11話 薄暮の気配

 つい先ほどまでオレンジ一色に染められていた空が、徐々に藍色へと変化していく。じわじわと夜に侵食されていく薄暮の空を見つめながら、オールマイトはため息をついた。
 南東方面に浮かぶ上弦の月は、今日も変わらず美しい。

 初めて杏奈と寝た夜のことが、忘れらない。
 ジェルを使わないとできないのだと、好きな男と寝るのは初めてだから作法がわからないのだと、杏奈は言った。
 その瞬間、不覚にも泣きそうになった。この子の生きてきた道はどれだけ過酷なものであったのかと。
 おののき震えながら、白雪姫のような汚れなき心を持った杏奈は、この腕の中で女になった。

 こんなにも誰かを愛しいと思ったことなどない。それを杏奈に伝えんとした時、結婚という選択が至極自然に頭に浮かんだ。
 あの日、さり気なさを装ってプロポーズしてしまったが、杏奈はいったいどう思ったのだろうか。あまり乗り気ではないようだった。だから急がないよと互いにとっての逃げ道を作った。

「オールマイトさん、ご協力ありがとうございました」

 急に背後からかけられた声に驚き、派手に吐血しながらひっくり返った。倒れながら見上げた先には、長い髪と整った面差しのセクシーな女性。

「ごめんなさい。驚かせてしまいましたか」
「ミッドナイト、君か。考え事をしていたんだ」

 ミッドナイトは貧困女性の自立を助けるNPO法人を支援している。
 協賛に名前を連ねていると言っていたが、彼女の活動は協賛と呼べるようなものではない。スタッフの一人といってもいいくらいだ。内情にも関わり、積極的に手助けをしている。
 ミッドナイトはオールマイトの恋人である杏奈がしていたことを知っている。だがその事情について尋ねてきたりはしない。
 話のわかる大人の女、ミッドナイトを表現するには、その一言に尽きると思う。

「オールマイトさんが協賛に名を連ねてくださったおかげで、ずいぶん活動が楽になりました」

 ミッドナイトの言うとおり、オールマイトは少し前にその団体への協賛を表明していた。私財をはたいて、活動費への寄付もした。
 杏奈のような境遇で苦しむ人を少しでも助けられたら、そう思ったからだ。
 「平和の象徴」の影響力は大きい。オールマイトが協賛しているというだけで、いくつかスポンサーがついたらしい。マスコミからも注目され、オールマイト自身も何度かインタビューを受けた。

「自立支援に合わせて、女性たちにカウンセラーをつけることもできるようになりました。マスコミにも活動を取り上げられることが増えましたし、相談に来てくれる子も増えてきました。これで少しでも多くの女性が救われるといいのですが」
「そうだね」

 暮れなずむ空をちらりと眺めてから、オールマイトは常のように笑った。

***

「あのね、あたし俊典さんとは別に暮らそうかと思ってるんだ……」

 食後のひととき、杏奈の口から出た言葉に、オールマイトはハンマーで頭をぶん殴られたかのようなショックを受けた。
 何故だ。結婚の話が早急すぎたか。いや、でも当初は、めどがつくまでの同居と確かに言ってはいた。けれどー。
 ハンマーで叩かれた思考はぐちゃぐちゃに砕けて頭の中を駆け巡る。それでも精いっぱいに冷静なふうを装って、理由を尋ねた。

「どうして? 私のことが嫌になった?」
「違うよ。俊典さんのことは好き。大好きだよ。お嫁さんにしてくれるって話も、とても嬉しかった、夢みたいだと思った」
「じゃあ、どうして?」

