粉雪が舞う公園での出来事を思いだしながら、杏奈は百貨店の中を歩いていた。俊典と約束した時間より、少し早く駅についてしまったからだ。
駅に直結した百貨店の中は、時間をつぶすのにちょうどいい。
事務所の残務整理とやらで急に忙しくなってしまった俊典と、ゆっくり会うのは久しぶりだ。
昼間は二度ほど定食屋で顔を合わせたが、夜に会うのはあのコンサート以来だった。
この気持ちをどうしたらいいのだろう。
深入りする前に離れなければと思いながらも、そうできない自分がいる。
この間の夜だって、あんな誘うような真似をしたりして。
今まで杏奈が関わってきた男たちと、俊典はまったく違う。違いすぎる。
普通の女の子というものは、男の人にあんなふうに扱ってもらえるものなのだろうか。
あんなふうに優しく、壊れ物に触れるように。まるで宝物を扱うように。
目的もなく店内を歩いているうちに、いつのまにか化粧品のフロアにたどり着いていることに気がついた。デパートで売っているような化粧品など、今まで買ったことがない。
自分には縁のないと決めつけてきた。けれど。
あの粉雪が舞う公園で俊典の身体からただよってきたのは、甘くてスパイシーな不思議な香りだった。
よくある香りとはまったく違う。重たくて癖のあるひとしずく。
なにをつけているのと尋ねたら、高級ブランドの男性用香水の名が返ってきた。
「俊典さんには不似合いな名前の香水だね」
「いや、私はその名の通りだよ。己の信念を貫いたが為に悲しむ人がいたとしても、私は自分の選んだ道を進むだろうから。まったく、私はひどい利己主義者だ」
あのとき、少し悲しげに俊典はこう告げた。
この優しい人が自分を利己主義者だと告げるほどの胸に抱く信念とは、いったいどんなものなのだろう。
そう不思議に感じたことが、特徴のある濃厚な香りと共に深く印象に残っている。
化粧品フロアの中央にそのブランドはあった。
フレグランスのコーナーに、俊典が愛用している物も含めたいくつかの瓶が並べられている。
女性用フレグランスの試香だけでもさせてもらおうか、とぐるりとカウンターを見回した次の瞬間、杏奈は卒倒しそうになった。
その原因は中央のガラスの箱に入れられた、高級そうな小さな瓶。
「こちらは先日発売になりました最高級ラインの美容液でございます。お試しになりますか?」
「な……七万円? 化粧品が七万円??」
「こちらはアンチエイジングを中心としたマダム向けのラインですから、お客様にはまだ早いかもしれませんね。お若い方向けのシリーズもございますよ。そちらはもう少しお求めやすい価格になっております」
七万円を手に入れるために、あたしがどれほどの思いをしているか……と杏奈は口唇をかみしめる。
それがたった十五ミリの美容液の値段だなんて。いったいどんな人が使うのだろう。
丁寧な接客をしてくれた店員にいいですとだけ答え、杏奈は逃げるようにその場を後にした。
やっぱり俊典はああいう世界で生きているひとなのだ。
俊典が勤めることになっているのは、国立雄英高校。
あそこの教師陣は、たしか全員が一流の現役もしくは元ヒーローだ。俊典は怪我をして内臓を悪くしたと言っていた。
それらのことから導き出される答えは、そう多くない。
けれど杏奈はそのことについて、問いただすつもりはなかった。
俊典が自分から言い出さないと言うことは、知られたくないということだ。
誰にでも、探られたら痛い腹がある。
杏奈自身が、やっぱりそうであるように。
***
「可愛いお店」
「お気に召したなら良かったよ」
俊典が予約してくれていたのは、気取らないけれど雰囲気のいいイタリアンだった。
「何か気になるものはあるかい?」
