時刻は午後二時半。ランチタイムは終了だ。杏奈はにじみ出る汗をぬぐいながら、準備中の札を店の戸にかけた。
NPO法人の紹介で務めた先は、中央の駅から地下鉄で三つめの駅近くにある小さな定食屋だった。初老の婦人が店主で、切り盛りしている小さな店だ。
ご主人である先代店主が亡くなって以来、店を手伝ってくれる若い人を探していたという。
杏奈はこの定食屋に勤める傍ら、定休日にはNPO法人の支援を受けて、カウンセリングにも通っている。
八月になったら県の調理師試験を受けるつもりだ。先月願書を出してきた。
皿を洗い、テーブルを拭き、店内を掃き掃除しながら、杏奈がそっとため息をつく。
俊典と過ごした日々は、冷たい雨続きの人生の中で初めて出会った、穏やかな春の陽だまりのようだった。
でも、これできっと良かったのだ。
俊典のことは今でも愛しているけれど。今でも彼を思うと、涙がこぼれそうになるけれど。
「杏奈ちゃん、それ終わったら休憩に入りなよ。いつもありがとうね」
店主の優しい声ににこりと笑ったその時だった。
準備中の札がかかっているはずの店の戸が、からりと開いた。
そちらに視線を向けた杏奈の瞳が、驚きの形にひらかれる。
「すみませんね、お客さん。今準備中なんですよ。五時過ぎにまた開けますから」
店主の声がひどく遠く聞こえた。
引き戸の向こうに立っていたのは、見上げるほどの長身痩躯。
「……どうして……」
「私の情報網をなめないでもらえるかな」
杏奈は呆然としたまま動けない。ほうきを取り落さないようにするのが精いっぱいだ。
懐かしい声、懐かしい青い瞳。杏奈に薔薇色の人生をくれようとしたひと。
その姿がぐらりとゆらいだ。
瞳に張った水の膜が視界をゆがめていく。俊典はいとも簡単に、杏奈の涙腺を刺激する。
そんな杏奈の様子を見て察したのだろう、店主が心配そうに声をかけてきた。
「杏奈ちゃん……昔のヒモかなにかかい?」
「違います……このひとは……あたしを助けてくれたひとです……」
店主に向かって俊典は頭を下げた。
「申し訳ありませんが、少しだけ彼女と話をさせてもらえませんか」
店主が口を開く前に杏奈が答える。
「もう、なにも話すことなんかないよ」
「君は私が嫌いか?」
杏奈はふるりと首を振って、俊典に背を向けた。
好きだ、好きに決まっている。本当は、ずっとずっと会いたかった。
「少しでいい、話をさせてくれ」
それでも杏奈は答えなかった。声を上げたりしたら、きっと涙がこぼれてしまう。泣いてしまったりしたら、気持ちをごまかすことが難しくなる。
「杏奈ちゃん、その人とはきちんと話をした方がいい。もし何かあったら呼びなさい。奥にいるから」
そう言って店主は奥の部屋へと姿を消した。
「せめてこちらを向いてくれないか」
ここまでしても、俊典は責めない。あれだけ世話になっておいて、黙って姿を消した杏奈のことを。
どこまで優しいのだろうこの人は。そう思うのと、涙が頬を伝うのが同時だった。
いま振り返るわけにはいかない。そんなことをしたら、涙に気づかれてしまう。本当の気持ちを知られてしまう。
杏奈は黙ったまま背を向けていた。だが俊典は優しいが甘い男ではない。
あっと思ったその時には、肩を掴まれ身体ごと俊典の方を向かされていた。
優しすぎるこのひとに出会ってから、杏奈は涙もろくなった。この状態での涙は、言葉よりもなお饒舌に心情を知らせてしまう。
「……もし君が……今でも私を想っていてくれるのなら……」
「俊典さんのことは今でも好き……だけどあたし怖いの!」
俊典の言葉を遮るように杏奈は叫んだ。
恋人が娼婦だったなどということが知られたら、オールマイトはおしまいだ。
平和の象徴、正義の象徴、国家が誇る高潔な英雄。