 オールマイトはまっすぐに自分を見据えた杏奈の瞳を確認して、これはきっと覆せないと絶望的な気分になった。それは確固たる意思のこもった、強いまなざしだった。

「今のままのあたしだと、ダメな気がするの」
「だめ?」
「今、俊典さんに捨てられたら、あたしどうなる? 住むところも仕事もないから、またあの通りに立たなきゃいけなくなっちゃうよね」
「捨てるって……そんなことするわけないじゃないか」
「うん、でもね、きっとこのままだと、あたしは俊典さんにすがりつくよ。俊典さんしか見えなくなって、俊典さんがあたしの生き甲斐みたいになっちゃう」
「……悪くないと思うけど?」
「きっとそうなったら、俊典さんはあたしのことをウザいって思うようになるよ。うっとうしくなって、きっと逃げたくなると思う」
「そんなことはないよ」

 杏奈の言うことを否定しながら、その言い分にも一理あるとオールマイトは思った。
 悲しいが、人はそういう生き物でもある。特に恋愛においてはそうだろう。追われれば逃げたくなり、逃げられれば追いたくなる。
 自分がそうならないであろう自信はあるが、世の中に「絶対」と言えるものなど存在しない。

「だからね、少し俊典さんから離れて、自分で生きていける力を身につけたいの。少しでも俊典さんにつりあう女になれるように」

 杏奈は続ける。

「昔はなりたいものも、やりたいこともそれなりにあったんだ。だからもう一度それを目指してみようかと思って……」
「君は、なにがしたいんだい?」
「あたしね、小さくてもいいから食べ物に関するお店を持ちたいの。調理師の資格もちゃんととって」
「この家にいても資格は取れると思うけど、それではだめなんだね?」

 うんと杏奈は頷き、パンフレットを取り出した。それは奇しくも、ミッドナイトが音頭を取って、自身も協賛に名を連ねているNPO法人のものだった。

「これね、前に警察でもらった冊子なんだけど……ヒーローのミッドナイトが支援してる団体なんだって。あたし、ここの団体のシェアハウスにお世話になろうと思うんだ。そこでちゃんと資格をとって、体なんか売らなくても生きていけるための道筋をつくりたいの。自分の足で立って、生きていけるように」
「……」
「ずっと悩んでたんだけど、オールマイトも協賛してるって聞いたから、大丈夫だと思うんだ」
「……皮肉なもんだな……」
「え?」
「いや、なんでもないよ。ちゃんと君が考えて出した答えなら、私はそれを支持するよ。君がここからいなくなるのは……本当にとても……残念だけどね」
「うん……ごめん……ほんとうにごめんね……あたしみたいな女に、俊典さんはこんなによくしてくれたのに……」

 皮肉なものだ。杏奈のような境遇の人間を救いたいと思ってしたことが、杏奈がここを離れる理由になってしまうとは。ただ一つ救いがあるとすれば、杏奈の気持ちがポジティブに傾いている、それだけだろうか。

「ひとつだけ約束してくれないか。調理師の資格がとれて仕事がみつかったら、またここに戻ってきてくれるって」
「いいの? あたし、こんな勝手な事言ってるのに」
「当たり前じゃないか」
「そのまま別れようって言われるんじゃないかって……すごくこわかった……」

 ばかだな、とオールマイトは杏奈の肩を引き寄せた。どうしてこの子はこんなに自分に自信がないのだろう。

「そんなこと言うわけないじゃないか。君がここを離れても、私の気持ちはかわらないよ」
「……うん……ありがとう」

 そして一週間後、杏奈はシェアハウスへと旅立っていった。

***

「久しぶり」

 風薫る五月最初の祝日、オールマイトは自宅にて色の白いそばかすのある娘を出迎えた。ついこの間まで生活を共にしていたというのに、こうして家で会うのはなんだか少し気恥ずかしい。
 杏奈はずいぶんと生き生きとして見えた。

 かつて定食屋で働いていた二年間のおかげで、すぐに調理師免許の試験がうけられること。
 今度、食品衛生管理者の資格習得の研修を受けること。
 シェアハウスでは似た境遇で育った女性がたくさんいて、そこでもうまくやっていけていること。
 杏奈は嬉しげに現状を語る。

