番外編・どこにでもある光景

 猫が微睡む平和な路地裏で、愛しい娘を待つ。
 ちりんちりんと響くのは、どこかの家の軒下にぶら下げられた風鈴の音だろうか。
 レトロな雰囲気の店が多く残されたこの界隈は、東京の下町とすこし似ている。
 聞こえてくる祭囃子を楽しみながら、角帯に差していた扇子を広げた。ぱたぱたと上下に仰ぐと、生ぬるい風が頬に当たる。

 まったく、和装ってやつは、涼しげに見えて存外暑い。
 
 定食屋から歩いてすぐの神社でお祭りがある、と杏奈に聞かされたのは一昨日のことだった。
 せっかくだから浴衣を着ようということになり、今に至る。
 女性の支度はとかく時間がかかるものだ。
 
「お待たせしました」

 背後から響いた鈴を転がすような声に振り返ると、杏奈が花のように笑んでいた。

「とても良く似合うよ」

 お世辞ではなく、そう告げた。白地に薄桃色や赤の撫子の花が描かれた浴衣は、杏奈の陶器のように滑らかな肌を際立たせている。
 髪を上げているためか、整った顔立ちがますます美しく見えてどきりとした。

 前言撤回。暑いけれども、やっぱり和装は悪くない。

「おかみさんに着方を教えてもらって着てみたんだけど、おかしくないかな?」
「きれいだよ。帯の結び方もよく見るものより落ち着いた感じがしていいね」
「これね、案外簡単なんだよ。都結びっていうんだって」

 蝶結びの羽根の部分にたれをかぶせたその結び方は、よく見かける文庫結びより落ち着いていて、年配女性が使用する貝ノ口や矢の字よりも華やかでかわいい。杏奈の雰囲気にぴったりだ。
 この結び方を選択してくれたおかみさんに、心の中で感謝した。

「ね。俊典さん」
「なんだい?」
「俊典さんは自分で浴衣を着たんでしょう? 本当に何でもできるんだね」
「男の浴衣は女性のそれと違って、羽織って結ぶだけだから簡単なんだよ」

 実は帯の結び方がわからず、動画を見ながら悪戦苦闘したのだが、そこはそれ、黙っているにしくはない。
 我ながら小さいと思わないでもないけれど、好いた相手から尊敬のまなざしを向けられるのはやっぱり悪くないもんだ。

 からりころりと下駄の音を響かせて、けだるい真夏の残照のなか杏奈と並んで歩を進める。すると、左手に神社の鳥居が見えてきた。
 赤い鳥居をくぐった先は、オールマイトが予想していたよりずいぶん広い。
 境内の中ほどに大きな櫓が組まれ、スピーカーから流れる大音量の音頭に合わせて若い衆が太鼓をたたく。その周りを囲むように、輪になって踊る人々。
 この時期によくある、盆踊りの光景だ。いや、ここは神社であるから、納涼祭とでも呼ぶべきか。

 だが、納涼どころか、祭りの会場内はきわめて暑い。
 ぎらつく真夏の太陽に熱せられた空気は日が落ちてからも冷めることなく、じっとりとした重い熱を残してたゆたっている。そこに祭り特有の熱気もプラスされるのだから、なおさらだ。
 藍染の浴衣の中で、汗がつつつと伝って落ちる。

「へえ、思っていたよりたくさん夜店が出ているんだな」

 広い境内を囲むように、たくさんの屋台が立ち並んでいる。これもよくある祭りの光景。けれど、杏奈が目を細めて、それらを眺めていることに気がついた。

「なにか買うかい?」
「えっ? ……いいの?」
「もちろんだよ」

 応じると、花がひらくように杏奈が笑んだ。
 屋台で買い物をするくらいでこんな顔をしてくれるなんて、本当にこの子は可愛い。だが、次に杏奈の口から出た言葉に、オールマイトの胸がきりりと痛んだ。

「浴衣を着て夜店で買い物をするなんて、夢みたい」
「夢、かい?」
「うん。お祭は初めてじゃないけど……こんなふうに楽しいのはじめて」
「そうか」

 恵まれていたとは言い難い、杏奈の過去に思いをはせる。
 祭りに興じる人々を遠巻きに見ながらうつむく、子供の時代の杏奈の姿が脳裏に浮かんだ。

「じゃあ、今夜は君のためにすべての屋台を買い占めようかな」

 そんな些細なことで、君が喜んでくれるのならば。

「そんなすごいこと望まないよ。あのね、りんご飴を食べてみたいの。紅くてつやつやしていて、とても綺麗だから」

 いいよと応えると杏奈は嬉しそうにふわりと笑った。
 この笑顔が見たくて、自分はここにいるようなものだなとしみじみ思う。暑さなんて屁でもない。

 ふと、軽く抜かれた衣紋からのぞくうなじと、そこにはりつく一筋の後れ毛が目に入り、オールマイトはぞくりとした。
 まったく、己の欲の深さには呆れる。
 杏奈とよりを戻してから、まだ数日しか経っていない。なのに、会えなかった時間を埋めるように、夜毎に杏奈を求めてしまう。
 まったく、二十歳やそこらの若造でもあるまいに、困ったことだ。



 杏奈の希望通りりんご飴を買い、そのあと焼きイカと牛肉の串焼き、じゃがバターとお好み焼きを買い求めてふたりで食べた。こういうところで食べるジャンクフードは、ことのほか美味だ。

「俊典さん」
「ン?」
「ほっぺにソースがついてる」

 ふふふと笑いながら、杏奈がオールマイトの顔についたソースを指でぬぐってぺろりと舐めた。
 ちらりとのぞいた舌、ほんの一瞬だけ咥えた指先。
 ただそれだけのことなのに、別の行為を連想し、さきほどなだめたはずの欲がむくりと立ち上がる。
 連想してしまったのは、杏奈には未だ一度もさせたことのない、淫靡な行為。

 黙ったままのオールマイトを怪訝に思ったのか、杏奈が小さく首をかしげた。

「どうかした?」
「ウン……あのね、君が指を舐める仕草に、ちょっといけないことを考えた」

 やや躊躇しながらそうこたえると、意図を察した杏奈が、さっと顔を赤らめる。

「……俊典さんは……そうしてほしいの? そういうの好きなの?」
「うん…まあ……そうだね。好きだよ」
「じゃあ……今度……」

 蚊の泣くような小さな一声に、ごくりと息を飲んでしまった男の欲の浅ましさ。
 欲に負け、「すぐに帰ろう」と言いそうになり、すんでのところでそれをとどめる。

 夜は長い。
 色と欲に塗れる時間は、またあとで。

「お腹は満足したかい?」
「うん、お腹いっぱい」
「じゃあ、次は何をしようか?」
「あっちに金魚すくいと射的があったよ。やってみたいな」
「よし、行こう」

 楽しいね、と杏奈が笑い、そうだな、と、それに応える。

 この満ち足りた気持ちに、このささやかなあたたかい暮らしに、このどこにでもある平凡な光景に名をつけるなら、きっとそれは「幸福」だ。
 オールマイトは杏奈を見おろし、幸せだな、とつぶやいた。

2016.7.30
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