その評判を地に落とすわけにはいかない。
「あたし、オールマイトの恋人だと知られて、マスコミに追われるのが怖い!」
「そんなことはさせないよ」
「絶対とは言い切れないでしょう? あたしは静かに暮らしたい……」
これは第一の理由ではなかったが、本音の一つではあった。
あの夕刻の街での出来事を思い出すだけで、杏奈のからだに震えがはしる。
人々のあの熱。狂気をはらんだ異様な期待。あれほど人心を揺り動かす人が、己の恋人であるなんて。
「……だからあたし……俊典さんから逃げたの……」
この瞬間、俊典はとても悲しそうな顔をした。だがそれもほんの刹那こと。黄金色の男はすぐに静かに破顔する。
「……そうか……」
低い静かな声の主は、笑顔のはずなのに泣いているようにしか見えなかった。
杏奈は初めて、俊典の弱さを見たような気がした。
「騒がせて悪かった。それじゃあ、元気で」
俊典は泣いているような笑顔のまま右手を差し出した。杏奈はそれに応えない。
「最後に握手くらいさせてくれないか」
杏奈はふるふると首をふった。彫りの深い眼窩の奥に隠れた瞳が暗く陰るのが見えた。
俊典は少しの間待っていたが、やがて小さく息をつき、背中を向けた。
この時、頼れる大人だと思っていた俊典が、ひどく頼りなげに見えて杏奈は瞠目した。大きく広いはずの背中が、とても、とても小さく見えた。
黙ったまま店を出て行った俊典のあとを追うように、数歩よろめくように進んで、杏奈は入り口の戸にしがみついた。
街の中を進んでゆく細長い身体。遠ざかるその姿を見て、次から次へと涙がこぼれる。
あの後を追いたい。すがりつきたい。今でもやっぱり、こんなにも好きだ。
だけど怖い。
捨てられるのが、足手まといになるのが、あの熱狂が、彼を崇拝する人たちが。人々のあの情熱が、もしも負の方向に矢印を変えたら、あのひとはどうなってしまうのか。
俊典は怖くないのだろうか。人々の狂気にも似たあの声が。
見ていただけの杏奈ですら、こんなにも怖いのだ。その当人が怖くないはずがない。
あの妄信的な宗教じみた熱の中心にいて、恐れを感じないはずはない。
成功して当然、失敗は許されない。
人々が自分にすべてをゆだねる。すべての人の期待を背負ってそこに立つ。
その重圧と責任はいったいどれほどのものだろう。
それでも俊典―オールマイト―は、きっと、声高らかに笑うのだ。
杏奈の人生が冷たい雨に打たれるような日々であったのならば、オールマイトの人生は荒ぶ嵐のただなかにいるような日々だったのではないだろうか。
その荒れ狂う嵐に真正面から立ち向かい、輝き続ける孤高の存在。
臓器を失い、その後遺症に苦しみながら人を救ける、自己を殺したエゴイスト。
自らが命を賭して守った世界に忘れられてしまったとしても、民衆が彼を責めたとしても、オールマイトはきっと静かに笑うのだろう。
泣いたっていいのに、弱くたっていいのに。
オールマイトは神じゃない。みんなと同じ、人なのに。
そこまで思った瞬間、杏奈は弾かれたように駆けだしていた。
アスファルトが熱をはらんでゆらゆらと視界をゆがめる猛暑日の街で、遠ざかっていく背中の後を必死で追った。
追いつかなくては、あの背中が人込みに紛れてしまうその前に。
「俊典さん!」
口からその名が滑り出た。
人よりぬきんでた長身が、歩を止めて振り返る。
ああと安堵したその瞬間、足がもつれて杏奈は路上に倒れこんだ。
「杏奈!」
俊典が慌てて駆け寄ってくる。ああほら、このひとはこんなにも優しい。
「大丈夫かい?」
助け起こしてくれた俊典の腕にしがみつき、杏奈はぼろぼろと涙をこぼした。
「君は相変わらず泣き虫だね。別れ際にそんな顔をして追って来られたら、私も諦めがつかなくなってしまうじゃないか」