「調理師の試験がすぐに受けられるのは良かったね」
「うん。これでいい職場に恵まれればいいな。そこでお金もためなくちゃ」
「ああ、そうそう、お金といえばね」

 オールマイトは今日の本題のひとつを切り出した。弁護士から連絡があったのだ。

「たぶん君にも近々連絡が来ると思うけど、過払い請求の件ね、カタがついたみたいだよ」
「ほんと!? 良かった」
「ああ、良かったな」
「ほんと、こんなにいろいろなことがうまくいくなんて夢みたい。全部俊典さんのおかげだよ、ありがとう」

 オールマイトの胸がちくりと痛む。
 杏奈が楽しくやっていることは喜ばしいことのはずなのに、自分のところにいる頃よりも生き生きしてみえるその姿に、嫉妬のような感情が生まれた。

「……あとね、あそこであたし、週に二回カウンセリングを受けてるの」
「カウンセリング?」
「うん。あたし、どうしても自分に自信が持てなくて……俊典さんがあたしを大事にしてくれればしてくれるほど、落ち込むことが多かったから……」

 そういえば先日のミッドナイトとの会話の中でも、カウンセリングの話が出ていた。
 貧困から性風俗に身を落とすような女性の中には、過酷な人生に疲れ心を病んでいる者がいる。幼少時に虐待を受けて深く傷ついている人もいる。
 貧困だけでなく、虐待もまた連鎖する。人は自分がされたように、相手にもしてしまいがちな生き物だ。だからそうならないように、少しずつでも精神のケアをすることが必要なのだ。

「あたしみたいなの、アダルトチルドレンっていうんだって……だからカウンセラーの先生と話をする中で、自分の中の子供と折り合いをつけている最中なんだ」
「そうなのか」
「だから、もしもカウンセリングが終わって、資格も取って、自分に自信が持てるようになったらなんだけど……あたしを俊典さんのお嫁さんにしてくれる?」
「! もちろんだよ」

 オールマイトは目の前がぱあっと明るくなるのを感じた。
 単純なものだ、先ほどまであんなにも黒い気持ちでいたくせに。
 オールマイトは浮かれかけ、そしてもう一度口をつぐんだ、今日の一番の目的を果たさなくてはいけないからだ。

「実はもうひとつ、君に話さなくてはいけないことがある」
「俊典さん?」
「その……君のお母さんのことなんだ」
「かあさんの?」
「君が押し付けられた借金について、このままにしておくのはよくないと思ってね。行方を探してみたんだよ」
「みつかったの……?」

 不安そうに自らを見上げてくる杏奈のようすに、気持ちが揺らいだ。非常に言いにくいことだ。けれど、やはり伝えなくてはならない。
 躊躇しながら口を開きかけたところに、杏奈の声がかぶさった。

「かあさん、しんだの?」

 表情をなくしたまま、杏奈はそう言った。白く整った面差しは、生気を失った人形のようだった。

「昨年の冬に亡くなったそうだ」
「そう……そんな気はしてたんだ……」

 杏奈の瞳からほろほろと涙が毀れ落ちた。
 こうなることを予想していたから、外では会わず家に招いたのだ。
 どんな死に方をしたかと、杏奈は問わなかった。オールマイトも伝えなかった。うらぶれた通りの片隅で泥酔したまま凍死したなどと、そんなことがどうして言えよう。
 
 借金を押し付けて逃げた母親を、きっと杏奈は憎んだだろう、恨んだだろう。
 正直な話、オールマイトはこの母親を赦すことができない。
 だがそれでも、杏奈にとっては母なのだ。
 死ぬほど憎んで、死ぬほど恨んで、それでも愛して欲しいと願い続けた、たった一人の肉親だ。それを失った悲しみは察するに余りある。

 頼りなげな肩を抱きよせると、杏奈は声を殺して泣きながらしがみ付いてきた。
 もっとすがってくれていい。声を殺さず泣けばいい。そう思いながら、オールマイトは自分よりはるかに小さくて細い身体を受け止めた。

 このままこの子を腕の中に閉じ込めてしまいたい。
 この薄幸な娘が、二度と一人で泣かなくてもいいように。


2015.12.9
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月とうさぎ