防火シャッターのおかげで炎と煙は防げているものの、熱は室内に容赦なく伝わる。ダクトが動いているにもかかわらず、室内の温度は上昇し続けていた。
実際に酸素が足りないわけではないだろう。しかし気温の上昇に連動して息苦しさはつのる。
周りをざっと見回した先で、小柄なお年寄りが苦しそうにうずくまるのが見えた。
「大丈夫ですか」
大丈夫なんかであるわけがない。わかっていて思わず声をかけた。
火事発生前に、友人から刺繍の先生と紹介された老婆が肩で息をしている。和装であるために、なおさら熱いのだろう。
衣服を緩めてあげたいが、和装に疎い果穂はどうすればいいのかわからない。年配者にこの温度はつらいだろうに。
一刻も早く救助されることを願ってやまない。
だが果穂は心のどこかで感じていた。
きっとあの人が来てくれる。それは期待ではなく確信だった。
***
正六角形の文化ホールの西側から出た火は、あっという間に燃え広がった。
ホール中央に飾られていた室内噴水の管が破裂し、果穂たちのいるシャッターの向こうの床は水浸しになっていた。
炎により断線した電気コードが水浸しの床に触れショートし、またそこから火災が起きるという悪循環。
半分以上が火の海と化した文化ホールの東側の一室に、果穂たちはいた。
三か所ある出口からもっとも離れた場所であり、水と電気と炎の海を通らねば出口にたどり着くことはできない。
レスキュー隊ですら出口方面からの救出ができず、そのためヒーローに出動要請がかかったのだった。
現場の判断は工作車で東側の壁を破壊して、逃げ遅れた人々を救助するというものだ。そしてその場に工作車よりも早くたどり着いたのが、オールマイトだった。
オールマイトは消防の責任者から状況を聞き、バックドラフトの危険性はないことや要救助者の位置を確認すると、東の壁の前に立った。
彼が力を込めるごとに、張りつめた筋肉がその質量を増してゆく。そして次の瞬間、鋼鉄のごとく強靭な右拳が東の壁に叩きつけられた。
響く轟音と巻き起こる砂埃、同時に壁が大破し爆音と共に崩れ落ちた。
やっぱり来てくれた、と果穂は思った。
周りもオールマイトの登場に安心し、顔を見合わせ笑う。
オールマイトがぐったりしている老婆と、状態のよくない救助対象者を数人広い肩に担ぎあげた。
「すぐにレスキュー隊が来ます。そちらのお嬢さんがたはそのまま待っていてください。まず年配の方から救助します」
――そちらのお嬢さん――
果穂が弾かれたように顔を上げた。
この時、果穂は青い瞳と目があった。悪いことにその時、オールマイトが先に視線を外した。それが意図的だったのか、そうでないのかはわからない。
確かにもう危険はないだろう。
だがこの時、果穂は自分が彼から見捨てられてしまったような気がした。
他のヒーローも到着し、ひとり、またひとりと救助されていく。果穂も名前も知らないヒーローの一人に助け出され、念のための検査ということで救急車に乗せられた。
救急車の中で、果穂はひとり涙をこぼしていた。
ヒーローとつき合うということは、こういうことだ。
最初にオールマイトは言っていた。つらい思いをさせるかもしれないと。
危険な仕事だ、いつ彼を失うかわからない。
人気商売だ、マスコミに追いかけられるかもしれない。
そして何か災害が起きた時、彼は果穂を優先しない。
救出の順番は重症者から。それが救助のセオリーのひとつ。
そして要救助者の状態に差がなかった場合、オールマイトは自分の身内の救出を最後にする。そういう人だ。
幸いにも何も問題なく、果穂は病院から解放された。
灯の寿命が近いのか、救急用の出入り口を照らす非常灯がじりじりと音を立てている。その下のベンチに、見覚えのある背の高い影をみとめた。
「大丈夫?」
気まずそうに彼が声をかけてきた。ぎくしゃくしたまま果穂がうなずく。
「果穂……」
「やめて!」
渋めの低音を、果穂が遮った。何を言おうとしているのか、なんとなく予想できたからだ。
彼は天下のオールマイトだ。救出の順番などという些細なことで、謝罪なんかさせてはならない。
『大丈夫、気にしてない。あなたはオールマイトだもの』
そう笑いながら言えたなら、どんなによかっただろう。
だが果穂は、そこまで物わかりのいい女にはどうしてもなれなかった。
ずっと夢見ていた。
家族がいなかった自分を守ってくれる人が現れると。
