12話 憂うヴィーナス

「俊典さん……いつもありがとう」

 しばらく泣いていた杏奈が、甘えるようにオールマイトの薄い胸に顔を摺り寄せてきた。ただそれだけのことなのに、不謹慎にも自身の雄が徐々に熱を持ち始める。
 なんたることだ。十九、二十歳の若造でもあるまいし。
 オールマイトの体の変化に気がついたのか、杏奈が小さく「いいよ」とささやいた。
 下腹部がずくりと熱を持ち、欲がむくりと鎌首をもたげる。

 杏奈とは何度も褥を共にしている。
 だが明るいうちからの行為はこれが初めてのことだ。
 杏奈の心情はわからないが、肉親を失った悲しみを誰かにすがることで忘れようとしている、そんな気がした。

 オールマイトはそのまま唇を奪った。貪るように口腔内を堪能しながら、胸元をまさぐり、やや乱暴にスカートをまくり上げて下着をおろす。杏奈は少し身じろぎしたが、嫌がるそぶりは見せなかった。

 ベッドへ向かう余裕すらなく、そのままソファの上で愛し合った。
 リビングで、陽の高いうちから耽る情事のその甘さ。

 大抵の場合、男は女を抱いた瞬間から飽きが始まる。しかし杏奈を抱けば抱くほど、オールマイトは自らが溺れていくことに気がついていた。
 手に入れたと思ったとたんに消え失せてしまう蜃気楼のような儚さを、杏奈は所有していたからだ。
 杏奈は捨てられることに怯えていたが、それは全く逆の話だ。執着し、依存しているのはオールマイトのほうだった。

 このさき、オールマイトとしての活動ができなくなった時、杏奈がそばにいてくれなかったらと思うとぞっとした。
 そしてまた、杏奈を置いて逝く日が来るのかと思うとやはり恐怖に襲われた。
 ついこの間までは、自分が消え去ることに何のためらいもなかった。この身に有り余るほどの能力をもらった責務として、人々のために生きることを信条にしてきた。
 それがどうだ、今、杏奈の側を離れるのがこんなにも惜しい。
 何度この腕に抱いても足りない。幾度愛をささやいてもまだ足りない。

「……っ……」

 行為のあと、愛しい娘の傍らでオールマイトは常より少し多めの血を吐いた。

「俊典さん! 大丈夫?」

 心配する杏奈にオールマイトは満面の笑みを返す。

「オジサン、今日はちょっとはりきりすぎちゃった」
「茶化さないで。温かいタオルで顔を拭く? それとも何かのむ?」

 慌てて立ち上がろうとしたその細い手首を取り、もう一度自らの腕の中に閉じ込める。

「俊典さん?」
「いかないで、ここにいてくれ」
「でも」
「大丈夫、本当にね、頑張りすぎただけだから。だからもう少しこのままでいさせて」

 ああ、重たいのはいったいどちらの気持ちなのだろう、オールマイトは心の中で嘆息する。

***

「何時までに帰ればいいんだっけ?」

 夕刻の街を歩きながら、オールマイトが訪ねた。

「ええとね、今日は夕飯はいらないって言ってあるから、門限の十時までに帰れれば大丈夫」
「案外自由なんだな」
「うん、女性ばかりだから門限と戸締りは厳しいんだけど、中での生活は自由だよ」
「今日はね、駅のすぐ近くにある小料理屋に行こうと思うんだ。こぢんまりした店けど、とても美味しいところだよ」
「俊典さん、そこの常連なの?」
「職場の同僚とたまに行くから、顔は覚えられてるみたいだね。ホラ、私、縦に長いから」
「……和服美人のおかみさんとかがいるの?」
「なんだい、それ?」
「ドラマなんかだと、そういう小料理屋さんには大抵すごい美人のおかみさんがいて、常連のお客さんといい雰囲気になったりしてるから……だったらちょっとやだなぁと思って」
「なんだい? それ、焼きもち?」
「……ん……まあ……そうかも……」
「君はバディものの刑事ドラマの見すぎだよ。和服美人のおかみさんのいる店なんてそうそうないって。今日行く店にはね、気のいい年配の女将と腕のいい板前がいる」

