その隣で黒いコートを羽織った杏奈が、嬉しげに笑む。
「初めてのクラシックはどうだった?」
「思っていたよりも楽しかったよ。周りのお客さんたちがみんな綺麗な格好してるから、ちょっと不安だったけど。あたし、浮いてなかったかな?」
「浮くどころか、一番可愛かったよ」
今夜の杏奈は、若い女性に好まれそうなデザインのワンピースを着ていた。色白の肌に淡い水色がよく映えて、杏奈の持つ透明感を際立たせている。
安物だよと本人は恥ずかしそうにしていたが、オールマイトにとって服の価格や素材など実にどうでもいいことだった。
可愛かったと告げた途端、耳まで真っ赤にした杏奈が愛しい。それだけだ。
急激に巻き起こった「抱きしめたい」という欲と戦いながら、オールマイトが口をひらく。
「知ってる曲はあったかい?」
「うん。1つ聞いたことがある曲があったよ。同じリズムが繰り返して流れる、ドラマとかで時々使われてる曲」
「ああ、ラヴェルのボレロだね」
「それから他にも素敵だなと思った曲があったよ」
「なんだろうな」
「ええとね、ボレロの前の曲」
「亡き王女のためのパヴァ―ヌだね。ボレロと同じ作曲家の作品だ」
「そうなんだー。詳しいことはよくわかんないけど、綺麗な曲だって思ったよ」
「そうか」
今の私はものすごく締まりのない顔をしているに違いない、とオールマイトは思った。
杏奈の笑顔を見ているだけで、ふわふわした幸せな気分になる。
今にも雪が降り出しそうな真冬の夜だというのに、心の中は春の日だまりのように暖かだ。
心だけでなく、早く外気も暖かくなればいい。
桜の季節がきたら、二人で夜桜でも見に行こう。
考えるのは乙女のようなことばかりだなと、心の中で苦笑した。
「ああ、もう少しで家についてしまうね」
南口の大きな公園の前まできたところで、思わず本音がこぼれ出た。
この先の交差点を右に曲がってしばらく歩けば、風花通りに出てしまう。
すぐそこのカフェでお茶でもどうかと思ったが、時計の短針が指しているのは十の文字。
若い女性を遅くまで連れ回すのは、あまり褒められたことではない。それでももう少し一緒にいたいと思ってしまう。この感情はなんなんだ。
「ね、知ってる?」
「なんだい?」
自分の気持ちを見透かされたのかと、心の中で身がまえた。
だが杏奈の口から出てきたのは、予想とはまったく違った柔らかい言葉だった。
「この公園ね、イルミネーションで有名なんだよ。十一時には終わっちゃうけど」
「へえ、それは知らなかったな」
「ちょっと見ていく?」
「喜んで」
うきうきしながらそう返事をし、オールマイトは己に問うた。
いい歳をしたおっさんが、女性の言葉に一喜一憂してしまうのはどうなんだ?
娘のような年齢の女の子に、どうしてこんなに夢中になっているんだ?
たしかに杏奈は綺麗な顔立ちをしている。だが、そういう女性は東京にもたくさんいただろう。
では気さくで明るいその性格に惹かれているのか。いや、そういう女の子もやっぱりたくさんいたはずだ。
それなのに何故、こんなに杏奈のことが愛しく思えてしまうのか。
まるで十代の少年に戻ったような、初々しい気持ちで。
「どうしたの?」
黙ったまま歩を進めていたオールマイトを不審に思ったのか、杏奈が不思議そうに尋ねてきた。なんでもないよと応えて、ふと気づく。
今日は「おじさん」と呼ばれていないということに。
イルミネーションは南口公園の大池の周りと、池にかかった橋を中心に施されていた。色とりどりの発光ダイオードによるライトアップが美しい。
今にも白いものが落ちてきそうな寒い夜だというのに、池の周りのベンチにはちらほらとカップルの姿があった。
「座るかい?」
あいているベンチを指してそう問うと、うん、と杏奈は頷いた。
どうしてもと粘られ、杏奈のおごりで自販機の缶コーヒーを二つ買った。
肌を刺す冬の冷気から互いを守るように寄りそって、ふたりベンチに腰をおろす。
少し近づきすぎたかなと密かに隣を見おろすと、よく動く快活そうな瞳とぶつかった。そばかすが浮いた頬を緩ませてにっこり笑んだその様子に、内心で胸をなでおろす。
「そういえば、さっき劇場のレストランで食べたピザ、美味しかった。コンサート会場に軽食がとれるカフェやお酒が飲めるバーがあるなんて、あたし思ってもみなかった」
「ああいう施設が最近増えているみたいだね。クラシックのコンサートは時間が長いから、講演の前後に軽食を取れると違うな。確かに味もよかったし」
「いつもごちそうになってごめんね。ありがとう」
すまなさそうに杏奈がうつむいた。
やっぱりこの子は可愛いな、とオールマイトはしみじみ思う。
寿司屋の時もそう思ったが、この子は本当に性格がいい。
平気でひとにたかることができるような者は、メニューに時価と書いてあろうが値段が書いていなかろうが、そんなことにはお構いなしだ。だが杏奈はそういうことをとても気にする。
ご馳走しようと言っても、気にするなと言っても、こちらが驚くくらい恐縮するのだ。
「このコーヒーは君がごちそうしてくれたじゃないか」
「だけど……」
「君の収入がどれだけあるかは知らないけど、おじさんはね、それなりに稼いでるんだよ。本当は君には一円たりとも出させたくないくらいだ。それでも、君はどうしても気になる?」
