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並んだ数式を淡々と書き写し、教師の後頭部を何の気なしに眺めていると左側から唸り声が聞こえた。去年も同じクラスだったさとうの声だ。女子らしからぬその声は、目の前に立ちはだかる数式に向けられたもののようで、じろりと睨んでいる。睨んだところで回答は出てこないよ、と言ったらきっと数学嫌いなんだもんと返ってくるだろう。それは、去年も言ってたから。そう言いながら彼女がテストで半分以下を取ることはなかったし、頭いいんだろうなって思ってた。そう、一ヶ月前の俺は思ってた。
「もうやだムカつく寝る」
そう吐き捨てて彼女は机の上で腕を組んで眠ってしまった。彼女は結構真面目で、面倒見が良くて、とても気が利く。どこに目がついてるのか不思議って話は、クラスメイトがよくしてることだ。くしゃみをすればティッシュが出てくるし、のどが痛いと言えばのど飴が出てくる。この間、昨年まで同じクラスだった水泳部の人がさとうに爪切りとムヒを借りに来たときは驚いた。それくらい、気配りのできる彼女が、いまこうしてたかだか数式に苛立ち、立ち向かうことをやめてしまったことが衝撃で、ちょっぴり面白くて笑ってしまった。
「さとう、なんで数B取ったの?」
起き上がる気配のない彼女に小さく問いかける。周りはいま、数式の導き方に納得がいかないらしく先生に抗議をしているから賑やかだ。するとぬるぬると起き上がりながら、不機嫌そうな顔で「未来のじぶんのため」と言い放った。
「もし、気が変わって国公立受けたいって思ったら、必要だなって」
「ああ……そこまで考えて、流石だね」
「でもいま、猛烈に後悔してる。国公立なんて受けないこんなの数学じゃない……」
だらり、再度うなだれるさとう。数Bを取った生徒は週に7単位あるから、毎日授業があるのに、開始早々これで大丈夫なんだろうか。と心配すると同時に、みんなからしっかり者として評される彼女の珍しい一面を見れたことに優越感を感じている自分がいる。彼女が絡むと、自分はどうも性格が歪んでいる気がしてならない。だってほら、前に座る佐藤が、教えたそうにチラチラこっちを見てるから、それをさせまいと俺は話しかけてるわけだし。
「まあ、好き嫌いはあるよね」
「赤葦くんは全部得意そう」
「そうでもないよ?歴史はさとうほど得意じゃないし」
「歴史は物語だから全然余裕なんだよ〜数学もストーリーがあったらなあ」
面白おかしいことを呟く彼女を尻目に、緩む口元を隠すために俺はいま一度数式と向き合うことにした。
***
世の中のあらゆるものを「好き」と「嫌い」で区別する世界が、どうも苦手だった。いや、そもそも苦手とすら思ってなかったかもしれない。だって、物事に疑問を抱くという行為自体が、俺にとってあり得ないことだったから。
「赤葦くん、だったよね。私、さとうです。隣りの席、よろしくお願いします」
「ああうん、よろしく」
高校入学、特にこれといった期待も持たずにやってきた教室。”スターのプレーを間近で見れる”ということ以外、高校でやりたいこともなかったし、友だちってのは普通に過ごしてればできるだろうし、何より部活があるから友だちができなくとも特段困りはしない。だから、中学と変わらず隣りから掛けられる声に、淡々と答えるだけだった。
「赤葦くんは数学得意?」
「あ、赤葦くん、現文の提出日変わったよ」
「今日倉先生お休みなんだって、だから日本史自習らしいよ」
「赤葦くんておにぎり好きなの?」
それなのに、彼女はいつも声をかけてくる。不思議と、必ず呼びかけるときは名前付きで。特に気に留めなかったんだけど、彼女は必ず誰かに話しかけるとき名前を呼ぶので、なんだかしっかり向き合わなきゃいけない気がしてくる、気がした。
「スーちゃん、明日は英単語のテストだよ」
「はっ!忘れてた!ごめん夜またLINEしてくれない?」
「家着いた頃?それとも練習終わり?」
「練習終わり!帰りの電車で勉強する!」
さとうの前に座って後ろを向く水泳部の人は声がでかいので話す内容がよく聞こえる。こうしてよく、彼女はそいつの面倒を見ているのは、クラス中の周知のことだった。マネージャーって、部活の活動外でも面倒を見なくちゃいけないのか。大変だな、と他人事のように思っていた。
ちょっと節介焼きで隣りの席のクラスメイト。その認識が俺の中で大きく変わったのは、夏休みのとある日のことだった。
「赤葦くん!あのさ、さゆみ見なかった?」
「あーえっと、スーちゃんさん……いや、見てないけど」
「名前覚えてないんかい!ってのはいいか、……もし見かけたら、部室戻るように言ってくれる?うち、あと十分もしないうちに学校出なきゃいけなくて」
練習終わりのストレッチをランニングロードでし終えて、これから始まるであろう先輩たちの自主練に付き合うために一度体育館に背を向け、階段を降りようとしたところで水泳部のスーちゃんとやらに会った。ランニングロードから直接体育館へ降りることもできるんだけど、ほんの少し、ひとりの時間が欲しくて校舎側から体育館へと戻ろうとしたからだ。この階段を降りずに登れば、4階には水泳部の部室がある。階段を降りる途中で俺を見つけたんだろう。