 杏奈が焼きもちをやいてくれるなんてと、密かに喜びながらオールマイトは顔を上げた。
 本当に我ながら単純なものだ。娘みたいな年齢の子の反応に一喜一憂するなんて。

 と、その時、オールマイトは数十メートル先に異様な人だかりができているのに気がついた。
 すわヴィランかと思いかけたが、どうやら違う。群がる人々の顔が全て上に向いている。
 なんだと上空に視線を向けたオールマイトは、そのままごくりと息を飲んだ。

 人々が見ているのは、巨大なターミナルビルだった。30階あたりのところで、窓に並行に張り付いているはずのゴンドラがありえない角度に傾いている。
 オールマイトは目を凝らした。片側のワイヤーが切れ、バランスを失っている。
 53階建てのビルの高さは地上245メートル。最上階ではないにしろ、あそこから落ちたらひとたまりもないだろう。あの高さでははしご車でも届かない。

 警察と消防がヒーローの到着を待ちながら、増えてゆく野次馬を危険のないところまで下がるよう誘導している。
 しかしバランスを失ったゴンドラは今にも落ちてしまいそうだ。
 ゴンドラの中には清掃員が二人。

 女性は細かく見ているものだ、とオールマイトは拳を握りしめた。
 姿を変えるところを見ていなかったとしても、おそらく杏奈はすぐに俊典=オールマイトであることに気がつくだろう。いずれにせよ、自身のことは近々話そうと思ってはいたのだ。
 躊躇している時間はない。

「杏奈。すまないが、君を驚かせることになるかもしれない」
「え?」
「ここで待ってて!」

 愛しい娘の返答を待たず、オールマイトは物陰に走り、ヒーロー活動時の姿―マッスルフォーム―になった。

「もう大丈夫、私が来た!」

 オールマイトは自らを鼓舞するために叫び、笑う。
 同時に巻き起こる大歓声は、ゴンドラの人たちが助かると確信するに等しいものだ。オールマイトが失敗するなど、誰も思いはしない。そこにかかるこの重圧と、この責任とこの恐怖。
 それをかき消すために、オールマイトはもう一度高らかに嗤う。

 ターミナルビルは18階までは一つの建物だが、それより上の高層階はホテルタワーとオフィスタワーの二つに分かれている。ゴンドラがぶら下がっているのはオフィスタワーのほうだった。
 二つの高層部をつなげる18階の空中回廊から飛び上がっていけば、己の個性なら救助が可能だ。そう瞬時に判断したオールマイトは地面を蹴って跳躍した。

***

 あそこにいるのはいったいだれだ、と杏奈は思った。
 一瞬にしてゴンドラごと中にいた人たちを救助した、あの英雄の正体は。

「私が来た!!」

 響いたその声は、愛しいひとの声だった。

 すまないが驚かせる、と言って消えた恋人。
 すぐに現れたスーパーヒーローは、恋人が着ていたのとまったく同じ服を着ていた。
 恋人はこの春、雄英で教職についた。
 オールマイトもこの春、同じ高校に教師として就任した。
 恋人の髪の色は英雄と同じ煌めく太陽のような金色で、瞳の色もまた同じ、晴れ渡った空の色だった。

 今まで気づくことができなかった、自分のうかつさに呆れた。
 あの冷たい雨の日に、鉄の扉を素手で壊した痩せこけた恋人は、オールマイトであったのだ。
 それは大変な驚きであったが、なにより杏奈を怯えさせたのは、オールマイトの登場に沸き立つ人々の熱狂ぶりだった。

 それはまるで、海外のB級映画を観ているかのようだった。

 オールマイトがひとつ跳躍し救助対象に近づくごとに、野次馬たちからあがる歓声は大きくなった。
 行われているのは人助けという尊い行為のはずなのに、熱狂した人々の顔に浮かんでいるのはショーを眺めるかのような恍惚とした興奮の表情。
 巨大な筋肉の塊がゴンドラにたどり着いた時、野次馬たちの狂熱は最高潮に達した。

