニーウイスキーのベースはバーボンだ。アルコール度数は35度。ストレートで飲むにはやや強い。
果穂の唇の脇から漏れる琥珀色の酒が扇情的で、己の手でぐちゃぐちゃにしてやりたい思いが高まる。
男の気持ちというのは厄介だ。白い花のような彼女を散らすようなまねはしたくないが、心のどこかに綺麗なものを己の手で汚してみたい欲がある。
今度は彼女が自分でハニーウイスキーを口に入れたので、飲みこんですぐに唇を合わせ、口腔内の酒を舐めとった。
酒の甘さなのか彼女自身の甘さなのかわからないまま舌を差し込み、存分にその味を堪能する。
濃厚な甘さと芳醇なバーボンの味、ごく少量ではあるが久しぶりのアルコール、そして果穂自身から放たれる香りに軽い眩暈がした。
果穂の髪に軽く口づける。そのまま彼女を食べてしまいたい衝動に駆られ、細いうなじを甘噛みした。ん、と鼻にかかった小さい声があがる。
そのままそっとベッドの上に押したおす。ベッドサイドにある調光ボタンで室内の明かりを落とした。
女は蜂蜜のように甘く、男はバーボンのように薫り高く。
ハニーウイスキーのように互いが混じり溶け合いながら、夜は更けていく。
***
カーテンの隙間から差し込む朝日に眠りを遮られた男は、隣に眠る愛しい娘を起こさないようそっと身体を起こした。ゆっくりとした動作であったにもかかわらず、その口元から鮮血が滴り落ちる。
それが昨夜の情事の激しさを物語り、オールマイトは一人苦笑した。
体中が互いの体液と夕べの酒でべたべただ。
ふとベッド周りに散らばる避妊具のパッケージの残骸が目についた。その数に前夜の自分の蛮行を思い起こさせられ、彼は恥ずかしさに両手で顔を覆った。
行為そのものはなんとか優しくできたのだが、回数までは抑えられなかった。
青い瞳が次にみとめたのは、シーツに飛び散る自らの血ではないであろう朱だった。
初めての相手に自分はなんという事をと、今度は一人青ざめる。
ブランケットに包まる果穂の首筋に大量に散る赤い花を見て、また赤面。
どう考えてもやりすぎだ。
「おはよう」
「ああ、おはよう。起こしてしまったかい?」
ううんと首を振る果穂をベッドで待たせ、エッグベネディクトとマフィン、サラダ、野菜スープ、カフェオレのブランチを出した。
その後べたべたの身体をシャワーで洗い流し、夕方まで二人でのんびり過ごした。まさに至福というにふさわしい時間だ。
「明日も休みならもう一日泊まって行ったらどうだい?」
オールマイトは、ティーンの少年でもあるまいしと心の中で突っ込みつつも、名残惜しくてそう囁いた。その声は、自分でもどうかと思うくらい甘かった。
ところが果穂は、そういうところが案外クールだ。
区内の文化ホールで友人が参加する日本刺繍の展示会があるという。今夕はそちらに顔を出さねばならないと、白い花のような笑顔のまま帰っていった。
溺れているのは自分のほうかと自嘲的なため息をつき、オールマイトは重い腰をあげた。いろいろなものでべたべたになったシーツ類を洗濯し、ロボット掃除機をセットする。
ベッドに新しいリネンをかけ、モリシゲのチェアに座って浅煎りのコーヒーを一口すすった。
BGMはエリックサティのグノシエンヌ。美しい旋律が昨夜の疲れを癒していく、けだるくも優雅な曇天の夕暮れ。
その優雅なる時間、グノシエンヌのメロディを遮るように携帯の着信音が鳴り響いた。
出動要請かとホームボタンを押したオールマイトが顔色を変える。
――港区の文化ホールにて火災発生。内部に数人が取り残され、救助に出動したレスキューも入れない大変危険な状態。近隣で活躍されるヒーローの方々の救援を乞う――
オールマイトが確認した画面には、彼以外のヒーローにとっては事務的でしかない報告の文字が並んでいた。
2015.5.10
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