杏奈に、俊典は必ずそう聞いてくれる。だから杏奈は甘えて答える。
「イカスミのパスタってこの写真みたいにホントに真っ黒なの? 苦いの?」
「そんなに苦くはないよ。ちょっと甘みとコクがあるイカの味……だな。とにかくイカだよ」
「俊典さん、その説明はどうなの?」
「だってイカはイカだからなぁ」
「じゃあ前菜のボッタルガっていうのはなに?」
「ぼらの卵巣でからすみともいうね。ねっとりしててうまいよ。そうだな、とにかく魚卵だ」
イカスミの時とほとんど同じような回答に「その説明はどうなの?」と心の中だけでつっこんで、顎に人差し指を置き、軽く首をかしげて俊典を見上げた。
「思いきって食べてみようかな。でも苦手だったらどうしよう。」
「ああ、なら両方とも頼むといい。他も適当にアラカルトで頼んで、二人でシェアしよう」
利己主義者なんかであるものか、と杏奈は思う。
俊典は優しい。こんなにも優しい男を、他に知らない。
「あー、私、今日は胃もたれしてるからデザートはいらないな。といっても、私胃袋ないんだけれども」
肉料理と魚料理を一品ずつチョイスし、ドルチェのメニューを見ながら俊典が呟いた。どこかで聞いたことがあるような言い回しに、思わず笑みがこぼれる。
オーダーを通して、先に届いたミモザカクテルのフルートグラスを傾けた時、俊典が訝しげに問いかけてきた。
「そういえば、君、足どうしたの?」
「え?」
「左の脛に青あざがあっただろう」
「あの……ちょっとぶつけちゃって……あたしけっこういろんなところにぶつけるんだよ」
「そそっかしいんだな」
「うん。そのうえぶつけたところがすぐ赤くなったり青くなったりしちゃうんだ」
「ああ、君は色が白いからな。色白の人はそうなりやすいと聞いたことがある」
「白いから目立っちゃって、ちょっと気にしてるんだよね」
気にしている、といった瞬間、俊典は落ち窪んだ眼窩の奥の目をまたたかせた。いけないことを聞いてしまったと思ったのだろう。彼はそれ以上もうなにも問うてはこなかった。
その後はふたりで酒杯を傾けながら、頼んだ料理を楽しんだ。
イカスミのパスタは写真の通り真っ黒けで、ニンニクの香りが効いていた。味は確かにちょっと甘みのあるイカ風味だ。食べたら唇と歯が真っ黒になって、二人で互いの口元を見て大笑いした。
***
どちらが提案したわけでもなかったが、帰り道、南口公園に立ち寄った。
イルミネーションはとうに終わっている。桜の季節にもまだ早い。
それでも梅が咲く池のほとりのベンチにはカップルが点在していた。咲いているのは緋色やピンクや白の梅。そうだ、もうすぐ春が来る。
もっとも見事な枝垂れ梅の下でふたり腰を下ろした。
地元の人間には有名なこの梅の巨木の名は満月枝垂。見事な白色の一重咲きの花だ。
この巨木は特に枝が多くて花つきがよい。たくさんの枝から白い花が垂れさがるように咲くさまは、満月と言うよりも、まるで星が降るようだと杏奈は思った。
「綺麗だね」
「そうだなあ」
「もう少ししたら、入り口方面のソメイヨシノや池の向こうの八重桜が咲いてすごいことになるよ。お花見の酔っ払いも増えるけど」
「花見シーズンか。早いな、もうすぐ四月だもんな」
もうすぐ四月、という言葉に杏奈は思わず目を伏せた。新学期になり、学校が始まれば、俊典はもっと忙しくなる。今までのようには会えなくなるだろう。
はっきり付き合ってくれと言われたわけでもなく、好きだと言われたわけでもない。それでも金曜の昼には会えていたのだ。それが二週に一回であったとしても。
けれど今後は無理だろう。月曜の夜もそうそう時間を取ってはもらえないかもしれない。週の頭からの外出はつらいだろうし、きっと残業もあるだろう。