自分だけを見て、自分だけを大切に思って生きてくれる人が必ずいると。
それはとても、子供っぽい夢だ。
「悪かった」
悪くないのに。彼はちっとも悪くないのに、こういうところがやっぱりずるい。
とうとう果穂は感情を爆発させた。
「わたしはあなたに助けてほしかった! どうしてあの時目を逸らしたりしたの? わたしはとても悲しかった」
オールマイトは静かにうなずく。その顔から、笑みが消えていた。
「あなたはわたしと同じくらい、ほかの人たちも大切なのよね」
わたしは今絶望した顔をしているだろうと、果穂は思った。
だってほら、オールマイトもまた、こんなにも絶望している。
そしてオールマイトにこんな顔をさせているのは、自分なのだ。
せめて今日ではなく、明日会いに来てくれたらよかったのに。冷静になれる時間がほしかったのに。
オールマイトは誠実だ。だが皮肉なことに、その誠実さが互いの間に走った亀裂を深めていく。
「あなたにとって一番大切なのは何? わたしは、わたしだけを守ってくれる相手が欲しい。みんなの誰かよりわたしだけのひとがいい」
「そうか……」
「『オールマイト』とは、やっていけない」
「それは、私とはもう終わりにしたい、という事かい」
違うと叫びたかった。こんなことを言いたかったわけではなかった。嘘でもいい、言ってくれればいいのに。
君が私の一番だよと。なにがあろうと、次は君を真っ先に助けると。
この時の果穂は少し混乱していたのかもしれない。
冷静に考えればわかる。
順序がどうあれ、たとえ何が起こっても彼は果穂を助けるだろう。
だが果穂が好きになったのはマイトであってオールマイトではない。そして真実を知ったのは昨日のことだ。
努力すると言ってみたところで、そう簡単に割り切れるものでも、理解しきれるものでもなかった。
「わかった……」
黙ったままでいた果穂の上に、静かな声が降ってきた。
絶望が銃弾に打たれたガラスの破片のように飛び散り、互いの心に突き刺さる。
ふたりは一つになれた幸せな夜の翌日に、もっとも悲しい選択をした。
じりじりと音をたて続ける非常灯の下で、果穂は夜の街へと消えていく大きな背中を、身じろぎもせず見つめていた。
***
大好きだったあの人を失ったというのに、日常は変わらず訪れる。
知り合って、たった二か月。付き合った期間は、たったのひと月。
共に過ごした期間よりそうでない期間の方がもう長いのに、今でも彼のことを思ってしまう自分が悲しい。
あの日どうしてあんな事を言ってしまったのだろう。
どんなに後悔しても、時間は戻せない。
あの人と共にいられるのなら、あの日互いの心に刺さったままの絶望の破片を拾い集めて、希望のかけらに変えるのに。
つぼみをつけ始めたデイジーの鉢植えに水をやりながら、果穂は大きなため息をついた。
デイジー、大好きだった花。
あのひとはわたしをデイジーに似ていると言った。
デイジーの花言葉は「純潔」「美人」「平和」「希望」
違う、違う、違う、違う。
「平和」「希望」それは彼にこそふさわしい言葉。
今でもずっと好きな人。その人は平和の象徴、オールマイト。
ウェブのヒーローニュースを、いつしか購読するようになった。
毎日流れてくるオールマイトのニュースに一喜一憂し、自分はいったい何をしているのかと自嘲する。
そして毎日、彼を思って泣いた。
夕べも泣いたせいで目が腫れている。こんなみっともない顔で外には出たくない。
でも仕事にはいかなくては。大人というのはそういうものだ。
そして数日後、オールマイトが事務所を閉め、母校である雄英高校の教師になるというニュースが日本中を駆け巡った。
***
オールマイトは、花が終わり緑色の葉が芽吹き始めた桜の並木道で大きく伸びをした。
青い瞳が暗く陰り痩せた肩が落ちたその様子は、どこかさみしそうに見える。
夕闇の中、職場である雄英高校から家までの道をのんびり歩く。それがオールマイトの日課になっていた。
たまには違う経路を開拓しようと思ったのだろうか、その足がいつもと違う路地へと入っていく。
元々好奇心旺盛な性格だ。愉快そうな表情で、もの珍しそうに周りを見回しながら彼はを歩をすすめてゆく。そうこうするうちに、細い川を暗渠にした遊歩道に出た。
ふと、彼は遊歩道沿いの古びたアパートの玄関前に置いてある、デイジーの小さな鉢に目をとめた。
中央が黄色で花びらが白。少し菊に似た愛らしい花が咲いている。