「おまたせ」

 うしろから声をかけられ、杏奈はぎくりと身を強張らせた。振り返るのが怖かった。いったいなんと声をかければいいのかわからない。 
 先ほどまでと同じように、屈託なく笑えるだろうか。

「ごめん……」

 いつまでも振り返らない杏奈を不審に思ったのだろう。俊典がすまなさそうな声を上げた。
 ゆっくりと振り返ると、俊典―オールマイトは口から流れ出る血を拭いているところだった。杏奈がやっとのことで声を上げる。

「……俊典さん、オールマイト……だった……の……」
「うん。いずれ話すつもりだったんだ。順番が前後しちゃってごめん」

 なんと答えたらいいか、やはりわからない。しばし逡巡していると、オールマイトが大きく屈んで、杏奈の顔を覗き込んできた。

「驚かせちゃったかい?」
「……うん……」

 かろうじて杏奈は小さく答え、視線を上に泳がせた。

 暗くなり始めたビルの谷間の空に光るのは、宵の明星、金星だ。五月の金星は輝かしくも美しい。
 まるで先ほどの英雄のように。

***

 夜風が爽やかにそして密やかにオールマイトの頬をなぶった。酔った身体に、五月の風は心地よい。そのはずなのに、気持ちは全く晴れなかった。
 その頭上で輝くのは、さそり座の一部でもあるアンタレス。その煌めきは、常ならば美しいと感じるはずのものだ。
 だがこの時、妖しく輝く赤い光が二人の行く末を暗示しているかのように思え、オールマイトは少し怯んだ。

 夕方の一件から、杏奈の態度が目に見えてわかるほど硬化した。
 気まずい感じのまま小料理屋に行き、あまり会話も弾まぬまま食事をしてそのまま別れた。
 シェアハウスの入り口まで送るよと何度も告げたが、大丈夫だからと杏奈はひとりで帰っていった。
 杏奈にとって、今日はいろんなことがありすぎた。混乱していたとしても仕方がないことだろう。オールマイトはそう思った……いや、そう思おうとした。

 けれど、この日を境に杏奈と連絡が取れなくなった。

***

 シェアハウスはあくまでも自立支援を目的としている。本人が出ていきたいと思ったらいつでも立ち去れる。その可能性を危惧したオールマイトは慌てて法人に問い合わせた。
 やっとのことで得た情報は、杏奈がシェアハウスから「卒業」したという事だけだった。
 俊典としてではなくオールマイトとして、支援する側として、対象者の「卒業」後の情報掲示を求めたが、法人側からはいくら支援者であっても個人情報は伝えられないとの返事しかなかった。
 団体の性質からしても、それは当然のことだろう。

 オールマイトはため息をひとつ吐いてから、カーテンを開けた。東の空がうっすらと明るみ始めている。濃い紫が空を染めている。この頃は理由もないのに早く目覚めてしまう。

 有明の空には明けの明星、金星が輝いている。
 美の女神の名をつけられた星は、少し杏奈に似ていると思った。太陽ほど眩しくもなく、月ほどの明るさもない。けれど金色のその瞬きは人の心をふかくとらえて離さない。
 オールマイトにとって杏奈は、手の届かない金星のようなものだったのか。

 もう少ししたら、朝が夜の闇を駆逐するだろう。空が茜色に染まったあの日と同じように。
 杏奈を風花通りから連れ出した翌朝の空は、前日の雨がうそのような美しい朝焼けだった。
 朝焼けは雨のきざしと人は言う。
 今、杏奈の上に雨は降っていないだろうか。降っていたとしたら、その雨は冷たくないだろうか。
 自らの差し出した傘からするりと抜け出していってしまった娘を思い、オールマイトは落ち窪んだ眼窩の奥の目を伏せた。


2015.12.10
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月とうさぎ