申し訳なさそうに、杏奈がこくりとうなずいた。
ああもう、この子は本当にもう、とオールマイトは本日二度目の抱きしめたい衝動と戦わなければならなかった。
同時に、心の中で手を打った。
杏奈を愛しく思う理由のひとつが、きっとこれだと。
オールマイトと食事をして財布を出そうとする女性は、今までほとんどいなかった。自分もそれは当然と思ってきたし、おそらく相手もそうであったに違いない。
けれど杏奈はそうではないのだ。
治安のよくない地域で、週に一度のサバの味噌煮を楽しみにしている若い娘。その暮らしはおそらく楽ではないだろう。それなのに。
「わかった。じゃあこうしよう。食事やお酒の時のお金は私が出すからさ、お茶代だけは君に出してもらおうかな。それ以上は私も譲らないよ」
条件にさりげなく今後のことを匂わせた。
十代のように舞い上がってはいるけれど、それなりの経験はある。年齢相応の駆け引きくらいはできるのだ。
杏奈は少し困った顔をしていたが、ね、と畳みかけると、小鳥のようにうなずいた。
「あの……俊典さん」
あやうくコーヒーをふき出してしまうところだった。急にどうしたとういうのだろう。名前でなぞ呼ばれたら、さすがに意識してしまう。
「……こんなムードのある場所で名前を呼ばれたりしたら、モテないおじさんは勘違いしてしまうよ」
「あのさ……寒くない?」
そう告げた小さな手が、かたかたと震えていた。
言われて初めて気がついた。自身の持つ缶コーヒーが熱を失いかけていることに。
ホーリーシット! なんたることだ。
自分の気持ちにばかり、かまけていた結果がこれか。早く家に帰してやらなければ。
そう腰を浮かせかけたところに、震える声が追いかけてきた。
「俊典さんは……どう?」
もう一度名前を呼ばれて、オールマイトはゆっくりと杏奈を見おろした。
上目づかいでこちらを見つめてくる潤んだ瞳。色っぽく紅潮した頬。思わず食んでしまいたくなるような小刻みに震える赤い唇。白くて柔らかそうな小さな手。
思わずごくりと息を飲む。
「うん、寒いな」
内心の動揺を気取られないよう細心の注意を払いながら、杏奈の肩に左手を置いた。
杏奈が目の縁を赤らめてうつむいた。黒くて長いまつげが、白い肌に濃い影を落とす。それがとても魅惑的だった。
少し緊張しているようだが、嫌がっている様子はない。思い切って左手に力を入れて、己のそれよりも薄い肩を抱き寄せた。
「こうしたら少し温かいかもね」
「うん」
少し恥ずかしそうに、それでも杏奈は小さく笑う。
「俊典さんは見た目より体温が高いんだね。あったかい」
ああもう駄目だ。おじさんはもう完全にノックアウトだよ。名前を呼ばれるだけでこんなに浮かれた気分になるなんて。本当にどうかしている。
小さな肩を抱き寄せている手のひらが、密着させてしまった身体が、やけに熱い。
「杏奈」
なに?と見上げてきたところに、ゆっくりと顔を近づけた。
この時杏奈の瞳に怯えのような影がはしった。きわめて短い、ほんの一瞬の出来事だ。けれどオールマイトはその刹那の表情を見逃さなかった。
怖いのか。
唇を回避し、黒々とした長いまつげのすぐ上にキスを落とした。愛しいと思う気持ちを止められずに、そのまま優しく頬を撫でる。
杏奈はまたしても一瞬身体を強張らせて、涙ぐみ、そしてうつむいた。
性急すぎたかとオールマイトが冷汗をかく。だが次の瞬間、オールマイトの心臓が跳ねあがった。杏奈の掌が、そっと己の手に重ねられたからだ。
うおっと思ったそのとたん、口から鮮血があふれ出た。興奮すると喀血するのが常だけれども、こんな時には出ないでくれよと、心の中で舌打ちをした。
「ええっ!? 大丈夫?」
「大丈夫だよ。かからなかった? うつるものではないけど、不快だよね」
「不快なわけないじゃん。心配なんだよ」
もうこの子は、ホントにもう。おじさんを悶え殺す気か。
「内臓が悪いと言っただろ。肺の一部と胃がないんだ。だからちょっとしたことで血を吐くことがあるんだよ」
「そういうものなの? それは大丈夫なの?」
「ん、まあ。ちゃんと医者に診てもらっているから平気だよ」
心配そうな杏奈の耳元で「ありがとう」と囁く。するとくすぐったそうに、「本当に?」と返された。
それにうんとうなずいて、オールマイトは微笑した。
この子のことを大切にしたい、心の底からそう思う。
そのまま互いに寄り添い続けて、どれほどの時間が経ったのだろうか。杏奈が唐突に口をひらいた。
「俊典さんって、何かつけてる?」
「ああ。まあ、適当に」
「ちょっと不思議ないい匂いがする」
そうかいと答えようとしたその時、自分の手の甲に冷たいものが落ちてきたことに気がついて頭上を仰いだ。灰黒色の空から、白いものがはらはらと舞い降りてくる。
「雪?」
「みたいだな」
さらさらとした小さな小さな雪の粒は、地上に落ちるとあっという間に溶けてしまった。
小さくて白くて、儚い粉雪。それはオールマイトの腕の中にいる娘と、どこか似ている。
頼むから君は、この粉雪のように消えてしまったりしないでくれよ。
白い額に優しく唇を落としながら、オールマイトは、そう心の中で呟いた。
2015.11.5
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