5話 華氏三十二度

 金時計の前は今日も人であふれている。
 俊典とはじめてここで待ち合わせた時は、まだ寒い冬だった。あんなに冷たかった風も日中はあたたかくなり、あの時凍りついていた南公園の池の水も少しずつ温み始めている。
 もうすぐ桜が咲くだろう。南公園の桜が満開になる頃、まだあのひとと一緒にいられるだろうか。

 その時、はるか遠くから人目をひく長身がこちらに向かってくるのに気がついた。行きかう人の群れの中をゆっくり歩を進める、ひょろりと長いその姿。
 胸が弾むのと同時に、杏奈は鼻の奥がツンと痛むのを感じた。

 俊典を知って杏奈は涙もろくなった。この先に終わりが見えているからだ。
 俊典の優しさに触れれば触れるほど、俊典を好きになればなるほどそれは確信に近くなる。同時にひどい罪悪感が杏奈の心を苛むのだった。

***

 眼下に広がるのは星のかけらのようなネオンの灯。
 凛と澄み渡った冬の夜景も美しいが、ひそやかな靄に覆われた朧月とその下でまたたく人口の星々もまた格別だった。その儚くももろい風情は、今の杏奈の心情を表わすかのようだ。
 テーブルごとに揺らめくキャンドルの炎、煌めく夜景、静かに流れるピアノ曲。
 その美しい旋律に、杏奈は聞き覚えがあった。

「あれ? この曲……」
「うん、亡き王女のためのパヴァ―ヌだね」
「オーケストラもよかったけど、ピアノだとまた雰囲気が違うんだね。あたしやっぱりこの曲好き」
「それはよかった」
「もしかして、リクエストとかしてくれてたの?」
「まあ、そんなとこ」

 長い指を組んで俊典が笑う。
 今日の俊典はいつもと少し雰囲気が違った。はいているのはジーンズだけれど、組み合わせているのは薄手のVニットと紺のジャケットだった。
 いつものかっちりしたスーツでもなく、かといってブルゾンとカーゴパンツの組み合わせほどカジュアルでもなく、きちんとしているが力の抜けたスタイルだ。
 ニットの襟がゆるゆるなのが気になったが、もともと俊典は大き目の服を好んで着る傾向がある。
 そのゆるい襟からのぞく細くて長い首筋から醸し出されているのは、大人の男の色気だった。
 節くれだった大きな手、細いけれども広い肩、上下する喉仏にまっすぐ伸びた鎖骨。どきどきしながらも、杏奈は視線が外せない。
 それに気がついたのか、俊典がニコニコしながら問うてきた。

「どうかした?」
「なんでもない……」
「ああ、君、お酒がもうないね。次は何にする?」

 俊典と出歩くようになって、杏奈はいろんなお酒を覚えた。
 レモンジュースの上に赤ワインを浮かせたアメリカンレモネード、ワインを炭酸水で割ったスプリッツアー。甘めのものだとカルーアミルクやピニャコラーダ。

「あたし、ワインクーラーにする」

 ワインクーラーはワインをオレンジジュースで割ったカクテルだ。ワインをシャンパンに変えると、ミモザという名のカクテルになる。

「あっ、そういえばね、駅に俊典さんがつけている香水のポスターがあったよ。オールマイトがCMしてるんだね。知らなかった」
「ああ、あのブランドはあまりテレビCMはしないからね」
「でね、隣に別の香水のポスターが貼ってあったんだけど、そのモデルさんがエンデヴァーだったよ。なにもわざわざ隣に貼らなくてもいいのに」
「ああ、あの二社はブランド同士がライバルみたいなものだからね。その二つの香水もほぼ同時期の発売で、ターゲット層も同じだから、そういう意味でも張り合わせているのかもね」
「へえ。エンデヴァーの方の香水、ドイツの人みたいな名前だったけど、どんな意味なんだろう?」
「あれは華氏って意味だよ」
「かし?」
「ドイツの物理学者が考案した温度の単位だな。温度計なんかで目盛りが二種類ついてるものがあるだろ」
「あー、見たことある。なんだこれって思ってた」
「その片方が華氏。私たちが一般的に使うのが摂氏。摂氏の沸点である百度が華氏では二百十二度にあたるんだ。ちなみに華氏―ファーレンハイト―はその表記を考えたドイツの物理学者の名前だから、人名みたいっていう君の読みは正しい」
「へー。俊典さんはいろんなことを知ってるね」
「そりゃ、君よりは長く生きているからね。ついでだから一つ聞いてもいいかい?」
「なに?」
「杏奈はオールマイトとエンデヴァーだったら、どっちが好き?」
「んー、どっちもあんまり興味ないかも」
「えっ、そうなのかい?」