その時、鉢の置かれている部屋の扉がかちゃりとあいた。
この時、出てきた方とその姿を確認した方、双方が一瞬にして固まった。
固まり続ける大きな影と小さな影、二人の間を天使が通る。
男のほうが意を決したように口を開いた。
「どうして?」
他に聞きようがなかったのだろうか? そんなこと答えられるわけがないのにと、娘は思う。
反射的に閉めようとした扉を、閉まる寸前にとどめたのは大きな手。
泣きたい気持ちを懸命にこらえながら、果穂がオールマイトを睨みつけた。
「中に入れてくれないかな」
「男性にそういうことを言ってはいけないんじゃなかったんですか」
「確かにそうだね。でもご近所の目もあるだろうし、ここで立ち話もなんだろう?」
あなたに会いたくて仕事を変えてこの街に来たという本当のことも、話などないという嘘も言えないまま、果穂はオールマイトを狭い玄関に招き入れた。
さすがにオールマイトは紳士だった。別れた女の家の中に上り込むようなまねはしない。玄関の三和土に立ったまま、静かに果穂を見下ろしている。
変わらない。
金色の髪、落ち窪んだ眼窩の下で輝くサファイアのような青い瞳、肉のない頬、そして大好きだった、優しい大きな手。
「元気だったかい?」
「ごらんのとおりです」
「ンン。なんだかずいぶん冷たいんだね」
目を逸らす果穂に、少し残念そうに告げ、それでもオールマイトは笑む。
冷たい応対になってしまうのは、泣く寸前だからだ。少しでも気を緩めたら、一気に涙がこぼれそうで怖かった。
彼にとっては重たいだけだろう。自分のしていることはストーカーと同じだ。
だが次にオールマイトの口から出た言葉に、果穂は崩れ落ちそうになった。
「会いたかった。ずっと」
絞り出すような声とらしくない言葉に、思わず彼の顔を見上げた。
切なげにこちらを見下ろしている、オールマイトがそこにいた。最後の日と同じ、笑っていないオールマイトだ。
彼は少しの間果穂の反応を待っていたようだったが、やがてちいさく息をついた。
「ごめん。私は少し勘違いをしてしまったようだ。君にとっては迷惑なだけだったね。それじゃ」
オールマイトはくるりと果穂に背を向けた。薄いけれど広くて大きな背中。その背が、あの日夜の街へと消えた後姿と重なった。
脊髄反射かと思われるほどの速さで伸びた手が、大きな背中を包んでいる上着の裾を掴む。
オールマイトの窪んだ眼窩の奥の眼が、大きく開かれた。
掴んだはいいが、なんと言ったらいいのかわからない。
オールマイトも無言のままだ。
時計の秒針が時を刻む音、それだけが夕暮れの安アパートの中に響いてゆく。
ぱたぱたと涙がこぼれた。
あの日、あの時の光景が、まぶたの裏でひろがる。まるで映画のワンシーンのように。
互いの心に、銃弾を受けたガラス窓の破片のような絶望が突き刺さったあの日。
果穂は一年近くも、あの日の破片を抜くことができず生きてきたのだ。
そしてそれは、オールマイトもおそらく同じで。
どうしたらいいのだろう。あの日に自分から手放したはずなのに。
でももう、二度とこの手は離したくない。
絶望の破片を希望のかけらに変えるには、どんな魔法が必要なのか。
「うん」
どれだけ時間がたったのか、唐突に低いが明るい声が響き、オールマイトが振りかえった。そこに浮かんでいるのは作り物ではない満面の笑み。
節のある長い指が果穂の頬に伸びてきて、あふれる涙をそっと拭った。
「少し、話をさせてもらってもいいだろうか」
「なに?」
「君と別れてから今日までの間に私に起こったことと、私と別れてから今日までの間に君に起こったこと。それから」
「それから?」
「これから、私と君との間に起こるであろうこと」
彼が言葉を発するごとに、果穂の心に突き刺さっていた絶望の破片がするりするりと抜け落ちる。
一般女性である果穂がオールマイトと共に過ごすには、かなりの覚悟が必要だろう。
けれど今度こそ、乗り越えられるような気がした。
彼を救おうなどとは思わない。同時に救われたいとも思わなかった。
ただ傍にいたい、今はそれだけでいい。
二人を隔てた絶望を希望に変える魔法の言葉があったなら、それはきっとたった一つだ。
「君を今でも愛してる」
果穂のてのひらの上で、絶望の最後のひとかけらがきらきら輝く希望に変わった。
2015.5.13
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