会えなくなる……けれど、それは俊典にとってはいいことなのかもしれなかった。
そう、きっと、それでいいんだ。
そう自分に言いきかせていると、いきなり鼻をつままれた。
「痛い痛い。俊典さんやめて」
「杏奈。今、なに考えてた?」
急に呼び捨てにされてどきりとした。ごめんねと笑いながら俊典が手を鼻から手を離した。
「なんだかうわのそらだったから」
「ごめんなさい」
「もしかして、他の誰かのこと考えてた?」
「え? そんな相手いないよ」
「じゃあ、私とつき合ってくれないかな。四月になっても、こうして会ってほしいんだ」
とうとう言われてしまったと杏奈は思った。
どうしよう。これに応えてしまったら、きっと後戻りできない。
どちらにとっても不幸な未来しかないとわかっているのに。
けれど杏奈の口から滑り出たのは、否定でもはっきりとした肯定でもなく、察して欲しいと言いたげな、ひどく間抜けな言葉だった。
「あたし、きっとニンニク臭いよ」
「大丈夫、私もだ。食べたものは同じだろ」
ふふっと間近で笑われた。
至近距離に晴れわたった空と同じ色の瞳がある。その澄んだ青は汚れを知らぬかのように美しかった。
俊典の指が頬をそっと撫でながら、唇に触れた。痩せているのに俊典の指は存外しっかりとしている。節くれだったごつごつした手。けれどそのタッチはどこまでも優しい。
指の動きに反応してつい半開きになってしまった唇に、乾いた唇がいきなり押し当てられた。
あっという間にぬるりと舌が侵入し、口腔内を、深く浅くそれはうごめく。
角度を変えながら口蓋を舐められ、舌を吸いあげられて、授けられた快感に体がふるえる。杏奈は年長の男から与えられた激しい口づけに完全に翻弄されていた。
自分の体重すら支えられずその場に崩れてしまいそうになるところを、大きな手に支えられ、やっとのことで我に返る。
「ごめん。最初は優しくするつもりだったのに、余裕がなかった」
杏奈の唇を開放し、恥ずかしそうに片手で顔を覆いながら俊典がつぶやいた。
指の隙間から見えている肌が、うっすらと赤らんでいるのが見て取れる。
ずっと年上の大人の男なのに、あんなに大胆なキスをしたくせに、はにかむなんて本当にずるい。けれどそんなずるい大男がこんなに可愛く見えてしまうのだから、恋情と言うものは度し難い。
大丈夫だと伝えたくて、でもそれを口にするのが恥ずかしくて、そっと薄い胸に顔をうずめた。
するとひょいと膝の上に乗せられて、横抱きされた状態でまた口づけられた。
今度は先ほどとは違う、優しいキスだ。ついばむように何度も繰り返される甘い口づけ。
愛しいものに触れるように、俊典の腕が優しく杏奈をかき抱く。耳朶に注ぎ込まれるのは低くてやわらかな囁きだ。
「君が好きだ」
このままうねるようなこの波に流されてしまってもいいのだろうか。
いいはずがない。自分はともかく、俊典にとっていいことはきっと何もない。
それがわかっているのに、愛の言葉に応えるようにしがみついてしまったこの手を離すことができない。
ローズとスパイスとバニラが入り混じった忘れがたい不思議な香りに包まれながら、杏奈は思う。
エゴイストは俊典さんではなく、きっとあたしだ。
俊典の金色の髪の向こうで、枝垂れ梅が天から降り注ぐように咲いているのが見えた。
この汚れなき白い梅の花が散る頃この関係はどうなっているだろうかと、杏奈はまたしても泣きそうになる。
まだこの人と笑い合っていられるのだろうか。
星の降らないこの都会に、満月という名の花が降る。
丸く白い花が咲き乱れながら降る下で、杏奈は薄い背に回した腕に力を込めた。
2015.11.9
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