 俊典は青天の霹靂、といった表情をした。どうしてそんなにショックを受けているんだろうと思いながらも杏奈は続ける。

「うん、あたしマッチョな人好きじゃないんだよね。それに二人とも年上過ぎてそういう目ではみられないよ」
「あ……そう……嫌いなんだ……マッチョ……確かに年も離れすぎてるしね……うん……だよね……そうか……マッチョ嫌いなんだ……」

 がくりと薄い肩を落とした俊典を見てはっとした。そういえば俊典もエンデヴァーやオールマイトの世代だ。
 マッチョマッチョと口にしているが、本当に気にしているのは年齢のことなのだろう。そう思った杏奈が慌てて口を開く。

「あたしは俊典さんが一番好きだよ。年なんか関係ないよ」

 すると目の前の長身痩躯がみるみるうちに元気になった。
 なんて可愛いひとだろう。こんなところも好きなのだ。

「ありがとう。私もね、君が一番だ」
「こんな……あたしみたいな女でも?」

 おかわりのワインクーラーを一口含んで杏奈は続けた。
 だめ、と頭の中で声がする。真実を知らせたって誰も幸せになれない。それなのに。

「それはどういう意味だい?」
「ん、そのままの意味。俊典さんの周りは、きっと際立った個性を持っているヒーローか、ちゃんと大学を出てきちんとした職を見つけたひとばかりでしょ。あたし、高校も出てないんだよ」
「際立った個性や学歴がなくても、立派な人はたくさんいるよ。そこは気にしなくていいんじゃないかな」
「あの、俊典さん……」
「なんだい?」
「あのね……あたし……」

 その時、俊典の携帯がブルブルと震えた。

 ごめん、と言って席を外す俊典を見送りながら杏奈ははっと我に返った。

 本当のことを言ってどうなる。
 この罪を贖う日はいずれ来るのだ。きっと、そう遠くない未来に。
 杏奈は唇をかみしめる。

 知られてしまえば、あのひとはきっとあたしを許さない。
 騙したのかと罵るだろうか。それともあたしを嘲るだろうか。
 ああ、心が壊れそうだ。こんな心は凍りついてしまえばいい。俊典と出会う前と同じように。

 揺れるキャンドルの炎を見つめながら、杏奈は大きく溜息をついた。
 亡き王女のパヴァ―ヌは終わり、ピアニストは古いジャズのメロディをかなではじめた。聴いたことがある曲だ。これは誰の、なんという曲だったろう。

 そう思考をはしらせていると、席をはずしていた俊典が息を弾ませて戻ってきた。

「ごめんね、仕事の電話が入ってしまった」
「ううん、大丈夫」
「話の腰を折ってごめん。学歴なんて気にする必要はないよ」

 俊典は優しい。
 杏奈は俊典に、自分は近所の弁当工場で働いていると話していた。夜間勤務は収入がいいため、そういうシフトを組んでもらっているのだと。

 おめでたいことに、このお人よしはその嘘を信じている。

「……ありがとう……俊典さん、あのね……」
「なに?」
「……すき……」

 えっと青い目を瞬かせ、俊典が赤くなった。そして彼は少し考え込むような顔をして、静かに口を開いた。

「あのさ……その言葉に甘えてもいいかな」
「え?」
「よかったらこのあと、うちに来ないか?」

 杏奈ははっとした。俊典とはまだ身体の関係はないが、今の言葉が意味することはたったひとつだ。
 そろそろそうなるのではないかと思っていた。俊典とならいいと思う。体の関係を持つのは少し怖いけれど、それでも俊典がそうしたいなら。
 けれど今日はだめだ。どうしよう、なんて言えばいいだろう。