「俊典さんは……どうしてヒーローになったの?」
俊典の言にはいらえず、杏奈は唐突に問うた。心地よい低音が静かに答える。
「人を救いたいと思ったからだよ」
「じゃあ俊典さん自身は、誰に救ってもらうの?」
「私は助けてもらいたいとは思っていないよ」
「そんなの……悲しすぎる」
俊典の手が杏奈の頬にふれた。
「じゃあ、君が私を救ってくれないか……」
「……あたし、なにもできないよ……」
「君は君のままで、そばにいてくれればそれでいい」
「あたしはオールマイトには相応しくないよ」
「相応しいかどうかは、私が決める」
「俊典さんがそう思っても、世間はそうは思わないよ」
「世論なんて関係ない。そんなものクソくらえだ」
このひとは、ときたま口が悪くなる。
「ねえ杏奈、君はさっきマスコミに追い回されるのが怖いと言ったけど、本当に恐れているのは、私の人気が落ちる事かい?」
答えられずに下を向いた。俊典は少しの間黙って待ってくれていたが、いきなり杏奈の顎をつまんで上を向かせた。
晴れ渡った空の色をした瞳にとらえられ、杏奈は思わず息を飲む。
「杏奈、答えて」
有無を言わさぬその調子に杏奈は怯んだ。もうごまかせない、そんな気がした。なにもかも、きっと見透かされてしまう。
「だって……」
「うん、なに?」
「あたしみたいな女と一緒にいたら、オールマイトの人気が落ちるよ。あんなに熱狂的なファンがたくさんいるのに」
「杏奈、私は平和の象徴と呼ばれることに誇りを持っているが、ランク付けには興味がないんだ。ナンバーワンの称号なんて、いつ失っても構わない。私は人気取りのためにヒーローをしてるわけじゃあない」
傷だらけで血を吐きながら、それでも頑なに人を救いたがる、この高潔なるひとを助ける人は、誰なのか。
なんのとりえもない、無個性の自分にそれができるのか。
「ヒーローは人気商売ではあるけれど、タレントじゃない。人々からの支持がなくても活動はできるんだ」
「オールマイトの経歴に……傷がつくよ」
「愛する人と結ばれたことで傷つくような経歴なら、私はそこまでのヒーローだったってことさ。君から見た私は、そんなものに負けるほど弱い男かい?」
違うと杏奈は首を振る。このひとよりも強い人を、このひとよりも優しい人を杏奈は知らない。
「それに私は、何万もの人々の支持を失うことよりも、君を失うことの方がずっと怖い」
「あたしでいいの?」
「君でなくてはだめなんだ」
冷たい雨に打たれながら、利用されて生きてきた。馬鹿にされて生きてきた。
そんな杏奈を、この英雄は必要だという。こんな何のとりえもない、個性もない、親にすら愛してもらえなかったそんな女を。
「あたしも……俊典さんのそばにいたいよ……」
ぽろりと本音を漏らすや否や、衆人環視の中であるにもかかわらず、いきなり強く抱きしめられた。
「ちょ……俊典さん……はなして……」
「駄目だ。言質をとったぞ。もう絶対にはなさない」
「人が見てるよ……」
「かまわない」
さみしかったよ、と耳元でささやかれて頭の奥がじわりとしびれる。
この哀しい英雄と、いや、俊典と生きていきたい。
ずっとそう思っていた。本当は、初めからずっと。
朝焼けは雨のきざしと人は言う。だが時に、朝焼けのあと青空が広がることもある。
これからの人生は、そうであってほしい。このひとと過ごすこれからの日々は。
守られるだけでなく、与えられるだけでなく、このひとの重圧をわずかでも支え、このひとのこころを癒していきたい。
誰よりも優しいこのひとをあたたかくつつむ、そう、陽のおとずれのように。
2015.12.11
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