それにしても、さとうが見当たらないってどういうことだろう。
ほんの少しだけそちらに思考がとらわれたがすぐ、少しだけ感じた右足の重たさを軽くしたくて部室を寄り道することを決めた。これはエアーサロンパスに頼るほかない。2階で立ち止まらず1階まで降りきると、階段の裏からすすり声が聞こえた。
「え、さとう、さん?」
「え……赤葦、くん?」
体育座りで小さくなったさとうが居た。俺が彼女に向かって名前を呼ぶのは初めてのことで、咄嗟につけた「さん」。心の中じゃいつも勝手に呼び捨てだったので、焦った。こんな形で、彼女の名前を呼ぶ機会が現れるとは思いもしなかった。だって、彼女の目は真っ赤で、その頬も同様の色で染まってるというのに、濡れているから、思わず、だ。
「……何してるの」
「……何もしてない」
「……水泳部の人が探してたよ」
「そう……」
会話終了。普段の十分の一しか返事をしてくれない彼女に、これまでの自分の適当な返事の返し方を反省した。話が続かないと、話しかけてる側はこんな気持ちになるのか。ごめんさとう。でもいまは、そんな話をしたいわけじゃないだろう。どうしてここに?なんで泣いてるのか、何があったのか。なぜ、戻りたくないのか。沸々と湧き上がる疑問が、自分を突き動かしていた。
「……どうして座るの?」
「わかんない」
「なにそれ」
「性懲りもなく話しかけてくるさとうさんが、泣いてるから少し気になった」
「……そんな風に思ってたんだ」
「悪い意味じゃないよ。凄いなって思っただけ」
「じゃあもっと話してくれればいいのに」
ジャージで目元を擦ったあと、彼女はいつものように目元をくしゃくしゃにして笑った。それがここに居ることを許してくれた気がして、腰を下ろした。
「折角隣りの席になったんだから、仲良くしたかっただけだよ」
「それだけでよく、続かない会話を繰り返せたね」
「だって、笑って欲しかったから」
「……どういうこと?」
「自分とかかわる人はみんな、笑ってくれたらいいなって思ってるから」
遠くを見つめながら、返された返事は真っ直ぐだった。
「インハイで沖縄行くって話、したの覚えてる?」
「ああうん。自分たちも行ったから」
「そのとき、顧問からお前はここに何しに来たんだって言われたの。私は沖縄に行けるってことで浮かれてたのかなあ……、あっちに行った六日間、マネージャーとして出来たことなんてストレッチぐらいで何もなかったんだ」
なるほど、落ち込んでいたということか。と、冷静に状況を分析し始める。水泳部はバレー部に負けず劣らず、強かった。今年は個人でもリレーでもインターハイ行きを決めており、校舎にはバレー部と肩を並べて横断幕が掲げられている。先輩マネージャーが居る中でも元々水泳選手で試合経験がある彼女が、インターハイについていくマネージャーとして選ばれた、話は彼女から聞いたんだったか、スーちゃんさんが話してたんだったかは忘れてしまったが。
「誰かの役に立てないなら、自分の存在意義が見いだせないんだよね」
「……損な性格だね」
「ほんとだね。そう思っても、誰かに貴女が居てくれてよかったって言ってもらえないと、わかんなくなっちゃうんだよ」
選手が一番良い環境で練習ができるように水質管理をする。メニュー表を用意する。成果が見えた方がモチベーションが保てるから、毎週の記録を表にして残す。疲労がすぐ回復できるように、不味くないプロテインを探したり、ストレッチのほかにマッサージも覚えた。たった四ヶ月だったけど、やれることはいっぱいやって来たんだよ。でも、私がインターハイに行ってできたことは、疲れを取るってだけで、記録に、結果を出すための力にはならなかった。
めんどくさいなあ。彼女の呟きは、俺の頭にインプットされただけで何も返っては来ない。マネージャーってのは、環境を整えてくれる存在、くらいにしか思ってなかった。でも違った。さとうは、選手と一緒に全国へ行くために戦っていたのだ。
「ごめん、ただの愚痴」
「いや、別にいいよ」
「あー、うだうだ考えてもしょうがないんだよね。どうせ明日も部活なんだし。てかそろそろ文化祭準備だ」
「シンクロだっけ」
「そうなの。練習が始まるんだよね。朝練もあるんだって、起きれるかなあ」
よいしょっと立ち上がったさとうは、もう泣いてなかった。コロコロ変わる表情は教室となんら変わらない。んだけど、今日のこの時間が、確実に俺の中でのさとうという人物が、ほんの少し、ただのクラスメイトではなくなってしまったことは事実だった。
「明日も部活?」
「うん。春高があるから」
「春高?バレー部はインハイで終わりじゃないんだ」
「うん、一月にも全国大会がある」
「へぇ、それは大変だねえ。んじゃ、また明日だ」
軽く手を上げて、別れを告げた。
20200214