 すると困惑したまま黙り込んでしまった杏奈に、俊典が申し訳なさそうに笑った。

「ごめん。焦りすぎたね。悪かった」
「その……俊典さんが嫌とかじゃないよ。その……今日はだめなの……ほんとにごめん」
「え? ……あっ!」

 俊典が真っ赤になった。全身から汗を拭きだしてあたふたしている。きっと生理だと思ったのだろう。
 そうではない、そうではないのだ。
 長い背を折り曲げて可愛そうなくらい恐縮している俊典の姿を見て、杏奈は申し訳ない気持ちになる。
 思わず視線をはずした先にはキャンドルの炎。それがこれからの二人の行く末を暗示するかのように、頼りなげに揺れていた。


***

 杏奈の部屋は古いタイプのユニットバスだ。
 トイレとお風呂と洗面所が同じ場所にあるタイプで、じめじめしていて日が当たらない。
 このタイプの風呂はバスタブに水をためると身体を洗う場所がない。だから杏奈は湯にはつからず毎回シャワーで済ませることにしていた。
 着替えを用意しながら、帰り道のことを思い出す。

 家までの道を、今日も手をつないで歩いた。指を絡めて。
 まるで幸せな恋人同士のように。
 俊典の家は高級住宅地のある駅の東側だ。それでも彼は毎回、ちゃんと家まで送ってくれる。あの近辺は危ないからと。
 杏奈、と名前を呼ばれて上を向くと、柔らかい唇が下りてくる。それもやっぱりいつものことだ。
 あのひとのキスはもう覚えた。優しいのに激しくて、甘いのにどこかせつない。

 服を脱ぎながら杏奈は思う。
 これを見られてしまったら、もうどんな言い訳もきかないだろう。
 脛のあざなら、ぶつけたと言えばごまかせる。けれどこればかりはそういうわけにはいかなかった。あざの時とて、少し訝しげな顔をされたのだ。
 気にしていると言えば、優しいこのひとはこれ以上深入りしてこないに違いない。そう思ったから、そう言った。そして予想通り、あの時の俊典はそれ以上たずねてこようとはしなかった。

 灰色のカーテンをあけバスタブの中に立ち、錆びたシャワーの蛇口をひらく。
 狭いバスルームで湯を浴びながら、杏奈は自分の身体をゆっくりと見つめた。白いばかりのその身体。貧相でもなく、さりとて豊満でもなく。どこにでもいるごく普通の、若い女の体つきだ。

 だがその普通の身体には、くっきりと残された縛めの名残りと、打たれた赤黒い痕がある。

 こんなものを見たら、あのひとはどう思っただろう。
 本当のことを知ったら、きっとあのひとは離れていくだろう。

 シャワーの飛沫が飛び散る狭いバスタブの中で、杏奈は湯に打たれ続けた。ビニールのカーテンについた水滴が、次から次へと流れ落ちる。

 熱い湯を浴びているのに、心の中は冷水を浴びているかのように冷えていく。
 今が幸せであればあるほど、破局の時はつらいものになるだろう。真実を知られてしまえばきっと、この関係は凍りつく。
 いつか哀しい破局が訪れるなら、いっそこの場で凍結してしまえばいい。
 俊典と会う前はずっとそうしてきた。心を凍らせて、何も考えないようにして生きてきた。

 華氏か……と杏奈は思わずひとりごちる。
 水は華氏の二百十二度で沸騰すると俊典は言った。だったら水が氷るのは、華氏ではいったい何度なのだろう。

 絶望的な気分になりながら杏奈は思う。
 自分のしていることを知られないまま、綺麗な思い出のまま、このまま凍ってしまえればいい。
 鮮やかに咲く花を氷の中に閉じ込めた、氷中花のように美しいままで。


2015.11.15
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